第15話 真相への手がかり

 マンションの一室からは喧騒が響いている。

 防音設備が整っていない年季の入ったこのマンションでは、周辺住民から苦情が寄せられてもおかしくない声量だ。

 しかし、誰にもその叫び声が届くことはない。

 魔術的措置によって、徹底的に静穏性が保たれているからだ。

 だから、誰も来るはずはなかった。

 その悲鳴は誰にも聞こえることがないのだから。

 今、自分を襲う相手以外には。


「嫌、止めて!」


 君華は必死に抵抗していた。

 彼女を襲う男から。


「おいおい、暴れるなよ、怪我するぜ」


 悪意がまんべんなく込められた笑顔で、男は君華を押し倒そうとしている。君華は男の腹を何度か蹴ったが、びくともしない――体格差のみならず、筋力も男よりはるかに下回っているせいだ。

 そもそも、君華は護身術など習ったこともない。勝つことはおろか、逃げることさえ困難だった。


「は、放して! いやぁ……!」

「大丈夫だって、すぐに気持ちよくなるからよ。……わかってたろ? 捕まった以上、こういう目に遭うってのはよ。なのにのんびりとくつろいで……期待してたんだろう?」

「ち、違う……ああっ!」


 とうとう疲労が全身を巡り、君華は床の上に倒される。男は悦に浸った様子で全身を舐め回すように君華を見下ろした。

 暴力的な気配が、部屋の中を満たしていく。野性的な凶悪さが。


「俺が大人にしてやるよ」

「……っ」


 君華の表情が恐怖に染まる。逆効果だと承知しているのに、目から涙が止まらなくなる。しかし健全な人間なら同情心を誘うその姿も、男の嗜虐心をくすぐるだけだ。


「怯えんなよ。どうでもよくなるから」

「鉄斗君……!」


 幼馴染の名前が漏れる。

 君華は恐ろしさのあまり目を瞑り――。


「うわぁ!」


 という男の悲鳴を聞いて目を開く。


「鉄斗君!? ……あ」


 しかし目の前に立っていた男は助けを望んだ鉄斗ではない。

 甲冑が眩しい騎士が、君華を庇っている。

 君華は驚くが、同様に男も混乱していた。


「お、おいおいあんたは任務中だろ、どうして戻ってきた」

「問題が生じたからだ」


 騎士は淡々と男の問いに応じる。冷静で、氷のように。

 しかし君華ははっきりと捉えていた。重厚な槍を持つ右手は怒りに震えている。


「問題? 問題だって!? これのどこが問題なんだ。いいだろ別に手を出してもよぉ、殺すってわけじゃないんだ。それに、その方が相手への挑発になるだろ?」


 男は自らの論理を展開するが、しかし騎士は応えず槍の切っ先を男に向ける。男は焦燥感を顔に滲ませたが、すぐに懐からナイフを取り出して構えた。戦闘態勢だ。


「クソが。あんた、間違ってるよ。こんな回りくどい方法をとらなくても、あのガキを呼び出して脅せば簡単に済む話だろ! なのによ、人質を有効活用しないってのはどういう了見だ?」

