日本の終焉と癌遺伝子

神乃木 俊

日本の終焉と癌遺伝子

 それは遺伝子に勝負を挑んできた人間の、勝利のファンファーレのようだった。


「皆さん、世紀の瞬間が訪れようとしています。私たちはついに、すべての癌を克服する時代に突入していくのであります」


 スポットライトに照らされながら、声高々にマイクに叫ぶ依楓(いぶき)。

 そしてその陰に隠れるように、俺は着慣れないスーツ姿で固いパイプ椅子に浅く腰かけていた。


 俺たちの歴史に残るであろう講演に、ホールは満員御礼。

 依楓の自信漲るファンファーレに、獲物を見つけたハイエナのようなギラギラした双眸が照明の下にあふれている。

 興奮した息遣いが、会場の酸素を奪っていく。


「これから新薬について説明していきます。ですが難しいところもありますので、寝不足の方はお休みいただいても結構ですよ」


 会場からは、控えめな笑い声があがった。


「それでは、遺伝子が織り成す迷宮のような仕組みを、私が皆様の先導者となって、一緒に解

き明かしていこうではありませんか」


 俺はシミュレーション通りに、手元のパソコンのエンターを押した。プロジェクターが、生命の根源を説明するスライドを映し出す。


 まず登場したのは遺伝子の模型だ。二本の鎖を合わせて螺旋状にしたような形をしている。アデニン、チミン、シトシン、グアニンの頭文字をとったA、T、C、Gと記される塩基配列がその鎖の正体だ。


 それらは様々な酵素により修飾を受け、最終的にタンパクへと変換される。その生み出されたタンパクが細胞を構成する成分となり、体で起こる様々な反応に関わっていくのだ。


 つまり遺伝子とは、生きていくのに必要なタンパクを作る代物でしかない。


 この事実が解明された当時、生命の神秘を信じる医学生はこの事実を受けいれられず、自殺したと記されている。それほどまでに、この事実は受け入れがたかった。


 人間が今まで繋いできた命のバトンは、タンパクの元となる遺伝子を保存していく、無機質な過程でしかなかったのだから。


「しかしながら、この遺伝子の営みは様々な要因により破綻していきます。太陽からの放射線、ウイルスの感染、そして日々起こり得る遺伝子複製のエラー。数えれば切りがありません。そしてこれらは結果として我々の最大の敵である、あの病気を呼び寄せます。そうそれは、癌です」


 会場中が不穏な空気に包まれる。

 至るところで咳払いや、首をすくめる姿が見受けられる。


 なぜだろう、この癌という名前は、いまだに特別な意味を持って響く。以前より啓蒙が進み、癌に対する正しい理解や知識は普及しているはずなのに、その二文字は今でも人々に暗い影を落とす。


 愛する家族や恋人を容易く、残酷な形で失わせるこの病気の悲惨さが、大衆に畏怖の念を抱かせるのだろうか。


 そこで依楓は両手を掲げ、スポットライトを見上げる。人類の過ぎ去った犠牲を一身に背負い、心から憂いているようだった。


「癌は遺伝子異常を利用し、様々な悪さをします。正常な細胞を圧迫しながら増殖し、自分以外の細胞を傷つける物質を放出、果ては周りの正常な細胞を自分の良いように変化させます。医療は今までその増えた癌を手術で摘出し、放射線や化学物質を用いて戦ってきました。しかし皆さんもご存知の通り、我々はことごとく癌に敗北してきました。癌はあの手この手で我々を嘲笑いながら、多くの命を奪ってきました。しかし」


 ここで依楓は感極まったように、上げた両手を教壇に叩きつけた。衝撃音がホールを駆け抜ける。会場中の視線が欲しいままになる。


「我々はついに、たどり着きました。それは多くの医療者が夢見て、それまた多くの研究者達が生涯を捧げ、成し遂げられなかった偉業です。それは」


 一呼吸間を置いて、会場中に笑顔を見せる依楓。会場は依楓の一人舞台になっていた。

 熱せられたスポットライトと、次の言葉を待つ期待の視線。舞台上の役者は恍惚としていた。


「それは、遺伝子操作を導入できる薬の発明です。我々は癌細胞に生じる遺伝子異常をつぶさに解析し、大腸癌や肺癌などありとあらゆる遺伝子異常を発見して不活化する特異的な酵素を発明しました 。そしてその酵素は、薬として服用してもらうだけで結構なのです」


 人々の瞳孔は大きくなり、息遣いも聞こえんばかりだった。


「この酵素はDNAグリコシダーゼという酵素で、塩基の除去に関わる酵素のお友達になります。働きとしては遺伝子異常が起こった遺伝子の場所を切り出す働きです。これにより、癌が使役していたタンパクの増加を食い止めることができます」


