第4話
空は青く高く澄んでいる。その青から進行方向へと視線を下ろすと、大きな山が見えた。街道は青々とした若草の茂る草原地帯を突っ切り、山へ向かって一直線に伸びている。
馬車は特に急ぐ様子もなく、穏やかな速度で街道を走っていた。
「あの、この馬車はどこに行くんですか?」
「城だ」
隆臣の問いに、役人は短く答えた。この役人はその城に勤めているのだろう。
「城まではどのくらいかかるんですか?」
「丸一日だ。この街道に沿って進むだけだが、途中にある森を抜ける必要がある。その先は上りになるから、馬も休ませねばなるまい」
「山を登るんですか?」
「登り切るわけではない。道が山に向かって坂になるだけだ。城は山の麓にある」
街道の先、山の方角を見ても、それらしい城は見えなかった。まだかなりの距離があるのだろう。
「俺はこれからどうなるんですか?」
「領内のどこかで働く事になるだろうな。どこでどのようにというのは、私には分からぬ」
「まだ決まってないって事ですか?」
「そうだ。それに私はお前たちのような召喚獣を城へ届け、その後の事は他の者に引き継ぐだけなのだ。どのようなところを、どのような条件で宛てがっておるのかまでは知らぬ」
期待はしていなかった。連れて行かれる場所が良い環境でない事は、想像に難くない。同乗している少年が逃げてきた理由は分からないが、彼にとっては逃げ出したくなる環境だったのだろう。そして、少なくとも隆臣を自身と同じ脱走者だと勘違いする程度には、そういう境遇の者がいるという事だ。このままだと、自分もそうなる。逃げ出したくなるほどの、ひどい場所に連れて行かれる。
昨晩、シモンと男が「奴隷同然の扱い」と話していた時点で、逃げるべきだったのかもしれない。そうしなかったのは、ダイニングにいるシモンが一睡もせず自分を見張っていたからだ。相手は老人で、強行突破しようと思えばできたのかもしれない。ただ隆臣には、そこまでするだけの意気地がなかった。
馬車は草原を抜け、森に入った。街道は幅を広く取り、木々はそれを避けるように両脇へ整列している。日光を遮るものはなく、道は明るい。車輪が小枝を折る音と、葉が風に靡く音が心地よく耳をくすぐった。
「兄ちゃん、ヒカイの事教えてよ」
少年は揺れる馬車の上を身軽に移動して、隆臣の隣に座った。立ち上がった拍子に見えたのは、鱗のついた鳥の足だ。鋭く曲がった鉤爪が板に食い込む。細い枝のような足首には、枷がつけられていた。
隆臣は思わず、見慣れぬ金属を凝視した。重厚な鈍色の鎖は、少年の明るい雰囲気に似合わず、見る者に大きな違和感を与える。その違和感は、まるで飛ぶ事を禁じるかのように、少年にまとわりついていた。
「兄ちゃん……」
声をかけられて、漸く自身が不躾なほど足枷を観察していた事に気がついた。気分を害しただろうか。隆臣は慌てて顔を上げたが、少年の顔に不機嫌な様子はなかった。その代わり、その目はこちらを捉えていない。彼は馬車の後方へと視線を投げていた。
先程まで瞳の中で輝いていた好奇心は薄れ、今は警戒の色を滲ませている。緊張した表情のまま、少年はゆっくりと、立ち上がった。
隆臣も、その視線の先を追う。轍の跡が残る街道と、その両脇に生い茂る木々、青い空、それ以外に隆臣の目に映るものはない。
「おじさん、馬車をとめて!」
少年は振り返り、御者に向かって声を張り上げた。
それまでは少年の事を気にも留めていなかった役人も、その声で帳面から顔を上げる。訝しげな様子で、少年の首根っこを捕まえた。
「おい、勝手な事をぬかすな」
「やばいんだよ! 逃げなきゃ!」
少年は暴れて、役人の手から逃れようとする。でたらめに振り回された翼から、柔らかな幼羽が落ちた。
「あの、あれは……?」
来た道を振り返っていた隆臣にも、ようやく黒い点が見えた。青い空に滲むようにして現れたそれは、まだ正体も分からぬほど遠くにある。
隆臣の呼びかけで、役人も後方を振り返った。役人が気付いたときには、黒い点はすでに塊ほどの大きさになっていた。
「なんだ、あれは……?」
「ステュムパリデスだよ!」
「何故、そんなものが追ってきている!」
「知らないよ!」
気を取られた役人の手から逃れ、少年は今にも馬車を飛び降りようとしている。塊は複数の点に分かれていた。まだ個々の姿を認識できるほどではないが、少年にはそれがなんなのか、はっきりと見えているようだ。
「速度を上げよ!」
御者は後ろの様子を把握できないまま、役人の指示に従って馬を急かした。二頭の馬はのんびりとした穏やかな表情を一変させ、一つ大きく嘶くと、鼻息を荒くして力強く大地を蹴る。車上は今までと比べ物にならないほど、激しく揺れた。
後ろを見張っていた隆臣には、それが無駄な努力だと分かった。鳥の群れは、隆臣の目にもその姿を認識できるところまで近づいている。その進行速度は馬の足以上に速い。距離は徐々に縮まっている。
「ダメだ。あっちのが早い」
「仕方ない……。おい、森へ入れ!」
「馬車では入れません!」
焦った役人の叫びに、御者がさらに慌てて返した。その焦燥が伝わったのか、それとも追い立てられている状況に馬自身が恐怖したのか、馬車はさらに速度を上げた。車体は不安定に傾き、何度も跳ねた。