「そうだな」


 騎士は初めて男に同意する。ヘルムの覗き穴が君華の方へ僅かに振り向いた。君華は本能的に後ろの壁へと引き下がる。

 最初にここで目覚めた時と同じくまた棚にぶつかって、落ちて来た写真立てが両手の中に収まった。

 女の子の、元気な笑顔の写真が。


「私は、間違っていた」


 騎士がそう宣告した瞬間、鮮血が床に舞う。槍は男の心臓を抉り、男は驚愕と恐怖の入り組んだ表情で騎士を見る。

 間髪入れず、絶叫を上げる男の頭を騎士が左手で掴んだ。すると、最初からそこに誰もいなかったかのように、男は姿を消していた。まき散らされた血も消えている。


「あ、あ……」


 人が人を殺す瞬間を、初めて目の当たりにしてしまった。

 君華はショックのあまり凍り付く。が、すぐに我に返ることができた。

 精神的にタフネスだからではない。

 騎士の鎧の隙間から、血がこぼれ出したからだ。


「あ、あの……血が……!」


 慌ててタオルと救急箱を取りに行く。客観的に見ればおかしな行為だ。

 被害者が加害者を気遣うなどと。いくら身を守ってもらったとしても。

 いや、おかしくない――君華は強く思う。

 怪我をしている人を気遣って助ける。おかしくなんてない。


「大丈夫、ですか……」


 タオルを差し出したが、騎士が鎧を脱ぐ気配はない。


「あ、あの、止血、できないです。それにどういう怪我なのかも……」

「これは怪我ではない」


 武装を虚空へと収納した騎士は、ずっと変わらない平坦な声で応える。


「でも、血が出て……」

「これは、代償だ」


 男は血が滴る手で床に置かれた写真立てを取った。

 そして、再び棚の上へと戻す。思い入れがあるように。


「代償……?」

「君との、約束を違えた。誓いを破った」

「私との約束……?」


 そんな約束をした覚えは君華にはない。

 しかし騎士は律儀に告げた。

 自らに課した約束を。誓いを。


「君には何もしないと、手を出さないと誓った」

「あ……で、でも、あなたは何も」


 君華の言葉を聞かず、騎士は歩き出す。


「騎士、さん……」


 騎士は部屋から出て行った。君華はしばし放心し、気分を落ち着けるためにコーヒーを淹れる。

 いつもの味付けだ。インタスタントコーヒーに砂糖とミルクをたっぷり入れる。これでもかと入れる。小さい頃に大人ぶりたくてコーヒーを飲もうとした時からの習慣だ。

 鉄斗はいつもこれはコーヒーじゃないと言っていた。それを自分はちょっとムキにながら否定して――。


「鉄斗君……」


 幼馴染に思いを馳せて、精神状態を元に戻すべくいつも通りの生活へ戻ろうとする。

 まず最初に、居間に座って、テレビを点けた。

 いつも暇な時はなんとなくテレビを眺めているのだ。

 そして忙しく写真立てを取りに立ち上がった。

 戻ってきた君華は、テレビに食い入るように近づいて、


「やっぱり……」


 写真とテレビ画面を見比べる。

 テレビに映るのはニュース映像だ。

 そこには二人の女子生徒の写真が流れている。

 一人は、水鏡みずかがみ亜美あみという名前の少女。

 もう一人の名前は、羽音はね勇美いさみ

 写真立てで笑顔をみせている少女。

 国際テログループリベリオンが起こしたテロ事件の、被害者だったのだ。



 ※※※



 敗北した。

 徹底的に。

 完膚なきまでに。

 しかし悔しがっている暇は一秒たりとも存在しない。

 重要なのは勝敗ではなく、君華の命だからだ。

 それに先程の戦闘は全く無意味だったわけでもない。

 鉄斗は思索を進めながら、沈痛な空気の広がるリビングのソファーに座っていた。


「私の拳が通用しませんでした。やはり、半人前の拳では……」


 紅葉は暗い表情でネガティブな独り言を呟き、


「ポイズンクラフトが効かない……有り得ないわ!」


 ビシーは自身の魔術が通用しなかった事実が受け入れられず憤り、


「私の剣が届かなかった? しかし、あれはパパから直々に教わった……」

(パパ、ねぇ……)


 反省に集中しているのだろう。アウローラは気恥ずかしい失言を漏らし、普段なら茶化すビシーは気にも留めていない。紅葉は呪詛のように半人前だの半端者だの自分の実力を過小評価しまくっている。

 ピュリティはそんなみんなを眺めて悲しそうな表情となっていた。

 いつもならここで君華がみんなを励ますところだが、今日は違う。

 今日、みんなに発破をかける役目は鉄斗に委ねられていた。

 普段なら皮肉が思い浮かぶが、今は素直に皆へ呼びかけられる。


「くよくよしている場合じゃないぞ、みんな」

「しかしだな、鉄斗。今の私たちでは打つ手がないぞ」

「そうでもないだろう、アウローラ。お前さんはもう相手の魔術がなんなのか、勘付いているんだろ? ビシーも。紅葉……さんは」

「あ、紅葉でいいですよ。役立たずの無能ですしね……呼び捨てで、全然構いませんよ、あはは……」


 勘弁してくれ、と文句も言いたくなるが、あそこまで意味不明なやられ方をすれば自信を喪失するのも無理はない。

 だが、それは単に誤解しているだけだ。まずはその誤解を解かなければならない。

 鉄斗は口を動かし続ける。


「聞いてくれ。今回の敗北は必然だった。準備が足りなかったとか、相手の力量を見誤ったとか、俺らの能力が――いや、俺以外の能力だな――が足りなかったからでもない。最初から、勝てるはずがなかったんだ」