 会場中が色めき始めた。話についていけない者が大半だろう。

 それでも薬を飲むだけで癌が治るということは十分な衝撃らしかった。囁き声がさらなる声を呼び、ざわめきが波紋のように広がっていく。


「賢い皆様は、切り取った遺伝子の空白はどうするのかが気になるでしょうが、ご安心ください。その後はDNAポリメラーゼという酵素がその空白を埋めてしまいます。えっ、もっと詳しく知りたいですか。そんなあなたには、こちら」


 そこで依楓は教壇の下から、予め用意していた一冊の本を取り出し、聖書を掲げる信徒よろしく高く掲げる。


「この本は、私と後ろでパソコンを操作している斗真(とうま)先生と一緒に著した『遺伝子ってなあに、入門編』という本です。今日の帰りにでも本屋さんに寄ってご購入いただければ、皆様も遺伝子について賢くなり、さらには私たちの懐も潤うという、一石二鳥でございます」


 会場から暖かみのある笑みがこぼれる。依楓のテレビ通販のような喋り方が、聴衆にはうけているようだった。依楓は締めの言葉の前に会場全体を見渡して笑顔を振りまく。


 その笑顔は、運命は我が手中にあると尊厳と自信で満ちていた。


「癌に、我々は遂に勝利します。患者さんの体に負担が大きい外科手術のような治療も、放射線のように副作用覚悟の治療も必要ありません。ただ、この薬を飲むだけ。それで癌が治る時代がもう間近に迫っています。皆様、長生きしてください。そうすれば世界が変わる瞬間を皆様にお見せできることでしょう。ご清聴、ありがとうございました」


 会場中の人々がスタンディングオベーションで俺達に喝采を注ぐ。その無数の手には、幾重もの皺が刻まれていた。


 空席が目立つバスの中で暮れなずむ町並みを、俺たちは窓からぼんやりと眺めていた。バスに空席はあるものの、立ったままバスに揺られている。空いている席はすべて優先席だ。握り皮に体重を預ける依楓の眉間の皺はいつもより深い。


「座りてぇな」

 掠れた声で呟くと、スーツの背広を脱いでネクタイを緩める。丸めている背中には、ワイシャツ越しでも分かるくらい、大きな楕円型の汗が滲んでいた。


「駄目だ、優先席だ」

「そんなこと言って、このバスの半分以上は優先席だ。おかしいだろ」


 配慮を忘れ、依楓は不平を零した。

 俺たちの側の優先席には、小さなコサージュの髪留めをしている品の良いお婆さんが一人座っている。こちらを申し訳なさそうに一瞥し、バスの揺れと見紛うくらいのかすかな会釈をくれた。


「しょうがないだろう、そういう時代だ」

「そういう時代って。俺たちがなにしたっていうんだ」


 その問に対する答えを、残念ながら俺は持ち合わせていない。

 沈黙で応じる俺に、依楓はため息を零した。そのだるい視線の向ける先には、日本の現在が映っている。


  少子高齢化が進む昨今、政府は大幅な舵転換を行った。

 スローガンは『安全と保証の国、日本』


 消費税二十%を含む様々な増税を元に財源を確保し、こ高齢者や障がい者に優しいバリアフリー化を名目に種々の公共機関を一斉改革した。


 今乗っているこのバスもプロジェクトに乗っかり、優先席を全座席の六十%にまで拡大させた。この優先席に座ることは、空席時でも許されない。それでいてバスの料金は、若者は五割増で高齢者は七割減だ。


 世界はすこしずつ、高齢者に寛大な世界に変わりつつあった。


 バスから見える景観も、大きく変わりつつある。

 今通り過ぎようとしているのは、更地と化したショッピングモールに、取り壊されるカラオケボックスやボーリング場。社会のニーズに応えるべく、介護施設や老人ホームを急増させるために、それらに退場してもらうのが半年前の選挙で決まった。


「知っているか」

 窓越しに見える外の世界か、窓越しに映る自分か。それは分からないが、依楓は一点を凝視しながら、独り言のように呟いた。

「俺たちの小学校、廃校になるらしい」

「え、そうなのか。なんで」


「子供の数が減ってきて、学校として維持できなくなったらしい。今いる生徒たちは他の学校に編入だそうだ。校舎は取り壊され、老人ホームになるんだそうよ。もうその老人ホームも、既に予約で一杯だとさ」

「どこもかしこも、似たり寄ったりになるな」


 どこに閉まっているかも分からなかった小学校の記憶が、ガタガタと騒ぎだす。

 依楓が蹴ったボールで凹んだ体育館倉庫、コンパスで名前を刻んだ机、生徒の悪戯で半分割れた非難ベルの赤い蓋。そんな下らないあれこれも、俺たちの記憶の中だけの存在になるらしい。


