第26話 かくして人の世は

「さて、話を伺おうか?」


 シャティアは道路に仰向けに倒れる神々の主神に詰問する。


「話……だと?」

「そう、話。君をまんまと利用した存在について、訊きたいんだよ」


 この作戦を立案した関係者が彼らに接触していることは火を見るよりも明らかだった。

 ただし、敵は用心深い。正直なところ、正確な情報が得られるとは期待していなかったが、それでも何かを聞き出さなければならない。


「どんな人だった? 声や姿は? 偽装されてるかもしれないけど、一応聞いておこうかな」

「あいつ……奴……あの男は……ぐぁ?」

「何……あぁ、そっか」


 アスファルトに寝そべっている神々たちが一斉に苦しみ出す。シャティアは望みの一切を捨てることにした。

 案の定、全員が奇声を発し始める。……人格や記憶の類を、破壊されたのだろう。

 彼らはもはや神どころか、まともな人間ですらなくなった。


「生かすだけ温情と見るか、単純に殺す価値もないと判断されたのか。怪しげなセールスには、引っかからないことだよ。特にこちらに有益で、相手に不利益だとしか思えないようなのには」


 もう無駄だけどね。シャティアは肩を竦めた。哀れには思うものの、無実の人々を奴隷に変えようとした人たちに同情する気にはならない。

 ただ、これ以上攻撃を加えるつもりもなかった。駆け寄ろうとするピュリティを制して、彼女の元へと近づく。


「さてと、私たちも帰ろうか」

「でも……」

「彼らなら大丈夫。すぐに警察が来るはずだから。まぁ、一生精神病棟暮らしだとは思うけどね」


 シャティアは普段とは異なる顔つきのまま、帰路につく。

 今日は確かに、いつもとは違った。狩猟対象を殺さなかったことだけではない。

 いつもなら死ぬはずの誰かしらが、一人の例外もなく生き残っていた。


「たぶん、私が望んでいたものは、これだったかな」

「シャティア?」

「ふふ、ケーキでも買って帰ろうか。今日は甘い物を食べたい気分なんだよね」


 シャティアは朗らかな笑顔を浮かべて、赤上家へと向かった。



 ※※※



「ビシーが死んだ、だと?」

「ああ」


 鉄斗は可及的速やかに帰還したアウローラに報告する。ビシーを嫌っていた彼女も流石にショックだったようで、色を失った。


「ふん、せいせいする、と言いたいが……やはり、無理だな」


 アウローラは普段の嫌味を抑えて、腕で十字を切る。


「あの女なりに戦った結果だろう。……しかし、助けが必要であれば、私を呼べばよかった」

「お前さんのことを気遣ったのかも」

「気遣って死んだら世話がない。……大事であれば、平時の相性など度外視して助太刀したのだが」


 アウローラが力なくソファーに座った。そのまま頭に手を当てて考え込み、隣へ君華が労わるように着席する。

 鉄斗も後悔が再燃し始めた。しんみりとした空気が場を漂うが、


「ただいま。ケーキ食べようケーキ」


 という空気の読めない発言がリビングに轟く。

 意気揚々と帰宅したのはシャティアとピュリティだ。

 当然、悔恨していたアウローラが反発する。


「ケーキだと? 仲間が亡くなっているのに祝いの品か。品性を疑うぞ」

「そっか。じゃあ君はいらないんだね」

「無論だとも。とてもじゃないがそんな気分ではないからな」

「良かった良かった。帰って来てるの知らなくてさ。量を間違えちゃったんだよ」


 シャティアは気にする素振りもなくテーブルの上に箱を置く。ホールケーキを取り出して、ナイフで率なく切り始めた。

 一つ、空席の前に並べる。鉄斗が気になって訊ねた。


「それは?」

「ビシーの分だよ」

「貴様……」


 アウローラが姿勢を正す。見直したかのように。

 だが、シャティアは切り分けたケーキを食べることに集中している。

 その態度を見てアウローラは顔を俯かせ、謝罪を口にした。


「……非礼を詫びよう。私の目は曇っていた。自らの感情に振り回され、八つ当たりをしてしまったんだ。私は……」


 アウローラは誠実にシャティアと向き合おうとしていた。しかし彼女は無言でケーキを頬張り続ける。鉄斗やピュリティも寂しげな表情を覗かせていたが、家のドアが開いた音がして注意を割く。


