第2話

 シモンは一人暮らしだった。家にシモン以外の人の気配はない。温和な人柄で、ベッドから動く事ができない隆臣の世話をよく焼いた。

 生活は質素だった。食事は野菜や豆の入ったスープが多い。それに硬いパンを浸して食べた。

 服は隆臣が着ている物が酷く汚れていたため、麻でできた下着と継ぎ接ぎだらけの古着を借りた。肌に刺さるような布地だったが、汗と埃と血の臭いがするよりいいと思えた。二着の服を借りて、二日置きに着替える。あまり心地いいものではないが、どうやらシモンもそうしているようなので贅沢は言えなかった。

 家具は必要最低限のものだけで、造りもシンプルである。部屋は隆臣がいる寝室の他に一つ、玄関と直結したダイニングキッチンがある。シモンはそこで食事を作り、隆臣が歩けるようになるまで寝室で食事をした。

 隆臣が自力で起き上がれるようになったのは、意識を取り戻してから一日、歩けるようになったのは、さらにその二日後だった。

 三日間、ベッドの上で動けないままいる事は、酷く恐ろしかった。この家でじっとしている間にも、追っ手は迫っているはずなのだ。いつ見つかってしまうのか。眠っている間に襲われはしないか。シモンを巻き込んでしまうのではないか。不安の種は尽きなかった。心が休まる事はなかったが、追っ手が現れる気配は一向にない。


「さて、そろそろ事情を聞いてもいいかい?」


 ダイニングで食事をすませてからの事だった。シモンは食後の白湯を出し、隆臣の向かいに座りながら切り出した。


「俺にもよく分からないんで、上手くお話できないかもしれないですけど……」


 本当の事だった。分かっているのは、何かに追われているという事だけだ。

 隆臣はカップで手を温めながら、湯気の立つ水面を見つめた。そこに何かが映っているわけではない。ただそうしていると、心が少し落ち着く気がした。


「構わんさ。お前さんが寝ている間に村で女の事を聞いて回ったが、知っておる者はおらんかった。すまんね、力になれず」

「いえ、いいんです。ありがとうございました」


 シモンが心の底から残念に思っている事は、表情から伝わった。それだけで十分だった。


「さて、タカオミの事を聞かせてくれるかい? 前はちゃんと聞けなかったからね」

「はい、ぜひ。お世話になってるのに、話もせずに悪いなって思ってたんです」

「体力を回復する事が先決だからね。気にする事じゃない。それで、お前さんはどこから来たんだい?」

「日本から来ました。大学の卒業旅行で、友人とヨーロッパにいたんですが」

「ニホン……ヨーロッパ……聞いた事のない地名だ。わしはワに詳しいわけじゃないからなあ」

「あの、ワっていうのは……?」


 隆臣が尋ねると、シモンは驚いた顔をした。


「お前さん、ワを知らんのかね?」

「えっと、はい……」

「ワってのは、極東の島国だ。ワを知らんという事は、ワジンじゃないって事だね」

「ワジンっていうのは、ワの国の人ですか?」

「そうだ。ああ、てっきりお前さんはそこの者だと。とんだ勘違いだった」


 シモンは大袈裟に手を頭にやって、軽く振った。


「俺は日本から来ました。日本人です」

「ニホンってのは、国かい?」

「はい」


 頭を振りたいのは、隆臣も同じだった。隆臣はワという国を知らない。逆にシモンも、日本という国を知らないようだった。日本が昔そう呼ばれていた事は知っているが、さすがに今もワと呼ぶ者はいないだろう。


「じゃあ、ここがどこだか分かるかい?」


 沈黙してしまった隆臣を気遣うように、シモンが問いかける。


「……分かりません」


 少なくとも、自身が生きてきた世界ではない。それだけは明確だった。


「アンファベール王国ビラー領のテックという村だ。聞いた事は?」


 領地の名どころか、国名ですら聞いた覚えがない。ただ首を振る事しかできなかった。


「国名も?」

「はい。すみません、何も分からなくて」

「いや、分からないという事が分かるだけいい。タカオミは召喚されて来たんだろうね」

「召喚って、異世界から何かを呼び出すとかいう、あの召喚ですか?」

「そう、その召喚だ。タカオミは異世界から、この世界、ゼクスアルシュへ召喚されてきたんだろう」


 思わず顔を上げた隆臣に、シモンは当然だという顔で頷いてみせた。冗談を言っている様子はない。


「ゼクスアルシュ……」


 隆臣は聞いた事のない、その地名を噛み締めた。信じ難い現象だった。それでも、確かにそれは隆臣の身に起きた事なのだ。知らない地名、女の連れていた見慣れぬ獣、上空を横切った鋼の翼を持つ鳥、あらゆるものが証明していた。