「見ろよ、あの看板」

 依楓が前方を指差す。

 そこには公園があり、五、六人の爺さんや婆さんが、ゲートボールに勤しんでいた。その公園の中頃にある看板は『子供の立ち入り禁止』を掲げていた。


「信じられるか、公園が子供の立ち入り禁止区域だなんて」

「依楓、気持ちは分かる。だが声を落とせ」

 俺は咳払いをして、話しを区切る。依楓のやり場なき怒りは収まらず、固く握られた拳で、自分の太股を力任せに叩いた。


 こんなことがあった。

 ある子供達が公園でポータブルゲームをしながら歩いていたところ、散歩を楽しんでいた爺さんに誤ってぶつかってしまった。運の悪いことに爺さんは転倒し、その拍子に大腿骨を骨折。二度と歩けない体になってしまった。


 これが波紋を呼んだ。

 公園に子供達で集まってゲームで遊ぶこと自体に問題があるという声や、子供達が外で体を動かす事が少なくなっているのに公園の存在する意味がないという声、何よりこのような事件が今後起きた時に子供は責任を取れないという声が四方から上がった。


 そうした声に動かされ、政府は公園の子供達の立ち入りを禁止するという英断を下したのだった。





 依楓の母親は癌で亡くなった。


 俺は依楓とは小学生のころからのつきあいで、依楓の家にいつも転がりこんだものだった。そんな俺を依楓のお母さんはいつもニコニコして迎えてくれた。依楓のお母さんはとても優しくて気立てがよく、子供の自分から見ても美人だった。依楓も口にはしなかったものの、自慢の母親だったに違いない。


 だが神様は、残酷な運命を依楓に用意していた。


 高校二年生の時、依楓のお母さんに膵癌が見つかった。それだけでも俺は驚きうろたえたものだったが、そのあと一年も経たないうちに依楓のお母さんはあっという間に天国の階段を上ってしまった。本当にあっという間だった。


 依楓の母親が亡くなる一ヶ月前の冬、俺は依楓のお母さんの病室を見舞った。


 風が吹いたら折れてしまいそうなほどの細い腕と、呼吸するたびに浮き上がる首筋。そして彼女の命の灯火を支える無数の機械が、彼女を取り巻いていた。依楓は固く手を握りしめながら、病床の母親を見つめる。彼女が繋がれる機械を睨む依楓は、俺に背中を向けたまま願いを口にした。


「頼む、俺に力を貸してくれ。俺と一緒に、世界を変えよう」


 その声はどこか祈りにも似ていて、俺はその祈りの行く末を見届けると、依楓のお母さんに約束したのを今でも覚えている。





 暗がりの廊下は、どこまでも続きそうで不気味だ。

 病院に併設してある研究室はどことなく陰うつで物悲しい。俺はその一角の細胞培養室で実験の毎日を送っていた。


 緑のリノリウムの床に、古びたスリッパが散らかる。眼についたスリッパを引っかけ、奥のクリーンベンチに近づく。その正面に配置されている実験器具を置く机の上も乱雑だ。顕微鏡、遠心分離機、細胞計数盤、ピペットにチューブ。それらが無秩序に散乱している。


 細胞を扱う作業場であるクリーンベンチに電源を入れると、紫外線で青白い殺菌灯が白色の蛍光灯に変わる。冷蔵庫から細胞に栄養を与えるためのメディウムを取り出し、室温で溶かすために十五分待つ。


 そしてその後、実験で何度も継代している細胞にさきほどのメディウムを加える。透けたガラスにルビー色のメディウムが満たされていく。シャーレの中で繁殖する癌細胞たちが三日ぶりの栄養に息を吹き返し、これでまた増殖できると喜ぶ声が聞こえてきそうだ。


 細胞が成長しやすいように二酸化炭素や湿度が特別に調整されたインキュベーターに、処理の終わったシャーレを移す。俺の細胞を保管している区画の横には、依楓が飼っている細胞が無数のシャーレに敷き詰められ、山を築いている。その一つ、Helaと書かれたシャーレに眼が止まる。


 Hela細胞。


 それはかつて、黒人のMrs.Helaの子宮頸部から発生した癌細胞だ。1951年、ジョージ・オットー・ゲイはこれを無断で培養し、増殖させることに成功した。これは人類が始めて、人由来の癌細胞の培養に成功した瞬間であった。


 そしてこの細胞を用いて人類は様々な実験を行ってきた。細胞が正常に生きるための生理学から、なぜ細胞が痛んで壊れていくかの病理学まで多くの実験がなされた。そしてその功績は人類の英知となり、論文になり、教科書になり、現在の臨床現場に生きている。


