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 名古屋市は郊外、新興開拓街として著しい発展を遂げる地域がある。ついこの間までは、昔からある家屋やお店が並ぶ、閑静な住宅街だったように記憶しているのだが、最近になって随分様相が様変わりしてきた。


 その理由は、大きく二つ。


 最近になって、地下鉄の沿線が付近まで伸びてきたこと。


 そして、県道沿いに大型のショッピングモールが出来たからだ。


 人を集めるランドマークと、交通網。その二つが正常に機能するだけで、こうも発展するものなのかと疑問には思うけれど、きっと私が知らないだけで理由はそれだけではないのだろう。


 世の中というのは、知らないことによって成り立っている。


 それとは別に、『世界とは、およそ個人が認識できる範囲によってのみ存在し得る』という理論もあるのだけれど、それはまた別の話。とにかく、そんな住宅街の一角に、今の街並みに全くそぐわない純粋な日本家屋――時織本家屋敷はあった。


 時織ーーつまりは、私の実家だ。


 帰って早々、身体に付着した“色々な”汚れを落とすためにお湯を浴びていた私は、浴室から出ると真っ直ぐに洗面台へと向かった。


 時織家の屋敷は広い。それはこの第2浴場も例外ではなく、壁一面を使った鏡張りの洗面台、床には檜で作られた純和風のすのこ、一体何人で入ることを想定しているのか分からない衣類入れの数、どれをとってもおよそ一家庭の規模ではなかった。これでも屋敷の中では小さな部類に入るのだから恐れ入る。13年間暮らした実家を、まるで他所様の家のように思いながら、私は、洗面台に備え付けられたドライヤーを手に取る。


 髪を乾かしている間手持ち無沙汰なので、鏡に映った自分の姿を何気なく観察する。


 相変わらず貧相な身体だった。ところどころ古傷は散見されるし、欲を言えば、もう少し筋肉が欲しい。自己流で鍛えてはいるのだが、あまり成果は出ていないのが現状だった。

 

 視線を上に移す。


 鏡の中から私を見つめるその目は、まるで死んだ魚のようだった。いや、それでは死んだ魚に失礼というものなのかもしれない。どろどろの墨汁を流し込んだかのような、抑揚のない瞳がそう物語っていた。


 なるべく早く乾かすために、髪に櫛を入れながらドライヤーを当てる。


 生糸のようなプラチナブロンドの髪は、時織にとって異端の証。特に似合っているわけでもないし、あまりいい思い出もない。


「はてーーよくよく考えれば、そもそも自分の人生にいい思い出など何かあっただろうか」


 はなはだ疑問ではあったので、鏡の中の自分に訊いてみた。


 そいつは何も言わなかった。


 私も、同じ気持ちだった。


 そうこうしている内に、髪を乾かし終える。


 流石に元の服をそのまま着るわけにはいかないので、かつての自分の部屋から持ってきた服を着る。そしてもう一度鏡の前に戻り、髪を結び、浴室を出た。時刻は既に23時の半分を回っている。あまりもたもたしていると、アパートへ戻る電車が無くなりそうだった。自分の部屋に置きっぱなしの泥だらけの服を取ってさっさと帰ろう。アパートに置いてきたあの子のことも気になるし。そう思いながらも、“妹”のことが頭に浮かび、どうしたものかと廊下の角を曲がったところで、私は小石(こいし)さんとばったり出くわした。


「友様――!」


 まるで生き別れの姉妹でも見たかのように、その端整な顔を余力なくびっくりさせる小石さん。ただでさえ大きい瞳が、輪に掛けて丸くなっていた。


「ただいま、小石さん」


 挨拶。なるだけ気さくに。


「――失礼しました」


 すると小石さん、先程までの動揺っぷりが嘘のように冷静な顔つきになる。


「お帰りなさいませ、友様」


 そして深々と、それはもう心の腰が折れるんじゃないかってくらい深々と、お辞儀された。


 うーん、何だかばつが悪い。


「様は止めてよ、小石さん。私にはもう、その“資格”はないんだから」


「いいえ、私にとって友様はいつでも友様ですから――。資格など関係ありません。そこにあるのは、私の意志だけでございます」


 そんな強い言葉とは裏腹に、顔を上げた小石さんの表情はとても優しかった。柔らかい、包み込むような笑顔。


 本当に変わらないなあ、と思う。


 彼女は全然変わらない。子どもの頃から。こんな私を見続けているのにも関わらず、揺るがない。


 ――道端(みちばた)小石。


 女性の歳について言及するのはとても遺憾だけれど、今年二十六歳になる彼女は、時織家に仕える使用人のようなものだった。


 その中でも、特に私の世話役を与えられている。


 彼女がまだほんの子どもだった頃から、それ以上に子どもだった私の面倒をみているというのだ。


 当の本人が言うのもなんだが、それは想像を絶する地獄のようなものだと思う。


 ある意味で。


 あらゆる意味で。


 筆舌に尽くしがたい。


 その労力たるや、想像に余りある。


 それなのに。


 今もこうして、私に変わらず接してくれる彼女の人格がいかに出来ているかは、もはや言うまでもないだろう。


 本当に。


 本当と言えば本当の本当に。


 私なんか、放っておけばいいのに。


 そうすれば小石さんみたいないい人、すぐにでも幸せを見つけられるだろう。


 私としてはその方が嬉しいのだけど、まるで自分のことのように嬉しく思えるのだけれど、彼女は決してそれをよしとしないのだ。


 私が何も言わずにいたからだろうか、小石さんはまたしても腰を曲げて言う。


「友様が息災で、何よりでございます。本日は月に一度、友様がお帰りになられる日。私、心待ちにしておりました。もし何かご用命があらば、何なりとお申し付けくださいませ」


