第三章
第1話
夜風吹き抜ける暗く冷たい石の回廊を、青年は足早に進む。石板に反射した足音は、高く、そして威圧的に響いた。絹で織られた上等な羽織がたなびき、僅かな風を起こして過ぎ去っていく。肩まで届く美しい銀髪も、彼自身の起こす風によって荒々しく流れた。
青年の背後には、厳しい顔つきをさらに強ばらせた老齢の騎士が続く。身に纏った鎧を威圧的に鳴らしながら、やはり彼も足早に回廊を突き進んだ。
二人の視線は、ただ真っ直ぐに薄暗い回廊の奥へ注がれている。彼らはその先へと急いでいた。
彼らの他に、そこを歩く者はない。回廊に面した庭園にも、人影は見当たらなかった。夜が深すぎるのだ。本来ならば、彼らも深夜にこの場所を訪れる事はない。
「若、あまり気負われませんように」
「ああ、分かっている」
短く言葉を交わし、二人は回廊の突き当たり、最奥の扉を開け放った。古めかしい木製の扉が、大仰な音を立てるのも、構わない様子である。
室内はささやかな灯りに照らされていた。調度品は少ない。美しい装飾の施された大理石のテーブルを、上質な布で誂えた三脚のソファが囲んでいるだけだ。それがこの部屋の常だった。三人が集まり、会話を交わすためだけの部屋。
ソファには、すでに二人が陣取っていた。アイアンブルーのドレスを身に纏い、背筋を伸ばしてコーヒーを飲む厳格な淑女。そして、彼女とは正反対の放漫な態度でソファに座し、テーブルへ足を投げ出す老兵がいる。
二人の傍には、それぞれ腹心の部下が寄り添うように控えている。青年の姿を捉えた淑女の部下が、コーヒーを淹れ始めた。室内に漂っていた香りが、より一層濃度を増す。
「遅いぞ、坊主」
老兵は肘掛に頬杖を突き、微笑を浮かべた。言葉とは裏腹に、声音に責めるような調子はない。
「すまない。密偵の報告を受けていた」
青年は老兵の揶揄するような視線をあしらい席に着いた。コーヒーカップが彼の前に静かに置かれる。ソーサーごとそれを手にして、青年は老兵へと訪ねた。
「状況は?」
「ビラーとの領境に三千の軍勢が迫っておる。侵攻の気配はまだない」
「こちらからは?」
「牽制のため、うちから千人隊を待機させておいた。だが、あくまで牽制だ。真正面から三千の兵を相手にする事はできん」
「分かった。我々からも手勢を出そう。シニョーラ、騎士団はどうだ?」
「騎士隊に分かれ、それぞれ領境警備に当たらせた。領境には、騎士団長が行く」
「なら、しばらくは保つかな」
溜息を吐いた老兵は、懐から葉巻を取り出した。マッチで火をつけると、煙を口に含む。薄らと開いた口から、紫煙を静かに燻らせた。
彼の周りに漂う煙を眺め、青年は思案する。密偵の報告では、敵軍の戦力は三万に及ぶとあった。しかし、こちらへ進軍してきた兵は、そのうちたったの三千。十分の一程度の軍勢である。
「三千か……。意外と少ないな」
「軍を分割しておるようだ。各領地にそれぞれ千から五千」
「なるほど。それで、うちに三千か。舐められたものだな」
老兵の報告を聞き、淑女はその目に険悪な光を湛えて笑った。彼女の手に収まる上品なコーヒーカップに小さなひびが入り、歪な音を立てる。
「そう怒るな。すぐに増えるぞ」
「どういう事だ?」
「すでに北はほぼ全滅だ。ヴィート、ヴァルコイネンに向かった一万の兵が、南下し始めておる。南方領地制圧の援軍だな。ビラー領境にも、増援があると見ていい」
「全滅? 北がか?」
アンファベール王国北方の大地には、スターリ帝国との国境がある。アンファベールにとって陸続きの隣国は、このスターリ帝国の他にはない。しかし、この国境は常に緊張状態を保っている。アンファベールの森林地帯に住まうエルフと、スターリの山岳地帯に住まうドワーフの不仲が原因だった。この諍いは建国時から続くと言われ、その根は深い。
そういった背景を持つ北の領地は、国内でも有力な騎士団や傭兵ギルドを多く抱えている。それ故に、北方の領城群が容易に陥落するとは思えなかった。
「そもそもビラーは、元からあちら側だった。挙兵の支援をしているようだ。ヴァルコイネンは抵抗を試みたが、あちら側へビラーからの援軍があってな。国内での無益な戦を避けるため、大人しく降伏した。ヴィートは抗ってすらいない」