「……確かに、その可能性は高いが」


 アウローラが同意する。ビシーが嫌味ったらしい表情を彼女へ注いだ。


「古巣のお知り合いだったりするの? 惨めなことになる前の」

「ふん、直接の知り合いではない。だが、かの騎士たちについてはパ……父様から聞き及んでいた。ケルトの魔術を主に扱うフィアナ騎士団だ。最終的な人員は二十人前後、しかしその誰もが勇猛果敢、そして高潔な騎士だったと聞いている」

「じゃあドルイドってことかしら? 天候操作したりパナケアなんか作ったりする」

「ドルイドではない。ドルイドは騎士とは呼び難いだろう? 紅葉、この女の間違いを訂正してやれ」


 アウローラは紅葉に同調を求めた――きっと日頃の恨みをここで晴らすつもりで――が、紅葉はしばし硬直した後に目をぱちくりとさせて、


「どるいどってなんです? 井戸のことですか? けると? けるとってタルトの親戚か何かですかね? だったら私、食べてみたいです!」

「あらあらアウリちゃん、私のことを煽る前にその子に丁寧なレクチャーをしなくちゃいけなさそうね」

「くそっ。基礎教養だろう」


 アウローラが毒づき説明を始めようとしたが、床をどんどんと鳴らす音で中断させられる。ピュリティが無邪気に跳ねていた。ぴょんぴょんとうさぎのように。


「イエス、イエス!」

「ピュリティ、家の中で跳んじゃダメだ。床が抜けるような軟な造りじゃないけど」

「あう……ごめん、鉄斗。でも、私が説明したい……」

「俺はそれでいいよ。アウローラも構わないか?」

「いいだろう。教えてやれ、ピュリー」


 義姉の許可を貰いピュリティの顔がパッと輝く。偉そうにコホン、と軽く咳き込んだ後、ピュリティはケルトの魔術について説明し始めた。まるで水を得た魚だ。

 或いは、散歩用のリードを見せられた犬か。


「起源は紀元前八世紀以前に遡り……」

「待った。そこまで深く掘り下げなくていい」

「あう……じゃあ、ケルトって言うのはケルト人のことを指すの」

「ほうほう」


 紅葉は前傾姿勢になった。ピュリティは機嫌をよくして続ける。


「ケルト文明は大きく二種類に分かれていて、島のケルトと大陸のケルト……でも、最近の学術研究では島のケルトが」

「それもいい。もうちょっと簡潔に……」

「むぅ……イージーに言うなら、ケルト人の作った神話体系がケルト神話。ケルト魔術はそこに伝わる魔術のこと」

「なるほど。それでは食べられなさそうですね、残念です」


 残念そうに言う紅葉に鉄斗は苦笑する。この少女は強さは圧倒的だが、やはりどこかが抜けている。


「それで、ドルイドって言うのが主にその神話の中に登場する賢者……魔術師のことを指すの。もちろん、今もケルト神話が根深いエリン……アイルランドとかにいたりする。でも……」


 ピュリティに呼吸を合わせてアウローラが説明を挟み込む。


「ドルイドは自然との調和を重んじる。その力はとても強いが、しかしその魔術のほとんどは戦闘向きではない。全く戦えないわけではないが、本来の趣旨とは外れた使用法だ。だから、ケルト系の魔術を使う存在が全てドルイドというわけではない。ケルトの魔術騎士は……主にルーンを使う」

