第4話
村瀬の驚く顔を、最後に見た。目を合わせたまま友人が亡くなるなんて、トラウマになるだろう。そう思い、別れを告げるように目を閉じた。自分は助からない。
「こちらへ……」
終わったと思ったとき、声がした。柔らかく優しげな、若い女の声だ。
もう一度目を開けると、光の中からこちらに差し伸べられる腕がある。視界の中で認識できるものは、最早その腕だけだった。隆臣は白く細いその腕を取った。
引き寄せられ、光を抜けた先に、それまで自分がいたはずの景色はなかった。古めかしいヨーロッパの街並みは消え失せ、辺りは豊かに茂った木々で覆われている。森か林か。青々とした葉の間から、陽光が差し込んでいる。美しい景色だった。隆臣にはそれしか分からない。
「危ないところでございました」
唖然とする隆臣の目の前には、マントに身を包んだ女がいた。フードの間から金糸の髪を覗かせ、美しい翠色の目がこちらへ微笑んでいる。その目の色は、あの首飾りの玉に似ている。顔付きは白人のそれだが、彼女の口から聞こえたのは流暢な日本語だった。
「誰……?」
隆臣には、そう返す事しかできなかった。まだ、自分に起きた現象を飲み込めていない。死んだと思った。一生懸命、必死になって生きてきたかと問われれば、はっきり肯定できるような生き方ではなかったが、それでも惜しいとは感じた。そう思ったから、今こうして助かっているのだろうか。そもそも、自分はまだ生きているのか。それすらも分からない。
「お命を狙われております」
女は隆臣の誰何に答えなかった。代わりに返ってきたのは、酷く物騒な身に覚えのない報告だ。
「命って……」
「事情は後程ご説明致します。急ぎこの場を離れましょう。こちらへ」
女は背を向けて早足で歩き出した。マントが翻る。
マントの隙間から、長い棒状の何かが見えた。それは杖のように見えたが、彼女の足はいたって健康そうだ。女はついて来ない隆臣に気づき、少し苛立った様子を見せた。
「どうされました。お急ぎください」
「いや、急に言われても、帰りたいんだけど」
「死にたいのですか?」
「死ぬってどういう事!」
「追っ手が迫っております」
女の言葉を証明するかのように、周囲の空気がざわりと揺れる。次の瞬間、いくつもの影が足元を横切った。影の起こした風は木の葉を巻き上げ、土埃とともに宙へと運ぶ。影の過ぎ去った方向から、耳障りなほど高い鳥の声が空気を裂いた。
女は一度そちらを見遣って顔を顰め、地面に向かって呼びかけた。
「イザドラ」
「はい」
呼びかけに応じたのは女の声だった。
「ステュムパリデスか?」
「そのようです」
「厄介な」
緊張した表情の眉間に皺が寄る。
隆臣は声の主を探して周囲を見渡した。女が話しかける方向には何もない。誰もいない。しかし、女はそんな隆臣の様子に構いはしなかった。
「さあ、早くこちらへ」
女は呆然と立ち尽くす隆臣の手首を掴んだ。
「どこに行くつもり?」
「事情は後程と申し上げたはずです!」
彼女は焦れたように隆臣の手を引いた。その手はじっとりと汗をかいている。
「貴方様は、お命を狙われているのです。今は生きて、我らの主をお探しする事のみ、お考え下さい」
隆臣を引っ張りながら、彼女は言った。その歩調はだんだんと早くなっている。再び開けた場所に出ると突然立ち止まった。木々の間から見える空を確認すると、ようやくその手が解放された。
女に釣られて見上げると、空を何かが横切った。鳥のようだった。羽先に太陽が反射して、きらりと光る。一羽が過ぎると、追うようにして何羽もの鳥が空を翔けた。大きさこそ隆臣の知る一般的な鳥となんら変わらぬ。しかし、太陽に反射して輝いた羽先は、鋭利な刃物のような形をしていた。あれが、群れで自分を追っている。
「あれが、追っ手?」
「そうです。今は私の使い魔が食い止めておりますが、念のために、こちらを」
そう言って彼女が差し出したのは、ひと振りの剣だった。柄は金、鞘には宝石らしい石を散らし、植物を模した銀の装飾がある。外国のファンタジー映画に出てくるような優美さで、とても実用に足る代物とは思えなかった。
「待って! 剣なんて使えない!」
「使えずとも、使っていただかなくてはなりません」
女は隆臣の手を取り、無理矢理に剣を握らせた。
押し付けられた美しい剣は、隆臣の心に重くのしかかった。仕方なく両手に収めたそれが、自分に見合うものとも思えなかった。
「こんなもの、俺に使えるわけがないよ」
「それでもお持ち頂かなくてはなりません。持っているだけでよいのです」
「持ってるだけって、それじゃなんの意味も……」
「よいのです。この剣は必ず、あなた様をお守りいたします」
女の視線が揺らぐ事はなかった。
「分かった……」
「それから、百合の首飾りをお持ちですね」
不服そうな隆臣の様子を意に介す事なく、女は言った。
