第2話

 激しい風の音が耳を打つ。隆臣はひび割れた大地の上に立っていた。砂煙が視界を遮って、辺りの様子は伺い知れない。

 風が頬を撫で、視界が晴れていく。目に映ったのは、荒地を覆う人だった。

横たわる人々の中に見える濃い赤色。それは彼らから流れる血だった。酷く鮮明で、認識した途端、より一層赤い色を増した。

 人々は折り重なるようにして地に伏している。ほとんどの者が襤褸を身に纏い、粗末な身なりをしている。起き上がる者はいなかった。

 やがて、地平線の向こうに黒い点が現れた。点は踊るようにして、左右に揺れる。塊ほどの大きさになったとき、ようやくそれが近づいてきているのだと気がついた。

 地を覆う屍の上を滑るようにして、黒い塊はやってくる。塊は無数の点に分かれ、ついに個々を認識できるほどになった。それは人と獣の群れだった。犬、鳥、猿、人、様々な生物が入り乱れ、狂ったようにこちらを目指して駆けてくる。

 駆ける人々は甲冑を着込み、武器を構えた兵士だった。揃いの甲冑、揃いの剣、揃いの弓を携えている。彼らの装いは血で汚れたままだった。

 それに従うようにして、大小様々な獣が来る。それらはどれも隆臣の記憶に残るものとは違う姿をしていた。少しずつ様々な獣が混じり合い、中には人と混じっているものもある。明らかに、常識的な規格とは異なっている。赤い虎、金の馬、緑の狼、どれも図鑑にはない毛色をして、地に棄てられた屍など気にもせず、蹴散らしながら疾駆する。

 あれらは、ただこちらへ向かっているのではない。自分に向かって走っているのだと、隆臣には分かった。

軍隊は確かな殺意を持って、彼を目指していた。生き物の放つ熱気と共に、殺意が風に乗って襲い、皮膚を刺激した。

 獲物を捉える鋭い眼差しは、全て彼に注がれている。

 ―――捕まってはならない。

 思考とは裏腹に、隆臣の足は重く地に貼り付けられていた。まっすぐに向けられる殺意に、息をするのもままならない。喉の締まる感覚がして、呼吸は細く虚しい音を立てた。沸騰したような熱さを持った血潮が、心臓の周りを駆け抜ける。熱くなる身体とは反対に、手足は凍ったように冷たくなった。

 隆臣の四肢はついぞ動くことがなかったが、代わりに背後から新しい気配がした。初めての事だった……。



「隆臣!」


 至近距離から叫ぶ村瀬の声で、隆臣は飛び起きた。バスの中だ。

 また、同じ夢を見ていた。上手く息ができない。短い呼吸を繰り返す。

 落ち着いてきて、夢に進展があった事に気が付いた。夢の最後に感じた気配、あれはなんだったのか。確認する事は、できなかった。


「大丈夫か? うなされてたぞ」

「大丈夫……」


 心配そうな村瀬に、苦笑して返す。村瀬は納得していないようだった。


「無茶すんなよ?」

「大丈夫だって。悪夢だっただけ!」

「あんまり酷いなら、カウンセリングとか受けたらどうだ?」

「どうしても我慢できなくなったら、そうするよ」

「どうだか」


 村瀬は肩をすくめた。未だ納得した様子がないのは、隆臣がそうしないのを知っているからだ。ただ、これ以上この話を続けるつもりもないらしい。隆臣も苦笑で返すに留めた。


「帰ったら考えるよ。腹減ったな。パブ、着いたの?」

「ああ、みんな降りてるから、俺らも行こう」


 村瀬は席を立った。今日はもうこのバスには戻らない。荷物を手に、隆臣も後を追った。



 バスは、ロンドン市内のパブに到着していた。今日のガイドは、ここまでとなる。食後は自由時間で、散策するもよし、ホテルに戻るもよし。ホテルへ帰る者はバスで送ってもらえるが、隆臣たちはこのまま街をふらつく予定だった。歩き回れるよう、あえて自由時間の多いツアーに申し込んだのだ。

 ツアー客全員での食事は、これが初めてだ。それぞれガイドによって席を振り分けられ、六人掛けの長テーブルに座る。隆臣たちは、老夫婦との相席だった。隆臣の右隣に老爺が腰掛けた。


「長坂は就職どこなんだっけ?」


 前菜として運ばれてきたトマトのフライをつつきながら、森田が切り出した。


「俺? 銀行の営業マン」

鷹羽たかばも営業だよな?」

「うん、保険会社の営業だよ」

「俺、営業なんか絶対無理だあ。むいてない!」


 森田は、食べ終わった前菜の皿から身を引いた。綺麗さっぱり片付けられている。すぐにウェイターがやってきて、皿を下げていった。

 村瀬がついでにとエールのおかわりをして、森田に向き直った。


「これから営業職就く奴を前に言うなよ」

「ごめん、ごめん」

「でもさ、文系男子の就職なんて、ほとんど営業でしょ?」

「資格持ってなきゃな」

「森田は資格持ってたんだっけ?」

「うん、医療事務」

「職場、女ばっかでキツそうだな」

「いいじゃん、女ばっか!」

「アホだな。そんな単純なもんじゃないんだって。姉貴が二人もいる俺が言うんだから、間違いない」


 長坂は呆れた様子でエールを呷った。二人の姉の事を思い出しているのか、渋い顔をしている。


「村瀬は先生だっけ?」

「ああ、社会科の」

「むいてるよな」

「うん、むいてる」

「むいてるって言ったら、隆臣もだよな」


 突然自分の話題に戻った事に驚いて、隆臣はきょとんとした顔で発言者の村瀬を見た。

むいていると言われた事が、意外だった。特にこだわりがあって選んだ職ではなかったのだ。就職して親を安心させられれば、それでよかった。いくつか適当に採用試験を受けた中で、それなりに知名度のある企業に決めただけだ。


