第5話

 隆臣は詰めていた息を吐き出した。緊張した身体から力が抜け、固まった筋肉が弛緩する。非情な光景に、突然の蹂躙に、混乱していた思考が、他人に起きた被害を遠くから眺めた事で、正常に動き出す。いや、そもそもこの状況で正常に思考する事は、異常な事なのかもしれない。

「兄ちゃん、もう少し、奥に隠れよう」

 背中に声がかかる。少年の不安そうな台詞は、隆臣が考えた事とそっくり同じだった。

 隆臣は少年の両翼で自身を覆うようにして、彼を背負う。少年の身体は膨らんで丸い見た目に反して、軽かった。丸い身体のほとんどは羽根なのだろう。全身が着膨れのような状態になっているのだ。抱き上げたときは、必死で気がつかなかった。

 ぐっと腰に力を入れて立ち上がる。前を見て、そこでしまったと思った。

 こちらを見ている者がいる。

 目が合う。

 呼吸が止まった。

 全身に鳥肌が立ち、悪寒が走る。

 何対かの目が、二人を凝視している。

 それを振り払うように、隆臣は踵を返して森の中を走り出した。

「後ろ、確認して!」

 背に乗る少年に叫ぶ。すぐに返答があった。

「三羽来てる!」

 思ったよりも少ない。隆臣は、そう思う余裕がある自分に驚いた。油断してはならないはずだ。三羽だろうが、十羽だろうが、百羽だろうが、たった一羽であっても、あの怪鳥から確実に逃げ切れる手立てを、隆臣は持ち合わせていないのだ。

 後ろの状況把握を少年に任せ、隆臣はただひたすらに走る。森の奥へ、奥へ。その間に、何か逃げ切る方法を、あるいは怪鳥を打ち倒す方法を。

「どんどん近づいてきてる!」

 少年の急かす声だけが脳に響いて、良い方法など一つも思いつきはしない。最初から、そんなものを思いつけるわけがなかった。隆臣には、あれがなんなのかさえ分からないのだ。

 喉が痛い。熱い。

 熱さで呼吸を遮られる。

 呼吸は荒い。

 細くなった気管を無理矢理に空気が通っていく。

 太もも、脛、ふくらはぎ、あらゆる部分が攣る寸前のように痛む。

 少年の身体を支える腕が軋む。

 傷のせいで力の入らない右腕。

 それを庇うために自然と多めに体重を支える左腕。

 どちらも痺れて痙攣している。

 限界が近づいていた。

「兄ちゃん、もういいよ。止まって」

 少年が呟いた。

 耳元の囁きに、諦めの言葉に、隆臣の足は鈍る。限界を迎えた身体は、隆臣の精神による訴えに耐えかねて、緩やかに速度を落とした。

 全力疾走から、小走りに。

 小走りから、競歩に。

 競歩から、徒歩に。

 そうしてついに、隆臣の足は止まった。

「降ろして?」

「うん……」

 素直に少年を地面に降ろす。

 背後で怪鳥の鳴き声が聞こえた。力尽きた獲物を前に、喜び勇んでいるように聞こえる。

 もはや何も考えてはいなかった。隆臣はそこで、ようやく少年の顔を見た。

 息を呑むほどの衝撃だった。彼は、この少年は、まだ諦めてなどいない。生きる意志を強く感じさせる眼差しだった。それも、あの役人や御者のような、意地汚くしがみつくのではない。恥じる事ない生き方を選び、最後まで足掻いてやろうという意志だ。

