第4話 デンジャラスシノビ
その人は、ずっと私を見ていた。
私も、その人をずっと見ていた。
彼女が訪れたのは、一体いつの頃だったか。アンノウン。
正確にはわかっていたのだろうけど、私には自我=無だった。
椅子に座る私+彼女。
彼女はいつも私を熱心に観察していた。
「博士。この子は今日も綺麗ですね」
熱に浮かされるように少女は語る。誰に? A、博士。
博士は彼女の存在を疎ましく思っていたか? 否。喜んでいた。
「そうだろう。もう少し経てば自我を獲得できる」
「そうすれば、この子はお話できるように?」
「ああ、そうだ。厄介事は多いが……」
博士は今後を憂うように、顎に手を当てる。
代わりに少女は頼りがいのある表情で胸を張った。
「任せてください。いざとなったら私が彼女を守りますから。そのために、派遣されてきたのです。護衛として」
「うん、そうだね」
と言う博士の表情から不安は拭えない。少女が頼りないせい? 否定。
少女の実力は折り紙付きだった。両親の才能を余すところなく受け継ぎ、それでいて自己鍛錬は欠かさない。このまま順当に成長していけば、紛れもなく最強の一角に収まるであろうことは容易に想像できた。
だが、だからこそだ。博士の情報をたっぷり食してきた私ならわかる。
博士は少女の身も案じている。博士は優れた魔術師であったが、同時に魔術師らしからぬ温厚な性格だった。
だからこそ、私を拾ったのだ。現代のフランケンシュタインなどとなじられても、彼のスタンスは徹底して変わらなかった。
しかし少女は無邪気に私を見つめている。私は見つめることしかできない。
そういえば、と少女が博士へ振り返る。
「この子の名前は? 今思い返せば、聞いていませんでした」
「名前? いや、そうだな。……考えたこともなかった」
「え? ダメですよ、博士! それはひどすぎます!」
「だよねぇ、うん。これは反省も止む無しか」
「そうですよ! 反省してください!」
うぅむ、と博士は唸る。肝心なところで抜けている、とは行動記録フォルダにセービング。
「しかし僕のネーミングセンスは、控えめに言って……残念だ」
「壊滅的ですからね」
「否定してくれないのかい……?」
博士はショックを受けたように項垂れる。因果応報。
そして、名案を思い付いたように顔を輝かせた。
「そうだ。君に託そう」
「え? 私ですか? でも……」
少女は困惑して、私を見つめる。が、口元の端が吊り上がっているので、満更でもないのだろう。肯定アピール。
「構わないだろう? きっと君ならいい名前を思いつく」
「そ、そうですかね……ふふ」
少女は私に近づく。誓いを立てる騎士のように私の手を取った。
いい名前を考えてあげるからね。そう言って、笑顔を浮かべる。
それを見て、私の中に、何かが芽生えていたのを覚えている。
時は移ろいゆく。次に私の中に芽生えたものは、とても熱かった。
熱かった。痛すぎた。鋭すぎた。
博士の死体が転がっている。それを気にもせず物色する男。
魔術師。実力は自分よりも上。だけど、そんなことは関係なかった。
この感情は全ての計算を度外視する。
この情念は全ての幸福をかなぐり捨てる。
殺したい。否。
殺さなければならない。
私は戦闘態勢を取った。というより、そうすることがベストだと勝手に計算されていた。否、それは計算というほど高度なものでもなかった。
ただそうしたかったからそうして。こうするべきだから、こうした。
力を充填して、相手に放つ。それが効くかどうかはどうでもいい。
やりたいから。殺したいから――そうする――。
直後、鮮血が辺りを満たした。が、原因は自分の力ではなかった。
首を失った魔術師が斃れる。その後ろから、少女が姿を現した。
