第2話
隆臣は少年を背負って、森の中を歩いた。怪鳥の追撃を避け、木陰に隠れながら進むためだ。ただ、森の奥深くへ入る事はしなかった。深く入れば、遭難してしまいかねない。街道から離れすぎないよう、細心の注意を払う必要があった。
少年の足は酷く腫れ、とても自力で歩ける状態ではない。隆臣が背負うしかなかった。背にかかる重さは少ない。
少年は、アロと名乗った。ゼクスアルシュに召喚される前、彼はジュウカイで家族と暮らしていた。ジュウカイというのは、ゼクスアルシュを取り巻く異世界の一つで、あらゆる獣人や魔獣の住まう自然豊かな世界だという。意味を知ると、ジュウカイという言葉は隆臣の脳内で、勝手に「獣界」と変換された。
アロは、フォーグルという種族の獣人だった。フォーグル族は獣人の中でも希少な有翼人種で、鳥人とも呼ばれている。各種族はさらに細分化する事ができ、彼自身は鷹の鳥人なのだと、誇らしげに語った。
もちろん鳥人は空を飛ぶ事もできるが、アロはまだ雛鳥である。幼綿羽の混ざった翼では、まだ空を飛べない。それさえできれば、足に怪我を負っていても、自力で移動ができた。成長の問題とはいえ、そうできない事がアロには酷く歯痒いらしい。
そのせいか、アロはあらゆる事に協力的だった。隆臣の背に大人しく背負われながらも、木の実や草花で食べられそうなものを見つけた。休憩している間も、近くに小動物の気配を感じると、隆臣に教え、なんとか捕まえたものを殺して、捌く事もした。
火を起こすのも、アロがやった。隆臣が薪にするために拾ってきた木の中から、よいものを選んで火を起こした。捌いた肉を火で炙れば、二日から三日は保つ。
最初は教えられた獲物を捕らえるだけで精一杯だった隆臣も、続けていると次第に自分で捌けるようになった。それもあって、食事に困る事はほとんどなかった。どうしても当てがないときは、隆臣の鞄にあった土産物のチョコレートを、少しずつ分けて食べた。
怪鳥を始めとする、異形の獣からの襲撃は続いていた。襲撃は昼間よりも、夜間に行われる事が多い。隆臣は正午から早朝にかけて、アロを背負って歩いた。夜間はアロを背中で眠らせ、起きた頃に交代して、隆臣が眠る。隆臣が寝ている間は、アロが起きて見張りをした。
何度となく襲われたが、獣は隆臣たちに触れる事すらできなかった。怪我もない。隆臣は操られるようにして、剣を振るった。剣を握るだけでよいのだ。
しばらくの間は、剣を使えば綿のように疲れ、身体中、いたるところの筋肉が痛んだ。戦いの動きに、慣れていないのだ。それでも、休んでいるわけにはいかない。隆臣はアロを背負って歩き続けた。そうしているうちに身体も慣れて、手足が軽くなったような気がした。
生き物の肉を断ち切る、おぞましい感覚にも次第に慣れてきた。最初は抵抗もあったが、おかげで狩りが上達したので、背に腹は代えられぬと割り切る事にした。
二人は南の街を目指していた。馬車で来た道を戻り、その日のうちにテック村を通り過ぎた。立ち寄る事はしなかった。シモンや見送りの男に見つかれば、また捕まってしまうかもしれないからだ。もう一度逃げる自信はない。アロは怪我をしているし、隆臣も人を傷つける事はしたくなかった。
テックを通り過ぎ、そのまま街道沿いをさらに南下した。次の村までは一日かかった。二人とも疲れていたが、ここにも立ち寄る事はしなかった。
アロは、東の村で農奴として働かされていた。主人の暴力があまりに酷く、耐えられなくなって逃げ出したのだ。立ち寄った村々では目立たないようにしていたが、鳥人の子供が一人で歩く様は、それだけで人目を引いた。訝しんだ村人が領城に報せをやって、アロはこの村で捕まったという。そのとき村中を逃げ回ってしまったので、村人たちは覚えているはずだと、アロは警戒していた。
村の近くで一晩過ごし、翌朝からまた街道沿いに歩き始めた。
アロの足は、まだ腫れていた。またアロを背負って歩く事になったが、もちろん隆臣は気にしてなどいなかった。アロが怪我をしたのは、巻き込んだ自分のせいだ。
それでも、アロは何度も隆臣に礼を言い、謝った。悔しいとも言った。いい加減にどうにかしなければ、背負っている間、謝罪と後悔を聴き続ける事になりそうだった。
「もう謝るなって。俺は気にしてないから」