 Mrs.Helaが亡くなった後も、彼女の細胞は培養室で生き続け、今日もまた生化学の実験に使われている。


 もし癌がこの世に存在しなかったら。


 癌の研究でもたらされた生物の仕組みは手つかずのままで、俺たちが受ける医療の水準はさらに低いものであっただろう。


 そして実験を生業とする俺たちにも支障が生じる。実験で飼われている細胞のほとんどは、癌化して細胞増殖が盛んな細胞を利用している。もし癌細胞がなければ、今のように細胞を用いての研究は維持できずに停滞する。


 つまりは癌に感謝すべき点もあるのだ。特に俺たちのような、癌に寄生する研究者にとっては。


 そこで依楓が培養室の入口から顔を覗かせる。次の講演のためにと疲れを押して自分の部屋に籠もり、さらなるスライドの改良と最新の情報を確認していたのだ。

「まだ残っていたのか。斗真、今日は休め。無理をし過ぎだ」


 俺はまったく同じ意見を依楓に対して思っていた。だがそんなことを言っても意味がないことは、互いがよく知っている。

「分かっている。だがここが俺の正念場だ」


 アルコールで手を消毒し、次の作業に移る。依楓は俺の決意を感じ取り無言で一つ頷いた。

「お前がいなければ今の俺はない。あと少しだけ我慢してくれ」


 その言外には様々な思惑がある。あと少しで依楓が教授の座に上り詰めること。あと少しで新薬が市場に出回ること。


 そしてあと少しで、世界が変わること。


「我慢なんかじゃない。実験さえ出来れば、俺は十分だ」

「依楓准教授、こちらにおられましたか」


 そこで依楓を第三者が呼び止める。

 振り返った依楓の声音で相手が薬品会社の者だと分かった。新薬についての論文を発表してからというもの、俺達は時代の寵児として扱われている。


 こぞって薬品会社が情報交換を申し出てくる。世界を股に掛ける超一流のラボからうちに来ないかと誘われる。

 そして今日のように日本の各地で特別講演が組まれるのもそうだ。


「なるほど、あの件ですか。それならば、こちらへ」

 依楓はこちらに目配せして培養室を去った。どうやらこれから話し合いのようだ。


 一人きりの世界で俺は実験を再開する。新薬をさらに発展させるための追加実験だ。

 さっき山になっていた依楓のシャーレから、Hela細胞に新薬を加えたものを一つとって顕微鏡を覗く。そこで違和感を憶える。適当に眺めていたら見逃してしまいそうなほどの、シャーレの端のちいさな一塊に、死んでいない癌細胞がいた。


 俺は考え込む。

 濃度が足りなかったか、薬がまんべんなく行き渡らなかったのか。

 あるいはー


 顕微鏡の光に透かされ、Hela細胞は丸い核と辺縁だけを映して静止している。それが一体どんな意味を持つのか。俺はその意味を見定めるように顕微鏡のレンズを覗き続けた。






 四日ぶりに帰ってきた俺に、新妻の葵(あおい)は不平を零さなかった。

「おかえり、斗真」

 身重になった身体でやっとのこと玄関までたどり着くと、鞄を奪うように持っていく。


「ただいま。すまないな」

 家事を手伝うどころか迷惑ばかり掛けていることに罪悪感を隠しきれず、せめてもの償いの言葉を掛ける。用意された夕飯にはラッピングがしてあり、白い蒸気が表面を覆っている。


「いいのよ。こうなるって分かっていて結婚したんだから」

 エプロンを結ぶ背中には、理解というよりも諦めが色濃い。だがそれでも笑顔が覗いている。

「なあに、狐につままれたような顔して」


「怒っていないのか。家庭を顧みない俺を」

「なあに、怒ってほしいの」

 がおうと口でいい、人差し指で鬼の角を作りながら、葵は戯けてみせる。だがくすりとも笑わない俺に、葵の表情は固くなる。

「そりゃあね、側にいてほしいこともあるよ。けど」


 未来を抱えるように、葵はお腹を擦る。

「この子のためにも、あなたらしくいてほしいから」

 俺は立ち上がり、孤独にさせた分まで埋めるように葵を抱きしめる。葵からは晴れた日の太陽の匂いがした。


「い、痛い。お腹の子がびっくりしちゃうよ」

 俺は力を緩めた。

「すまない。だが、ありがとう。なあ、葵」

 この世の幸せをすべてに受け止めたように、葵は屈託なく笑っている。俺は曖昧に握られた手をそっと伸ばす。


「お腹、触っていいか」

「どうぞどうぞ、お父さん」


 俺は迫り出してきた葵のお腹に触れる。ここに俺達の未来がある。そう思うだけで、このままではいられないと俺の歯車がうねりを上げる。

 この子の未来のためにも、必ず新薬を世に知らしめなくては。


「あ、今動いた」

 葵の声が跳ねる。その胎動はお腹越しに手を当てる俺にも、力強く響いた。






 次の日の講演も、つつがなく終わった。


 今回の講演で、依楓は『癌撲滅大国日本』というフレーズ打ち立てた。医学研究として、日本は癌に並々ならぬ労力を注ぎ込んでいる。この流れに乗り、一気にこの世から癌を閉め出そう。そういう流れだった。