血に塗れる少女だ。騎士の甲冑にはたくさんの血が付着している。
剣には、人を殺した証がこびりついている。
「平気か?」
口調が今までの物とは変わっていた。覚悟した顔だ。
諦めた、顔だ。平穏を捨て去ると決意した顔。
「来い。退路は確保してある。お前は死んだことにする。今日から私はお前の義姉だ」
「あ、う、あ……」
発音が上手くできない。思考もまとまらない。展開についていけない。
「わからないか?」
少女は私の目を見つめる。そして手を伸ばそうとして……止めた。
「動け。自我を得たのなら、自分で思考しろ」
その顔は苦渋に満ちていて。
私は即座に適応した。歩くための情報はインプットされている。
肉体も問題なく動作した。いつ目覚めてもいいように、運動機能が劣化しないよう様々なシステムに保護されていたのだ。
優しい博士。でも彼は血の海に沈んでいる。
R.I.P. 安らかに眠れ。
「行くぞ。誓いは果たす」
私を見守っていてくれた博士は死に。
私も見つめていた少女は暗闇の先へ進んでいく。
彼女は私のことを見つめていた。そのせいか、自分のことは一切見ていなかった。
辛くて、悲しくて、何かが頬を伝う。拭ってみて、気付いた。
この感情が悲しさだと。涙であると。
「ああ、まだ伝えていなかったな。今日からお前の名前は、バケモノだ」
その日を境に、彼女から笑顔が消えた。
※※※
世界は悲劇と、ささやかな幸福のパズルでできている。
バケモノの話はやはり悲愴的だった。ある程度の予測を立てて傾聴していたが、それでも鉄斗の中にも確実にその悲しさは伝播した。
感受性の強い君華に至っては泣いている。
鉄斗が耐えられるのは、耐性があるからだろう。人間とは悲しいもので、死を身近に体験していると、そう簡単に涙を流せなくなってしまう。
否、単に鉄斗の心が渇いているからか。だとしても、他者をあしらったりする気は毛頭ない。よくあること、などというありきたりな一言で片づけるつもりもなかった。
「平気か?」
「う、ん。私は平気……でも、義姉さんは……平気じゃない」
「姉じゃなくて、義姉。血は繋がっていない。けれど、お前さんは助けて欲しいんだな」
「当然! 義姉さんはずっと私を――」
「別にやらないと言ったわけじゃない。落ち着いてくれ」
興奮したバケモノを宥めて、鉄斗は声を上げないように懸命に堪える君華へ向き合う。
本当はバケモノに訊くべきことが山ほどある。が、優先順位は確実にこちらが上だ。バケモノをないがしらにするわけではなく、真剣に取り組むからこそ、必要だった。
彼女の許可が。鉄斗は自分を何度も救ってくれた幼馴染に呼び掛ける。
「君華」
「知ってるよ。きっと、危ないことするつもりなんだって」
「その通りだ。誤魔化さない。これから俺は、危険に身を晒す。危ないことをする」
本来なら調停局に投げっぱなしにするべき案件だ。ただの一高校生が一人でどうこうするような問題ではない。それも物語群の主人公のような才能に満ち溢れた人間ならばともかく、木っ端の如きモブキャラでは。
でも鉄斗は……諦めている。諦めないから戦うのではなく、諦めているから戦う。
「ずるいよ。卑怯だ、鉄斗君。私がさ、いいっていうわけないの知っててやってる」
君華の涙声が響く。彼女にはたくさんの苦労を掛けている。
両親が死んでから、彼女は熱心に自分の世話をしてくれた。父親の呪いを振り払いたくて魔術の修練に励み、ボロボロになる自分を支えてくれていた。
だから、卑怯だとは思う。それでも、鉄斗はやると決めた。
「許可をくれ、君華」
「ずっと、だよ? 今までずっと鉄斗君を心配してた私に、危ない目に遭う許可を求めるの?」