「なんで知ってるの?」
「お持ちでないと、こちらにはおよびできないのです。今はどこに?」
「鞄の中だけど」
「失礼」
ボディバッグを体の前に回して示すと、女は一言断り、隆臣の返事も聞かずにチャックを開いた。
「ちょっと、勝手に……!」
隆臣の静止も無視して、女は首飾りを取り出し、包装を破いて放った。
「首飾りと剣は絶対に手放されませんよう」
女の手によって、隆臣の首に銀の百合が飾られた。
美しい目は緊張した様子を崩さない。合わさる視線から、彼女の必死な願いが伝わってくる。
「エルドレッド」
女はまた別の何かを呼んだようだった。
「ここに」
応じて犬のような獣が、女の影から滲むように現れた。その体躯は牡牛ほどもある。暗緑色の毛は長く、尾は背中の上に編まれている。
女は獣の背に手を添え、静かにこちらを振り返った。
「私が足留めしてまいります。その隙に、貴方様はこの森を抜け、その先にある池で待つ者と合流を」
「いや、あれがなんなのか知らないけど、女の子に足留めさせるなんてできないよ!」
隆臣が言うと、女は驚いたように目を見開いた。
「妙な事をおっしゃる……」
呆れたようにため息を吐くと、表情は元の緊張した様子に戻った。
「剣も扱えぬのに、どのようにして私を守るおつもりか」
「それは……」
「暢気にもほどがある」
「そんな言い方しなくても!」
「私には使い魔がおります。とにかく、今はお逃げください。それ以外の事は、取るに足らぬ小事とお考え下さいませ」
「小事って、そんな!」
「森の中を行けば空からの追跡は免れましょう。追っ手を抑えたら、すぐに合流いたします」
女は獣の背に跨った。隆臣に背を向け、止める間もなく来た道を駆けていってしまう。その姿は、森の闇に吸い込まれるようにして消えた。ほどなくして、そう遠くない場所から、獣同士の威嚇するような声が聞こえた。
隆臣は剣をベルトに挟み、女が消えたのとは反対側へと進んだ。女を追って戻る勇気はなかった。慣れない森の道は厳しい。土や草の感触は足に優しいが、目に見える森の風景はどこへ進んでも同じに見える。見渡しても似たような景色が広がるばかりだった。地面には、獣道すらない。一度進路を見失えば、元の方向を見つける事はできないだろう。
ただひたすらに、前だけを見て歩く他なかった。視界が悪く、追っ手が迫っているのかも分からない。見もしない何かに追われる不安は、酷く現実味を欠いていた。どの程度歩いたか分からなくなった頃、木々の間から水面が見えた。
「池……!」
隆臣は思わず叫んで走り出した。勢い余って、森からまろび出る。それまで視界のほとんどを覆っていた緑の割合が減り、代わりに透き通るような青が姿を現した。
池はたいして大きいわけではなく、水は透き通って、たまに小魚がぴちょんと涼やかな音を立てて跳ねる。陽の光に反射して、水面が美しく光った。池の向こうにも、やはり森が続いていた。空から追ってくる者の事を思い出し見上げるが、それらしい影はなかった。
畔まで歩み寄るが、人の気配は無い。代わりに、感じたのは鉄の臭いだった。嗅いだ事のある臭いだ。それも、何度も。あの夢の中で。臭いの素が対岸にあるのは、すぐに分かった。草の間から赤い液体が流れ、池の水を汚している。
そちらに悪いものがあるのは分かっているのに、隆臣の足は自然と動いていた。見てはならぬが、見なくてはならぬ。矛盾したその状況に、待ち受けているであろう何かに、震えが止まらなかった。進むにつれ、鼓動が早くなる。一歩一歩が酷く重い。
あと二、三歩で叢の向こうが見える位置まで来て、隆臣は止まった。対岸にいた時とは比べ物にならないほど、濃厚な鉄の臭いが鼻をつく。目を閉じて、深い呼吸を繰り返す。激しい鼓動が落ち着く事はなかった。ぐっと力を込めて拳を握り、一息に目標へと近づく。
声にならない叫びが漏れた。腰が抜け、尻餅をつく。
惨状だった。叢に広がるおぞましい色。蠅が螺旋を描いて飛び回っている。
一人の男が死んでいた。酷い死に様だった。腹部は原型を留めていない。何か大きな獣に食い荒らされたような死体だ。
隆臣は込み上げてくるものを抑えきれず嘔吐した。全てを吐き出して、逃げなければと思った。この男が、池で合流する予定の人物だったのだろう。彼の他に頼りはない。どこへ向かえばいいのかも分からないが、とにかく走るしかなかった。辺りに人や獣の気配はないが、男を殺した何かが近くにいると思うと恐ろしい。剣はあるが、扱えるとは思えない。
立ち上がり、震える足を叱咤して走り出す。嘔吐による疲労は、思った以上に隆臣の体力を削っていた。日の下にいるのが怖い。少しでも早く、森の闇に溶けてしまいたかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます