第二話 「壮絶」



 壮絶‼ 危険な魔法修行レッツ・エクササイズ



 


 一人の静かな夜。

 今日も今日とてスーパーで買ってきた総菜を広げ、何にもならないぼんやりとした思考に耽っていた。


 とまあ――いつもならこんな調子で日を跨いでいてもおかしくはないワケだが、これからそういった日常ともおさらばだろう。

 目の前の光景がグニッと歪む。

 そこに突如として出現する棒立ち状のネコ――いやネコっぽい何か。

 名前はジョンと言う。

 クリーム色の体毛に大きく垂れた耳、お髭がピンと張った口元、ふにふにとした肉球お手々も、全てが愛くるしい。

 しかしこの姿は実は偽り、そしてこの熱き思いを乗せて全力で頬ずりでもかましてやりたいが、触れる事すら出来ないという生殺し状態なのだ。


「重夫くん、また空間剥離現象が起きそうモフ。急いで支度するモフ」

「あ、自分、時間外労働はやらない主義なんで」


 あの夜以来、こうして不定期にジョンは現れる。

 そして何か原理もよく分からない、壁ではなく空間を塗装するという作業を強要してくるのだった。

 しかし、どうやらこちらの様子――つまり俺の周辺の様子をそっちで監視なりしているんだろうから、もちっとタイミングを図ってくれてもよかろうもん。


「何言ってるモフ。パパッとやればまたすぐ戻ってこれるモフ。そうやって面倒な事は先伸ばしにしてると、取り返しがつかなくなるモフよ?」

「まさかそんな正論で諭しに来るとはな。ふっ、やってくれる――」


 正論で来られたら返す術がないので、仕方なく箸を置いておもむろに立ち上がる。

 支度をすると言っても別段何も無く、部屋の戸締りをするぐらいのものだ。


「そだ。行く前にちょっと、様子見てこようかな」

「重夫くん、だからそういう事は目的を済ませてから存分にやればいいじゃないかモフ」

「まあまあ、どうせ行きの道にあるわけだしさ」

「それを言うなら、帰りの道でいいモフ」

「ほう、さすがジョンだ。思わず納得した」

「まったくもう。それじゃあ行くモフよ?」

「了解でゲス」


 本当に特に用意もしないまま、靴を履き部屋の外に出ては鍵をかけるだけ。

 そうして下へと続く階段を降りる。


「今日は近く?」

「予測ではここから約3400メートル先の病院脇にある林の中モフ」


 俺が話しかけた空間には何も無い。しかしジョンの返答はそこからしっかりと聞こえてくる。

 別にこれはホラーでも何でもなく、単にジョンの姿を周りに見られてマズイ事になるので、基本的に外出時はこのような光学迷彩を使用してる。

 いや光学迷彩ってか、ジョン曰く視覚効果を無くしてるだけという話だが。


 それなりに距離があるので下の駐輪所から中古で買った原チャリを取ってくる。

 なるべく早めに処置をしたほうが良いとジョンがせがむので、そんなに距離がない時もバイクは使っていた。

 ガソリン代もタダではないのだが、まあこれも世界を救うため。


 俺は颯爽さっそうとバイクにまたがると、ボロいせいでどこか気の抜けるような排気音を響かせて、目的地へと向かうのだった。









 やって来たのは町で一番の大病院の横手、それなりに群生した雑木林の中である。

 例の如く、俺達以外は入れなく、中でどんな異常が起ころうとも周りからは何も感知できないという特殊な結界を張ってるらしい。


「やーっと着いた。暗くて道がわからんせいでちょっと迷ったな。ていうかさジョン、空飛ぶ魔法とかないの?」


 周りからの視線を気にしなくなった事で、ジョンがその姿を顕している。

 その空中を漂う怪奇な化けネコに向かって愚痴っぽく呟いてみた。


「あるにはあるけど……重夫くん、もしそんな目立つ事して誰かに目撃されたどうするモフ? 僕らがやってる事は超極秘だという事ちゃんと認識してくれてる?」

「極秘っつても、やってる事は塗装作業だしなー。それに、ジョンみたいに姿消せばよくない?」 

「僕と重夫くんの体では勝手が違いすぎるモフよ。そもそも僕のはただ目標地点――キミからは知覚できない精神体が存在している座標に意識と、そして映像と音声を強引に絡ませて投射してるに過ぎない。実際にそこに在る物を見えなくするのは正直難しいんだ。ましてやそれが動体ともなれば尚の事」