「お前の許可がないと、俺は危険な目に遭っちゃいけないからな」
鉄斗は古い約束を引っ張り出した。君華ははっとして、涙を拭う。
「酷い。ひっどーい! 本当に酷いや鉄斗君! 昔の約束今出すの!? 伝家の宝刀みたいにさ!」
君華はいつものペースで憤慨するが、膝は震えている。強がっていると一目で見抜けた。伊達に幼馴染はしていない。だからこそ、彼女の強さに感服する。
「わかったよ。でも、クルミちゃんにはそれとなく連絡しとくね」
「……どうしてもか?」
その名前の威力は高すぎる。苦笑する鉄斗は後ろ髪を掻いて、
「どうしても。それが条件だよ。じゃないと許可しないから」
「本当にお前さんは母さんの生まれ変わりみたいだな」
「有能で男の子の無茶に理解力のあるパーフェクト幼馴染だと言って欲しいね」
君華は気丈に胸を張る。これで覚悟は決まった。
鉄斗は早速、工房へ向かおうとして、
「あっ」「う?」
盛大な協奏曲を聞いた。使用楽器は少女二人のお腹である。
「オ ファーメ」
「あ、あははは! 腹が減っては戦はできぬ! と。待ってて、今何か作るから」
「緊張感のない……」
鉄斗が呆れて頭に手を当てていると、今度はキッチンから叫び声が響く。発生源はもちろん君華である。今度は何だと台所を覗くと、
「材料がなーい! 何で!? 補充してなかったの!?」
「材料なら自分で買って来たんじゃないのか?」
買い物袋をチラ見しながら訊ねると君華は怒りながら反論する。
「食材はね! でも致命的なものが足りないの! ズバリ、カレーのルーが!」
「またカレーか? 正直、カレー嫌いなんだよなぁ」
「贅沢言わない! 日本人はみんなカレーが好きなの!」
「俺は外国人かよ……」
と呆れながらも感謝自体はしている。肉じゃがにシフト変更するわけにもいかないので、君華がエプロンを外して買い物に出ようとするが、
「いや、俺が行くよ」
「え? でも……」
君華の視線の先にはバケモノがいる。何が起こるかわからないので心配してくれているのだろう。
だが、鉄斗にしてみれば丁度良かった。外がどうなっているか偵察するつもりでいたのだ。
「俺一人ならやり過ごせる。お前さんはバケモノが騒がないように相手をしてやってくれ」
「鉄斗君がそれでいいなら、いいけど……」
「こういうの、得意だろ? すぐ帰ってくるから」
君華はしばし逡巡したが、買い物袋を渡してくれた。
「チュース!」
「ああ、行ってくる」
バケモノの何語かわからない挨拶に見送られて、鉄斗は買い物に出かけた。
※※※
「ふんふふーん、ふんふーん」
気分は陽気である。世界は驚きに満ちている。
ポニーテールの少女は、幸せそうな笑顔を振りまいて街中を探索していた。
冒険は心が躍る。幸い、ここは自分の知らないものばかり。
というよりも、世間知らずが過ぎた節がある。十八という齢になるまで、ほとんど外界を知らずに育ってしまった。
修練が足らなかった。この身は至らぬ半端者。
だが、半人前の身をこそ有用だと見出してくれた人がいる。
(先輩には感謝してもしたりません! ああ、この世はこんなに……甘味にあふれているだなんて!)
誘蛾灯に引き寄せられる蛾の如く、ふらふらとケーキ屋に吸い寄せられていく。
幸いお小遣いはたんまりある。兄上はいつも使い時に気をつけろと言っていたが。
少女としては、それこそが今である。好機到来。我が意を得たり。
無論、頭はちゃんと使っている。賢く運用されている。
だからこそ、ちゃんと食べ歩きが可能なシュークリームを選択したのだ。
じつにかしこい。あたまがいい。
ふわふわとクリームのくみあわせがさいこうにすぎる。
「ふんふふーんふーん!」
ますます上機嫌になって少女は街を歩く。ああ、素晴らしいかな外の街!