「クルミ姉さんか?」

「事後処理で忙しいから来れないって言ってたと思うけど」


 という鉄斗と君華の疑問の回答は勢いよく開かれたドアから現れた。


「あー、疲れちゃった。ねぇ君華、お風呂沸かしてくれない?」

「あ、うん、わかった…………え?」


 普段の調子で返答をした君華が凍り付く。鉄斗もまともに声を出せずに固まっていた。ピュリティはショックのあまり手に持っていたフォークを落としてしまう。

 金属音が床から響いて、怒涛の勢いで言葉を放つ。


「び、ビシー!? で、でも、バット! ホワイ!?」

「英語になってるわよ? フォークも落としてるし」

「お前さん……本当に……」


 動揺しながら鉄斗はビシーの肩に手を伸ばそうとしたが、触れる前に払われる。


「何? セクハラ? ちょっと勘弁してほしいんだけど」

「……本物だ」

「見ればわかるでしょ? ……あら、ケーキ?」

「うん。君の分はあるよ。彼女の分は、ないけど」


 シャティアがフォークの先端で示した先では、アウローラが硬直している。

 その気持ちは痛いほどわかる。ビシーも鉄斗と同じくらい共感できたようで、


「ふーん、じゃあ、お風呂の前に頂いちゃおうかしら。アウローラの目の前で食べるケーキ、とても美味しそうじゃない」


 朗らかな声にシャティアも同意する。


「うん、とっても美味しいよ」

「……さま……」


 小さく震えた声が漏れ出る。ビシーはシャティアの隣に座り、


「ん? どうしたのかしら? 声が小さくて聞き取れないわ」

「貴様! どうして生きている!? 死んだと報告を受けたぞ!?」

「無能魔術師の検死を信じちゃったのが運の尽き、ってところかしら」

「私が鉄斗を信頼しない理由はないだろう! もう二度と信じることはないがな!」

「それはそれでちょっと酷いんじゃないかなぁ」


 シャティアは他人事のようにケーキを食していく。ビシーも同じようにケーキを食べようとするが、


「待て、そいつは私のだ!」

「は? これは私のケーキだけど? ねぇ?」

「うんうん。彼女はいらないって言ってたし」

「前言撤回だ! 生者に食わせるケーキはない! ましてや貴様のような詐欺師には!」

「嫌だわー人のこと詐欺師扱いとか。ただ単に死んだふりしてただけなのに」

「このっ」

「ビシー!!」


 アウローラの怒声は、それよりも上回るピュリティの一喝で遮られる。流石のビシーも、その声を無視してケーキを食べはしなかった。ケーキを口に運ぼうとしたフォークを皿の上へ戻す。


「私は……死んだと、思った。悲しくて、怖くて、とても……痛くて」

「そうね。それについては、謝るわ。言い訳もしない。へまをしたのは、事実だし」

「謝るのは彼女だけじゃない。実は私も、ビシーが生きているの知ってたんだよね。そもそも、撃ったのは私だからさ」


 シャティアも襟を正して謝った。


「道理で、銃創も切傷も、致命傷ではなかったわけか」


 鉄斗が驚きを落ち着かせて分析すると、二人は肯定する。奇妙な部分は確かに散見されていた。優れた探偵か検視官、医者の類であれば見抜けたかもしれないが、生憎鉄斗は魔術師だ。無能という前置きがつく。


「私の魔術、わかるわよね。仮死状態を維持して、死んだように見せかけたの。大変だったわよ。ピュリティの魔術で危うく全快しそうになるところを、どうにか抑えたりして。ま、肉体が修復されたのは僥倖だったわ。いい気分とは言えなかったけれど」

