彼女の服の襟のほつれが気になる僕

syatyo

ほつれ

 黒板の端っこに取り残された白色のチョークが気になる。先生がチョークを手のひらで転がす癖が気になる。音も出さずに窓の外に張り付いている小さな蝿が気になる。


 つまるところ、僕という人間は細かいことが気になる生き物だった。普通なら気になってしまうどころか気づきもしないようなことから、意識をそらせなくなってしまうのだ。だから、僕の中で細かいことには干渉しないというポリシーのようなものがあった。そんなことをしていたらきりがないから、という理由だ。


 そして僕のその性質はクラスのほとんどの人が知っていた。いつも本を読んでいる人も、休み時間になれば廊下に出て大声で笑う人も、みんな。


 だから、今この瞬間、僕は周りの目など気にせず、僕のポリシーに則って行動すればいいのだろう。だろうけれど。


「ここの数式を公式に変形するには……」という先生の声が遠ざかっていく感覚を得る。何か一つの物事に意識を集中したような、そんな感覚だった。そしてそれはあながち間違いではなく、僕の意識はたった一点に注がれていた。


 前の席に座っている女生徒の襟のほつれ。それが僕の集中を根こそぎ奪っていた。私服が許されている高校のおかげで、冬の寒さ対策でニットを着てくる女子も多い。そして、彼女も例外ではなく、質の良さそうな深緑のニットを着ていた。——襟の真ん中から糸がはみ出ていることを除けば。


 ただ、それだけなら僕だってここまで意識しようとは思わない。細かいことが気になってしまうことには自覚があったし、何より無駄だということは誰よりもわかっていた。でも、彼女が僕の高校生的な価値観でいう「完璧な人」だったから、襟から顔を出す「不完全」に目を奪われてしまったのだ。


 彼女はいわゆる「クラスのみんなから愛されている生徒」だった。容姿端麗、頭脳明晰なんていう言葉は彼女のために作られたと言う人もいて、かく言う僕もその評価に賛成せざるを得ないほどには彼女を綺麗だと思っていたし、頭がいいとも思っていた。そして堅物なんかでもなく、誰にでも気さくで、たまには悪いこともしてしまう。そんな人間的な人だった。


 だから、そんな彼女が襟のほつれを見逃すだなんてミスをするのが信じられなかった。少しおちゃらけた態度さえ完璧の中に組み込まれてしまう彼女が、完璧のカテゴリーに入ることを許されない「不完全」を見逃すミスをするだろうか。


 そんな風に僕は考え込んでしまった。そして一度考えてしまえば、思考の渦から抜け出すことは簡単ではない。彼女に言うべきか、言うまいべきか。もし言わなかったら、なんて自分とは無関係なことにまで想像を働かせてしまう。


 まるで頭の中で天使と悪魔が戦っているようだ。置き換えるなら、さしづめ天使は目の前の彼女で、悪魔は僕というところか。——どうやら勝負にならないらしい。たとえ天地がひっくり返ったって僕の勝利はあり得ない。


 覚悟を決めてしまえ。今日で細かいことに関わるのはやめにすればいい。だから今だけは——。


 そうやって伸ばした手が彼女の肩に近づいていく。五センチ近づいて、三センチ遠ざかって。そんなことの繰り返しだった。一進一退を繰り返し、ついに肩を叩こうとして、「あ」と、彼女は何かを思い出したかのようにノートから顔を上げ、ふいに僕の手に——否、襟のほつれに手を伸ばした。そうして器用な手つきで見えない範囲にほつれを収め、彼女はちらと僕の方を振り返った。


 彼女はなぜだか笑っていた。それは面白いだとか嬉しいだとかの笑みではなく、紛れもなくからかいの笑みだった。


 僕の頭の中で様々な理由が奔走する。なにか、別なことでからかわれたのだろうか。それとも、たかが襟のほつれのことで悶々としていた僕を見ていたのだろうか。どちらにせよ、彼女に笑われたという事実は変わらない。


 恥ずかしかった。まさか授業中に、他の誰でもない彼女に笑われるなど。


 そんな風に再び煮え切れない思いを抱える僕をからかうように、彼女は黒板に顔を向けたまま、僕に折りたたまれた紙を渡した。どうやら読めということらしいので、僕は渋々、紙を開く。


「気づいてました。残念」


 紙に書かれた端正な文字。それが僕の目から入り込んで、脳内で彼女の声で再生される。一度も話したことはないけれど、何度も聞いたことのある声だ。


 そして間髪入れずに二枚目の手紙が届く。もちろん、僕も今度は躊躇などせずにすぐに開いた。


「今度から、気にしいの君——仮に魔王としよう——に挑戦しようと思う。負けたくなければ、私の変化に気づくことだ」


 先ほどより少し長い文章に、僕は思わず笑い声を上げそうになって、必死に口を抑えた。しかし、仕方ないことだ。なぜかはわからないけれど、彼女はキャラを作って僕に挑戦を仕掛けてきたのだから。


 突然、不思議な関係が始まった。他人事のように僕は心の中で呟いて、ノートの端っこを千切って返事を書く。


「受けて立つ」と。


 一度も話したことのない、完璧な挑戦者と気にしいの魔王。はたから見れば、どころか僕から見たっておかしな関係だ。順序がバラバラで、ごちゃごちゃで、まるでほつれた糸のような——でも、それでもいいのかもしれない。


 襟のほつれから始まった関係なのだから。

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