第0章

 大学の帰り道だった。


 講義が長引いてしまい予定の時間に間に合うかどうかの瀬戸際。実家への近道にと普段は通らない公園を横切ろうと急いでいたーーその時である。


 私は、耳にしたことのない“音”を聞いた。


 音ーーそう、それはもはや人の声ではなかった。


 声帯を潰されたカエルのような、低く、唸り、濁った、なんとも形容しがたい声。


 そして、それをかき消すかのように響くのは、肉と血をぐちゃぐちゃにかき混ぜるかのような、生々しい音。


 心臓がどくんと脈打つ。


 反射的に、


 音のした方へと視線を向けると、


 そこは地獄だった。



 ーー赤。



 一瞬で視界が塗りつぶされる。赤く赤く、どこまでもアカク。鮮烈な、苛烈なまでに暴力的な深紅。外灯に照らされる地面が赤い。水溜りだ。水溜りが真っ赤だった。大雨が降ったかのように、一面が水浸し。全てが総じてことごとく、どこまでも、赤い。


 ーーそして。


 その中心では、何かが蠢いていた。


 人だ。全身が真っ赤に染まった、女子高生だった。


 かろうじて垣間見える、近くの高校の制服。

ぼろぼろで、いたるところがはだけていようが、一切お構いなく、返り血をこれでもかと浴びながら、彼女はーーそいつは、一心不乱に何かを壊していた。


 低く低く、唸りながら。


 肉を、肉の塊を。臓腑を。骨を。血を。力任せに。乱暴に。何度も何度も引き抜き、撒き散らし、ただただ、ひきちぎっていた。


「ーーっ」


 衝動的に声が出そうになるのを、すんでのところで阻止する。口元を手で抑えながら、頭の中では思考がめまぐるしく乱流する。


 逃げーーなければ。


 突然の出来事に、理解が追いつかない。それでもとにかく、この場を離れなければ。


 そう思った、その時。

 

 一瞬、目が合う。


 女子高生と肉塊のそばに、マネキンのように転がる、生首と。


 おそらく、早々に胴体から切り離されたのだろう。肉体があれだけの破壊を受けてもなお、頭部は比較的原型を留めていた。

 

 

 長い黒髪の美しい少女ーーだった。



 生気のない、虚ろな眼。光を失った瞳はしかし、燃えるような赤色で。まとまらない思考の中、その少女の情報だけがクリアに飛び込んでくる。早く逃げなければならないのに、足が動かない。それは恐怖だとか混乱だとか、もはやそんな雑味ではなかった。


 私は、魅入られてしまっていた。


 圧倒的非日常の中において、燦然(さんぜん)と輝く存在感。


 死してなお、己の肉体を破壊し尽くされてなお、泥と血に塗(まみ)れ首だけになろうが、少女はどこまでも美しかった。


 目を、見開く。その姿を焼き付けるように。


 息をのむ。恐怖は無かった。理解は必要なかった。


 私は、彼女に心奪われていた。


 時間にして数秒にも満たない間、文字通り放心。


 されど現実は非常で。


 破壊者が、こちらを向く。


 気付かれた。そう、知覚するとほぼ同時。


 背筋が。


 ぞわりと。


 震えた。



「――――っ!?」



 反射的に、一歩下がる。


 その刹那。


 私が先程までいた位置を、そして目の前を、“ぶん”と何かが猛烈な速度で駆け抜けた。


 何事かと理解する前に。


 本能が。


 視界に飛び込んできた光景を、無理矢理脳に伝達する。一瞬で。目の前に女子高生。しっかりと踏み込まれた脚。そして、振り上げられた拳。


 目的は、明らかに一つ。


「な――なあ!?」


 私は、無理矢理にそれを避けようとして、後ろに、しかし足をもたつかせ、ほとんど転倒するような形でその一撃をかわした。


 臀部(でんぶ)に激痛。けれどそんなものを気にする暇などなく。



 ヤバい――!


 この体勢、“次がかわせない”!


 女子高生の“足が振り上げられる”。まるでそれは断頭台のように。人体の間接を無視したかのような生粋のかかと落とし。



「あ――」



 死んだ。


 そのとき。


 私は。


 そう思えた。


 意識がクリアに。思考が澄み渡っていく。急速に遠のいていく現実が、スローモーション。ノイズのような雑音が耳奥にこだまし、そして――私は最後まで目を閉じなかった。



「馬鹿者っ!」 



 それは突然に。意識の外から強制的に介入してくる、よく通る声。ノイズが消し飛んだ。瞬間、ものすごい力で引っ張られる。「ぐえっ――」首が苦しい。前へフェードアウトしていく視界。