「罪滅ぼし、上手くいったみたいだね」

「そうとも言えないけどね。結局、私の力で何かをできたわけじゃない」

「一応、貴様たちなりに考えがあってのこと、ということか」


 事件解決に一役買ったということもあり、アウローラが矛を収める。彼女には理由があれば認める度量がある……一応。


「だが、褒められた行動ではない。もし、助けが必要であれば、私を呼べばよかった」

「でもあなた、調停局の構成員になってしまったでしょう? 生憎、私は組織も大人も完全に信用できてないの」

「……私個人、もか?」


 ビシーは視線を少し彷徨わせた。


「戦闘力は、認めてあげる。私の二番目、というところだけど」

「私の方が強い」

「思想は自由よ。そう思いたいならそう思いなさい」

「ふん。……言いたいことは山ほどあるが……生きていてくれて、良かった」

「どうも。ケーキは渡さないけどね。……あなたは、納得した?」


 ビシーはピュリティへ視線を戻す。ピュリティはぎゅっと手を握りしめ、


「次は無茶、しない?」

「保証はできないわね」

「だったら、絶対帰ってくるって約束して」

「厳守できるか定かではない約束はしない主義なの」

「うぅ、ビシー……頑固」

「けれど、そうね。心構えとしてはそうさせていただくわ。私はどこかの誰かさんみたいに自己破滅型じゃないしね」

「て、鉄斗は別に……」

「これで許してもらえたかしら?」

「まだ、ダメ……」

「手厳しいわね」


 ビシーが難色を示すが、鉄斗は口を挟まなかった。皆も静観を続けている。君華だけはショックで認識が現実に追いついていないが。


「これは義姉さんにも、聞いて欲しいこと。……約束、して欲しいこと。次にまた似たようなことがあった時、敵が、私のことを狙って来た時は――私も、いっしょに戦わせて欲しい」

「ふぅん」

「ちょ、ちょっと待てピュリー! それは――」

「義姉さんが私を心配してくれてるのは、痛いほどわかる。けど、何もできないのはとても、苦しい。結果だけを見れば、ビシーは生きてた。でも、次に生きて帰れるか、わからない。鉄斗だって、いつもボロボロ。義姉さんだって、無理をしてる」

「私は無理など」

「そう。それが問題。義姉さんはいつの間にか……戦うだけの人になってた。でも、昔の義姉さんは違った。もっともっと、素敵な人だった。だから、私は義姉さんの負担になりたくない。いっしょに、支え合いたい」