山に籠っていた時とは全く違うのである。ぜひかなぜひかな。
などと外遊を満喫していると、不意に不協和音が耳を貫く。
穏やかさと喧騒を程よくミックスした街中に、突如として轟音がプラスされた。
大通りを赤いスーパーカーがかっ飛ばしている。どこぞの金持ちによる享楽、もとい暴走運転である。
「むぅ、いけないなぁ」
清き正しい警察官として、その蛮行を見過ごすことはできない。さてはてどうするか、と思案した瞬間に、
「あれはっ!」
小さな子供が風船を追いかけて、道路へ飛び出してしまった。もし法規制に従ったスピードで運転していれば問題なく静止できる距離だが、スピード違反を犯している命知らずのスーパーカーのブレーキが間に合うはずもない。
決断などする余地もなかった。身体は既に動いている。
どこかから、危ない! という悲鳴が飛んできた。しかし、それが何か。
危地に身を寄すは宿命。死地に身を張るのは因果。
躊躇いなく身を駆け子どもを抱きかかえる。
そして、右手を広げて突き出す。
刹那、吹き飛んだ。
少女ではない。子どもですらない。
車が、宙を舞ったのだ。
忍体術無窮組手。穿った拳は、人体を灰塵にする質量すらをも吹き飛ばす。
哀れ弾け飛んだ車はきりもみ回転し、空き家となっていた雑居ビルの三階に突っ込んで停止した。
「大丈夫?」
少女は、否、自らを未熟と律するくのいちは、子どもに微笑みかけた。
だが、子どもは呆然としている。なぜだろう……と考えて、
「あ、忘れてました」
手近の木に引っかかっていた風船を、一跳躍のみで回収する。
「どうぞ。今度は道路に飛び出しちゃダメだよ? えっと……なんだっけ、縦断歩道を赤信号で渡るのです!」
「横断歩道を青信号……」
「え? あれ? そうだっけ? あはは、とにかくきをつけるよーに!」
冷静に子どもに言い返されながらも、くノ一は締めた。母親が青ざめて子どもを回収すると、引きつった笑顔で礼を言いながら去って行く。
素晴らしい! と晴れやかな気持ちになった。ああ、人助けとはこうも人の心を晴らすのかと。
そうして、失念していた問題を思い出す。
「のわー! やってしまった! 公衆の面前で忍の秘儀を! っていうか、あれ、どうしよう。ビル壊しちゃった」
威力を押さえたので車の運転手は失神で済んでいる。通常の物理法則なら間違いなく即死であるが、無窮組手は世界を縛る法則すらも屈服させる。
人的被害はなし……だからたぶん許してくれる……かもしれないなぁ。
冷や汗を掻きながら携帯を取り出して先輩に連絡しようとした矢先、
「あーっ!」
大声を上げる。無論、それは飛び出す寸前で放り投げ、おだぶつしてしまったシュークリームに対してではない。
「なっ……!」
子どもが飛び出した瞬間、くノ一よりワンテンポ遅れて助けようとした少年に向けてである。
「見つけたぁ! 容疑者! いえ、犯人!」
証拠もない。証言もない。ただの勘から、犯人だと断定した。
昔から、そういう勘はよく当たったのだ。
※※※
その光景は魔術師をもってしても、にわかには信じられないものだった。
自分と同年代の少女が無謀にも暴走車の前に立ちはだかったばかりが、素手の一つで吹き飛ばしたのである。それも雑居ビルの三階へホールインワンまでした。
そういう存在に対する認知がないわけではない。
そもそも魔術師が人間に対して劣勢なのは、そのような超人の活躍に他ならない。
魔術師を狩る狩人は……何ら異能の類を用いないただの人間なのである。
だが、実物を目の当たりにするのは初めてだった。こんなものが相手では、歴戦の魔術師でさえも後れを取るはずである。
そんな存在と鉢合わせて、良い結果が生むはずもない。
鉄斗は瞬時に判断を下し、ゆっくりと後ろに下がっていった。
(余計な気を回すんじゃなかった)
展開しかけた術式を隠す。ついでに、買い物袋も後ろ手へ。
そのままごく普通の一般人として集いつつある群衆に紛れようとしたが、
「あーっ! 見つけたぁ! 容疑者! いえ、犯人!」
(俺は犯人じゃないぞ!)
心の中で突っ込んで、愛想笑いを浮かべる。敵か味方かは判然としないが、これだけはすぐにわかる。
この少女はあまり賢い性質じゃない。脳が筋肉でできているタイプだ。
上手く言葉を操れば、何事もなく場を――。
「さぁ逮捕しますよ、逮捕! ふあーどきどきしてきた! 初体験!」
「無理だな、こりゃ。では失礼!」
鉄斗は反転して走り出す。あれは絶対に人の話を聞いてくれるタイプではない。言動から察するに警察関係であることが唯一の救いか。現段階では、敵に変わりはないのだが。
「え? あっ、待ちなさい! えっと……ありゃ?」
少女は携帯で仲間と連絡を取ろうとしたのか強く画面をタップする。が、力を入れ過ぎたのだろう。親指は画面を貫通し、現代通信技術の塊であるスマートフォンは御臨終する羽目になった。
……力を込めたら指でスマホを貫通できるかという疑問には目を瞑る。
「あっ、しまった! ええい、行きますよ!」
少女は単独で追跡することにしたらしい。が、その脅威的身体能力は目を見張る。
先程の暴走車にも匹敵するのではないかと勘ぐってしまうほどの疾走だ。咄嗟にデバイスを操作して、走力を上昇させたが引き剥がせる気がしない。
実際、距離はどんどん縮まっていた。単純な走り合いではこちらが負ける。
単純な競争であれば、だ。
(地の利はこちらにある!)
