第二章

第1話

 一昼夜、歩き通した。稀に聞こえる鳥獣の声に怯えながら、寝る間も惜しんで、ただひたすらに進んだ。

 足の感覚は既にない。見慣れぬ森の景色に、思考は鈍っていくだけだった。自分はどこにいるのか。どこへ向かっているのか。何に追われているのか。どこまで逃げればよいのか。隆臣に分かる事など、何一つなかった。ただただ心細かった。押し潰されそうなほどに不安を感じたのは、初めての事だった。

 ついに思考は停止したが、それでも歩くのだけはやめなかった。取り憑かれたように歩き続け、翌日の日が沈む頃にようやく森を抜けた。

 目の前に現れたのは、丘へと続く田園風景だった。森との境に木の柵があり、木々の侵食を阻んでいる。細い丸太を組んで作られた柵には蔦が絡みつき、芽が生え始めていた。森との境界線として設置されたはずが、その機能はほとんど薄れ、自然に取り込まれつつある。

 柵の向こうに広がるのは畑だ。視界一面が緑で覆われている。しかし、生い茂るのは雑草ばかりで、野菜や果物の類は見られない。好き放題に伸びた野草は、人の背丈ほどに成長している。柵同様、手入れがされている様子は、まるでなかった。

 野放図な緑の中に、白壁の家が点々と散開している。周囲の緑に、白い壁と赤い屋根が美しく映える。家々は奥に行くにつれて増え、畑の向こう側には小さな集落があった。その景色は、ヨーロッパで見られる農村の風景に似ている。

 隆臣は柵を乗り越え、剣を支えに畦道を歩き出した。走っているわけでもないのに、息が切れる。支えがなければ、今にも倒れてしまいそうだ。人のいる場所に行こうという意思だけが、足を動かしている。

 しばらく歩くと、後方から声が追いかけてきた。おおい、と呼ぶ声に振り返ると、籠を背負った老爺が畑の中から雑草を掻き分けて、畦道に出てきた。

 隆臣は、ようやく見つけた人の姿に安堵した。唐突に訪れた安心感で力が抜ける。がくんと崩れ、片膝が地に着く。なんとか剣に縋り付いて、倒れ込む事だけは避けられた。慌てて走り寄る老爺が、ぼやけて見える。

「おいおい! 大丈夫かい?」

 老爺は隆臣に駆け寄ると、体を支えるように腕をつかんだ。節くれ立った老爺の手は、意外にもしっかりと隆臣の身体を支えてくれた。

「ありがとう、ございます」

 礼を述べるが、その声は自身の予想以上にかすれていた。はっきりと話す事ができないほど、疲労と不安が溜まっているのだ。

「見ない顔だ。名前は?」

「鷹羽、隆臣……」

「ワジンか……。他所から来たんだね?」

 老爺の問いかけには、頷いて返す事しかできなかった。

「とりあえず家へ来な。すぐそこだから」

 隆臣には、最早一人で歩くだけの体力すら残っていない。老爺に肩を借りながら、足を引きずるので精一杯だった。



 気がつけば、ベッドの上にいた。見覚えのない木の天井に驚いて身動きすると、固いベッドが僅かに軋んだ。視線を動かすと、椅子に腰掛け、うつらうつらと舟を漕ぐ老爺がいる。見知らぬ老爺を見て、自身に起こった出来事を次々に思い出す事ができた。

 事故、白い腕、女、剣、首飾り、緑の犬、異形の鳥の群、現実離れをしたあらゆるものが、隆臣の脳裏に蘇る。ただ、老爺と出会ってから、どのようにしてここまで来たのか、隆臣はほとんど記憶していなかった。ここがどこで、この老爺は誰なのか、自分を追う者はここを知っているのか。

「起きたかい?」

 老爺が目を覚ました。隆臣が身動きした音に気が付いたのだろう。

「少し待ってな」

 老爺は隆臣の返事も待たずに、部屋を出て行った。

 起き上がろうとベッドに手をつくが、力が入らない。どんなに頑張っても、肘が折れてしまう。隆臣は自力で起きるのを諦めた。

 首だけを動かして部屋を見回すと、サイドテーブルに隆臣のボディバッグと剣が置いてある。胸の辺りをまさぐると、首飾りの感触が掌を刺激する。とりあえずは、それで安心する事ができた。

 しばらくすると、老爺が盆を持って戻ってきた。盆の上には水の入ったコップと、湯気の立つ皿が乗っている。老爺はそれをサイドテーブルに置いた。

 ほのかに優しい食物の香りが漂ってくる。それに刺激されたのか、突然に空腹感が襲ってきた。疲れのせいで気がつかなかっただけで、本当は自分でも驚くほど腹が減っていたのだ。当然といえば当然だった。丸一日、ただ逃げる事だけを考えていたせいで、食事をとっていなかったのだ。