「分からないって顔してるな」

「うん、まあ、採用試験受かったんだから、むいてないって事はないのかもしれないけど」

「なんで営業受けたの?」

「なんでって言われても。みんな、いろんなところ受けるもんじゃないの?」

「それはそうなんだけどさ、なんとなく境界線っていうか、やりたい事とやりたくない事のラインってあったりしない?」

「親を心配させない職業なら、別にいいかなって」


 隆臣が言うと、時が止まったように誰も話さなくなった。

 そして堰を切ったように、森田と長坂から怒鳴られた。興奮気味なのか二人は前のめりになっている。


「なんだよ、それ! いい加減なやつだとは思ってたけど、いい加減すぎ!」

「もっと真面目に自分の将来考えろよ!」

「二人とも、うるさい! 気持ちは分かるけど、興奮しすぎだ!」

「お前もな!」


 村瀬の注意に長坂が返すと、どっと笑いが起こった。聞こえていたらしい周囲のツアー客からも、小さく笑いを押し殺す声がする。寛容な人たちばかりで、よかった。季節柄、卒業旅行の学生が多く、堅苦しいところがないのが幸いした。

 そういえばと、隆臣は右隣を振り返って、老夫婦の様子を伺った。随分と騒がしくしてしまった。迷惑だったかもしれない。


「すみません、騒がしくて」

「いいのよ、気にしないで」

「賑やかでいいな」


 老夫婦はさして気にした様子もなく、穏やかに笑っている。


「若い子に混じってお食事なんて、何年ぶりかしらね?」

「さて、いつだったか。最近は、孫も顔を出してくれないからなあ」


 老爺は食事の手を止め、懐かしむように遠くを見やった。


「君たちは学生さんかな?」

「はい、大学四年生です」

「じゃあ、卒業旅行かしら?」

「そうなんです。大枚はたいちゃいました」


 隆臣が冗談めかして言うと、老夫婦は上品に笑った。目尻の皺が深くなり、愛嬌が増す。笑顔のよく似た夫婦だった。

 老夫婦は運ばれてきたメインディッシュを、丁寧な所作で切り分けていく。マナー通りの、品のある食事の仕方だった。身に付けている品も高価そうな、それでいて派手過ぎない物を選んでいる。それなりの財を成してきた人物のように見えた。

 それなのに、学生が選ぶような格安ツアーに参加している。


「お二人は?」

「実は結婚五十年目でね。息子が旅行をプレゼントしてくれたんだよ」

「わあ、おめでとうございます」

「ありがとう。こんな異国で、こんなに若い子にお祝いの言葉をもらえるなんて、旅行もいいものね」


 隆臣は夫人の微笑みから、どこか自嘲しているような印象を受けた。


「旅行をプレゼントだなんて、素敵な息子さんですね!」

「どうだろうなあ。厄介払いかもしれんぞ?」

「貴方が仕事に口出しするからよ」

「お前こそ、嫁さんにうるさく言ってるんじゃないか?」

「やだわ、お父さんったら!」


 老夫婦のやり取りは内容こそブラックだが、口調は穏やかで周囲を和ませてくれる。


「仲良いんですねえ。海外旅行には、よく来られるんですか?」

「実は、初めてなんだよ。日本を出てみるのもいいもんだね。今まで避けていたのが、もったいないくらいだ」

「避けてたんですか?」


 隆臣の問いかけに、夫婦は一瞬だけ気まずそうな顔をした。それは、すぐに苦笑に変わる。


「恥ずかしながら、ね。海外なんぞ死んでも行くものかと思っていたよ」

「お二人とも?」

「ええ、そうよ。行きもしないのに、ひどい偏見よねえ」


 夫人は困ったように笑う。


「なんとなく分かる気がします。どこに行っても、日本より治安悪いし、水も飲めないとこが多いし、それに飛行機って心配になりますよね」

「そうだなあ。それも、あるんだが……」


 老爺は言って、目を伏せる。夫人も悲しげに目を伏せて、瞼を震わせた。その様子に、隆臣も少し焦った。深く突っ込み過ぎたかと。


「えっと、大丈夫ですか?」


 思わず、食事の手を止める。深い事情がありそうだが、出会ったばかりの自分が聞き出すわけにもいかない。どれだけ友好的に接しても、越えてはならない一線だけは間違えたくなかった。


「いいのよ、ごめんなさいね? お食事は楽しくしなきゃね」

「そうだな。今度は学生さんの話を聞かせてくれるかい?」


 謝る夫婦に、救われた気がした。優しい笑顔だ。無理に笑っているという印象はない。彼らの中で、終わった事なのだろう。癒えた傷をわざわざほじくり返す事はない。

 その後は、村瀬らも交えて大いに盛り上がった。しばらく老夫婦の様子が気になっていた隆臣も、明るい雰囲気や次々に運ばれてくる料理に気を取られ、あの時の老夫婦の寂しげな反応を忘れていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る