第22話 ビターワールド

 紅葉は用意されたヘリに乗り込み、忙しく電話を掛ける神宮の横で居た堪れなさに包まれていた。

 こうしている間にも、自分にできることは何一つない。守護者たちは騒ぎ、自衛隊や警察も出動している。

 無論それらは特殊迷彩によって、マスコミや野次馬に目撃されることはない。

 そもそも油田施設を謳った魔術装具の実験施設なのだから、国民に公表されるはずがなかった。

 この国には、いや世界には、無垢な人々が知ることのない秘密が溢れている。

 アメリカやロシアが核兵器と呼んでいる存在がどういうものなのかも、彼らは知らない。

 小ぢんまりとする紅葉の隣では、神宮が通話相手と言い合っている。


「おいおい、そこまで戦力を割いてどうする。がむしゃらに人数を増やすんじゃなくて精鋭だけを送れ。数だけ送ったってどうせ役に立たん。自衛隊を出すなとは言わんが、退魔連隊以外は出させるな。それ以外は用途が違うだろ。餅屋にケーキを注文してどうする。適材適所で行け。どうでもいいプライドは捨てろ。それが真の自衛官ってものだろ。上官がうるさい? 俺の命令だって言え。俺の権限は連中よりも上だ。守護者を侮るなって伝えとけ。次に命令不履行をしたら、お前の足をぶち抜くとな。アホどもめ……」

「先輩? 大丈夫ですか?」

「ああ。と言っても俺らも出向く必要がある」

「何なら私だけ向かうという手も……」

「それはダメだ。……間違いなく他の守護者がいちゃもんをつけてくる。お前の兄と妹もな」

「若葉と……兄上……」


 手をきゅっと握りしめる。不甲斐ない自分なんかよりも強く賢く、頼りになる逸材。


「一族の恥の私では……不適切ですね……」

「そこまでは言ってねえさ。むしろ喜ぶと思うぜ。特に若葉が」

「若葉、ですか? どうでしょう。嫌われているようですし。お姉ちゃんなんて無影流じゃない、なんて言われてしまいましたし」

「それは果たして嫌いだから言った言葉、なのかね」

「え?」

「なんでもない。出すぞ。……あの少女については……くそ、アレンは今中東だ。となると……」


 神宮が電話を掛けると、喧しいサイレンの音が響いてくる。


『神宮か、なんだ?』

「矢村、今暇か?」

『いや、忙しい。待て』


 そう応えたや否や、派手なクラッシュ音が響く。

 同時に罵倒もスピーカーから響き出した。


『くそったれ! お前本当に刑事か? 有り得ないだろう……!』

「有り得る有り得ないかで言えば、有り得るだろう。だからお前は今地べたに這いつくばってる」

『くそが! ……なんてな、いいか? これが見えるか? これを押したら、人質は爆発する。ドカンとな。それが嫌だったら――ぐああああ!!』


 唐突に放たれる発砲音。その後は咽び泣く犯人と思しき声が断続的に響き出す。


「おい、撃ったのか?」

『俺が責任を取るだけで被害者を救えるのなら躊躇いなく撃つ。それで?』

「前に言ってた少女の護衛を頼みたいんだが」

『残念だが、この男の組織を潰さなければならない。――アジトはどこだ?』

『誰が言うと思ってぐああああ言う、言うから撃つな! 頼む!!』

『早く言わないとお前は五体不満足になる』

『わかった、わかったから……うううう!』


 犯人の泣き叫ぶ声を最後に通話は切れた。


「ダメか」

「すごい人ですね……」

「まぁあいつはちょっとやりすぎなところがあるが、自分で起こしたことの責任は取る奴だ。だから信用してる。しかし、無理なら彼女たちに任せるしかない」

「彼女たち?」

「アサシンと、狩人さ」


 静穏性を保たれた特殊仕様のヘリがゆっくりと上昇する。

 事件が囮と知りながらも、二人は現場へ向かった。



 ※※※



 アウローラはクルミに呼び出されて応援に向かった。

 これは囮だ、と強く鉄斗たちに言い聞かせて。


「義姉さん、行っちゃった……」


 ピュリティが義姉の出て行った玄関を不安そうに見つめる。


「アウローラなら大丈夫さ。……こっちはこっちで備えないとな」


 鉄斗は居間へと戻り、併設された魔術工房へと足を踏み入れる。魔術とは名ばかりの銃器の山を見渡し、拳銃の中でもとびきり凶悪なマシンピストルへと手を伸ばした。

 OTs-33。ロシア製のマシンピストルで、拳銃と遜色ないサイズながらフルオートで九ミリ弾を連射できる。いつ敵が現れるかわからない状況で懐に忍ばせておくには悪くないチョイス……のはずだ。

 この銃も今までの銃器同様に入手しやすい弾丸が撃てるよう改造してある。


「鉄斗君……」


 武器を整える鉄斗へ君華が不安げな顔を覗かせた。鉄斗は申し訳ないと思いながらも、戦いの準備を進める。


「悪いな君華。俺はまた――」

「うん……それはいいんだけど――いや、本当は全然良くないけど――いいよ。でも、無茶はしないでね」

「それこそ無茶だ。俺が戦うこと自体無茶苦茶なんだから。でも、気をつけるよ。お前さんも注意してくれ。敵がいるだろうということはわかる。けど、敵の正体はわかっていない。またフィアナ騎士のような相手が君華を狙ってくるかもしれない」

「うん。一応クルミちゃんにお守りもらったから大丈夫だと思う。……鉄斗君もお守りもらえばよかったのに」


 君華は左腕のブレスレットをみせる。鉄斗はロングマガジンに弾薬を込めながら笑った。


「クルミ姉さんはああ見えてすごく忙しいしな。これ以上苦労掛けられないよ。それに俺を狙う奴なんて相当な物好きだ」

「でもフィアナ騎士さんは――」

「あの騎士こそまさに物好きの典型例だ。俺が自ら死地に踏む込みでもしない限り、俺を殺しに来るなんてまずありえない。だっていつでも殺せるからな」


 自虐交じりに言うと君華の瞳は悲しげになる。しかし鉄斗は最近、弱いことにある程度の優位性を見出し始めていた。

 もちろん相手が本気になれば消し飛ばされてしまうようなアドバンテージだ。ビシー、アウローラ、紅葉、フィアナ騎士。今まで戦った相手は敵ながらも温情に溢れる人間だったし、次に戦う敵が同じように遠慮してくれるとは限らない。

 だが、強者では触れないところに、手が届いている。まぐれだとしても、偶然だとしても……やってみる価値はある。


「無能野郎にもできることがあるみたいだしな」

「鉄斗君。うん、そうだね」


 君華は嬉しそうに微笑んで、いつも通り食事の支度へと戻る。


「最近、いい顔するようになったよ」

「気のせいじゃないか」


 普段通りのやり取りで茶化して、鉄斗は腰のホルスターにルーンを刻んだマシンピストルを突っ込んだ。

 そして二階へと上がり、シャティアが寝泊まりしている部屋をノックする。

 しかし返事はない。


「出かけてるのか? せめて一言言ってくれ」


 一応ここは鉄斗の家であって、客のプライバシーに配慮するホテルや民宿ではない。

 いや、宿泊施設だって客の出入りはある程度把握しているので、どちらかというと集合住宅めいていると言えばいいか。

 鉄斗は護衛の代役を頼もうとビシーに電話を掛けたが、彼女も電話に出なかった。


「仕方ないか……」


 もし堂々と赤上家に襲撃してくるような連中なら、アサシンや狩人、ビシーが即時に対応してくれるはず。

 なので家を空けても問題ない。そう結論付けて、シャティアを探すために街へと繰り出した。



 ※※※



 鉄斗が街を捜索している頃、シャティアは街をぶらついていた。

 無策ではない。敵が向こうからやってくるのはいつものことだ。もしこちらから出向く場合はそれは手遅れの状態であって、実のところそこまで大急ぎになる必要もない。

 だって救うべき対象は生きていないのだから。

 そして大体の任務において、スピードは要求されなかった。

 いつも手遅れなのだし。


「平和ってのはいいね。あくまで平均的な平和だけど」


 人々で賑わう商店街は活気に溢れている。雑踏に行き交う人々が、古い記憶を刺激してきた。

 貧困者が溢れるスラム。ごちそうと言ったら金持ちが捨てた残飯で、大体はそこらに生える雑草やら腐敗した食べ物が主食だった。

 残飯が売られているマーケットにはたくさんの人々が並んで、衛生上問題がある食事を無我夢中で頬張る。それを食べるために盗みを働いたり、人殺しをしたり、身体を売ったりする。

 身体を売ってまで稼いだお金で買った食べ物による食中毒で、亡くなった友達を覚えている。

 しかしここはそういうこととは無縁だ。人を殺さなくてもまともな食事が食べられて、盗まなくてもおもちゃが手に入る。レイプ魔の集団であるテロ組織に入らなくても、子どもを使い捨ての道具としてしか見ていない軍隊に入らなくても、生活は保障される。


(でも、現状に満足している人は少ないだろうね)


 地獄を見た者からすれば天国でも、最初からいる者にとっては天国とは呼べないだろう。

 人間とは非常に贅沢な生き物だ。まぁ、だからと言って贅沢は敵だなんてスローガンを掲げて、神風特攻するべきだなんてことは言わないけれど。

 不幸を自慢するつもりはない。自分が生きられたからと言って、似たような環境で生きられないと泣き叫ぶ人を糾弾することもしない。

 そういう人を助けるために狩人になったのだから。

 他人が自分と似たような境遇に陥らないように。


(ま、救えたことは一度もないんだけど)


 古臭い魔術師の実験によって、身体を木っ端みじんに吹き飛ばされた友達。

 彼女の肉片と血潮を至近距離でたっぷり浴びたせいで、呪われたのかもしれない。

 誰一人救えないという呪いを。


「自業自得ってところかな」


 肩を竦めて、シャティアは街を散策する。と、不意に前方から悲鳴が響いてきた。


「ひったくり!」


 平和な街であってもクズはいる。むしろ、平和であるからこそ、クズは増えやすい。スラムでも窃盗は日常茶飯事だったが、それは生きるための糧だった。生存競争の一環。ある意味では、日本で真っ当に働く仕事と何ら相違なかった。

 生きるために必要だった手段。しかし安全平和な日本において――例外が存在することは否定しないが――窃盗は、生きるためではなく楽をするための手段である。

 ひったくり犯はシャティアの横を通り抜けようとする。

 シャティアは、ただ左足を上げるだけでよかった。


「何すんだてめえ――ひっ!?」


 一睨みで泥棒は委縮し、無抵抗になる。シャティアは鞄を拾うと、後から杖をついて追いかけて来たおばあさんに返した。


「大丈夫ですか? おばあさん」

「ありがとうお嬢さん。あなたいい子ねぇ」

「どうですかね。悪い子だと思いますけど」


 シャティアは皮肉な気持ちになってその場から離れる。


「あ、ちょっと……あらまあ。お礼しようと思ったのに……」

「気持ちだけ受け取っておきます。急いでるので」


 おばあちゃんが気を悪くしないよう一言添えて、誰もいない路地裏へと入っていった。

 狩人の掟を頭の中で復唱しながら。



 ※※※



 どうやらシャティアは窃盗事件に巻き込まれたようで、ある程度の位置は把握できた。元々目立つ格好をしている少女である。アサシンと違い狩人は、その存在を強くアピールすることで魔術師に対し牽制を行っている。

 警察官が街をパトロールしているようなものだ。その権力も力量も警察よりはるかに上で、政府はおろか国連ですらまともに口を出せやしないが。


「この近くか……?」


 シャティアに助けてもらったというおばあさんの証言をもとに、鉄斗はシャティアの位置を割り出そうとする。幸い彼女は鉄斗を本気で巻くつもりはないようで、彼女をすぐに見つけることができた。

 人気のない路地裏の段差にこちらに背を向けて座っている。


「シャティア、やっと見つけた」

「ああ……鉄斗」

「ちょっとしたトラブルあったみたいだけど……大丈夫みたいだな」


 そう決めつけて、鉄斗はシャティアの前へと回り込む。

 そして、ナイフで自分の左腕を切りつける彼女の姿に瞠目した。


「シャティア!? 何して――」

「何ってほら、掟を破ったからね。ちゃんと罰を与えないと」


 シャティアは素知らぬ顔で言う。左腕からは血が流れ落ちている。鉄斗はデバイスでシャティアの腕を治療しようとしたが、彼女に妨害された。


「よしてよ」

「正しいことをしたのに、それは間違ってる」

「正しいこと、正しいことねぇ……いいよ、ちょっと話したい気分だったし、隣に座って」


 シャティアに言われるまま、鉄斗は座る。シャティアは自分の腕から血が流れる様子を厳しい眼差しで見下ろしていた。


「痛むか?」

「痛くはあるけど、平気だよ。こんな程度で大騒ぎしてたら魔術師なんて狩れないですし」


 言い返す彼女の姿は強がっているように見えた。


「でもやっぱり――」

「鉄斗君さぁ、どうして掟があるかわかる?」

「……それは」

「うん、知っている顔だ。そう、君は知っている。掟があるのはないと好き勝手するクソ野郎がいるから。理論上はさ、ルールなんてもの、必要ないわけよ。そんなものを作らなくなって、全員がちゃんと良識に則って行動すれば。でも、人間ってのはダメダメ。ルールで自分を縛らないと、とっても簡単に壊れちゃう」

