第3話
街は高い塀で囲われていた。通過してきた村々を囲っていたような、木組の簡素な柵ではない。長方形に切った石を積み上げ、土で繋いだ頑強な防壁だ。蔓植物が壁一面を覆い尽くし、目にも鮮やかな緑色で、厚みを作っている。
隆臣は身長の二倍以上も高さのある壁を、真下から見上げた。夕日に照らされた深い緑が、橙色の空を一直線に切り取っている。
隆臣とアロは、森を抜けて草原を歩いてきた。視界を遮るものはなく、地平線の向こうまで見渡せた。隠れられる場所もなく、街道を外れていても意味がないと、素直に道の上を歩いてきた。
アロが防壁に気づいたのは、正午を過ぎた頃だった。草原の薄い緑の向こうに、深緑の壁があるという。隆臣にはまだ何も見えはしなかったが、それで街が近いと知る事ができた。
しばらく歩くと、隆臣にも壁が見えるようになった。見えるからには、今日中にたどり着こうと決めて、歩調を早めた。
そうして、つい先程、隆臣たちは漸く防壁の前までたどり着いたのだ。西の空に、日が沈もうとしている。
防壁は街道を遮るようにして、真横に伸びていた。街道は防壁の手前で釣鐘状に広がり、小さな広場を作っている。
広場には旅人や商人の団体、荷車や馬車が集まっていた。皆、野営の準備をしているようだ。その向こうに聳える防壁には門があったが、今は閉ざされていた。
「なんで皆、中に入らないのかな?」
隆臣は門の前まで来て、アロを背負ったまま、大きなそれを見上げた。
「閉門に間に合わなかったんだよ。どの街も夕方になると夜に備えて、門を閉めちゃうんだ。夜行性の獣や、盗賊の夜襲を避けるためにね」
「外にまだ人がいても?」
「いても閉めるよ。閉めたら、中から錠をしちゃうから、閉門に間に合わなかったら、閉め出されちゃうんだ」
それは、見捨てるという事ではないのか。隆臣は思わず顔を顰めた。アロが分かっていると宥めるように、その翼で隆臣の肩を叩いた。
「もう少し治安が良ければ、もっと融通も利くのかもしれないけど、今はどこもこんな感じだよ。皆、自分の身を守るので精一杯なんだ」
それがよくない事だとは、分かっている。けれども、良心に従って他人に施しを与えれば、自分の生活が危うくなる。そうして、徐々に腐っていく。
「さあ、俺たちも野宿の準備しようよ、兄ちゃん!」
重くなった空気を切り替えるように、アロが少し強めに隆臣の背を叩いた。隆臣は防壁に近い広場の片隅に、アロを降ろした。
これまでの野宿と同様、火を起こし始める。随分と手馴れてきたと、アロは隆臣を褒めた。集めた葉の上に上着を敷いて、簡単な寝床も作った。自分は寝ないからと、寝床をアロに譲って、隆臣は防壁の傍に転がっていた石の上に腰を下ろした。
一度座ってしまうと、塞き止めていた水が流れるように、疲労が全身を巡って溢れ出した。同時に眠気も襲ってくるが、どちらも一瞬の事だと分かっている。旅の途中、何度もそういう事があったが、アロに話しかけてもらう事で、疲労も眠気も霧散させる事ができていた。
保存用に炙っておいた兎の肉を火で温め直す間、アロは自分の怪我の様子を見ていた。十分な治療もできないままだが、腫れは引いてきている。
「だいぶ良くなったみたい。杖があれば、歩けそうかな?」
「無理して悪化してもよくないから、もうしばらくおぶるよ」
「ありがとう、兄ちゃん」
十分に温まった肉をアロに渡して、隆臣も自分の分にかぶりついた。凝縮された旨味が滲み出て、口内に広がる。なんの調味料もかかっていないが、この味にも慣れてきた。
「俺たちみたいに召喚師とはぐれちゃった奴らを、こっちではコジュウって言うらしいよ」
肉を噛み、炎を眺めながら、アロが唐突に言った。
「コジュウ?」
「そう、孤独な獣って意味なんだって。嫌な言葉だよな」
意味を説明されると、自然と隆臣の脳裏に熟語が浮かんだ。
孤獣、孤独な獣、独りの獣。
孤児と似たような意味合いなのだろう。その言葉は隆臣が想像していたよりも、はるかに重く響いた。
