第6話
不規則に揺れる荷馬車の上で、隆臣は静かに目を伏せていた。腕の中には、桂桂が身体を丸め、小さく収まっている。深い眠りの中にある幼子の身体は、柔らかな温かさを以て、隆臣の睡魔をも穏やかに刺激した。
心地よい誘いの只中にありながら、それでも尚、隆臣は眠れずにいた。目を閉じると、瞼の裏にローブの男が現れる。領境の橋で対岸に見たあの男が、異形の獣を従えて、隆臣を殺しにやってくるのだ。それは、こちらへ来る前に見た悪夢に酷似していた。
眠れぬ日が続いた。日を追うごとに、身体は衰弱していく。行商の誰もが隆臣を気遣ったが、誰一人として、その原因に触れようとする者はいない。橋の上で立ち止まった理由も、聞いてきたのはアロだけだった。どの道、聞かれても答える事はできなかっただろう。隆臣が魔獣に付け狙われている事を知るのは、アロだけなのだ。
「兄ちゃん、大丈夫か?」
荷馬車の脇を歩いていたアロが、淵から顔を覗かせた。柔らかそうな翼を引っ掛けて、ぶら下がっている。
「アロ、危ないよ。乗るなら乗りなよ」
「平気だよ。怪我してたから、むしろ歩かなきゃ」
言いながらも、アロは荷馬車の淵にぶら下がり続けている。足は着いていないのだろう。荷馬車が揺れるのに合わせ、アロの身体も左右に揺れている。
「リハビリは、確かに大事だね」
「リハビリって何?」
「こっちではしないの?」
「しないのって言われても、どういうもんか知らないもん。分かんないよ」
「怪我とか病気とかするとさ、前はできた事でも、できなくなってたり、難しくなってたりするでしょ? そうするとさ、今までみたいに生活できなくなるじゃん。そういう不便な状態を、元の状態に戻すために、訓練して慣らしていく事がリハビリ、かな」
専門的な知識があるわけではない。誤った認識かもしれないという自信のなさが、言葉尻に現れた。こちらでは通じない言葉の説明をする事は、これまでに何度もあって、その度に隆臣は己のいい加減さと、無知さを痛感していた。
アロは気にした様子もなく、ただよく分からないという顔をしている。
「そんなの初めて聞いたよ。兄ちゃんの世界では、そんな事にも名前があるんだな」
「俺は医療行為の一つとして、そういう名前があるんだと思ってるけど、本当のところは分からないなあ」
「怪我をしたら、元の生活をするために慣らしていくのなんて、自然にやる事だと思ってた。医療って事は、誰かが手伝ってくれるんだろ?」
「専門の人がいるんだよ。そういう人が、正しいやり方で普段の生活に戻れるようにしてくれる」
隆臣が知る限りではあるが、故郷の世界について話をすると、アロは目を輝かせて夢中になった。隆臣にとっては当たり前の事でも、アロにとっては、豊かで恵まれた輝かしい何かに見えるようだ。
「やっぱり兄ちゃんの国は豊かなんだな。俺の故郷じゃ医者にかかるのも一苦労で、村に一人薬師がいればいい方だったよ。ヒカイじゃ、どこもそうなの?」
「そんな事ないよ。俺のいた国は、恵まれてたんだ。貧しい国では、医療も未発達なとこがたくさんあって、そういうところに行って、現地の人を助ける仕事もあったよ」
アロや桂兄妹に自分の世界の話をする度、隆臣はどこか誇らしい気持ちになった。それは子供たちが、あちらの豊かさへの憧憬を、素直に表現するからだ。しかし、それとは別に、僅かな慙愧の念が隆臣を襲った。
何も知らなかった。国の事、世界の事、説明を求められ、隆臣が満足に答えられる事は、何一つない。全ては隆臣にとって当たり前の事で、ただ与えられたものを享受するだけでよかったのだ。その事に疑問を抱く事はない。考えれば深みに嵌ってしまう事を、理解していたからだ。
当然、全ての人が、満ち足りた生活を送れているわけではない事を、隆臣は知っていた。知っていて、無視をした。故意にそうしていたわけではない。テレビのドキュメンタリーに涙した事もあれば、募金に協力した事もある。だが、それはただの自己満足だ。実際に現地へ行って、貧困に苦しむ人々を目の当たりにした事も、自分がそういう状況に置かれた事もない。そういう活動に精を出すのは、金持ちの仕事だと思っていた。