「ちょっと紛らわしいけど、北欧神話のルーンとはまた違って……」

「まぁ、そこはややこしいから割愛しよう。ありがとう、ピュリティ。ここからは俺が説明する」


 鉄斗が姉妹から説明を引き継ぐ。紅葉は知恵熱でも出しているのかと思いたくなるぐらい顔が赤くなっていたが、一応反応はしてくれているので続行する。


「アウローラはさっき、ケルトの戦士がルーンを使うと言った。でも、実はもう一つ、彼らが扱う魔術があるんだ。その名前をゲッシュという」

「月収?」

「ゲッシュ。日本語だと誓約や禁忌って言ったりするわね。まぁ、本質的にはどちらも大差ないし好きな方でいいわ」


 見かねたビシーが訂正を加えると、ようやく紅葉は理論を噛み砕けたようで、


「はぁ、とどのつまり掟ですか?」

「その解釈も間違っちゃあいない。ようは、自分自身に約束するんだ。例えば……そうだな、食事は一日に一回しかとらない、とか」

「そんなことをしたら空腹で死んでしまうのでは?」


 素朴な顔で訊き返す紅葉に頭が痛くなってくる。ピュリティとは別の意味で厄介な相手だ。鉄斗は内容は置いといて、とはぐらかし、


「こんな感じに、守れそうな約束を自らに課していく。ただ普通の約束と違うのは、その約束を守っている限り、神の祝福を受けられるってことだ」


 ケルト神話の大英雄の一人、クーフーリンは武術や魔術に長けた一騎当千の大英雄だ。そんな彼も自らに複数のゲッシュを課していた。中には望まないものも含まれていたが。


「と、言うことは」

「恐らく、あの騎士もゲッシュを立てていたんだろう。だからあの無敵に近い防御力と驚異的な破壊力を両立できたんだ」

「フィアナ騎士団はケルト神話のクーフーリンに並ぶ大英雄、フィン・マックールが率いた騎士団の名残だ。もちろん、かの騎士団たちもゲッシュを扱っていた。古代型を」

「古代型? 古代型ってどういうことです?」


 アウローラの口から語られた聞き慣れない表現を紅葉が訝る。


「現代に生きる魔術師が主に扱うのは、今風に改良や再構築が成された魔術――現代魔術だ。ゲッシュも当然現代魔術の中に含まれていて、たまに使っている人がいる。主流とは言えないけどな」

「どうしてです? あんなに強力なのに。まさに無敵と行っても過言ではないですよね」

「ゲームでチートを使うわけじゃないんだ、現実はそこまで都合よくできていない。強大な力には必ず代償が付き物だ。現代魔術ではデメリットをほぼ無効化したゲッシュが採用されてる。誓約を守る限り僅かな祝福を受けられ、破られた時には効果がなくなる、程度のな」

「えっと……簡易版、ってことですか? あの騎士が使うほどに強力なものではないと?」

「そういうことだ」

「なるほど……」


 紅葉はうんうんと頷く。ちゃんと理解できているか定かではないが。


「で……それがどう勝ち目に繋がるんです?」


 やはり完全に理解できてはないらしい。鉄斗は改めて、質問形式の説明を添える。


「何で簡易版のゲッシュが現代魔術として採用されていると思う?」

「んと……メリット以上にデメリットが大きいから、ですかね?」

「ご明察。古代型のゲッシュは破った場合、致命的な損害を対象者に与える。利き腕が使えなくなったり重傷を負ったりな。ケルトの勇猛な英雄の死は、そのほとんどがゲッシュの反故によってもたらされたんだ」

「約束を破って、天罰を受けた……と?」

「ああ。ゲッシュを立てたら、何が何でもその誓いを破ってはならない。自分の意志であれ不可抗力であれ、破ったら最後破滅的な結末が戦士には待っている」

「じゃあ!」

「騎士にゲッシュを破らせれば、そのまま勝利できる可能性が非常に高い」


 騎士の倒し方は容易に推測できた。暗かった室内が一気に明るく見えてくる。

 紅葉は光明が見えたと言わんばかりに顔を輝かせているが、ビシーは傍観者の体で鉄斗へ嫌味交じりの意見を述べた。


「で、騎士のゲッシュってなんですか? 赤上先生? どや顔で説明してくださったからには、もちろん答えられるでしょうねぇ? きゃーありがたいこれで次は勝ち確だわーまじはんぱないわぁ」

「わかってて言うなよ、ビシー。俺が知るわけないだろ」


 ゲッシュの認知はそのまま弱点の露呈となる。自分の殺し方をわかりやすいように公表しているはずもない。

 だが、それでも確実にわかっていることもある。


「だけど、一つだけ自信を持って言えることがある」

「なんですか?」


 紅葉は興味津々の様子で前かがみになるが、他のメンバーはあまり関心を示さない。

 もう推測できているのだろう。鉄斗は既知である情報をあえて口に出す。


「騎士の誓いの詳細は不明だが――代償は間違いなく、自分の命だ。そうでないと、あの強さには見合わない」



 ※※※



「我らは神話に残るフィアナ騎士団の残滓だ。エリンの守り手だった頃に比べれば、その規模は縮小している。だが、我らの中に燃え滾る誇りは、当時と何ら変わりがない。我らの結束は固く厚く、誓いは決して破られない」


 団長は高らかに団員たちへと語り掛ける。団長は自分が知る限り、最高の人間だった。偉大な人間は多いが、胸を張って最高と呼べる人間は限られる。

 そして、周囲に整列する仲間たちもまた最高の騎士たちだった。全員が現代式に改良した甲冑に身を包んでいるため表情は伺えないが、皆何を考えているかは手に取るようにわかっていた。


