第5話

 街道の先に、防壁が見えた。その向こうに、街がある。街道沿いにある街の中で、最も大きいものの一つだ。

 さらに、街の背後には運河があった。ビラー領とリーリエ領の領境は、この川を縦に割るようにして引かれている。街からは石橋が延び、向こう岸へと渡れるようになっていた。そこからさらに、街道が続くのである。

 関所は、橋の入口に設けられていた。朝から夕方にかけて開かれ、常駐する騎士や役人によって検問が行われる。他の街と同様、夕方になると閉鎖し、橋の入口に見張りが立った。

 検問の順を待つ者が並んでいても、関所は定刻通りに閉ざされてしまう。溢れた者は、また翌朝から並ばなければならない。石橋前の広場に残る旅人もいたが、ほとんどは街で宿を取るようだ。

 運河と街道の交差点にあるこの街は、その恩恵に授かり大いに栄えていたという。船で物資が運び込まれ、街道を通る行商人が各地へと運ぶ。それで、かつては多くの人と物が集まっていた。今も輸送の拠点として利用されてはいるが、国が衰退し始めると、この街も他と同様に寂れてしまった。運ばれる物資や人の数が減ってしまったのだ。今では、過去の豪華絢爛な建物が残るばかりで、街自体は閑散としていた。

 行商の一行が関所に着いたのは、日が落ちてからだった。当然、すでに閉鎖した後だったため、その日は宿に泊まる事となった。数日ぶりのまともな食事と寝床である。

 袁淑の指揮の下、彼女の部下たちは、早々に積荷を部屋へと運び入れ、就寝の準備を始めている。指示を出し終えた袁淑は、小さな革の巾着を手に、そそくさと階下の酒場へ下りていった。巾着には、金が入っているはずだ。

 隆臣がそれを目で追っていると、沈刹も気がついたようだった。

「気になるか?」

「うん、まあね。だって、あれ、お金が入ってるんだろ?」

「必要経費だ、あれは。情報を買いに行くためのな。こういう場所には、人が集まる。人が集まれば、情報も集まる。宿屋だとか、酒場だとか、そういうもんをやりながら、情報を売る連中も多い。ここの主人もそうだ」

「袁淑さんは、何を聞きに行ったの?」

「表立って話せるような事なら、金はいらん。関所の事を聞きに行ったんだろう」

「もしかして、俺たちがいるから?」

「だろうな。お前らは、この国で雇った用心棒と、その連れって事にする。お前らにも、話を合わせてもらわなきゃならんが、万一それで役人が納得しない時、どう切り抜けるかを決めておきたいんだろう」

「切り抜ける方法があるって事?」

「言ってしまえば、袖の下というやつだ」

 この国では、珍しくない事だった。賄賂は誰でも使うし、役人であれば多かれ少なかれ一度は受け取った事があるはずだ。

「賄賂なんて、大丈夫? こっちでは普通なの?」

「世界中どこでもってわけじゃない。この国では、有効な手段だな」

「他の国ではダメなのか。どうして、この国だけ?」

「アンファベール聖王国は、ここ数百年間、短命の王が続いてる。その上、五十年前からは、空位の状態だ。王がいない間は、代わりに役人たちが政治を執ってる。差配する王がいないから、役人は自分たちの好きなように国を操れるってわけだ」

「うるさい上司がいない状態なんだ。それは羽も伸ばしたくなるよな」

「そうかもな。でも、民には堪ったもんじゃない。この国は、腐ってるよ」

 少し遠くへ視線をやって、沈刹は低く呟いた。見つめる先には、特に何があるわけでもない。窓の外に、夜の星が瞬いているだけだ。

「まあ、俺たちみたいな流れ者には、分かりやすくて便利な国だ。地位や縁なんかなくても、金さえあれば多少の融通は利くんだからな」

 沈刹は肩を竦めて笑うと、寝支度をしに戻っていった。隆臣は、沈刹が目をやっていた方に視線をやった。やはり、窓の外には、星空が広がるだけだった。

 翌朝、行商の一行と共に、隆臣とアロは検問の列に並んだ。袁淑とは、予め口裏を合わせるべく、周到に打ち合わせてある。服装も変え、沈刹から剣をひと振り借りて、腰に佩いた。それで少しは、用心棒らしく見えた。