 そこに映っていたのは、驚愕の光景だった。



 “ずがん”、と。



 腹の底に響くような破壊的な音と共に、地面が爆散した。


 飛び散る土のつぶて。その中心には、その現象を引き起こした張本人。疑うまでもない、あの女子高生だ。


 と。


 突然、身体全体を覆っていた浮遊感が消えた。地に足が着く。がくがくと膝が意図せず崩れ落ち、救いを求めるように視線を向けた先、そこには少女がいた。


 見間違うはずがない、あの破壊し尽くされていた少女である。


 髪と同じ、墨を塗り潰したかのような真っ黒なワンピースを身に纏い、凛と前を向いて立っている。


 身体は小さいのに。


 その姿たるや実に威風堂々。


 矢のようなその眼差しで、女子高生を見据えている。


 さすがに、混乱した。


 頭の中がパニックになる。


「あのーー」


 聞きたいことの一つも形にはなっていなかったが、それでも私は口を開く。しかし少女はそんな私を遮り、言った。


「待っておれ。すぐに終わる」


 それは私を制するというよりも、見据えた先にある破壊者に向けたものだった。


 “ずるり”と。


 女子高生は地面に埋没していた自身の足を、あまりの衝撃で“ぐちゃぐちゃ”になったその足を、いとも簡単に、顔色一つ変えることなく、引き抜いた。


 私達を見つめるその双眸(そうぼう)は、どこか虚ろ。まるで鏡を見ているかのようなその眼差しに、私は一人息を呑む。


 だらりと、身体全体から力を抜いた片足立ち。壊れた右足は引きずるように。けれど邪魔にはならない。そう思わせる程の“殺意”が、彼女からありありと発せられていた。


「…………『%&§*』…………『×£¢○』……」


 瞬間。


 何事かを呟いたかと思うと、女子高生の身体が“跳ねた”。


 誇張なんかじゃない。


 そのものそのまんま。


 スーパーボールのような勢いで。


 人間の身体が。


 跳ねたのだ。


 スタートダッシュなんてもんじゃない。ほとんど一瞬。瞬き刹那の亜音速。


 人間の身体の、何て柔らかいこと。


 女子高生は空中でその肢体をひねり、ひねり、ひねり、まだひねり、そして“壊れた足を”、“骨が砕けたことによって間接という制限を失った”その足を、鞭のように放った。


 目標は、少女。


 ここまでがジャスト一秒。


 しかして少女は、女子高生が放った鞭打を易々と跳ね返した。


 そう――“跳ね返した”。


 見切ったとか、受け止めたとか、そんな綺麗な技じゃない。まさしく力技。少女は、その細い腕を無造作に振るっただけだった。


 それだけで、女子高生を身体ごと跳ね返した。


 決して小柄とは言えない女子高生の身体が、大砲の弾のようにぶっ飛ぶ。一バウンド、二バウンド、三バウンド目にしてようやく、地面に“おろされ”ながら滑って行き、公園の遊具に激突して静止した。


「ふむ……全然じゃの」


 言いながら、少女がまるで調子を確かめるかのようにぶんぶん腕を振るう。


 私は、ただただ絶句していた。


 女子高生は動かない。糸が切れた人形のように。いや、壊れた玩具のように。素人目に見ても、再起不能の状態。倒壊した遊具を背に、身体が、中心からあり得ない方向に折れ曲がっている。


 しかし、それを言うなら、何故、今私の隣にこの少女は立っているのだろうか。


「…………」


 考えても、分からないことなのは明白だった。仮説を立てるだけの材料すら、今の私は持ち合わせていない。


 少女を見る。


 彼女はこちらを見ていなかった。


 あくまで視線は、まっすぐ女子高生に向けたままである。それはまだ終わっていないという事実を指していたのかもしれないし、そうでないのかもしれなかった。分からない。思考ができないということは、自分にとって案外もどかしいものらしく、 しかしそんな感情を気取られるのはなんとなくはばかられたので、私は少女から目を背けた。自分のことなのに、随分曖昧なんだなと他人事のように思いながら。



「もうちっと待っおれ。今“喰らう”」



 少女が言う。何を、と聞く暇はなかった。彼女が軽く右腕を振るうような動作をすると、次の瞬間には、彼女の右腕が鋭利な刃物に変化したからだ。肘から先に、鈍く輝く銀色の刃。元のか細い腕など跡形もなく。人の腕があんな風になるという常識を、どうやら私は知らなかったようだ。それほどまでに自然に、当たり前のように少女の腕は異形へと変化した。


 少女が歩く。右手に刃を携え。女子高生の元へと、一直線に。


 一歩、また一歩。


 それは決着への足音だった。


 女子高生は未だ動かない。動けない。


 対して少女は十全。手には、いや手は武器。生殺与奪の権力は、明らかに彼女の方にあった。


 与えるか、奪うか。


 喰らうーーその言葉からイメージを繋げるに、少女の中で答えは決まっているのだろう。


「…………」


 ほんの少しだけ、止めるべきかどうか、迷った。人殺しはよくないよと、確かな正論を伝えるべきなのだろうかと。


 当然、実行には移さない。そんなことをしても意味がないことは分かりきっていたし、何より私にその資格がないことは自明の理だった。


 私は、今から少女がすることを大人しく見ていることにした。


 待て、と二回言われた。ならば待つのが道理というものだろう。飼い主の言葉の意味は理解できなくとも、自身に求められている行為は理解する。そんな犬の気持ちが、分かったような気がした。


 必ずしも、忠義であるとは限らないのだ。


 自身を取り巻く状況を呑み込めないというのは、不安なもので。足元を見た時の不安定さ、先を見た時の不確定さはストレスに直結する。そんな中、全てを与えてくれる存在にすがりつくのは自然の流れだろう。


 ちょうど、今の私と同じように。


 自然の流れ、いつだって私は流れにすがりつく。


 少女が女子高生の前に立った。そして、右腕の切っ先を彼女の胸元にあてると、あっさりと、なんの躊躇や思考もなく、刺した。


 まるで果物に包丁を通すかのように、抵抗なく刃は女子高生の身体に呑み込まれていく。


 血は、出ていなかった。けれどそんなことは些細なことだった。


 ここまで異常の連続ではあったが、締めくくりも呆気ないほどに異常だった。


 女子高生の身体が、刺されたところから鈍色に液状化していく。人体が液体に。そして刃を伝い、ポンプのように少女へと移動していく。


 ものの十秒もかからず、女子高生の肉体は、跡形もなく消え失せてしまった。残されたのは、倒壊した遊具と、一面の血の海、私、そしてーーたった今、電池が切れたようにその場で倒れた少女だけだった。





 


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