「我らに同盟を参入を呼びかけ、他の騎士団と統合した魔術騎士団、そしてその団長であらせるマスタースティレットは我らの誇りと団結を尊重してくれた。瓦解してもおかしくなかったフィアナ騎士団はまたこうして皆と肩を並べ、戦場に立つことができた。これより我らが挑むのは、世界に害を成す邪悪な王だ。かつての騎士団と役割は変わらない。悪を討ち、罪なき者を守る。これが我らのゲッシュである」


 騎士たちが一斉に槍を掲げる。外部の者、魔道に疎い者には理解できないだろう。

 この熱意と誇りは。しかし構わない。他者に理解されずとも良い。

 自分たちがそれを知っている。それだけで良かったのだ。



 雨が甲冑を打ち、雨音を響かせている。

 古びたマンションの屋上では、騎士が腰を落として回想に耽っていた。

 自身には大小に拘らず無数の誓約が立てられている。

 元々、ケルトの魔術に通ずる者たちはゲッシュを愛用する者が多かった。しかし、我らの騎士団が特異だったのは古きゲッシュを用いたことだ。

 その姿は一部の者たちからは尊敬を受け、また別の者たちからは嘲笑された。

 代償があまりにも大きすぎるからだ。フィアナ騎士団は、世界を守るためならば命のみならず人生全てを捧げることを誓った者たちの集いだった。

 誓約を立てた時点で、平和な世界から背くことになる。

 しかし、それでも良かったのだ。……あの時までは。


「……」


 未だ血の匂いが滲む右腕に目を落とす。鎧の中の状態について顧みたことはない。

 既に重篤状態だとはわかっていた。

 立てた誓約によって生き長らえているに過ぎない。

 もはや、命などどうでもよかった。ただ、あの誓いだけは果たさなければならない。

 それが生きる糧だ。だからこのような汚れ仕事を引き受けている。

 決して揺るがぬ誓いと同様に不動の精神で次なる計略を練っていると、突然、雨が遮断される。その原因については、深く考える必要性を感じない。


「外に出るなと伝えたはずだ」


 ヘルムを上げる。茶髪の少女が傘を差している。左手には予備の傘を持ち。


「ここはマンションの敷地内、ですよね」


 少女は傘を床に置く。もう一つの傘を開く間に濡れてしまうが、彼女は気にした様子もない。彼女の瞳が写すのは騎士だけだ。

 騎士が濡れないように、彼女は傘を差して脇に置いた。


「風邪、引いちゃいますよ」

「魔術で防護している。体温の低下による衰弱も有り得ない」

「それでも、濡れるのは良くないでしょう」

「何一つ問題はない」


 淡々と返答する。少女が引き下がると思ったが、


「じゃあ、私が雨に濡れる姿を見るのが嫌だから、っていうことにしておいてください」

「勝手にするといい」

「良かった……」


 騎士が受け入れると、少女は朗らかな笑顔をみせる。

 ……その笑顔には見覚えがあった。

 その笑顔が即座に曇る。彼女はポケットから貸与した携帯電話を取り出した。

 家に帰りたいと、連絡を取りたいとせがむつもりだろう。

 何もおかしな行為ではない。正常な反応だ。

 何ら取り乱すことなく、平穏に要求を待てた。


「連絡を取らせてください。……鉄斗君に」

「前以て言っておくが、周辺に見える景色は実際の風景と異なっている。位置情報もでたらめだ。居場所を伝えることはできないぞ」


 低俗な脅し文句を述べる。曇った表情は雨に変わるだろうと思っていた。

 しかし、彼女の表情は変わらない。先程と同じままだ。


「大丈夫です。わかっていますから。それに、伝えたいのはそれじゃありません」

「好きにしろ」

「ありがとうございます」


 騎士は放任する。少女は悲しみを湛えた表情で感謝する。

 そのまま去って行くが、その背姿に幻影が重なる。


 ――私も誓いを立てました。罪なき人たちを守る、っていう。悪しき人を討つ、なんて大それたことは、私にはできそうにないけど――。


「誓いは、守るぞ。勇美」


 呟きながらも、騎士は奇妙な感覚に囚われている。