 隆臣の予想に反して、検問には長蛇の列が出来ていた。街の閑散とした様子からは、とても想像できない人の数である。

「意外と、たくさん人がいるんだな」

「先王が崩御してから、ビラー領から出ようって民が多いらしい。他より税が高いし、治安も悪い。その上、すぐ隣には怪物の巣窟だ。そりゃ、逃げ出したくもなるだろう」

 いつの間にか、沈刹が隣にいた。

「怪物の巣窟? そんな所があるの?」

「ああ、大陸を縦断する山脈があるんだ。その山脈と、それを取り囲む深い森を、フロストという。魔獣や魔物が住んでいて、国が傾くと現れる。だから、フロストと隣接する領の民は、必死にそこから離れようとするんだ」

「どうして国が傾くと、魔獣が現れるんだろう?」

「さあな。俺は学がねえから、詳しい事は知らねえよ」

 魔獣は、傾国に追い討ちをかけんが如く、人里を襲う。隆臣には、それが酷く理不尽な事に感じたが、沈刹は何故そんな事を聞くのか、という態度だった。ゼクスアルシュの人間にとっては、ごく当たり前の事なのだ。疑問すら抱かないほどに、自然な事なのである。

 列が進むのは、酷く遅かった。ここでも賄賂を使って、割り込む者がいるからだ。隆臣たちは朝から列に並び、昼を過ぎた頃に漸く衛兵に呼ばれた。橋の前まで、衛兵について進んだ。

 重厚な石橋を背にして、騎士が立っていた。短躯肥満で、意地の悪そうな面構えの男である。衛兵らの高官らしく、他より豪奢な鎧を身につけている。肉が鎧を押し上げ、不格好な贅肉が晒されていた。それに気づいていないのか、男はこれ見よがしに身体を揺らし、煩い金属音を周囲に響かせている。

「行商の一行か。積荷は?」

「ほとんどが、洸国の装飾品でございます」

 袁淑が、一歩前へ出て拱手した。旅に必要な道具類は、商品とは別に個々で持ち歩いている。そのため、積荷の大半は、袁淑らが商品として取り扱う装飾品だった。隆臣の剣は布で覆い、いつでも抜ける状態で、それらの積荷の下に隠してある。

 肉で膨れた瞼の隙間から、吊り上がった小さな目が、袁淑を睨んだ。上へ下へと、瞳が往復する。値踏みをするような目つきだった。

 不躾な視線に動じた様子もなく、袁淑は穏やかな表情で騎士を見返している。

「旅券は?」

「こちらに」

 旅券と言われ、袁淑が差し出したのは、木の札だった。この札が、ゼクスアルシュの旅券である。今も隆臣のバッグに収まっているパスポートは、当然ながら用を成さない。

旅券は、隆臣とアロ以外の行商たちのものである。

「足りぬようだが?」

「この二人の分でございましょう」

 袁淑が、隆臣とアロを指して言った。

「アンファベール国内で、新たに雇った用心棒にございます」

「鳥人は、まだ子どもではないか」

「この子は用心棒の連れでございまして、引き離すのは忍びないので、共に連れて行く事に致しました」

 その後も二人の身元について、しつこく尋問された。大凡想定していた質問ばかりで、身構えるほどの内容ではない。

 ただ、特に穴のある設定でもないはずだが、騎士はどうしても納得できないようだった。袁淑の言葉の端を捕らえては、質問を繰り返している。その目は袁淑の背後に立つ隆臣らを、不快な様子で睨んでいた。袁淑は、便々として躱している。

 そういう押し問答が、三十分は続いた。いい加減、周りを固める兵も、飽きた様子を見せている。

 袁淑も落とし所を見つけようとしてはいるのだが、如何せん相手の頭に血が上った状態である。このまま賄賂を使っても、効果は薄いだろう。

「この者が用心棒というのも、納得できん。そんな細腕では、野犬の相手も侭ならんのではないか?」

 騎士の目が、隆臣の方を向いた。顔は嘲笑に歪んでいるが、隆臣には気にならなかった。不釣合いな鎧で豊かな贅肉を守ったこの男より、自分の方が余ほど良い動きができると思うからだ。