「だから、守らなくちゃいけない、ってか。ルールを守る大切さは俺も知っている。だけどこれは……お前さんは、ただ窃盗犯を捕まえただけだ。物を盗まれて困った人を助けただけじゃないか」

「そうだね。たぶん、私の行為は間違ってはいないと思う。ただルールを破っただけ。そしてルールを破ったのなら、その責任を取る。君はルールを破ることと、人を救うことを同一に考えてるから混乱するんだよ。それとこれは別。因果関係が成立したとしても、それは途中で交わっただけのことで、それぞれの道は違うんだ」

「でも……」

「まぁ言いたいことはわかる。こういう理由があったのだから、ルールを破っても仕方なかったよねって。普通に考えたら、それでもいいかもしれない」

「なら――」

「けどさ、そうすると、あの時のあいつの行動は認められたんだから、自分も破っていいやって後追いする奴が出てくるんだ。屁理屈をこねて、いちゃもんをつけて、自らを正当化して、ルールを素知らぬ顔で破る奴が」


 だからルールってのは守らなきゃいけないんだよね。朗らかにシャティアは語る。


「狩人がさ、どうして魔術師が悪行を成した時だけしか行動を起こさないのかわかる……」

「それは……いや――」

「誤魔化さなくてもいいよ。魔女狩り。その単語が彷彿とさせる歴史は決してポジティブなものじゃない。狩人自体はかなり古い時代からいた。悪い魔女や魔術師と戦う正義の味方。私たちが勢力を強めたのは、丁度歴史で魔女狩りの全盛期とされている時だった。あぁ、勘違いしないで欲しいんだけど、歴史の教科書に載っている魔女狩りの連中は狩人とは無関係。狩人協会の狩人たちは決して無実の人間を狩ることはなかった。もちろん、完璧にとは言わなかったけど、そのような狩人が出れば裏切り者として処分された。けどね……歴史に刻まれた悪しき魔女狩り――魔女という名の無実の人間や気に入らない人間、障碍者の虐殺行為――の発端は、狩人だったんだ」

「……どういう」

「単純だよ。今言ったこと。昔々、あるところに優しく強く高潔な心を持った狩人がいました。彼は悪しき魔女や魔術師から人々を守っていましたが、ある時、我欲に塗れた領主が民に圧政を敷き、悪逆非道の限りを尽くすという噂を耳にしました。さて、正義感にあふれる彼は、一体どうしたでしょう――」

「領主を、狩ったのか。掟を破って」

「ご明察。そうして、その噂は瞬く間に広がり、一部の人々は感銘を受け、彼の偉業を讃えると――自分たちもそうやって、悪い魔術師のみならず悪しき人間を討とうとしました。相手が魔女かどうかはささいなこと。どうせ悪い人間、ダメな人間なのだから、ばんばん殺してしまえ。そう、皆さんは解釈したのです。狩りにはルールがあると狩人が訴えても、誰一人耳を貸しませんでした。だって、狩人はルールを破ったのだから。中世近世近代までに続く、悪辣な魔女狩りのはじまりはじまり……。だから、狩人は例えどれだけ正しい行いだとしても、掟を破ってはいけないの。その時は良くても、その後に大変な事態を巻き起こしてしまうから」

「でも、それは理不尽……だろう。その人は正しいことをしたのに……」

「世の中の理不尽さなら君もよく知ってるよね。だから私たちは語らない。どこかに訴えることもしない。ただ行動を示す。その点はアサシン教団とも、似ているかもしれないね」

「お前さんはそれで……いいのか?」


 シャティアは顔を背けて、立ち上がる。


「いいとか悪いとか言う問題じゃないよ。ただやらなければいけないこと。お金を稼ぐのに働くのといっしょだよ。いつでも辞められる……けれど、私にはこの道しかない。助けてって叫ぶあの子の手を取らなかった時から、私の生き方は決定したの」