 今回の講演会場は、俺達の学生の頃に遊んだ場所に近くかった。講演終了後、俺達は講演の成功の高揚感を冷ますためになつかしい街を散策することにする。


 カラスも闇に解け始める夕暮れに秋の夜風が吹きぬける。すっかり変わり果てた町並みが俺たちを待ち受けていた。錆びたシャッターが軒を連ね、もぬけの殻となった建物が虚しい。開けたかと思えばそショベルカーが稼働する埋め立て地になっていて、青春の面影はどこにもない。


 どちらからでもなく、必死になって辺りを窺う。そして俺たちは、忘れ得ぬ思い出の地に巡りつく。

「あ、ここ。昔はゲームセンターだったよな」

 俺は立ち止まり、懐かしさに眼を細める。

「学生時代はここでクレーンゲームをして、しこたま景品を持って帰ったんだ」

「そうだそうだ、覚えている。誰が一番とれるかで競いあったっけ」

 

 依楓は昨日のことのように憶えていた。 

「斗真はクレーンゲームの神様なんて言われていたよな。あまりに上手すぎて『取りすぎるな』って店員に咎められた」

「そんなのお前らの勝手だろうって、気にも止めなかったけどな」


 依楓は懐かしそうに、右の口角を持ち上げた。


「今思うと、クレーンゲームで鍛えた器用さと運の良さが、今回の薬の開発に繋がったのかもな」

「そうだな。きっとそうだ」


 俺たちは結託して、くくっと口の中で短い笑いを転がした。そんな俺たちの思い出のゲームセンターは、更地と化していた。


 俺たちのゲームセンターが潰れた理由は二つある。

 一つは税金の増加や子供達の減少による問題。そしてもう一つは、高齢者がゲームセンターに入り浸るという事態を回避するためだ。


 俺たちはそれからネオンが灯る繁華街へと戻り、適当な居酒屋に入ることにした。


 店は小汚かったが繁盛していて、横の席では中年くらいのサラリーマンが会社の愚痴を肴に酒を酌み交わしていた。俺たちの横の壁には備えつけられたテレビがあって、野球中継が流れている。

 

 昔は凄まじいスラッガーだった選手が豪快に空振りし、悔しがっている姿が大々的に映し出された。


「俺たちが進む道は、これであっているんだろうか」


 講演での自信満々はどこへやら、依楓は苦悶の表情のままビールに口をつける。俺は冷や奴に箸を付けながら、依楓を励ます。


「今日の講演、大成功だったじゃないか。世の中には癌で苦しむ大勢の人たちがいる。それを救うことができる研究だ。これを誇らずになにを誇る」


 依楓は釈然としないようだった。俺たちの間に重たい沈黙が横たわる。


「俺はもう、あんな演技じみた講演はうんざりなんだよ。なあ、今のこの国の十五歳から四十九歳までの死因の一位はなんだと思う」


「それはお前、何かの病気じゃないのか」

「違う、自殺だ」


 その現実に、全身の毛穴が開いたと勘違いするほどの寒気が走った。俺の心に闇が立ちこめていく。


「いいか、斗真。よく訊けよ。今の日本では一年間に十万人が自殺している。この国の先の見えない不安感や閉塞感のせいだろうな。見事に俺たちの研究は的外れだ。俺たちが研究している癌は五十歳以降の死因の一位だ」


 あまりの戦慄に、俺は動かしていた箸を止めた。依楓はなにかから逃れるように一気にビールを飲み干し、グラスを乱暴に置いた。


「斗真も気づいただろう。今日来ていた聴衆のなかに若い奴らなんて、俺の眼にはほとんど映らなかった」


「それがどうした。自殺をそんなに止めたいなら、研究をほっぽり投げて臨床心理士になればいい」


 酔いも合わさり、歯切れの悪い依楓に対して俺は熱くなる。依楓は雰囲気を明るくしようと無理に笑ってみせた。その笑顔が痛々しい。


「違う、違うんだ。そういうことが言いたいんじゃない。ただ、空しいんだ。癌さえ克服できれば世の中を変えられると思っていた。誰もが安心して暮らせる理想の楽園が誕生すると信じていた。だが」