 少女……君華のように、彼女が感謝する姿を全く想像できなかったからだ。

 世界中の誰よりも、彼女について理解できているはずなのだが。



 ※※※



 今度は知らない番号から電話が掛かってきた。

 鉄斗は全員をリビングに集め、無駄に終わると知りながらも逆探知の準備をし、アウローラによって探知魔術も施してもらう。

 万全を期して電話をテーブルの上に置くと、スピーカーモードで通話ボタンを押した。


『もしもし……』


 という通話相手の言葉を皮切りに、言葉のダムが決壊を起こす。


「君華、リリース! プリーズ!」

「私のごちそう、返してもらえないかしら? お腹ぺこぺこで大変なんだけど!」

「私の拳は、そう簡単に砕けませんよ? 次こそは必ず打倒します!」

「私はアウローラ・スティレットだ、フィアナ騎士団の騎士よ。何か事情があるのだろうが、同輩の騎士として、一度対話の席を――」

「一斉に喋り出さないでくれ!」


 脈絡もなく感情に従ってそれぞれの要求を小鳥の集団のように喚いた仲間たちに戦慄しながら、鉄斗は携帯電話を取り上げて即座に謝罪した。

 これで人質に危害を加えられたりしたらたまったものではない。


「すまない。悪気はないんだ。そちらの要求を先に――」

『わ、私だよ、君華だよ!』

「君華……?」


 鉄斗は興奮気味の仲間たちと顔を見合わせる。再びテーブルの上にスマートフォンを戻して、食い入るように非通知の表示が映る画面を覗き込む。


『落ち着いた?』

「ああ、落ち着きはしたが……」


 鉄斗は訝りながら電話を見下ろす。人質の安否を明確にするために、人質の声を電話口で聞かせる、ということはあるかもしれない。

 しかし人質に率先して電話を掛けさせる意図がわからなかった。そんな精神攻撃を加える必要があるほど、あの騎士は軟弱な存在ではない。

 クルミだって正面切っての戦闘では厳しいほどの実力者だ。

 しかし電話口の君華はさも当然と言わんばかりに会話を始めようとする。


『良かった、じゃあ、鉄斗君』

「本当に君華なのか? 私には甚だ疑問だが」

『えっ?』


 最初に疑問を呈したのはアウローラだった。そこから洪水のように疑念が湧き出てくる。


「うーむ、肯定……疑問、疑惑、疑念」


 ピュリティは難色を示し、


「確かに、ちょっと変ですよね。人質が電話を掛けてくるなんて」


 紅葉も不思議そうに同意して、


「映画とかだったら有り得るかもしれないけどさぁ、現実でそれはどうよ、って感じ。あの騎士サマがそこまで抜けてる人物だとは思えないわ」


 ビシーは荒唐無稽な状況に肩を竦める。


『そんなことないよ、本当だって! 許可してくれたんだよ!』

「不都合な情報が流出する恐れがあるのに、許可をした、か」


 鉄斗も疑惑を漏らした。もし騎士の魔術の性質を見抜く前だったら素直に信じられたかもしれないが、今、鉄斗たちは騎士には決定的な弱点があることを把握している。その弱点を突破する鍵こそが騎士についての情報なのだ。ささいなことでも弱点の露呈に繋がる可能性があるのに、不用意な通話を認可するだろうか?


「君華君華詐欺?」


 ピュリティも独特の表情で疑いの念を言葉に表す。それに天然の気がある紅葉が食いついた。


「巷ではそのような詐欺事件が流行しているのですか?」

『してないよ! っていうかあなた誰!? 私の知らない女の子の声が聞こえるんだけど鉄斗君!!』


 言葉を荒げる君華? へ、紅葉はマイペースに返答した。


「私はあなたのことよく存じてますよ、鉄斗さんの古い女友達ですよね。私は新しい友達、いえそれ以上に親密な関係となった紅葉という者です」

『っ!? どういうこと鉄斗君!?』

「こっちが聞きたい。今はどういう状況だ?」


 自称君華は紅葉の頓珍漢な返答に錯乱しているが、鉄斗としていまいち状況が掴めない。通話相手が本当に君華なのか釈然としない。音声は加工しやすい上に、魔術が絡むとなると声音や性格の類似程度では判定が難しくなる。