鉄斗が住む日建市街は庭と言うほどではないものの、どこがどう繋がっているかは頭に入っている。何せ、超ド級のサボり魔だ。街を余すところなく散策している。
路地を縦横無尽に動き回り、撹乱することなど容易だ。ある程度距離が開いたところで、転移術式を起動させ撤退してしまえばいい。
(転移弾は貴重だしな)
いざという時の切り札を下手に使ってしまうのは惜しい。
などと……出し惜しみしてしまったのが失策だった。
「見つけました!」
「何ッ!?」
住宅街の間を縫って逃走を図っていた鉄斗の頭上から喜々とした声が振りかかる。
見上げると、先程の少女が屋根の上に陣取っていた。屋根と屋根を伝うことなど朝飯前らしい。
(忍者みたいな奴だな、くそ……)
鉄斗は次なる手立てを考える。が、最初の方針自体は間違っていないと判断し、もう一度距離を取り直すことにした。拳銃を抜き撃ちし、少女の隙を誘う。
しかし、
「さって、張り切って逮捕しますよ、逮捕。ん……今、何かしました?」
「銃弾を素手で弾くのか……」
愕然としながらも分析を進める。防御行動を取ったということは、急所を射抜けば殺せるだろう。問題は、鉄斗に彼女を始末する意志がないということだ。あくまで撤退までの時間を稼ぎたいだけである。
二回引き金を引いて、銃弾がどこかへと弾かれる様子を見るや否や、鉄斗は駆け出した。逃がしませんよ! という弾んだ声が響き渡り、少女が地面に着地する。
恐るべき力を持つ相手だが、彼女の表情は鬼ごっこに興じる子どものそれだ。
しかし捕まった後は、笑って終了とはならない。そのまま牢屋に直行だろう。不良を銃で撃った前科があるし、数刻前にはバケモノの義姉と交戦したばかりである。
「これならどうだ」
左腕の腕時計型デバイスを操作して、魔術式を起動する。現代方式によって表出した分身体が十字路の右へ向かい、鉄斗はまっすぐ直進した。
それとなく少女の様子を確認すると、
「分身の術ですか。ふぅむ」
少女は一瞬立ち止まる。どちらが本物か吟味しているようだが、その僅かな時間さえあれば十分だ。転移術式を起動。座標を自宅へセット。後は、転移用ポータルが展開するのを待つだけである。
どうにか逃げきれそうだ。と、束の間に抱いた鉄斗の安堵感は、
「公共設備、お借りします! どっせえい!」
という掛け声と共に虚しく崩れ去る。
突き刺さったのだ。目の前の地面に。立ち塞がるように。
何が、はわかる。なぜか、もわかる。
想像はつく。が想像したくはなかった。
少女が電柱を引き抜いて、投擲する姿などは。
「そっちが本体! てやぁ!」
「しまッ――ぐぁ!」
唖然としたその隙が命取りとなる。猛烈な飛び蹴りが後方から放たれ――周囲の自然法則ごと、鉄斗の身体を蹴り伏せる。展開した魔力盾はいとも簡単に敗北し、鉄斗は無様に地面を転がることになった。
地面に這いつくばる鉄斗の前に少女がゆっくりと歩み寄る。
「この身は未熟。忍術もまともに使えない、無能の身ですが……市民の安全を守ることぐらいは叶います。どうか、お縄に」
そう呟く少女の顔からは、先程までの無邪気さが失せている。これが彼女の戦士――発言から推測するに忍び、或いはくノ一――の側面なのだろう。
忍術を使えない無能の身などと彼女は謳うが、鉄斗からすれば全くそんなことはない。なるほどこれまでのデタラメな技巧は全て体術によるものだろうが、それでも才能は十全にある、と鉄斗は思う。
いや――傍から見ればそうであっても、当人が納得しているかは別だ。
鉄斗も君華から見れば才能はある、らしい。しかし鉄斗は知っている。