「シャティア……」

「安心して。ちゃんと任務はこなすから。ピュリティちゃんは守るよ。でもさ、気をつけて……護衛対象以外は、もしかすると守れないかもしれないよ?」


 血をぽたぽたと垂らして、シャティアは歩いていく。

 鉄斗は掛ける言葉が見つからなかった。

 その悲哀に満ちた背中を救うための言葉は、無能では投げかけられない。



 ※※※



 日本独自のファッションであるゴシックロリータに分類される衣装を身に纏う少女は、硬質的な足音を立てながら路地を進んでいた。


「できることならあなたにも助力を求めたい、か」


 ビシーは送られてきたメールの内容を諳んじる。クルミ・ヴァイオレット、調停局のエージェント。

 世界から争いを止めるために奔走する者たち。

 そう、止める。なくすではなく、止める。

 彼らは最初から諦めている。全ての争いをなくすことはできないと。

 確かに、現代では不可能だ。戦争の根絶が実現するとしても、それは遥か先の話。最悪の場合、知的生命体の全滅によってもたらされる恐れのある夢物語。

 だから彼らは正しいのだろう。悪いことだと思えない。

 ただ――。


「大人のために私に戦え、ねぇ」


 日本は多くの国から見れば恵まれた国家だ。世界規模で考えれば治安はいいし、差別も少量。アメリカ寄りではあるものの、戦争には積極的に介入しないスタンスで徴兵制度もなければテロも――国民に公表されている部分のみで言えば――ごく僅かだ。

 住みやすい国であることは間違いない。比較的安全な国であるとも。

 しかし、比較的な域を出ないのは事実だ。優しい人が多いとはいえクズもそれなりに混じっているし、凶悪犯は少なくとも軽微な犯罪を犯す奴は多い。

 表面に出ないだけで、どれだけ無実の人間が泣かされてきたのだろうか。

 みんなが幸せに暮らす傍で、絶望する子どもは何人いたのか。


「そんな奴らの盾になれ……私はごめんだわ」


 ビシーはスマホをポケットの中に突っ込む。

 そんな人類愛に溢れた精神をビシーは持ち合わせていない。

 未だ大人は信用できないというのも事実だ。

 クルミは敵ではないと認識しているだけで、それ以上の関係になったつもりもない。

 調停局の一員になるかという誘いはもちろん断った。アウローラは物好きなのでほいほいと従っていたが、自分はそこまで盲目的になれない。

 大人は汚い。

 自分たちのことしか考えていない。

 そしてその在り方は確実にビシーを汚染している。大人を嫌悪する自分自身が、汚物塗れの連中と似通った思考になっているとは承知していた。

 それらを切り離そうとしたが、どうしても変われない。

 だから、他人とコミュニケーションを絶とうとした。

 鉄斗や君華に嫌われようと努力してみた。

 なのに。


「どうして嫌われないのかしら」


 普段から努めて嫌がらせをしてきた。

 しかし二人はおろか、あのアウローラ・スティレットさえ――せいぜい怒る程度で、本気で自分を拒絶しようとしない。意味がわからない。あいつと自分は敵同士ではなかったのか。

 恵まれた環境にいた女がその身をぼろぼろにする姿に、自分は幸福を見出していたのではなかったか。


「なんてね。わかってる」


 自分のことは自分が一番よく知っている。感情の何たるかまでを、忘却してはいない。

 ビシーは進む。そしてポイズンクラフトを行使する。

 暗殺するための力。

 毒。


(毒は良い。人を平等にとろかす)