 何なりと。


 彼女が言うその言葉が、決して軽いものではないことを私は知っている。


 仮に、私が彼女に死ねと言えば、彼女は何のためらいもなく死ぬだろう。


 例えば、私が彼女に誰かを殺せと命じれば、彼女は躊躇なく殺すだろう。


 それは覚悟の問題だ。


 彼女という人間を形成する上で、最も根幹をなすであろう覚悟。


 そんな彼女に対し、今私が言わなければならないことは、一つしかないような気がした。


「小石さん」


「何でございましょうか?」


 私はちょっとだけ言葉を選んでから。


「いつもありがとう。感謝してる」


 意表を突きたかったので、ストレートでいく事にした。


 はたして小石さんは、一瞬だけきょとんとしていたが、流石、瞬きしている間にいつもの表情に戻っていた。


 そして、どこか手のかかる子どもを見るような目で、


「ご当主様も――」 


 と、話を切り出してきた。


「ご当主様も、友様の事を心配なされていましたよ。少しだけでも、顔を見せられてはいかがでしょうか」


「心配、ね――」


 当主ーーこの家では、その冠が指す人物は絶対的に決まっている。


 時織身子(ときおりみなみこ)、私の、義理の祖母だ。この家の全てを決めるのは彼女であり、それは時織という存在そのものだった。圧倒的で、唯一絶対の存在。この家の人間は皆、誰が一番偉いのか、骨の髄に刻印されている。



「……どうだか。この家ではもう、私の存在なんて無いのと同じだからね」


 実際、小石さん以外にも何人かの使用人とすれ違ったけど、誰もが見てみぬふりだ。それはそれで気が楽なので、特に気にならないのだけれど、どうやら小石さんは違うようだった。


 表情はこそ変わらなかったものの、その綺麗な瞳が暗い色を帯びたのがわかる。


「それは――いえ、出過ぎた事を言ってしまいました。申し訳ございません」


「いや……いいんだよ」


 謝られるのは苦手だ。どういう顔をしていいか分からないから。


 笑えばいいのかだろうか。そんなこと気にすんなよ、と。それはいいな。実にいい。でもよくよく考えてみたら、私は笑い方を知らなかった。他人の笑顔は知っているのに、自分の笑顔は知らなかった。


 慰めの言葉も、知らない。


 このままでは人として最低な気がしたのでーーもうすでに致命的に手遅れだがーー私は、かねてからの考えを提案することにした。


「ーーそうだ、小石さん。1つ頼みたいことがあるんだけど」


「何なりと」


「今度、時間がある時でいいからさ。一緒に食事でも行こうよ」


「私がーー友様と、ですか?」


 驚く小石さん。


「嫌かな?」


「いえーー」


 喜んで、と小石さんはお辞儀した。


 やっぱり大人だなあ、と思った。


 詳しい日時はまた今度、と私は小石さんと別れる。そして大広間の前を通り、かかったところで――今度は、身依(みより)と遭遇した。


 ばったり。


 使用人を二人連れ添って、廊下を歩いて来た彼女に、私は頭を下げる。


「ただいま帰りました、“身依様”」


 長い黒髪。サイズの大きい着物。九歳の女の子相応の、小さな、とても小さな身体。


 時折身依。


 僕の義理の妹だった。


 もっとも、“養子は私の方”なので、正しい視点としては身依側から見ての義理のキョウダイなのだろうけど。


 身依は、何も言わなかった。ただ僕を、その感情の欠落した表情と瞳を持ってして見つめ、そして一度だけ両脇にいる従者へと視線を移すと、そのまま元の鞘に納める。どこを見ているか分からない、どこも見ていないその視点へ。


 たぶん、この時間帯まで“教育”を受けていたのだろう。自分もほんの少し前までは経験していたことなので、考えるまでもなかった。


 疲れている様子はない。まるで人形のような。機械のような。“生きていないかのような”。ただ、存在しているだけであるかのような。


「友」


 身依が、ゆっくりと、その小さな唇を持ち上げる。とても平坦な、抑揚のない声だった。


「後で私の部屋に来るように」


「……分かりました」 


 私は答えて、そしてすぐに、身依はこの場から去って行った。


 一度も振り返ることなく。


「なんだかなあ……」


 その呟きに、意味は無かった。

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