「ピュリティ……」

「だから、私に、戦い方を……自分と、みんなを守るための方法を、教えて欲しい。ビシーも。鉄斗も」

「俺如きが力になれるとは思えないが」

「弱い人間の視点が助けになる場合もあると思うよ」


 シャティアが助け舟らしきものを出したが、鉄斗はあまり素直に喜べない。


「そうかい」

「とにかくさ、ケーキ食べようケーキ」

「コーヒーがあった方がよくない?」


 ビシーの提案を受けて、全員の視線が呆ける君華に集中する。しかし彼女は時間が停止したかのように静止したままだ。


「お風呂も沸かしといて欲しいんだけど。鉄斗、その子を現実に引き戻してくれない? 家政婦が固まってちゃあ困るでしょ?」

「君華は家政婦ってわけじゃないが……おい、しっかりしろ」

「う、あ……きゃあ!? 鉄斗君!? ビシー、ビシーちゃんの幽霊が!?」

「酷いわね生きてるのに」

「ってまだいる! いる! 塩、塩取って来なきゃ!?」

「幽霊退治に有効なのは銀物質だけどね。本当に万能で助かるよ」


 シャティアはケーキを食べ進める。それを少し羨ましそうにアウローラが見つめたが、彼女は取り合わなかった。

 そこへビシーが笑みを注ぐ。普段の調子、意地の悪い笑みを。


「少しくらいならあげてもいいわよ?」

「どうせ毒を盛る気だろう?」

「あらそう。私はあなたを信じているのに、あなたは私を信じていないのね」

「わかった、寄越せ」

「えっ」


 驚くビシーのフォークをアウローラはひったくり、彼女が食べようとしたケーキの欠片を口の中へと躊躇いなく入れる。


「ふむ、性悪狩人にしては悪くないセンスだな」

「お褒めに与り光栄だよ、魔術騎士サマ」

「返すぞ」

「え、ええ……」


 ビシーは恥ずかしげに視線を逸らしてフォークを受け取る。

 そのやり取りの間に鉄斗は君華を正気に戻し、彼女に風呂場の準備を頼んだ。無駄に工程が多くコーヒーという概念を引退した君華スペシャルではなく、まず自分を含めた五人分のコーヒーを淹れる。


「砂糖がいる人?」


 問いかけにシャティア以外の全員が手を挙げた。

 遅れて、シャティアも手を挙げる。


「私ももらおうかな。人生は苦いけど、たまーに甘いからね」


 とびきりの笑顔で、理由を述べた。



 ※※※



 ピュリティを守る任務は終了した。彼女とその友人たちはとても良い人々だし、何より女の子たちは全員可愛いので名残惜しいが、世界はいつも騒がしい。

 いつまでもここにいるわけにはいかなかった。別れを済ませて、シャティアは何となく街をぶらぶらと歩いている。


(また会えちゃう気がするのが不思議だよね。いつも一期一会が基本なのに)


 狩人はその性質上、一場所に留まって連続で任務を行うことがほとんどない。同じ国に出向くことはあるが、以前訪れた場所に戻ることはほぼないと言っていい。

 だが、彼らと金輪際の別れになるとは思えなかった。

 だから、寂しくはない。

 一人で公園のベンチに座ったシャティアは、


「連絡先も交換しちゃったしね」

「狩人と一般人が不必要に関わると、無用な疑念を生むぞ」


 反対側のベンチに音もなく座ったミアの警告を聞く。が、シャティアは肩の力を抜いた状態で、スマートフォンをフリックした。


「彼女たちは今ホットな人たちだよ。コネを築くのはそうおかしいことじゃないと思うな」

「それが通用する連中ばかりではない。世界は」

「君は通用する方? しない方?」

「貴様はどう思う?」


 シャティアはくすりと笑った。


「するよね、君。なんだかんだ言ってさ、私のこと好きでしょ?」

「貴様個人はどうでもいいが、そうだな。……いや、本音を語ろう。貴様のことは常に気にかけていた。だが、その様子を見るにもはや気遣いは無用か」

「私が堕ちると思ってた? 狩人を裏切り、世界に仇を成す連中に組みすると」

「実際、疲れていただろう?」

「そうだね。ちょっと疲れてたよ。いつ見てもいつ見ても、何をしたって、死体ばかり。何のために狩ってるんだろうって、そう思ってた。今回の護衛任務もさ、本当なら救えたかもしれない人を見殺しにして、終わりなんだろうなって。彼にはさ、本当に助けられちゃった」


 自分の前で徹底的に痛めつけられながらも、シャティアに戦う理由を作ってくれた少年。彼がいなければ、もしかすると自分は本当に折れていたかもしれない、とシャティアは本心から思う。


「いいよね、ああいう人。尊敬してもし足りない」

「人は、いいものだ。彼もそうだし、今この街に息づく人たちも、そうだ。悪しき人はいる。そのような人間と邂逅すると、思わず人類全てがそういう人種だと思い込んでしまいそうになるが……やはり小生……私は、人が好きだ。愛している」

「ふふ、なら私も愛してくれてる?」

「もちろん」

「即答……って、ちょっと羞恥心とかないの?」

「むしろ何を恥ずかしがる必要がある。私は好きなものは好きと言うし、愛すればちゃんと伝える。しかし、彼はあまり色恋に興味がないのだろうなぁ。その気なら、本気でこちらも応えたのだが」