 依楓の中から溢れてくる心の叫び。俺はそれを黙って聞くことしかできなかった。


「世の中は変わってしまった。働く人数が足りないから若い奴らは必死に働いて、なんとか社会を回している。でもそんな若者に時間的、経済的余裕はない。結婚なんて夢のまた夢だ。そうするとまた子供の数は減る。それなのに俺たちは命をながらえさせる医療ばかり発達させていく。悪循環だ」


 そう、医療こそが少子高齢化現象の影の立役者だ。


 でも人はそのことを口にしない。なぜなら人には情愛がある、絆がある、思いがある。大切な者の死を簡単に受け入れられるはずがない。

 依楓は誰よりもその意味を知っていて、すべてを投げ出し、研究にその身を捧げてきた。そして依楓は理想の楽園に辿り着いたはずだった。


 しかしその眼に映る世界は、楽園ではなかった。

「俺は分からなくなってきた。これからも医療が発達していけば、医療費はまた跳ね上がる。今国会では七十兆円を超える医療費が採決されようとしている。でもな、高齢者を救ったところで彼らが社会に貢献することは難しい。感情論を除けば医療費に金を費やすことは避けるべきだ」


 依楓の言っていることは過激で、今の常識では受け入れられないだろう。すべての命が平等で救われる必要がある。それは依楓も分かっているはずだ。


「それでも。今を苦しんでいて、俺達の助けを求めている人々はごまんといる。お前はその人たちに死ねというのか」

 沈黙がそのまま、答えに代わる。

「お前は馬鹿だよ。本物の」

「なあ」


 伏し目がちだった依楓は俺の眼をまっすぐ見据えた。その依楓の瞳は幾重の色にも輝いている。高校二年生の時に母を見つめていた依楓の瞳も、きっとこんな色だったんだろうな。


「生きるためには、必要なものが多すぎる。すべての人間に資源や資金は、そもそも行き渡らないんじゃないのか」


 依楓の言うことは多分正しい。でもだからと言って、命を切り捨てるなんて話は受け入れられない。命の線引きなんて、人間に出来るわけがない。


「そうだとしても、依楓の言うようにはならないさ。もういいから飲もう」


 俺は依楓の空いたグラスにビールを注いでいく。きっと依楓も俺も酒が足りないからこんな湿っぽい話題になるのだと、自分に言い聞かせながら。

 それでも、依楓は笑わない。


「人はいつになったら死という壁を超えられるんだろうな。いつになったら、医療は限界を認めて撤退するんだろうな」


 そこでテレビの画面は切り替わり、緊急中継が始まった。

 化粧が派手なアナウンサーが、青ざめた顔でニュース原稿を読み上げる。その声は震えていた。


「トップニュースです。今日、政府関係者が来年にも、移民などで増え続ける人口に苦しむ諸外国を支援する名目に、海外から大量の子供たちの受け入れを認める声明を発表しました。私達が掴んだ情報によりますと、少子高齢化により労働人口が激減し、経済が停滞している我が国に新しい風を入れるためということです。しかし、海外の子供達を大量に受け入れることによる言語的、宗教的問題や、彼らの生活の保証などの問題は棚上げされており、我が国の混乱は避けられないものとなっております」


 その中継が流れ、俺たちの頭は真っ白になる。


 ついに、その日が来た。

 上の層が減らないなら、下の層を増やせばいい。その数合わせのために、海外の子供を利用する。小学生でも分かる答えだ。でもー


「……細胞だ」

「どういうことだ」


 依楓は笑っていた。その笑顔は、狂気のそれだった。


「細胞は集まって組織を作り、臓器を、そして人を作る。それと一緒だ。人間も集まって組織を作り、社会を、国を作る。そして、癌化は細胞から始まる。つまり、悪い影響を及ぼす癌細胞さえなければ、この国は」