あちらの世界では、それでなんの支障もなかった。隆臣に限った事ではないからだ。誰もが見て見ぬふりをして、自分を頑丈な檻で守っている。遠い国の惨劇も、近所の悲劇も関係ない。全ては檻の外で起こる、自分とは無関係な出来事だった。
そういう異世界の出来事が、今まさに自らの身に降りかかっている。隆臣はそれで漸く、実感する事ができた。無関係では、なかったのだ。アロも桂兄妹も、行商たちも、隆臣と共にいて、明日をも知れぬ日々を過ごしている。遠い世界の出来事だと、高を括っていた。これは、そのつけなのかもしれない。
「ヒカイには、いろんな仕事があるんだな。こっちじゃ、そんな仕事聞いた事ないや。兄ちゃんは、どんな事やってたの?」
「俺は、ただの学生だよ。バイト……手伝いで小遣いを稼いだりはしてたけど」
「学生なら、ゼクスアルシュにもあるって聞いたよ。俺の故郷には、なかったけどさ。で、学生って何をやるの?」
「学問を究めるのが、学生さんのお仕事ですよ。獣界にはない身分ですから、分かりづらいかもしれませんね」
荷馬車を操っていた袁淑が、咄嗟に答えられなかった隆臣の代わりに説明した。
一片の迷いもなく、勉学が仕事であると言い切る事に、躊躇してしまう。四年もの間、大学に籍を置きながら、胸を張って成し遂げたと言える実績が、何一つないからだろう。就職活動中、嫌と言うほど、語り尽くしたはずなのに、誇張した壮大な学生生活の物語は、隆臣の脳内から儚く霧散してしまっていた。そもそも話の大半は虚像なのだ。経験もしていない事など、覚えていられるはずがない。
「ゼクスアルシュでは、どういう事を勉強するんですか?」
「私は学がありませんので、具体的には存じ上げませんが、アンファベールの大学などでは天候から政治経済まで、多種多様な学問を取り扱っているとか。学生さん方は、その中から一つを選択し、専門的な知識を修めていくそうですよ」
「そこは、俺の世界と変わらないんだなあ。共通点が見つかると、ちょっと面白いですね」
「兄ちゃんは、どんな勉強をしてたの?」
アロは荷馬車の淵から這い上がろうとしていた。ぶら下がっている体勢に疲れたのだろう。ほとんどが幼鳥羽に生え変わった翼が、板の上を滑って上りにくそうにしている。
隆臣は、アロに手を貸した。背負って歩いていた頃よりも、アロの身体は健康的な重さを増していた。
「経済学だよ。物の価値とか、お金の流れとか、それに関係した法律とかを勉強してた。あんまり得意じゃなかったけどね」
「なんだか難しそうだなあ。勉強してたって事は、兄ちゃんも将来はお役人になりたかったの?」
「いや、そんなつもりはなかったよ。どうして?」
「ゼクスアルシュでは、どの国でも私どものように、学のない人間がほとんどなのです。田舎の子はお金もありませんからね。小学を出るのがやっとでしょう。それさえままならず、村の私塾で手習いを受けるだけの子もおります」
やっと荷馬車に上がったアロに、袁淑が水筒を手渡した。アロはそれを受け取り、羽毛の中で弄ぶ。木製の筒の中で、水の転ぶ音が涼やかに鳴った。
「俺、学生は皆役人になるんだと思ってた」
「多いのは確かですが、様々ですよ。商業組合の頭には、大学出身の者も多いと聞きますし、野に降りて私塾を開いている者も多い」
「兄ちゃんは、何になるんだ?」
桂桂が身動ぎをして、薄らと目を開いた。アロが、持っていた水筒を差し出した。寝起きで喉が渇いたのだろう。桂桂は小さな手でそれを受け取って、喉を鳴らしながら水を飲み始めた。
「銀行の営業だよ。銀行って、こっちにもあるのかな?」
「ギンコウもエイギョウも、聞いた事がございませんね。何か該当する職なら、あるやもしれませんが」
「事業を起こしたい人に資金を貸したり、貯金をしたい人のお金を預かったりするのが銀行っていうところかな。営業っていうのは、いろんな人を訪ねて自分の店の商品を宣伝したり、買ってもらうための交渉をする仕事です」
「貴方らしい職業ですね」
「お兄ちゃんは、どうしてそのお仕事をする事にしたの?」
すっかり目が覚めたらしい桂桂が、興味津津といった様子で隆臣を見上げてきた。
「どうしてかな。たくさん試験を受けて、受かった中で一番条件のいい会社にしたってだけだから、特に理由はないんだけど」
「兄ちゃんらしいなあ。それでもやっぱり、試験を受けた理由はあるんだろ?」