「兄ちゃん、俺は諦めたくないよ」

「うん」

「死にたくない」

「うん」

「でも、俺は今こんなだ。足が動かない」

 少年の細い足は、小さく痙攣を起こしていた。

「だから、兄ちゃんに……」

「分かった。戦うよ」

 自信はなかった。あるはずがなかった。それでも、人に頼まれたからという消極的な理由で戦うのは、許されない事だと思った。頼まれてしまったら、情けないと思った。

 隆臣より遥かに若く、小さな少年が、それでも強い覚悟を持って臨もうとしているのだ。

「兄ちゃん、剣は?」

 少年は荷物を預けた隆臣を訝しげに見上げる。

 飾り物だ。どうせ使えはしない。隆臣はそう思って預けたのだ。

「それ、飾りなんだ」

「でも、何も持たないよりはいいと思う。棒の代わりにはなるよ。木より硬いし」

 剣は身に余る重さだった。それでも少年の意志に押されるようにして、隆臣はそれを手にする。柄を持って、バッドを振る容量で、怪鳥に叩きつければよい。

 ただ、その思考は一瞬で霧散した。

 …………抜ける。

 柄を握った瞬間、隆臣は確信した。

 少しの力も加えてはいない。柄を引いたわけでもない。刀身が現れるどころか、鍔と鞘の間には少しの隙間もない。

 隆臣は右手で剣の握りをつかんだ。ただそれだけだった。

 痺れと痛みと恐怖で痙攣していたはずの右腕に力が戻る。驚くほどはっきりとした感覚で、隆臣は確かに剣の柄を握り締める事ができた。

 最初は、鞘ごとベルトから引き抜くつもりでいた。それをやめて、左手で少しだけ鞘を持ち上げる。

「兄ちゃん?」

 少年は訝しげな表情で隆臣を見る。

「抜けるよ、これ。飾りなんかじゃ、ない!」

 隆臣は振り向き様に、剣を抜く。抵抗もなく、刀身は鞘の中を滑るようにして、その白く美しい姿を外界に現した。

 勢いのまま、右上へ向けて切り上げる。日に輝く銀の刃が、視界に光の弧を描いた。刀身が何かとぶつかって、行く手を遮られる。それでも、剣はその行く先を変えたりはしない。

 隆臣は、剣に導かれるように左手を添えた。抵抗を切り裂いて、切っ先は天へと向けられる。

 足元に塊が落ちる。

 それが何かを確認する間もなく、剣は左方向へ一閃を放った。また手応えがあって、振り切った先にその被害者が落ちる。怪鳥だった。青銅の翼を持つ、異様な姿をしている。

切っ先から、赤い液体が滴る。怪鳥の血だ。

 一連の動きに、隆臣の意思は反映されていなかった。剣が勝手に動く。隆臣はそれに合わせて、手を添える、もしくは支える。それだけでよかった。

 女から、「持っているだけでよい」と言われたのを思い出した。この剣は、隆臣が持っているだけで、その身を守るのだ。

 隆臣は油断なく辺りを見渡した。臣たちを追ってきた怪鳥は、もう一羽いたはずだ。

「兄ちゃん、上! 避けて!」

 少年の警告に、慌ててその場を飛び退く。上から落ちてきたのは、怪鳥ではない。液体に近い何かだった。それが落ちた場所から、異臭が漂う。

「気をつけて。それ、あの鳥の糞だよ」

「え、糞?」

「あれがかかると、動物も植物も腐っちゃうんだ。気をつけてね!」

「……そうじゃなかったとしても、気をつけるよ」

 隆臣は頭上を仰ぐ。葉の間から、木漏れ日が降り注いでいる。風に揺れる枝が、時折不自然な動きを見せた。

 …………いる。

 葉と葉、枝と枝の間に隠れて、怪鳥はこちらを伺っている。それでも隆臣には居場所が分かった。上から射す日光が、金属でできた怪鳥の羽根や嘴に反射して光るのだ。

 そちらへと意識だけを向け、いつ襲われてもいいようにと身構えた。静かに屈んで、怪鳥からは見えないよう細心の注意を払って、拳大の石を拾い上げる。

「そんなの、どうするの?」

「あそこから出てきてくれさえすればいいんだ」

 拾った石を、葉の密集したところへ投げる。そこに怪鳥が潜んでいるはずだ。当たらずともよい。驚いて飛び出てきさえすれば、こちらのものだった。

 石は目的の場所に、盛大な音を立てて吸い込まれた。直後に奇声を発して現れたのは、やはりあの怪鳥だった。狙い通りであった。

 怪鳥は、鋭い鉤爪を隆臣に向けて突き出す。その体勢のまま、突っ込んできた。

 隆臣の剣は、容易にその身体を捉えた。斜め下へ向けて、切り下げる。身体を二つに分けられた怪鳥は地面に叩きつけられた。

「す、すごい! 兄ちゃん、すごいよ!」

 背後から少年の喜ぶ声が聞こえる。霞がかったような、はっきりとしない脳内に、少年の明るい声がする。薄い膜の向こうから呼びかけられているような感覚だ。

 気がつくと、隆臣は血まみれだった。赤く鉄臭い液体が、髪や服、身体のあちこちを汚している。

 今まで、何かの命を奪った事などなかった。恐ろしい体験だった。そして、一瞬だった。目の前の命を切り捨てる感覚は重い。身体中にこびりついた血が、その行為の罪深さを戒めているかのようだ。

「兄ちゃん、ここも安全とは言えないから、早く逃げよう」

「あ、うん、そうだね。おぶっていくよ」

 隆臣は再び少年の翼で身を包む。

「ありがとう」

 耳元で少年が呟いた。後ろから回された翼に、ほんの僅かな力が込められた。柔らかな羽毛が、隆臣を優しく覆う。

「どういたしまして。行くよ?」

「うん!」

 背中の温もりに刺激を与えないよう、隆臣はゆっくりと腰を上げた。

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