ゼクスアルシュ物語 ~聖王の百合~
青屋ういろう
第一章
第1話
砂煙。砂嵐。一陣の風に消え去った。
荒野には死屍累々。真っ赤な花が咲いている。
鉛色をした軍隊が、異形の獣を引き連れて。
殺せ、食らえとやってくる。
激しい動機がして、心臓の音が鼓膜を打つ。深く呼吸を繰り返し、それを沈めるのに数分がかかった。寝汗で服や髪が肌に貼り付き、酷く気持ちが悪い。
「また、この夢……」
幼い頃から、何度も同じ夢を見続けている。最初はただ砂煙の中に佇むだけだった。その向こうに何か良くないものがある事を、 隆臣は最初から理解していた。ただ荒地に立ち、砂煙を見つめているだけの夢で魘されていた。ときには悲鳴を上げて飛び起きる事もある。
最初は心配していた両親も、なんの支障もないせいか、今では気にもしない。隆臣自身も次第に慣れ始めた。砂嵐の中にいるだけだった夢に、変化が訪れるまでは。
視界が晴れてきたのは、つい一ヶ月前の事だった。それから三日後に黒い点が現れ、それが近づいている事に気づいたのは、さらに三日が過ぎた頃だった。それが何かの集団と分かるのに数日、人や異形の入り混じった群れだと分かるまで、さらに数日がかかった。
そうしてついに、群れは目の前まで迫っている。あれに捕まったら、自分はどうなってしまうのだろう。獣だろうが人だろうが、捕まれば死ぬのだろう。それでも隆臣に成すすべはなく、ただそれらが自分に近づくのを待つしかなかった。重くのしかかる恐怖に耐えながら。
「これは夢だ」
夢の感覚が残っているのか、体が酷く重かった。夢が現実にどれほどの影響を与えるのか、隆臣は知らない。それでも、夢は夢なのだ。そう自分に言い聞かせるしかなかった。
朦朧としていた脳は、覚醒を始めていた。体を包むシーツからは、自室のものとは違う匂いがする。隆臣はようやく、自分がどこにいるのかを思い出した。卒業旅行のために、イギリスの安いホテルに宿泊しているのだ。
マットは自室のものより柔らかく、眠りへと誘うかのように沈み込むが、悪夢による疲労感は隆臣に二度寝を躊躇させた。これ以上の疲労は、今日の活動に支障が出るだろう。隆臣はそう判断して、重い身体を叱咤しベッドから這い出た。慣れない高さに体が傾く。
すでに太陽は昇りきっているはずだが、簡素なカーテンの隙間から漏れる明りは薄暗い。恐らくロンドンは今日も曇り空なのだろう。
洗面所で顔を洗えば、感覚は現実に戻ってきた。鏡の中の自分は、寝不足と疲労で酷い顔をしている。目の下には隈、唇は荒れていた。顔に手を当てると、乾燥しているのも分かる。ここ最近、進展した夢のせいで満足に寝る事もできないでいた。
「今日、大丈夫かな」
「あんまり無理するなよ?」
独り言のつもりで呟いた言葉に、思わぬ返事をもらった。驚いて洗面所の入口を振り返ると、友人が扉に凭れるようにして立っていた。起こさぬようにと静かに出てきたつもりだったが、どうやら失敗していたらしい。
「村瀬……」
「大丈夫か?」
「うん、平気」
そう答えざるを得なかった。悪夢ごときで、心配をかけるのは忍びない。
大学の最後の年、卒業論文を提出し終え、人生初のヨーロッパ旅行だ。アルバイトで貯めた金と、足りない分は親に借金をして、なんとか旅費を捻出した。贅沢な旅ではないが、それでも学友との最後の思い出を楽しく過ごしたい。
「ただの寝不足だよ」
「だったらいいけど、顔色悪いな」
背後に回り込んだ村瀬と、鏡越しに目が合う。鏡の向こうの彼は眉間に皺を寄せた。
「そのうち良くなるって」
「ほんとかよ? お前、ここ最近ずっとそんな顔色だぞ」
「不摂生が祟ってるのかも」
隆臣は両手を頬に当て小首を傾げ、乙女のような仕草をしてみる。鏡越しに村瀬が笑ったのを見て、ほっと息をついた。
「まあ、無理はしないよ」
「そうしろ」
昨夜、隆臣たちはヨーロッパ旅行の最初の国、イギリスに到着したところだった。その後、ツアーでの予定は自由時間だったため、付近のスーパーで酒やつまみを購入して、部屋で飲み会を開いていたのだ。
ホテルのカウンターで店の情報を手に入れ、スーパーの客に美味い酒を教えてもらった。同じメンバーで何度か国内旅行をしているうちに、現地の人間と関わりながら無計画に行動するのが、彼らの楽しみになっていた。
初めての海外旅行に浮かれて、酒の回りも早かった。移動の疲れもあったのだろう。昨夜はいつ眠りに就いたのか、隆臣には記憶がなかった。
「まだ寝てたんだろ? 起こしちゃった?」
「いや、少し早めに起きようと思ってた。時間は有意義に使わないと」
「じゃあ、長坂と森田も起こそう」
村瀬と入れ替わりに洗面所から出ると、二人の友人が床に転がっている。二人部屋の狭い床に、成人男子が無理矢理寝転がっている様は、酷く窮屈に見えた。もちろん二人のためにもう一部屋用意されてはいるのだが、昨夜の盛り上がりのまま、隆臣たちの部屋で寝てしまったのだ。
空き缶や酒が残った瓶、つまみの袋が散乱している。その無法地帯を片しながら、床を占領する二人を起こしにかかった。これが、隆臣の現実なのだ。
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