「騎士様みたいに立派な鎧はないですけど、俺も剣なら少し使えるんです」

「ほう、分かるのか、この鎧の価値が」

 騎士の表情に喜色が浮かんだのを、隆臣は見逃さなかった。騎士は明らかに、鎧を自慢したがっている。話に乗せてしまえば、機嫌を取るのは容易だろう。賄賂は、その後だ。

「俺も武芸者ですから、それなりに分かるつもりではいます」

「なるほど、目は利くようだな」

「人の技を盗もうと思って、よく観察しているうちに、武具にも目が向くようになったんです。そうしているうちに、目利きばかり上達しちゃいまして」

「腕の方は、上がらなかったか」

「そうなんです」

 騎士が、声を上げて笑った。

「それにしても、本当に立派な鎧ですね」

「これは、スターリの鉱山でも屈指の職人が手掛けたものでな。入手困難な品と聞いていたが、機会があって商人から貰い受けたのだ」

 つまり、鎧も賄という事だった。この騎士は、賄賂を受け取る事を躊躇しない。遠慮をする事も、ないだろう。素人目に見ても、それほど優れた鎧だった。

「そうだったんですか。すごく似合ってますよ。きっと、その人も騎士様に使って欲しかったんでしょうね」

 隆臣の心臓は、激しく脈打っている。内側から肋骨を押し広げ、皮膚を突き破りそうだった。機嫌を損ねてはならない。嘘がばれてはいけない。失敗すれば、賄賂どころではなくなってしまう。

 それでも、隆臣は騎士と話し続けた。嘘も世辞も、得意なのだ。緊張しながらも、なんとかなるという気さえしている。

「お前は武芸者より、商人の方が向いておるのではないか?」

「よく言われます。転職しようかな?」

 騎士は、やはり笑っている。

「なるほど。確かに、武器には詳しく、そこそこに剣も使うようだな。私は納得した」

「じゃあ、通してもらえるんですね?」

「いや、そう簡単にはいかんだろうな。私は納得しても、他の者は違う。ここの責任者は私だが、皆が黒と言うものを白にするには、時と金がかかるのだ」

 下手な賄賂の要求だった。その場にいた全員が、その言葉の真意を理解できただろう。それでも、咎める者は一人もいない。噂通りだった。

 袁淑が、革袋を差し出した。昨晩、宿屋の主へ持っていった物より、二回りも大きい。

「よろしければ、こちらをお納めくださいませ。我らについて、お口添え頂くお礼にございます」

 騎士が目配せをすると、脇に控えていた兵が、袁淑から革袋を受け取った。騎士が中身を確認すると、兵は静かに後方へ下がった。

「ふむ、これは与ろう。通してやれ」

 騎士は金を受け取ると、それ以上興味はないとでも言うように、隆臣たちを解放した。それまで、隆臣と楽しげに話していた事も、なかったかのように振舞った。

 一行は、橋に出た。石でできたそれは頑丈そうで、幅は広く、馬車が擦れ違う事もできそうだ。ただし、今は擦れ違う者などいなかった。橋上に見えるのは、先に関所を通った旅人だけである。

 川は深い緑をしていて、底は見えない。中型船でも、悠々と通れる幅と水深があるという。陽光が川面に反射している。川魚の小さな影が、浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返した。

 隆臣は、荷馬車を守るようにして、先頭を歩いた。アロも隣を歩いている。時折、身を乗り出して川を眺めた。

「昼飯に、魚を釣っていかない?」

「それもよいですが、食料なら十分にあります。今は、領境から離れる事を第一としましょう」

「そっか。分かった」

 物分りのよい返事だった。行商と旅をするようになり、最初こそ警戒心を剥き出しにしていたアロだが、最近では無意味な反抗もなくなっている。それでも、アロは川面から目を放さなかった。じっと何かを見つめているようだった。

 佳真と桂桂の二人も、アロに習うようにして橋下を覗き込んでいる。

「三人とも、あんまり身を乗り出すと危ないよ」

「お兄ちゃんも見て。大きいお魚がいるの」

 桂桂が腕を引くのに任せ、隆臣も注意深く川を覗いた。確かに、川下から水流に逆らって近づく、黒く大きな魚影がある。

 魚影は近づきながら、徐々に浮上してきた。やがて水面を切り裂いて、刃物のような背鰭が現れた。それだけで、魚が異常なほどの大きさだと分かる。

 あれは、本当にただの魚か。隆臣がそう疑ったとき、前方から叫び声が上がった。やはり、ただの巨魚ではない。魔獣である。

「走れ!」

 沈刹が、叫んだ。隆臣たちだけでなく、橋を渡っていた旅人の全てが、一斉に走り出す。

 隆臣は桂桂、佳真、アロを荷馬車に乗せ、その前を走る。橋には馬車が疾走するのに、十分な広さがあったが、それはできなかった。他の旅人を、踏みつけかねないからだ。殿は、沈刹が守った。