「どの国でも孤獣は役所に届け出るのが決まりなんだ」
「奴隷にするために?」
「それが目的なのは、この国じゃビラーだけみたい。本当は、離れ離れになった召喚師と召喚獣を引き合わせたり、孤獣の生活を守ったりするためなんだってさ」
「じゃあ、他の領地まで言って保護を求めれば、俺たちは奴隷にならずにすむって事?」
「たぶんね」
「たぶん?」
アロは肩を竦めて、分からないという仕草をした。
「奴隷仲間から聞いた噂だから、行ってみないと分からないよ。俺はビラーから出た事もないし」
それを聞いても、隆臣はなぜか不安にならなかった。なるようになると思っているのだ。この旅も、あちらの世界にいた頃では考えられないほど過酷だが、こうして旅を続けられている。どんな場所へ行こうとも、それなりに生きていられれば、それでよいという気がしていた。
「噂だと、ビラーと近い領で一番いいのが、ジッリョ領なんだって。孤獣だけのギルドがあって、役所に届ければそこに入れてもらえるみたい。そのギルドで仕事を紹介してもらえるし、住む場所も用意してもらえるって」
「至れり尽くせりだね」
そんなうまい話があるだろうか。そう思わないでもないが、やはりこれも行ってみなければ、分からないのだろう。
「それで、そのジッリョが南にあるって事なんだね?」
「そういう事。まだ遠いと思うけど、この街には俺たちも入れると思うし、そこで必要なものを揃えて、南に行く馬車に乗ろう。少しだけお金もあるから」
「いいの? 俺の分まで」
今の隆臣は無一文だ。日本円とユーロを持っていたが、アロに使えないと言われた。
「そんな事気にしなくていいよ! これだけ世話になってるんだしね。それに、もともと俺のだったわけでもないし」
アロが懐から取り出したのは、麻でできた小ぶりの巾着袋だった。翼の先に引っ掛けて軽く揺らすと、中の小銭が音を立てる。
「馬車から投げ出されたときに、あの役人の懐から飛び出したのを拾っておいたんだ」
アロが胸を張って、笑った。
「まあ、そのせいで着地に失敗しちゃったんだけどさ」
アロの深い溜息を聞きながら、隆臣は少しばかり驚いていた。決して褒められた行為ではないが、感心してしまったのだ。剣に気を取られていた隆臣は、気づきもしなかった。自身が追われている事を予め知りながらも、軽い混乱状態に陥り、余裕がなかったのだ。
それに比べ、アロには宙に投げ出されながらも、周囲を観察するだけの余裕があった。その上、収穫を得ている。
「ちゃっかりしてるな」
「生き抜くためだよ」
アロは得意げに笑うと、懐に巾着袋をしまった。
「強かだね」
「これが生きるって事?」
並んで座る隆臣とアロの背後から、二人分の子供の声がした。驚いて振り返れば、よく顔の似た子供たちが笑顔を浮かべて立っている。きっと兄妹なのだろう。声をかけられて、初めてそこにいた事に気がついた。
「こんばんは!」
「こんばんは」
隆臣が唖然としながらも、挨拶を返すと、二人は笑みを深くした。
「あのね、聞いちゃったんだけど、お兄ちゃんたち、はぐれなの?」
妹が笑いながら、首を傾げた。
隆臣も思わず一緒になって、彼女と同じ方に首を傾ける。はぐれという言葉の意味が分からなかったからだ。ただ、聞き覚えはある。シモンと村の男が話しているとき、自分の事をそう呼んでいた。
「兄ちゃん、はぐれってのは、孤獣の事だよ。普通はそう呼ぶ事の方が、多いんだ」
「そうなんだ。じゃあ、うん、そうだね。俺たちは、はぐれだよ」
「え、ちょっと、兄ちゃん、そんな正直に!」
アロは慌てたが、隆臣は隠す必要などないと思っていた。いまさら隠しても意味はない。少女の質問は、確認に近かった。隆臣とアロの会話を聞いていたのだろう。
正体を隠したいのなら、人の多い場所で話すべきではなかった。迂闊だった。後悔しても、もう遅い。こういう場合、開き直った方が事は上手く運ぶ。