「ヴィートが抵抗していない? 騎士団は、北でも有数の軍事力を誇ると聞いている。団長は凄腕だとか。国境騎士団もあるだろう。それがなぜ?」
「やつらが本物であるという可能性も否めないからだ。少しでも可能性があるなら、危ない橋は渡れないという事だな。本物であれば、義はあちらにある。安易な抵抗は身を滅ぼしかねない。その上、北は国境が荒れている。特にヴィートはな。国内の紛擾にかまけている暇はないという事だろうよ」
「ヴィート辺境伯が国内の有事に無関心なのは、今に始まった事ではない。本物か、偽物か。どちらか分からないのなら、今はそれなりに従っておいて、様子を見るつもりなのだろう。本物ならばよし。偽物であったとして、今後本物が現れても、騙されたと言ってしまえばよいのだからな」
それは領主として、無難な選択だった。無用な争いを避ければ、領民は傷つかず、領地も荒らさずにすむ。そして、ヴィートで言えば、これまでの国境警備の任は滞りなく進む。国内の邪魔者さえいなければ。
しかし、それではならない。
青年の端正な顔が、苦く歪んだ。
「愚かな……。その選択が国にどれほどの影響を与えるか、分かっていないのか。国に七しかない領の主だぞ。それでよいのか」
「実際に、ヴァルコイネンの降伏は、ヴィートに背後を取られる形になった事も要因の一つになっておる。だが、そんなものだろう、為政者ってのは。なあ、シニョーラ」
「ふん、一緒にするな」
年長者たちの意見は淡白だった。これは諦念だ。年を経る事で余計な事を悟ってしまうのならば、自分は若造のままでいい。青年は心の内で決め、今はそれどころではないと思い直す。今は己の決断を内に秘め、それに従っていればよい。
老成した二人に若者の決意のほどは知れないが、それでも青年の瞳に宿った苛烈な意志を感じる事はできた。自分たちがなくした実直さが、青年の中には残っている。それに一種の憧憬すら覚え、二人は顔を見合わせて微笑んだ。
「それで、密偵からの報告はどうだった?」
「ああ、王城を探らせたが、やはり混乱しているようだ。やつらの挙兵は唐突だったからな。どのように対応すべきか、意見が割れている」
「抗戦か、降伏か、か」
「宮宰や秘書官などは降伏を唱えているようだが、騎士団長や法務官は抗戦とはいかずとも、開城には慎重を期すべきだと進言している。執政官は板挟み状態だが、やはり抵抗に傾いているようだ」
「なるほど。腐っても中央か。慎重になるだけの脳がある事に安心したぞ」
老兵は喉を鳴らして笑う。
「ヴィート、ヴァルコイネンも多少は軍を動かさねばなるまい。少数であれ、精鋭だ。あれらが援軍に来るとなると、わしらも慎重になるべきだが」
「そうだな。そして、我々もそれについて考えねばなるまい。抵抗か降伏か、あるいは他の手があるか。身の振り方を議論する必要がある」
「いや、その必要はない」
淑女の提案を、青年はあっさりと否定した。
磁器のカップに注がれたコーヒーをすすり、彼は心を落ち着かせた。濃褐色の液体が、全身を癒すように染み渡る。
「どういう事だ」
「やつらが本物であれば、挙兵する必要などない。慣例に従い、諸々の手順を踏まえればよいのだ。しかし、これを無視し、わざわざ挙兵してまで、諸侯に圧力をかける意味はなんだ?」
「まあ、確かに必要のない事だな。武芸に覚えがあるゆえに、力を誇示するとかいう馬鹿な話ではあるまい」
「その通りだ。そして、やつらには、本来控えていなければならないお方々がおられない。密偵が軍内部まで潜入してお探し申し上げたが、どちらも不在。ビラー領城に控えておられるのかと、そちらも調べたが、存在どころか噂すら耳にしないという」
「なるほど。それは怪しいな」
部下が用意した灰皿に葉巻をおき、老兵は愉快そうに笑う。
「それで、どうしろというのだ。お前の考えを聞かせておくれ、ウィリアム」
淑女は飲み終わったコーヒーカップを部下に手渡し、微笑みながら青年を促した。
彼らの笑みに応えるように、青年もその苛烈な紅い瞳を細める。
「もちろん、我々は打って出る」
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