「何? 鉄斗に告白でもしたの?」

「彼が好みだったからそう伝えたのだが、流されてしまった。日本人は本当にシャイボーイだな。私はそれなりに良い物件だと思うのだが」

「可愛いとは思うけどさ、ちょっとあれだね。そういうところがダメなんだと思うよ」

「むう……」


 琥珀髪の少女は年相応に落ち込んでいる。そういう可愛らしい仕草を見ていると、こちらも元気になってくる。

 しかし、直後に彼女の空気が一変したので、シャティアも気を引き締めた。

 そういう切り替えも、この手の仕事に関わると自然と身に付く。


「小生が追跡していたターゲット……あのゾンビ少女については、ある程度の調べが済んだ。名前をツィク。ブードゥー教を現代式にアレンジした術式を用いるボコールだが、一番の特徴はその不死性だ。暗殺しても死なないのは性質が悪い。……小生は、確かに、あの女を無力化した。だが、アサシンは相手を暗殺するまで油断を怠らない。……最悪の事態を、防げたとも言い切れない」

「ま、たぶんまた出てくるだろうね。出てくるだけ、ならいいんだけどさ」

「ああ。次も負けない。だが、後手に回っていると言わざるを得ない。教団内に潜むと思しき裏切り者は未だ特定できず。……そちらも、だろう?」

「私自身に嫌疑が掛かるぐらいには、難航してるね」

「此度の敵は今までとは違う。敵を撃退した程度で、戦況が有利になったと考えるのは早計だ。……世界は私たちのような独立組織を必要としている」

「国家の枠組みに囚われず、政治にも左右されない」

「そうだ。……これは一つ、提案だが」

「却下。アサシンは私のスタイルじゃない」


 先を読んだシャティアの返答に、


「そうか。残念だ」


 ミアは少しだけ残念そうな顔を覗かせる。


「でも、誘われて悪い気はしないよ。ありがとう」

「礼はいらない。……抜かるなよ?」

「当然。ああ、どうせなら私たちもアドレス交換しておく?」

「ふっ。必要ない」


 ミアの身体がゆっくりと薄れ始める。


「またすぐに会う」

「ああ、そうだったね」


 答えた頃にはミアの存在はどこかへと消えていた。

 シャティアは背伸びをして、立ち上がる。鎌を右肩へのせ、歩き始めた。

 世界を少しでも、よくするために。

 世界を知らない人々へ、真実を伝えるのだ。



 ※※※



 生き返る、や、生まれ変わる、と言った感覚はよくわからない。

 しかし、身体が元に戻る、という感覚にはなじみがあった。


「ありがとう、イゴール! アタシの身体を修繕してくれて!」


 ツィクは優しい笑顔を浮かべる助手イゴールへと抱き着く。彼は満足げだった。

 事実、ツィクは彼が望むものを手に入れられていた。アサシンには敗北を喫したが、敗北した自分もなかなかにイケているので、ツィクとしては恥でもなんでもない。

 ――負けたアタシも美しいのだし。


「これでまたアナタにご奉仕できるわ。ふふ、好きに使ってくれていいのよ? トカゲのしっぽさんは残念だったけど」

「人神が現れた時のための保険さ。彼も承知済みだった」


 イゴールは澄んだ瞳に柔和な色を輝かせる。彼と出会ってから、ツィクの人生はバラ色だ。この幸福感を誰かにおすそ分けしたい。そのためにアサシンを勧誘したが失敗した。

 まぁ、この甘美さは子供にはまだ早いだろう。


「これで計画を進められるねっ」

「ふふ」


 喜々として告げたツィクに、イゴールはおかしそうに笑いだした。

 計略通り進行したのが嬉しかったのか――そう思おうとしたツィクだが、突然彼に頭を掴まれて困惑する。


「はは、はははは!」

「イゴール? 一体――」


 ツィクの質問へイゴールは応えない。意味不明な言葉を並べ始める。


「そのリスクは当然、承知していたよ。無傷で済むはずはないと思ったからこそ、彼女を使ったのだから。しかし、ある意味では予想外だった。認めよう。君にそこまでの覚悟があるとは思わなかった。これで君は僕の敵となることを選んだわけだ。しかし、いいのかい? 何の備えもしていない君や世界とは違い、僕たちは入念に準備を重ねてきた。それでも、抗うことを選ぶのかい――ピュリティ」