「起きれるかい?」

 隆臣が首を横に振って答えると、老爺はその背を支えて起きるのを手伝った。

「腹が減ってるだろう? 食べな」

 盆をサイドテーブルから移動させ、隆臣の膝に置く。皿の中は具の少ないスープだった。薄いタオルケット越しに、温かさが伝わってくる。茹でた野菜の甘い香りが、隆臣の鼻腔をくすぐった。

「熱いよ」

 椅子に戻った老爺は、スプーンをとった隆臣を心配そうに見守っている。

 痺れる腕をゆっくりと動かして、やっと口に含む事ができた。一口入れると、後はもう止まらない。少量ずつではあるが、確実に腹が満たされていった。とろみのあるスープが胃の内側を覆い、柔らかく煮込まれた野菜類が落ちていく。空腹と共に心も満たされていく気がした。

 老爺は隆臣が食べ終わるまで黙っていた。皿の中が綺麗さっぱりなくなると、満足したように微笑む。

「食欲はあるな。よかった」

「すみません。がっついてしまって」

「疲れてる時は食って寝て、力を蓄えるのが一番ええ。もっと食べるかい?」

「いえ、もう大丈夫です。ありがとうございます」

 さらにスープを持ってこようとする老爺を、隆臣は慌てて止めた。疲労のせいか、思ったより早く満腹になっていた。

 老爺は少しだけ残念そうな顔をすると、盆を下げに行った。戻ってきて、サイドテーブルに水差しを置く。

「少しは元気になったかい?」

「はい、いろいろありがとうございます」

「ええ、ええ。タカオミと言ったね?」

 老爺は妙な発音で、隆臣の名前を確認した。微妙なイントネーションの違いだ。いちいち直すのも気が引けて、隆臣は肯定した。

「そうです」

「わしはシモンだ。畑で仕事をしとった時に、お前さんが畦道を通った」

「そこまでは、覚えています」

 シモンの話では、どうやら導かれるまま無意識に足を動かし、家に着いた途端、糸が切れるように倒れ込んだらしい。気絶してから、丸一日が過ぎていた。

「うわ、すごい迷惑でしたね……。ごめんなさい」

「気にするこたない。このご時勢だ。助け合わにゃならん」

 シモンは笑う。人のよさそうな笑みだった。

 そういえばと、シモンはサイドテーブルに立てかけた剣と、それに吊るしたボディバッグを指した。

「お前さんの荷は、あそこにあるだけで間違いないね?」

「はい、そうです。あれで全部です」

「立派な飾り剣だね」

「え?」

 一瞬なんの事を言われたのか、分からなかった。この部屋にある剣といえば、隆臣がもらったそれしかない。だが、シモンは飾りだと言った。

「飾り、なんですか?」

「なんだ、知らずに持ってったのかい? 抜こうとしたが、抜けなかった。飾りだろう?」

 シモンが実践してみせる。刀身は鞘を離れなかった。

 衝撃が走った。踊らされた気分だった。女は、剣が隆臣を守ると言ったのに、この剣は抜く事さえできない。そもそも剣など使えはしないのだが、剣としての用をなさぬ代物をどう使えば、己の身を守る事ができるのだろう。必死に抱えて走った意味はなかったのだ。

「いったいどこでこんな立派な物を?」

「貰ったんです」

「そりゃまた、得したね。誰にもらったんだい?」

「森で会った女の人がくれたんです。身を守ってくれるって言ってたんですけど」

「飾り剣じゃ無理だ。騙されたんだね」

 シモンはサイドテーブルに剣を立てかけ直して、隆臣の肩を軽く叩いた。

「災難だったね。で、他所から旅してくるやつは多いが、お前さんは荷物が少ない。旅人ってわけでもないんだろう?」

「はい、まあ……」

「いったい何しとった?」

「逃げてました」

「逃げてたって、何から?」

「なんなのかは、よく分かりません。追われてるって言われたんです」

「誰に言われたんだい?」

「その剣をくれた人に。金髪で緑の目をしてたんですけど、知りませんか?」

「この辺にはいないね。名前は?」

「知りません……」

 状況を把握しようと質問を投げてくれるシモンに、隆臣は曖昧な返答しかできなかった。それが心底申し訳ない。自然と顔が下を向いた。

「大丈夫。とりあえず、しばらくはここにいな。見たとおり貧乏な家だが」

「とんでもない。ありがとうございます」

 余計な気を使わせてしまった。その事に対する謝罪も込めた礼だった。

 シモンは隆臣が起きて十分に歩けるようになるまで、面倒を見ると言った。寝込んでいる間は、村で女を知っている者がいるか尋ねてくれるとも。

「今日はもう疲れたろう? ゆっくりお休み」

「本当に、ありがとうございます。よろしくお願いします」

 自分は運が良かったのかもしれない。そう思う事で、思考は簡単に静止した。横になると、すぐに深い眠りに就いた。

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