 剣を抜いた。荷馬車に隠した自分の剣ではなく、沈刹に借りて腰に佩いた剣である。

 巨大魚は水面から半分ばかり体が見えるまで、浮上してきていた。近づいた巨体は、隆臣の想像を遥かに超え、川に住めるとは、思えない大きさをしている。何より異様なのは、頭から背鰭の辺りまで、魚の鱗ではなく、焦茶色の毛が身体表を覆っている事だ。

 胸鰭が、水面を叩く。激しく飛沫が舞い、巨大魚の体が跳ねた。勢いのまま、橋上に激突する。石橋が崩れ、人が石屑と共に川へと落ちた。数人が、巨体の下敷きになった。猪の口から、禍々しく突き出た牙に、誰かの胴体がぶら下がった。一行の最後尾に付く沈刹から、僅か後方である。

 全貌を顕にした巨大魚は、やはり異形であった。胴体は間違いなく魚の姿で、水面から覗かせていた背鰭や胸鰭の他に、尾鰭もある。しかし、背鰭から先にあるのは、魚の頭ではなく、猪の頭部と前足だった。

 橋上は、混乱していた。逃げ惑う人々の悲鳴が、隆臣を追い立てる。心臓が、鼓動を早めていた。

 人々の恐怖に呑まれながら、隆臣は再度後方を振り返った。必死についてくる荷馬車と、それを守る沈刹、そして逃げる人々の、さらにその奥で、巨大魚が身体を揺らしている。川に戻ろうとしているのだ。魚が暴れるのに合わせて、橋も揺れる。

 巨大魚は前足で身体を後方に押し出し、川へと滑り落ちていった。下敷きになった旅人が、道連れとなって転落していく。引き潰された人の欠片は、血溜りの中に点々と跡を残した。

 引き返す事は、できないだろう。巨大魚の突進を受けた石橋は、大きく抉られ、歩く事もできない。

 巨体が退いた事で遮るものがなくなり、崩れた橋の反対側を伺う事ができた。検問付近は、騒然としている。街に戻ろうとした者が、門へと押し寄せているのだ。しかし、門が開く様子はない。それで、隆臣も諦める事ができた。引き返しても、どうにもならない。あの中年騎士は、魔獣が去るまで、門を開きはしないだろう。

「お兄ちゃん、走って! あいつ、また突進してくるつもりだ」

 荷馬車の中から、桂真が叫んだ。指し示す先で、魚の背鰭が反転した。

 呆けている余裕など、隆臣にはないはずだった。素早く身を翻し、向こう岸のリーリエ領まで駆け抜けるべきだ。

 しかし、それはできなかった。視線が、外れないのだ。ただ一点が気になり、意識が固定されてしまっている。

 フード付きの黒いローブを来た誰かが、壊れた橋の向こうから、静かにこちらを見据えていた。頑丈な石橋さえも揺れ動く視界の中で、ただ一つ微動だにしない。それが、気になって仕方がないのだ。

 一瞬、自分を召喚した女の顔が、頭を過ぎった。彼女も、似たようなローブを纏っていた。そこから溢れる金糸と、宝石のような瞳が、隆臣の脳裏に強く焼き付いている。

 しかし、似ているのは黒いローブを着ているという事だけだった。体格は、明らかに男のものである。

感情の読めない眼差しが、隆臣を射抜いている。距離こそあるが、視線が合っている。そう思った。睨み付けられるのとは、違う。恐ろしく不吉な気配が、足元から這い上がってくるような錯覚に襲われた。

「兄ちゃん、早く!」

 痺れを切らしたらしいアロが、荷馬車から降り、隆臣の手を引いて走り出した。隆臣も、それで漸くローブの男から、視線を外す事ができた。

 逃げなければならない。魔獣は、自分を狙っている。気づけば、必死に走っていた。

 轟音がして、石橋が揺れた。また、あの猪の巨大魚が、突進したのだろう。構う事なく、隆臣は対岸を目指して走り続けた。

 背中にはまだ、あの男の、視線を感じる。

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