 鉄斗が眉間にしわを作る横で、ビシーがにやにや笑いながら訊く。


「本当に君華なのかしら? 自信を持って言える? 神様に誓える?」

『もちろん、もちろんだよ! 神に誓います!』

「ふぅーん……じゃあ、もし嘘だったら酷い目に遭う、としても?」

『全然いいよどんとこいだよ! だって私は正真正銘立羽君華だからね!』

「なるほどなるほど、じゃあさ、正真正銘な君華ちゃんさー、好きな物、カミングアウトしちゃおうか」

『えっ? ……あ、甘い物が好きかなー』


 ビシーの流れるような提案に、君華らしき人物は動揺した口調で答える。

 しかしビシーはその回答に不満があるようで、


「いやいや範囲広すぎでしょ。もちろん、オンリーワンな感じで。そうしたら、みんな納得するだろうし。ねぇ、鉄斗」

「確かに、そうだが……」


 鉄斗がビシーの意見に賛成すると、受話器の向こうから沈黙が漂った。情報収集か答えがわからず苦悩しているのか。全員が返答を傾聴しようとするが、返ってきたのは疑問形だ。


『どうしても言わなきゃダメ?』

「もちろん。アウローラもそう思うでしょ?」


 ビシーの唐突なパスを、アウローラは厳しい表情で受け取った。


「もしお前が君華なら包み隠さず応えられるはずだ。何もやましいことはないはずだからな」

『い、いやね、アウローラちゃん、本人だからこそ言いたくないこともあると思うんだよ、私はさ』

「そんなはずはない。全て曝け出せるはずだが?」

『断言されちゃった!? いや、あの……えっと……じゃあ、せめて鉄斗君がいないところで』


 この期に及んではぐらかそうとする推定君華の妥協案を、ビシーは即座に一蹴する。


「それはダメよ、絶対にダメ。つまら……じゃなくて、鉄斗が君華と一番付き合いが長いんだから彼に判定してもらわなきゃいけないもの」

「鉄斗さんの古い女ですものね!」

『人を負け犬みたいに言わないでくれないかな!?』

「君華、簡単な証明問題」

『ピュリーちゃんまで……うぅ……』


 君華みたいな少女の困惑した声が聞こえる。ぶつぶつと小さな声で独り言を呟いた後、決意の込められた声がスピーカーから響き出した。


『わ、わかったよ……言うよ! あぁ、でも、心……心の準備がぁ……』

「早く早く、あなたの言い分が本当だとしても、長電話はまずいんじゃない?」


 ビシーはなぜか以前君華と抱擁を交わした時に見せた嗜虐心丸出しの顔となっている。皆が君華もどきの返事に注目し、耳を澄ませていた。

 君華っぽい人はようやく震えた声で口火を切り、


『わ、私の好きな物――好きな、ひとは――』


 誰かが結論を述べようとしたが、


「待った、君華」


 寸前で鉄斗に遮られる。


『鉄斗君?』

「言わなくていい」


 と回答を拒否した鉄斗に君華のような通話相手はまたもや戸惑う。


『そ、それって、つまり、答えを知って――』

「いや、俺は知らない。この質問で真偽を判定することなんて不可能だ」

『え……えぇ……』

「だから、一つだけ質問をさせてくれ」

『う、うん』


 鉄斗は懐かしい記憶を呼び覚ます。

 古い約束を。破ってはならない誓いを。

 思い出すのに……諳んじるのに、時間は掛からない。


「俺が危険な目に遭う時は?」

『私が許可した時だけ、だよ』


 即答だった。

 それ以上の問答は必要だと思えなかった。

 鉄斗は確信を持って断定することにした。


「間違いない。君華だ」

『鉄斗君……』

「記憶を読み取ったのかもしれないわよ?」


 素直に信じた鉄斗に、ビシーが異論を挟む。


「そうかもな。でも、俺は信じるって決めた」

「はっ。お人好し。君華も君華だけど、あなたも大概ちょろいわね」

「知ってるだろ? 俺は諦めてるんでね」

「ふん……。まぁ、そんなお人好しのあなたに朗報。その子は、無自覚に嘘を吐かないというゲッシュを結んだわ。例の騎士はゲッシュを扱う性質上、そう簡単に誓いなんて立てない。なのに、その子は何の躊躇いもなく誓いに応じた。十中八九本物よ」

「あ、さっきの質問はそういう意味だったんですね。ただいじめてるだけだと思ってました。ビシーさんはツンデレなんですね」

「はぁ? バカじゃないの?」

「その女の言う通りだぞ、紅葉。ビなんとかはそこまで頭が回るほど優秀じゃないからな。絶望的な性根の悪さが天文学的な数字の奇跡を本人の意志が介在する余地なく偶発的に引き起こしただけのこと」