「兄ちゃんが気にしてなくても、俺が気にする。フォーグルの戦士が戦う事もできずに、怪我して人に背負ってもらうなんて。役立たずで嫌になっちゃうよ」
「アロは十分役に立ってるよ。俺一人じゃ、テックまで戻れなかったかもしれない。狩りの仕方だって教えてもらって、助かってる」
「教えるだけだ。歩くのも、狩りも、戦うのも兄ちゃんに任せっきりだ」
首に回された翼に、少しだけ力が入るのを感じた。柔らかな羽根が首元をくすぐって、隆臣は笑い声を漏らさないよう我慢した。
数日の間、ともに旅をして、フォーグル族がいかに誇り高い種族かという事は、十分に理解できた。その一員であるアロもまた、子供と侮れないほどに気位が高い。そのせいで、隆臣と自身の仕事量が同等でない事を、酷く気にしているようなのだ。
「分かった。それじゃあ、おれの背に乗っている間、この世界について教えてよ。それでチャラにしよう」
「でも」
「言っておくけど、俺はこの世界の事を本当に何も知らない。何しろ、この世界の存在自体を知らなかったんだから。全くの無知な状態なんだよね。だから、教えるのってそれなりに大仕事だと思うよ。零を一にするんだから。常識レベルな事から教えてもらわないと!」
「分かった。もう言わないよ。だから、そんな事で胸を張らないでよ」
アロの笑い声が背中を揺らす。呆れ混じりの失笑だったが、隆臣はどこか清々しい気持ちで、それを受け止めた。
この世界の事、召喚術の事、隆臣の世界の事、聞きたい事は山ほどあった。ただ、アロにも全てが分かるというわけではない。両親からこの世界について教わるより以前に、何も知らないまま召喚されてしまったのだ。召喚されてすぐに奴隷として働く事になり、仲間の大人たちから聞いた事だけが、アロの知識の全てだという。
「この世界の名前はゼクスアルシュ。俺や兄ちゃんは、この世界の召喚師に召喚されて、ここにいるって事は、分かってる?」
「うん、テックで俺を拾った人が言ってた」
「それで、兄ちゃんがこっちに来たとき、傍に誰かいた?」
「女の人がいた。たぶん、その人が俺を召喚したんだろうって」
隆臣はこちらへ来たときの事を、なるべく詳細に話した。全てを話して、自分が置かれている状況の異常さを実感した。それでも、テックの村でシモンに説明したときのような絶望感はない。すでに、この世界の事を受け入れ、順応している自分がいる。その事に、隆臣自身も驚いていた。
「たぶん、魔獣が狙ってるのは俺だ。だから、次の村で別れよう」
狙われているのが自分だと分かってはいたが、怪我をしたアロをおいていくわけにもいかなかった。しかし、この先の村にはもう、アロの素性を知る者はいない。急ぐ必要もなくなった。怪我が治るまでは、一緒にいる。村のどこかで宿を借りて、そこで療養するつもりだった。いずれ疲労も取れるだろう。アロが自分で歩けるようになるまで、そう時間はかからないはずだ。それまでは、村で旅支度をしたり、常識程度の知識を集めればいい。
「何言ってんだよ、兄ちゃん!」
首に回っていたアロの翼が、隆臣の頭を包むように巻きついた。力を入れられて、隆臣の首が弱い力で締め上げられる。
「ちょっと、苦しい!」
「無責任だぞ!」
「無責任って、いや、でも」
「でも、じゃないよ。魔獣が特定の誰か一人を付け狙うなんて、今まで聞いた事なかった。けど、兄ちゃんがそうだって言うなら、確かに狙われてるんだろうって思う」
隆臣が息苦しさに軽く翼を叩くと、アロは少しだけ力を弱めた。
「でもさ、今まで兄ちゃんがいてくれたおかげで、俺は何度も命拾いしてるよ」
「危険な目に遭ってるのは、俺のせいだ……」
「関係ないよ。一人で旅してたときは、ただの野犬相手にも勝てるかどうか分からなかった。怪我をしてなくても、俺は兄ちゃんと一緒にいた方が得なんだ。だから、おいてかないでよ」
アロは、隆臣の頭に弱々しく自分の頭をぶつけて懇願した。
隆臣も、そこまで言われて、これ以上断れるわけがなかった。
「分かった。一緒に行こう。とりあえず、アロが安心して寝泊りできるところまで」
「うん! 兄ちゃん、俺のためにキリキリ働いてくれよ!」
「下僕じゃないからね?」
隆臣が身体を左右に揺らすと、翼で力強く肩を掴まれる感触がする。アロの明るい笑い声が、森の中に溶けていった。
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