「おい、依楓。しっかりしろ」


 俺は依楓をテーブル越しに肩を掴み、揺り動かす。依楓は夢から覚めたように眼を大きく見開いて、歯をガチガチ鳴らしていた。


「なあ。俺達はなにを守ろうとしていたんだろう。眼の前の命か、自分の生活か、それとも、この国か」

「すべてに、決まっているだろう」

「俺は、この国が日本人の手によって守られて欲しかった。でも、もう無理なんだろうな。皆が選んだ終焉だ。日本は今日、ここに終わった」

 依楓はそうして顔を伏せた。



 それから三十年後


「その薬は、この癌には適応にはなっておらず使用できません。なぜそのようなことを尋ねられたのですか」


 鼻で笑った金髪の医師とは反対に、通訳の女性は慇懃な日本語で返してくれた。本当ならば、英語に慣れ親しんだ私に通訳などいらない。


「分かりました。それでは入院を受け入れるとお伝え下さい」


 通訳が日本語を英語に変換していく。それを聞きながら、医師は英語でカルテに記載していく。その電子カルテの左に、私の病名が記載されている。


 Pancreatic cancer stage4

 つまりは、こういうことだ 膵臓癌、ステージ分類Ⅳ


 医師から入院に必要な書類を受け取って診察室を出る。詳しい説明はナースから訊いてくれとのことだった。


「See you」


 口笛を吹くように軽やかな響きで医師は私を見送った。外来の扉が閉まる寸で、私は医師に別れの言葉を告げた。


「I was wating for at this time、私はこの時を待っていた」






 扉の前で待機していた日本人看護師に、受付横の説明室に通された。その途中で、色々な患者を眼にする。青い眼、黒い肌、頭を覆う頭巾。


 三階の外来病棟、説明室の窓から下界を見渡す。中国語や韓国語、英語に、イタリア語、様々な看板が続いていく。その看板の下を歩く人々もそれに合わせたかのように多種多様だ。

 多種多様性。確か前年の流行語が、そんな言葉だった。


「変わりましたね、日本も。そしてこの病院も」

「ええ、そうですね」

 事務的に業務をこなすために、彼女は釣れない返事だ。

「様々な言語が飛び交うこの仕事は、大変ですか」


 なぜそのようなことを聞くのか、甚だ疑問という眼を向けた。しかしそれも、日常の患者のたわいも無い戯れ言だと判断したのだろう。


「ええ、そうですね」

 彼女は切り揃えられた前髪を揺らした。

「ですがどこも同じですよ。生きていくためには働かなくてはいけません。生きるとは大変なことですよね」


 その達観したような言葉に私は驚き、はからずも高笑いしてしまった。まさかそのような言葉を聞けるとは。看護師はむっと眉根を引き寄せる。「なんですか」

「いえいえ、しがない爺さんの感情失禁と笑ってください」


 彼女は眉をつり上げ、表情を強ばらせる。私はそれに気づかないふりをしながら、灰色の業務机に杖を立て掛ける。そして弛みきった二の腕で体をかろうじて支えながら、説明室の椅子に腰かけた。


「それでは確認させてください。あなたは斗真さんですね」

「はい、そうです」


 患者説明のマニュアルに従い、彼女は確認すべき内容が書かれた同意書を、私に示しながら丁寧に指でなぞっていく。


「ご家族はどのように現状を受け止めておいでですか」

「家族はおりません。以前はおりましたが離婚しました。それ以来連絡を取っていません」


「それでは、こちらに書かれている阿形(あがた)という方は」

「彼は私の教え子です。この病気の事情を説明すると名前を書いてくれました。若年ではありますが非常に聡明で、日夜研究を供にする私の良き理解者です」


「わかりました」

 無愛想に彼女は頷く。






 ふと、思うことがある。


 葵は、その子供は、元気にやっているのだろうか。変わりゆく日本を受け入れ、たくましく羽ばたいているだろうか。


 ある夜、重い体を押して家に帰ると、家が静寂であることに気づいた。まるで引っ越したばかりのように、床は磨き上げられ、空気が澄んでいる。うっすらと覚悟のようなものを決めながら、家の中へと歩みを進める。


 私の物以外のすべてが忽然と姿を消していた。そもそも妻も子供も、その存在が幻だったかのように鮮やかな幕引きだった。なにもかもを悟った私に妻の、もとい、元妻の葵は最後の言葉を認めていた。机の真ん中に、彼女の控えめな性格を現した直筆で、一言だけ便箋に書かれていた。


 ごめんなさい


 その文字の最後が染みになっていた。最後まで気遣ってくれる彼女の優しさが、研究に明け暮れる鬼の眼に痛かった。







「私は、文字通りすべてを研究に捧げました」

「はい?」

 唐突な発言に、彼女は奇異の眼を隠せない。

「友も、妻も子供も、地異と名誉と金も、すべてを投げうちました。それでもまだ足りないのです」


 彼女は眼を通していたプリントを落とした。彼女の眼の向こう側には、狂気と共存するしかなかった哀れな男の末路が映っていた。







 病棟の個室に通された後、すぐに待ち望んだ来客はやってきた。


「お疲れさまでした」

「来てくれていたのか、阿形君」


 患者の病院服を着て点滴に繋がれる私に阿形君は憐憫を向ける。黒のパーカーに青のジーンズという学生のような出で立ちだ。辺りに誰もいないことを確認し、懐から一つの箱を取り出す。