自分には全く才能がない。その気持ちは、きっと彼女も同じだろう。
「わかるよ、その気持ち」
「む?」
「それでもやらなければならないことがあるんだよ」
呻きながらポーチに手を突っ込む。投擲されたグレネードを彼女は反射的に蹴り砕くが、その動作は想定内だった。
瞬間、煙が辺りを充満する。スモークグレネードは撤退戦に有用だ。
「煙幕! 逃がしま――えッ!?」
彼女が驚くのは無理もない。逃げると思った相手が、攻勢に出たのだから。鉄斗はあえて前進を選択し、彼女の懐に飛び込んだ。
しかし彼女は冷徹に、今までの鉄斗の魔術傾向から解を導き出す。
「知ってます――分身でしょう!」
そういって、鉄斗を片手で薙ぎ払うが、想定していた感触と異なり――困惑する。
「な、本体!? しまった……!」
軽い調子で薙ぎ払われ、宙に浮いた――慣性を利用して、鉄斗は浮遊術式を起動させる。身体は強烈な痛みを発しているが、おかげで十分な距離を取れた。
そのままスタンバイ状態だった転移術式を起動して、目論見通り転移を開始する。
少女が回し蹴りで周囲の煙を払い飛ばす頃には、鉄斗は転移を終えていた。
「……ふぅ」
少女は息を吐く。巡るのは、敗北の悔しさでも情けなさでもなく羨望だ。
「ずるいなぁ……」
鉄斗の手口を罵ったのではない。単に才能があると言う事実のみを……彼女は羨んだ。
日本を古来から守護する忍者。有名な伊賀や甲賀のように知れた名はなく、誰にも知られることなく、また小事の戦に介入することもなく、真なる意味で日本の守護者として存在してきた無影流。その後継ぎとして生まれた兄は才覚に恵まれていた。
当然、その妹にも皆は才を期待した。だが、結果はこれである。
少女――
無能の子ども。半端者。無影流の恥さらし。
「それでもやらなければならないことがある、ですか。いいですね。ふふ面白い。まさか敵の言葉に慰められることになろうとは。やはり私は半人前ですね」
一度拳を交えれば、その相手のことは何となく理解できる。
さてはて、どうしたものか。
などと思案するふりをしていたが、心はとっくに決まっていた。
紅葉は少し苦り切った想いとなる。先輩は自分が導き出した解に、一体どんな顔をするのだろうか、と。
※※※
彼女をずっと見守っていた。
彼女もまた、自分を見ていると思っていた。
だが、どうやら思い違いだったらしい。
「バケモノ……」
誰もいない部屋に呼び声が響く。
彼女はいなくなってしまった。なぜか? どうでもいい。
いや、本当はどうでもよくないはずなのだ。なのに、そこまで頭が回らない。
そもそも、なぜ自分は戦い続けてきた?
彼女を守るためだ。だが、ああ……終わりが見えない。
「しかし秘策はある。今、助けるぞ、バケモノ……」
そうとも、秘策はある。長年身に着けてきた秘策が。
殺しの術が、少女にはあった。
悪名高き魔女狩りを生き残り、今をなお、魔術の覇権を取り戻さんと暗躍する秘密結社グルヴェイグ。
その最高傑作兵器とまで謳われた、魔術騎士アウローラ・スティレット。数多の暗部を見て来たその身にとって、この程度の相手は敵ではない。
「博士、誓いは必ず……ぐふッ」
血を再び吐く。ふらつく足取りで洗面所へと赴き、また多量の血を吐く。
顔を洗う前に鏡を見る。血が付着し、やつれ、青ざめている。
それでもなお、自分を顧みることはなかった。
瞳に写る顔は自分ではない。
愛しい義妹。
バケモノだけだ。
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