 男も女も。善人も悪人も。子どもも大人も。

 母親が毒の魔術と相性が良いというだけでレイプされた結果、自分が産まれたのだ。道具として産まれたのだから、その才能を使わなければもったいない。


「本当にいいわ、毒。人の生死すらコントロールできる。好きな人の命も、嫌いな奴の命も奪えるし」


 何より毒の概念を付与するという性質上、実際に材料を用意する手間が省けるのがエコでいい。おかげで毒殺は非常に捗った。


「だからこういうことも、できるのよ」


 ビシーは跳躍し、廃屋の上へと飛び乗る。

 見込み通りだった。グルヴェイグが遺した一時拠点。もはや使われていないはずのそこに、数十名のグループが入り浸っている。

 通気口へと手を翳し、毒の霧を放出。このまま無力化できれば御の字。

 そうでなければ、弱ったところを直接叩く。


「ちょろいものね。あの騎士サマじゃこう簡単にはいかないでしょう」


 ましてや鉄斗は無理だ。だから、あのバカが動く前に先手を打った。

 油田施設の襲撃が囮なのは誰が見ても明らかだ。本命はこちらのご機嫌な思想を持ったくそったれ連中。

 アウローラがピュリティの元を離れ、クルミ・ヴァイオレットも事件の対応に当たる今こそ、狙い時なのだ。

 アサシンは何を考えているか定かじゃない。恐らく、一時的な問題の阻止よりも、根本の解決のために動く。

 そして狩人は役に立たないとビシーは考えていた。

 あの目を見れば一発でわかる。


(今ここで唯一動けるのは私だけ。ならとっとと終わらせましょうか。ごちそうになる価値もないクズ野郎どもには、早々に永眠してもらいましょう)


 毒の霧を全て流し込み、


「ほう、助手の読みは正確だな」

「――ッ!?」


 背後に着地したスーツの男の刀が一閃する。血の雨が天井に降り注いだ。



 ※※※



 シャティアは血の匂いに敏感だ。

 特に死に掛けの人間の匂いには。

 幼い頃から死が身近にあった恩恵なのか、誰がどんなふうに、どのくらいで死ぬかが、匂いでわかる。

 だから匂いを発する彼女がどのような結末を迎えるのかも、わかっていた。


「あら狩人。奇遇ね……」

「奇遇だね、本当に」


 挨拶を交わしたビシーは、大量出血で動けなくなり壁に寄り掛かって座っている。


「しくじったんだね」

「ええ、そうよ。張り切り過ぎたのかもしれないわね。慣れないことしちゃったから……」


 ビシーが咳き込む。血が服を濡らす。


「私は……悪い魔女なのに……どうしてこう、余計なことを……」

「改心したんじゃないかな」

「改心? まさか。私が心変わりなんてするはずないでしょう」

「そうだね。君は悪い魔女なのだし、おかしいや」

「ええ、私は悪い魔女。どうしようもないクズ……たくさんのいい人を、子どもを救いたいという一心で命を投げ出すような人を殺したり……戦いが嫌で逃げ出した同類を、残虐な顔をして甚振ったりした最低最悪の女だから」

「酷い環境で産まれたから、というのは言い訳」

「そういうこと。他人が同情してそう語るのは良い。けど、殺した本人である私だけは、忘れちゃいけないし、目を背けてもいけないし、赦してもらおうなんて思ってもいけない。殺人は殺人。良いか悪いかは、また別の問題」


 ビシーは天を仰ぐ。裂傷ができたお腹からはたくさんの血がこぼれているが、彼女はもう気にするそぶりも見せない。

 感覚がなくなっているのだろう。痛いかどうかすら、彼女はもうわからない。

 ビシーは苦痛に呻く代わりに訊ねてくる。


「ねぇ、あなたは母親っているの?」

「さぁ……。私は捨てられたクチだから。生物学上はいるはずだけどね」

「そう。私にはいたの。母親が。毒の魔術の使い手を孕むのに最適な母体だってことで孕ませられて産まれたのが私。なのに、母さんはとても優しかったわ。本当なら私の顔なんて見たくもないはずなのに、捨てても全然おかしくなかったのに、甲斐甲斐しく世話をして、優しく優しく……。そしてそんな立派な人を毒殺したのが私」


 ねぇ、私は悪い魔女でしょ――ビシーは笑う。


「そして優しい鉄斗なんかはきっとこう言うでしょう。仕方なかったって。でも、違う。私は殺したかった。殺したくて殺したくてたまらなかった。だって、あの人、生きていたらもっと傷つけられてしまうでしょう? またあの自称父親だというクソ男に、乱暴されてしまうでしょう? だから、私は殺意を露わにして、殺したの。ふふふ……いいわね。自分のことを他人に話したのって初めて。……どうすればいいか、わかるわね? 狩人さん?」

「うん、わかってるよ。悪い魔女さん」


 この子はとても自分に似ているから、どうすればいいか手に取るようにわかる。

 シャティアは懐から狩猟用拳銃を取り出して、薬室を空けた。貴重な銀弾を使う理由は見当たらなかったので、通常弾を装填。

 照準を、ビシーの左胸につける。


「じゃあ、罪滅ぼし頑張ってね」


 銃声が路地に轟く。どさり、と人が斃れる音がした。

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