「どうしたら、帰れますか?」

「召喚された者を元の世界に返す事ができるのは、召喚した本人だけと聞いた事がある。こちらへ来たとき、誰か近くにいたかい?」


 すぐに彼女だと分かった。彼女は隆臣を「喚んだ」と言ったのだ。


「女の人がいました。剣をくれた、あの人です」

「たぶんそれが召喚師だ。お前さんはその人に仕えるために喚ばれたはずだが、その人は?」

「はぐれました。追われていて、その途中で」

「そういえば、そうだったね。何に追われていたんだい?」

「鳥とか犬とか、そういうものだと思います」


 言い切る事はできなかった。何しろはっきりと姿を見たわけではないのだ。その上、追っ手と思われる生物は、隆臣の知識にないものだった。


「鳥にも犬にも追われていたって事かい?」

「はい、だと思います。鳥は群れでした。犬は……どうだろう。狼かもしれません。はっきり姿を見たわけじゃないんです。唸り声が聞こえてきて……」


 シモンは怪訝な顔をした。


「近くの森にも野鳥や野犬はいるが、群れで人を襲うなんて聞いた事がないね。鳥だけ、犬だけならまだしも。狼はこの辺りにはいないし。それで、その人とはそれきりかい?」

「はい。俺は戦えなくて……。その人が追っ手を止めるって、森で別れました」

「どこの誰かは?」

「分かりません」


 シモンの溜息は酷く深かった。それが隆臣の不安を煽り、心臓に重くのしかかる。


「そうかい。それじゃ、お城に届け出るしかなさそうだ」


 シモンの声色が変わったのを、隆臣は敏感に感じ取った。含まれていた隆臣を気遣う様子が、すっと抜け落ちたような感覚だった。


「届け出るって、そうするとどうなるんですか?」

「召喚師からもはぐれたという届出があれば、お城で引き合わせてもらえるだろうね」

「その届出がなかったら?」

「そりゃ、はぐれ扱いだから、こっちで戸籍を作って、適当な働き口が見つかりゃ上等だね。ただ、今のご時勢じゃ、それもしてもらえるかどうか。行ってみなきゃ分からんね」


 シモンは投げやりに肩をすくめた。もう興味がないと言わんばかりに席を立つ。そのまま仕事道具を持って、外に出ていきそうなところを、隆臣は慌てて引き止めた。


「ま、待って! それ、戸籍をもらうって、住むって事ですよね? 俺は帰りたいんです!」

「召喚師が見つからなきゃ帰れないよ」


 シモンは振り向く事もせず、それだけを言い残して出て行ってしまった。




 その日の夕方、シモンは一人の男を連れて帰ってきた。家の中まで入ってくる事はなかったが、玄関前で話し合う声が聞こえたのだ。薄い木の扉の向こうで、二人は言い争っているようだった。


「なんではぐれなんか拾ったんだ、シモンさん」

「はぐれだなんて思わなかった! だから、先に名を聞いた。ワジンの響きだったぞ」

「キカイにはそういう名の者もいると聞くぞ」

「くそ、ワの豪商か何かの生まれだと勘違いしちまった。大層な剣を持ってたし、金になると……。恩を売っておけば、この国を離れる事だってできると思ったのに」


 シモンは落胆した様子だった。


「どうするんだ、これから」

「もう城には連絡したさ。明日には迎えが来るだろうよ」


 低く笑うシモンの声は、先日までとまるで別人だった。温かみが嘘のように消え、酷く冷たく聞こえる。


「召喚師が見つかれば謝礼金がもらえる。見つからなければ、はぐれが働いた給料の一部が入る。それだけの事だ」

「シモンさん、あんた恨まれるぞ。ビラー領は、はぐれに厳しい。他所の領まで行きゃ、奴隷生活は免れるってのに、それも教えてやらねえで……」

「はぐれ者の届けを出して金をくれんのは、この領だけだろう。俺だって、ぎりぎりの生活してんだ。それを無理して助けてやった。なけなしの食料だって、分け与えてやったんだ。大した見返りもないのに、これ以上どう面倒見ろってんだ!」


 隆臣はそっと息を吐いた。気づかぬうちに、呼吸を止めていたらしい。

 シモンは隆臣を利用するために拾い、その価値がないと知ったために捨てるのだ。

 額から汗が落ちる。怒りか、それとも焦りか。テレビの砂嵐のような音が、耳に直接響いている。震える拳はそっと胸の首飾りを握り、漸く落ち着かせる事ができた。

 早鐘のように鳴る心音を無視し、静かに踵を返した。テーブルに立てかけておいた剣を取り、寝室へと向かう。自然と剣を握る手に力が入った。

 ベッドに腰かけると、その硬さがいやに気になった。つい昨日までは、あるだけで有難いと思っていたはずなのに。横になる気になどなれはしない。膝を立て、剣を抱える。扱えない剣でも、あるだけ良いと思えた。

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