「僕らと一緒だね!」
少年が嬉しそうに言うと、妹の方も花が咲いたように笑う。よく似た兄妹だが、笑うと本当に瓜二つだ。
「君たちも、はぐれなんだね。小さいのに、大変でしょう?」
隆臣が聞くと、兄妹は揃って首を横に振った。
「ここに来れてよかったよ」
「楽しいよ」
「元の世界に戻りたくないの?」
「うん! ずっとこっちにいたい」
満面の笑みを浮かべて頷く兄妹に、アロは少々面食らっているようだった。
「どうして?」
「袁淑のお粥がね、とっても美味しいの」
「袁淑は優しいんだよ」
「袁淑は、君たちを育ててくれてる人?」
「そうだよ! 袁淑は僕らのお母さんなんだ」
「お兄ちゃん、お姉さんって言わないと、袁淑が怒るよ?」
「そうだった。今の内緒にして!」
そう言って、口元を手で覆う少年の背後に、隆臣は視線を移した。先程から、静かに笑みを湛えて二人の背中を見守る女がいるのだ。
隆臣と目が合うと、女は笑みをより一層深くして、唐突に彼女の目の前にある小さな二つの頭を鷲掴みにした。
「痛い!」
「やだやだ!」
頭を掴まれて、振り返る事もできない兄妹が暴れるが、女は物ともしない様子だった。彼女が袁淑なのだろう。
「誰がお母さんですか?」
微笑んだまま、彼女は涼やかな声で呟いた。兄妹は途端に暴れるのをやめ、肩を小刻みに震わせ始めている。隆臣の隣にいるアロもまた、怯えているようだ。
「袁淑さんでしょうか?」
「はい、そうです。驚かせてしまったみたいですね、ごめんなさい」
袁淑は一瞬だけアロに視線をやって、苦笑した。両手は兄妹の頭を掴んだままだ。
「いえ、大丈夫です」
「よかった。この子らは、私の養子みたいなものなのです。だからかしら、ついつい甘やかしてしまうんですよ」
「可愛らしいですもんね。愛嬌もあって、つい構いたくなってしまうような」
「その可愛さに負けてばかりで。親失格ですね。さあ、二人とも、ご挨拶なさい」
「桂真だよ」
「桂桂よ」
袁淑の手が乗ったままの頭を揺らしながら、兄妹は順に名乗った。
「よろしくね、桂真、桂桂。俺は隆臣で、こっちはアロ」
「この領で召喚されてしまったのですか?」
「そうみたいです。森の中だったので、はっきりとは分からないんですけど」
「そう、大変でしたね」
「それでも、なんとかやっていけています。独りじゃないから」
アロを見やると、屈託のない笑顔が返ってくる。
「袁淑さんたちは、三人で旅を?」
「いいえ。他に私の部下が五人、一緒に旅をしております」
「部下、ですか?」
「行商をしておりまして」
現代の日本ではあまり馴染みのない職業のせいか、想像がつきにくかった。つまりは、旅をしながら商いをしているという事なのだろう。
「賑やかそうですね。桂真も桂桂も、ここにいる事が幸せだって言ってました。二人と話して、俺たちにも希望が見えてきたような気がします」
同じ孤獣でも、自らを幸福だと思える生活を送っている者がいる。自分たちにも、満足な生活を送れる可能性はあるのだ。それが分かっただけで、今は十分に嬉しかった。
「そうですね。この領は特に、はぐれに厳しい環境だから、余計にそう思われるのかもしれません。この街に寄った後は、どうするおつもりですか?」
「南に行くつもりです。ジッリョに行けば、はぐれもまともな生活をさせてもらえるって聞いて」
「南から直接ジッリョに入るつもりなら、やめておいた方がいいかもしれません」
少しだけ考えるような素振りを見せ、そう言った袁淑の表情は冴えない。
「南に何かあるんですか?」
「ジッリョとの領境に、軍が集結していると聞きました。もちろん、ジッリョ側にも」
「内戦か何かですか?」
「さて、私ども流民には分からない事です。珍しい事ではないですが、迷惑な事に一般人の往来も厳しく制限されてしまうのが難点です。街道のいたるところに関所が設けられ、逐一素性や積荷を検められる」
「つまり、そのとき俺たちは、はぐれだと知られてしまうと、まずいって事ですね」