「実を言うと、それもあんまり思い浮かばなくて。なんとなく、そういう流れだったのかな。普通に生活していければ、それでよかったし」
「なんとなく、ですか。与えられた多くの選択肢の中から、なんとなくエイギョウという職を得るつもりでおられたのですね」
袁淑の声色が、変わった。言葉に険が混じっている。これまでにも、何度かあった。隆臣は、そういう事に敏感だったから、気づく事ができた。その程度の変化である。現に、他の者は気づかないようだった。
「もちろん、専門的に勉強した分野だから、経済に関係のある職業を第一志望として選んではいたんです。まあ、他にもいけそうなところは受けてみたけど。えっと、桂桂やアロの将来の夢は?」
「将来の夢って、なんだ?」
「え? それは、ほら、大人になったらどんな仕事をしたいかとか、どういう自分になりたいかとか。将来像って事かな」
「それって、目標って事だろ? 夢だなんて、変な言い方するなあ」
「まあ、人にはいろんな可能性があるし、一つに絞る必要はないって事じゃないかな。目標って一度決めてしまったら、なかなか目移りできない気がしちゃうんだよね。いろんな事に興味を持って、挑戦して、その中から自分が得意な事や好きな事を見つけて、それを仕事にできるのが一番いいよ」
「こちらでも、そのような考え方をする者がいないわけではありませんが、そのような言い回しをされる方はいないでしょうね。夢は現の反対でしょう。それでは、叶わなくても良いように聞こえてしまいます」
袁淑の言に、今度はより明確な失笑と憤怒の色が混じった。汚泥の色をしたそれが、喉奥に苦く広がるような気がして、隆臣は息を詰めた。それは、隆臣が最も嫌い、人生において常に回避してきた感覚だった。この不快な何かを避けるためなら、どんな自分にもなる事ができた。どんな色にも、染まる事ができた。それが、隆臣なりの処世術でもあったのだ。
当然、ヒカイにもその処世術が通じない相手はいた。調子がいい、信用できないというのが、隆臣に対する批評の常套句だが、要するに八方美人だと言いたいのだろう。隆臣はわざとそうしているのだから、妥当な評価と言える。もしかすると、好いている人間より嫌っている人間の方が、隆臣の事をより深く理解していたのかもしれない。
恐らく袁淑もそうなのだ。本当の隆臣を知っている。そういうタイプとは、お互いに上手く折り合いをつけて付き合っていくしかない。適度な距離感を保ちつつ、深く関わらない事が、双方とも傷つかずにすむ、最良の道だ。少なくとも、ヒカイではそうだった。袁淑は、それを許してくれるだろうか。
「私は、強くて優しい子になりたい!」
凍てついた空気を裂くようにして、隆臣の腕の中で桂桂が吠えた。幼く愛嬌のある顔を決意の表情で固め、意気揚々と拳を振り上げている。
成り行きを見守って黙していたアロが、小さく握られた決意の塊を翼で覆った。
「偉いな、桂桂。どうして強くなりたいんだ?」
「強くなって、桂真を守るの」
「頼もしいなあ」
「でも、女の子なのに」
「女だからって、強くなっちゃいけない道理はないだろ? 俺の母ちゃんなんて、村一番の弓の名手って言われてたんだぞ」
アロが、誇らしげに胸を張る。
「それは、また強そうなお母さんだなあ」
「うちは父ちゃんも母ちゃんも、村の戦士だったんだ。獣界は魔獣が出るからな。村の皆を守るのが、母ちゃんたちの仕事だったんだよ」
「女性警官みたいなものなのかな。桂桂は、どうして桂真を守りたいの? きっと桂真も、桂桂を守りたいって思ってるよ」
「うん、分かってるんだけど、それじゃ駄目なの。桂真が強くならなくてもいいように、私が強くならなくちゃ」
「どうして」
桂真が強くなってはいけないのか。それを聞こうとした隆臣の言葉は、旅の終わりを告げる袁淑の報せに遮られた。
荷馬車が辿る街道、桂真と沈刹がじゃれ合いながら先を行く、更にその向こう。地平線に沿って聳える外壁は、これまで立ち寄ったどの街よりも高く、その奥からは、隆臣にとってどこか現実離れして見える城の塔が覗いていた。
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