 ツィクはようやく事態を呑み込んで、自らをハックする存在を追い出そうとする。が、指摘されるまで気付かないほど高度に割り込まれている。溶け込んでいる、と言うべきか。


「ご、ごめんイゴール、アタシ――」

「気にすることはないよ、ツィク。承知済みだと言っただろう。君は、君たちは僕の裏を掻いたつもりだろうが、これも計画の内さ。それでも抵抗するというのなら、止めはしない。僕としては君たちへの干渉は終わりにするつもりだった。だが、戦うのだろう? であれば、まずは自己紹介をしよう――僕の名前はイゴール。助手さ。以後、お見知りおきを。ピュリティ、そして、赤上鉄斗」


 イゴールはツィクの頭から手を離した。脳内への不正アクセスが停止する。

 その笑顔は先程と変わらない。

 しかし瞳は鋭くなっている。その顔を見て、ゾクゾクが止まらない。


「そんなアナタも素敵」

「お褒めに与り光栄だよ、ツィク。では、始めよう」

「殺しに行くの? あの弱いくせに侮れない子を」

「殺すとすれば、機を待たなければならない。目的を達成するためにはあえて敵を泳がせることも重要さ」

「イゴール、アナタってばホントサイコー!」

「ありがとう、ツィク。……人々は学ばなければならないからね、多くの事柄を。善や悪の境界さえも」


 イゴールは計画の段階を引き上げるために動き出した。

 ツィクも次なる戦いへ心を躍らせる。


「彼には悪いけど、アタシを見てくれる人がいるのってステキ。愉しまなきゃね――こんな身体になっちゃったんだし」


 感情の高ぶりは精神だけでなく肉体にまで作用した。

 くるくると踊り始める。新しい戦いを夢見て。

 理想の世界が訪れる時を期待して。



 ※※※



「……ごめん、鉄斗。接続が切れた」

「いや、いい。無茶をさせた」


 鉄斗は謝るピュリティを励ます。……これで、敵の名前はわかった。

 もちろん、名前を知ったから何かが変わるわけではないのだろう。イゴールと名乗った助手の正体は結局不明のままで、組織の素性もわかっていない。

 だが、敵が見えたことは重要だ。リスクを犯した甲斐がある。


「収穫はあった。敵を知るためには、あえて罠を踏む抜くことが必要なこともあるしな」

「でも……敵は知りたい情報を入手した。もしかしたら……」

「心配するのはわかる。だけど、たぶんここで渡さなくても、いずれ情報は奪われていた。……どうせ盗られるとしてもただでは渡さない。その意志が示せただけでも十分だよ」


 ピュリティにあえてツィクを治療させ、同時に盗聴用の魔術を体内に付与させる。

 言うなればパソコンを修理した時にウイルスを仕込むようなものだ。それを一般人相手にやれば犯罪で、間違いなく鉄斗もピュリティも悪辣な犯罪者だが、敵の情報を得るために細工を施すのに躊躇いはなかった。

 敵の狙いはわかっているのだから、カウンターを仕掛けることは簡単だ。


「他人事で済ませるのはもうやめだ。受け身になるのもな。……いっしょに戦おう、ピュリティ」

「うん、鉄斗。私は、もう私から逃げない」


 鉄斗とピュリティは硬い握手を交わす。

 よりよい未来を選び取るために。


「イゴール……覚えておけ」


 敵の名前を、呟きながら。

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