「そういう事です」
「街道を通らず、軍に見つからないよう、領境を越える方法を知りませんか? 山でも森でも、歩いていけるなら、どんな道でも構いません」
「どんな道でもって、二人だけで、しかもアロくんは子どもで、怪我までしているじゃないですか。無茶です」
「子どもでも、フォーグル族の戦士だ! この程度の傷、すぐに治るよ」
警戒して黙ったままだったアロが、初めて袁淑と言葉を交わした。
「鳥人でも、無茶は無茶です。貴方がたの装いでは、とても山を越えられないでしょう」
「大丈夫です。ここに来るのも、数日は森の中を歩いてきましたから」
絶句する袁淑の膝の上で、大人しくしていた桂真が首を傾げた。
「お兄ちゃんたち、どうしてそんなに急いでいるの?」
これには、アロが答えた。
「追われているからだよ」
「誰に?」
「ビラーの役人に! もう分かってるんだろ? 俺たちが逃げてきたって事」
自棄になっているのか、アロの語気は荒い。それでも頭は冷静なようで、魔獣に追われている事は言わなかった。追われる理由は、未だ判然としないままだ。出会ったばかりの彼らに明かすには、少々重たい話に思えた。
「それでも、街道を行くべきでしょう。森も山も危険です。ジッリョまでは遠回りですが、他にも方法はあるのですよ」
「どんな方法ですか?」
隆臣が聞くと、袁淑は薪用に置いてあった小枝を一本取って、地面に地図を描き始めた。
「この街から街道が何本延びているか、ご存知ですか?」
「いいえ。南に行く道の他にも、街道があるんですか?」
「ええ、西へ向かう道があるのです。リーリエ領へ続いていて、領境までいくつかの村と街があります」
会話に合わせ、袁淑は地図に道や村、森や河川などを描いていく。広がった地図は、やがてリーリエとの領境を示した。
「リーリエ領に行って、どうしろって言うんだよ。確かに、あそこもビラーに比べればいいんだろうけど、それで我慢しろって事?」
アロはまだ袁淑を警戒しているようだった。先程から、酷く機嫌が悪い。隆臣と出会ったときはまったく逆で、自ら話を振ってきたし、役人に対しても随分気安かった。人懐っこい性格なのだと思い込んでいたが、存外そうでもないらしい。
そんなアロの態度を気にした様子もなく、袁淑は小枝を横に振った。
「そうではありません。とにかく聞いてください。まず、ビラーとリーリエの間にも、軍は展開しております」
驚いて口を挟みそうになり、隆臣は慌てて口を噤んだ。聞けと言うからには、何かやりようがあるのだろう。アロも袁淑に手で制されて、発言を控えたようだ。
「でも、こちらはまだそれほど危険ではないようです。どういうわけか、リーリエ側はまだ軍を出していないし、ジッリョとの領境に比べて、リーリエとビラーの領境は長い。街道に関を置いても、全てを厳しく取り締まるなんて無理な話なのです」
袁淑は、縦に長く延ばした領境に丸印を描いていく。そこが関所なのだろう。彼女はさらに、そのうちの一つ、この街から延ばした街道の先にある関所を、今度は罰印で潰した。
「軍の位置までは把握しておりませんが、運がよい事に、一番近い関所は検問が緩いと聞きました」
「つまり俺たちは、この関所からリーリエに入ればいいって事ですね。それで、その後は?」
「そこからは、追っ手がなくなるでしょうし、旅も楽になるのではないかと。悠長に構えてはいられないかもしれませんが、リーリエからジッリョへも街道を通って行けるはずですから」
大地に描かれた地図に、また一つ、南へ向かう道が描き足された。
「さらに運のよい事に、貴方がたの目の前にいる行商人は、リーリエで次の商いをしようとしているのですよ」
それまで真剣な面持ちで語っていた袁淑は、燃え盛る焚き火の中に小枝を放って、破顔した。
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