隆臣には、分かっていた。彼らは自分を追ってきている。女がそう言っていたのを覚えている。明らかに自分のせいだと分かってはいるが、それでも一人であの群れを引き受ける気にはなれなかった。
「ならば、馬車を止めよ! 森へ逃げ込むぞ」
役人の指示に従って、御者が手綱を引いた。急な合図に馬は前足を上げ、不機嫌に嘶く。バランスを崩した車体は、派手な音を立てて横転した。
隆臣は宙に投げ出され、そのまま勢いよく地面へと叩きつけられた。一瞬息が詰まり、意識が遠くなった。十分な余力を残して地面と激突した体は、地面を数度跳ね滑る。耳元で、土砂の削れる音が響いた。
呆気にとられたまま上半身を起こすと、支えにした左腕が熱く痛む。頭部を守るため、反射的に地面との間に敷いたのだ。服の上から確かめるように触れるだけで、その部分に激痛が走る。上手く受身を取れたのか、それ以外は多少の擦り傷や汚れだけですんだ。痛みのひどい箇所はない。身につけていたボディバッグも無事だ。
目の前に放られている剣を支えに立ち上がる。頭痛と吐き気に襲われたが、それもなんとか堪えた。
荷車の近くには、役人が倒れている。痛みに呻き声を上げながらも、なんとか起き上がろうとしているようだった。御者はすでに起き上がり、馬を宥めている。ただ一人、少年の姿が見えない。
周囲を見渡せば、すぐに少年は見つかった。散らばった羽と地面を滑った跡が、街道脇の木々まで続き、その根元に少年がもたれるようにして倒れている。体重が軽い分、遠くまで飛ばされてしまったのだ。
「大丈夫?」
「うん……くらくら、する」
覚束無い足取りのまま駆け寄った隆臣の呼びかけに、弱々しい声で返事がある。明確な返答ではない。意識を保ってはいるようだが、苦しそうに呻いている。自力で動くどころか、意識すら手放してしまいそうな様子だった。
隆臣は左腕が痛むのを耐えて、少年を抱き上げた。そのまま馬車に向かおうとすると、役人と目が合った。
彼はすでに起き上がり、御者から馬の手綱を渡されている。
役人は隆臣に一瞬だけ視線を寄越して、馬の背に乗った。御者も続けて騎乗する。二人が馬腹を蹴ると、馬は街道を真っ直ぐに走り出した。
あまりに呆気ない、一瞬の事だった。あまりに、容易かった。
置いていかれた。理解した時には、もう遅かった。馬相手に人の足で追いつく事など、できはしない。
「兄ちゃん、森に、急いで」
いくらか意識を持ち直したらしい少年が、隆臣の服を引っ張る。考えている暇はなかった。恐ろしい怪鳥の群れは、すぐそこまで来ている。耳鳴りの様な威嚇の声が、絶え間なく空を覆っていた。
隆臣は森へ隠れた。少年を抱いたままでは、上手く走る事もできない。仕方なく鳥の目から自分たちを隠すように、枝葉の多い木の下へと身を寄せる。少年を根元に横たえ、自身も姿勢を低くし、暗い影に身を潜めた。
怪鳥が追ってくる気配はない。
隆臣は木々の間から、僅かに見える街道を覗いた。二頭の馬が徐々に遠くなり、それを怪鳥が追いかける。
怪鳥は速い。馬は荷車の重みから解放され、速度が上がっているはずなのに、それすら無意味と言わんばかりに、群れは距離を縮めている。日光に照らされて、尖った羽根や爪が光った。光は日の柔らかさを捨て、獲物を追い立てるように鋭く獲物を追い立てていく。
奇声を発して、最初の一羽が襲いかかった。弾丸のように、上空から急降下する。目で追うのが、やっとという速さだった。
一羽目の攻撃が当たったのか、確かめる事はできなかった。それを皮切りに、群れが次々と馬上への滑空を開始したのだ。鋭利な嘴、禍々しい鉤爪、剣のような羽根で空を切る。甲高く耳障りな鳴き声は、隆臣の元まで届いた。
それらは一つの生物のように馬上で蠢き、広がっては集まって、離れては近づいてを繰り返す。
しばらくすると襲撃は止み、鳥たちは上空に戻るか、あるいは馬と速度を揃え、並行して飛び始めた。
二頭の馬は並走を続けている。
馬上の一人は、すでに首がなかった。
怪鳥の群れという支えがなくなった身体は、前のめりに倒れて、馬の背にうつ伏せた。手綱を握る事も、馬の胴を太ももで挟む事もできず、やがて揺れに任せるまま、ゆっくりと落馬する。いくらかの鳥が、それに群がった。
もう一人は、辛うじて生きているようだった。役人の男だ。
でたらめに弱々しく短剣を振り回し、馬にしがみついている。高飛車で傲慢な彼の姿は、見る影もない。必死に馬の背をつかみ、必死に生にしがみついている。
それも、無駄な抵抗だった。
一、二羽が刃をすり抜け、背や頭部に飛びつくと、役人は腕を倍の速さで振り回す。ぜんまい仕掛けのおもちゃが止まるときのように、その動きは徐々に鈍っていった。それが、彼の最後の力だった。
腕の動きが止まると、重力に従って体が傾く。振り落とされ、地面に転げ落ちた。御者の死体が転がった先に、もう一つ怪鳥の小山ができあがる。
馬は主を置いて、走っていく。鳥は、それをも追いかけていった。
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