「何? やる気?」

「二人とも、禁止!」


 二人を黙らせる権限を持つピュリティ割って入る。

 そのやり取りを聞いて、君華は安堵の声を漏らした。


『あはは、ようやく信用してもらえた……。久しぶり、みんな』


 日数としては一週間も経っていない。

 なのに、久しぶりという挨拶がしっくり来る。

 それは良いことか悪いことか……恐らく悪いことだろう。

 だが、君華の声音はそんな思考を吹き飛ばして余りある力が備わっている。


「悪かった、君華。命懸けで電話してくれたのに」

『ううん、大丈夫だよ。いつもの調子で話してくれて元気もらったし。それにたぶん……こうやって話しているだけなら、何も問題ないと思う』

「大人なんて信用するだけ無駄だと思うけど?」


 ビシーが茶々を入れたが君華は迷いなく返事をした。


『大人だから信じてるってわけじゃないよ』

「ふん……」

「いくら信頼があるとは言え、長電話だと予期せぬ事態を招く可能性がある。申し訳ないが、早速本題に入った方がいいぞ、君華」


 アウローラは冷静さを保ったまま君華に助言を述べる。

 君華は照れるように笑いながら助言に従った。


『うん、そうだった。みんなとの会話が楽しくて、危うく忘れちゃうところだったよ。……みんなに、調べてもらいたいことがあるの』

「調べ物?」


 ピュリティが聞き直すと、先程までの温かさが冷え込み始める。

 鉄斗は逆探知用ノートパソコンの検索サイトを開き、耳を傾けた。

 彼女の言葉を聞き逃すことのないよう集中する。


「大丈夫だ、言ってくれ」

『羽音勇美……国際テログループリベリオンが起こした事件の被害者の人』

「今ニュースで報道している……」

『うん、その子』

「その子があの騎士と関係あるんですか?」

『たぶんね。ううん、絶対に関係あると思うの』

「それを調べたところでこの事件が解決できる、とは私には到底思えないのだけど、それでも調べて欲しいの? 自分の身の安全より、誘拐犯の個人的事情についての調査を優先しろって、あなたは言ってるのよ?」


 ビシーの嫌味のようでいて実は気遣いが込められている問いかけに君華は、


『心配してくれてありがとうビシーちゃん。私は大丈夫だから。もしかしたら何の役にも立たないかもしれない。でもね、私は――知らなくちゃいけないと思うんだ』

「デジャブだな」


 やり取りを聞いてアウローラがぽつりと呟く。彼女の表情に反対意見は微塵も見受けられない。


「騎士の情報は全て有益になる。もっとも、君華にはそのような打算的な考えは全くないようだがな。私はてっきり、鉄斗が稀有な人間だと考えていた。だが、身近に似たような思考を持つ人間がいたようだ」

「私に言わせれば、あなたたち全員似た者同士よ。揃いも揃ってお人好し」

「私は、ビシーも似ている、と思う」


 ピュリティに指摘されるとビシーは不快そうに起立し、


「あーやだやだ。私は外で待機しているからちゃっちゃと終えちゃいなさいな」


 追随するように紅葉もソファーから立ち上がる。


「私も先輩に報告してきます。あ、一応言っておきますが、先輩はとてもやさしい方ですので、君華さんや鉄斗さんの意志を尊重してくれますよ」

『ありがとうみんな。……アウローラさんも』


 全員の了承が得られたところで君華が感謝を口にする。

 それにアウローラが反論した。


「私は、君にお願いする立場だ。その借りを先払いしておくだけだ」

「借り? 義姉さん?」

『ふふふ、ピュリティちゃんには内緒』

「むぅ……トップシークレット……」


 君華はこんな状況でも茶目っ気を忘れずにピュリティをあしらう。

 和やかな空気が再び場に充満する。君華は精神的に摩耗しているはずなのに、いつも通りだ。むしろこちらが励まされている。

 彼女には敵わない。ならせめて、彼女が望むことは全てこなす。

 しかし、その前に一つ、承諾を得る必要がある。


「君華、ちょっといいか」

『鉄斗君? ……うん、わかってるよ』

「許可をくれ」

『悲しいし、怖いけど……いいよ。だから、鉄斗君』


 君華の表情は窺えない。しかし、鉄斗にはその顔が直接見えているようだった。


『騎士さんを、救ってあげて』


 優しさに満ち溢れた顔が。

 そしてその顔に――自分は、抗えないのだ。

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