「これ、例の物です」

「恩に着るよ」


 私はその白箱を受け取り、嬉々として一本取り出す。そして彼の自前のライターで火を灯す。病院で喫煙という背徳感が、年老いたはずの感情を高揚させる。久しぶりの煙が肺を満たし、じんわりと体に毒気を回していく。


「一つ、聞いてもいいですか」

「なんでも答えよう」


「なぜそうまでして、先生は癌に拘るのですか」

「ふむ、いい質問だ」


 天井に溜まる煙を、ぼんやりと見上げる。

 理由。過ぎていった私の人生の果てで、そんなものにいくらの価値があるかは分からないが、阿形君が訊きたいのなら答えない訳にもいかない。


「復讐だよ」

「復讐、ですか」

「ああ、そうだ」


 私はガラスコップに灰を落とす。灰は透明な水を汚し、病室の白壁を見えなくした。


「かつて私に道を示した男がいた。その男こそが、私を癌研究に導いた張本人だ。それにも関わらず、奴は自らその道を降りたんだ」






 それは移民を受け入れる報道から十年後。






 私達の新薬は、猛威を震った癌達を完膚なきまでに撲滅することが出来ていた。新薬は国境を超えてありとあらゆる人々を救った。癌に怯える時代の終焉。誰もがそう思った。


 だが突如、逆風が吹いた。


 ある日を境に薬が効かなくなったのだ。

 困惑し、原因究明に乗り出した私たちは身震いした。癌は私たちの薬を無効にする遺伝子を導入していた。勿論、いつか癌が私たちの薬に対しての耐性を持つことは想像の範囲であった。だがその時間があまりに短すぎた。


 私たちは当然、その対策に奔走した。だが癌は勢いを増し、この薬では制御できないほどに進化していた。


 どうやらこの薬もこれまでらしい。


 寄せては返す白波のように、私たちの研究は見放されていった。研究費はものの無惨に切り崩され、研究チームは解体。さらには癌の変異をより複雑にしたという悪名高いレッテルまで張られた。


 あんなにひっきりなしに来ていた来客は、私たちを断罪する側にまわり、ラボからの誘いの電話は一切掛かってこなくなった。掛かってくるのは責任を求める叫びだけ。


 そして罪を贖罪するかのように依楓は自殺した。

 その頃には、私と依楓の中も冷え込んでいた。研究の続行を訴える私に、依楓は断固として首を縦に振らなかった。


「負けたんだ、俺たちは」

 敗北を受け入れられない私は叫ぶ。

「負けてなどいない。今はまだ勝利の道の途中だ」


 この世で一番分かりあえていたはずの男が、耐えきれずにこうべを垂れる。

「俺たちがどれだけあがこうと世界は変わらない。いたちごっこのくり返しだ」


 敗北の運命を受け入れるその潔さに、私は猛烈に怒りを憶えた。

「道は違えたようだ。失礼する」


「斗真」

 去り際に、依楓が告げる。

「すまなかった」

 その瞬間が、今まで味わってきたどんな屈辱よりも、私を惨めにさせた。






 阿形君がごくりと喉を動かした。

「それでは、復讐とは」

「依楓に、そして、癌にだ」


 私はポケットから、茶色のアンプルを取り出す。そして実験室から拝借してきた注射器に針をつけ、アンプルの中身を吸い上げる。注射器のメモリの向こうの赤い液体が、斜光カーテン越しの光で輝く。


「癌は私を捉えたと思っていい気になっているのだろうが、真相は逆だ。私が、癌を捉えたのだ」

「先生」


 阿形君に垣間見える同情を、私は一睨みで跳ね返す。


「これより研究を最終段階に移す。この実験の被験者は、私だ。目的は人間の膵癌に対する効果の確認と、副作用の強さを確認すること。以前の薬に改良を加えたこの薬ならば、癌を克服しているはず。まずはその効能を確認。そして強すぎる効能の代償としての副作用を君が観察し記録する。それを基に、この薬にさらなる改良を加えるのだ」


「はい」


 しばし瞑想に沈んだ後、阿形君の顔は研究者のそれに早変わりした。それでいい。君が私の志を受け継ぎ、次へと繋げるのだ。


 どれだけ変わろうと、日本はまだ終焉を迎えていない。街も人も変わり、文化が廃れ、淘汰されようとも。私は日本を支えてみせる。

 もう一度、『癌撲滅大国日本』を取り戻すのだ。


 私は自らの手で、薬を体に注入していく。激烈な痛みが私を襲う。体と魂が分離してしまうような激痛の中で私は訊いた。


 人間がいつの日か癌に勝利する。


 鳴り止まぬファンファーレの残響が木霊する中で、私はゆっくりと瞼を閉じた。

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日本の終焉と癌遺伝子 神乃木 俊 @Kaminogi-syun

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