 喋ってる合間にも左腕に取り付けた腕輪のスイッチを押して、変態もとい変身を済ませておく。

 何はともあれ、この格好でなければ作業を開始できないのであった。


「んじゃあさ、こう瞬間移動みたいな事できる魔法は?」

「瞬間移動モフか。不可能ではないと言っておくけど……」

「え? できんの?」

「物体を量子の域まで分解させてそれを光速で送り込み、そしてまた目標地点で再構成するという方法で、無機物を瞬時に長距離間移動させる事はできたんだモフ」

「無機物ってことは、つまり生物では成功しなかったと?」

「それが、何度か実験動物で試して成功はさせてるんだ。ただ……」

「ただ何?」

「……聞きたいモフ?」

「え、そりゃまあ」


 そのジョンのいかにもな言い回しにおどおどと反応しながら、目的である空間剥離現象が起こっている現場にたどりつく。

 林の中は真っ暗だったが、左手の腕輪からかなりの光量を発する事ができるため特に不自由はしない。

 それにしても、相変わらず気持ちの悪い光景だった。

 目的の場所の前でマジカル脚立の準備を終え、手にマジカル刷毛を持って塗装作業にかかる。

 その単調作業の間もジョンの話は続いた。


「この研究に携わっていた第一の研究者が繰り返しの動物実験の結果に満足し、ついには自らの身でその確実性を証明しようとしたモフ」

「ほほう」

「そして当日、その人体実験は見事に成功を果たし、研究者はおよそ数千キロの距離は僅か数秒で往来して見せたモフ。研究室は歓声に沸き、もはやこの方法での移動が世界に定着するものと思われた」

「ふむふむ」

「しかし、その数時間後に事件は起きたんだ。実験の成功を収めた筈のその研究者が突如、謎の死を遂げたモフよ。その研究者が持病を患っていたせいもあって、度重なる研究疲れが度を越していたのではという話が囁かれていたモフ」

「なるほど」

「けれど真実は違ったんだモフ。その死の謎を追求するために行われた検死解剖で担当医が彼の体を切り開くと、彼の内部――つまり胃や腸や臓器に至るそれらがまるで醜く変形していて、それはもう人間としての生理機能を果たさないほどだったとの事モフ」

「うへぇ」

「そんな事があっての後、その方法で瞬間移動は永久に廃止されたモフ。以来、特に新たな方法でのそういった実験も成されてないという話」


 ジョンの話はそこで一区切りがなされた。

 暗く不気味とも取れるこんな林の中で聞かされる話としては臨場感抜群なのだが、どうもその話が出来すぎている気がしてならない。


「なんかまるで都市伝説とかにありそうな話やったね」

「……」


 俺のその何気ない一言に、ジョンがバツの悪そうな沈黙を作り出す。

 なんですかアナタ、その分っかりやっすい反応は。


「あれあれ? 何? え? うそなの? 作り話だったの?」 

「いや、ち、違うモフよ。その……途中までは本当の話だったモフ」

「途中までってどの辺?」

「む、無機物での移動は可能だったって所。けど送り込んだ先でその物体の形状が変わっていたり重量が変動していたりしたので、さすがに危険だという判断がすぐさま下されたんだモフ」

「で? なんで話を脚色したん?」

「し、重夫くんがいけないモフよ! 重夫くんが何かにつけて魔法の力に頼ろうと――楽ばかりをしようとするから……! ちょっとお灸を据えるつもりで、話を怖くしてみたんだモフ」

「えー、自分だって魔法に頼りっぱなしじゃん」

「ぼ、僕は仕方がないよ! そうじゃないと、こちらの世界に干渉できないんだから」

「まあ、それは分かるけど。けど便利な物ならもっと使うべきじゃない?」

「……重夫くん、この世に万能な物なんてないよ。それにどんな場合に於いても、大きな力を行使するためには、それ相応の危険や代償が付きまとうんだ」

「説教臭いなぁジョンは」


 心象をそのまま口にする俺へ、何やら残念そうな溜め息を返してくれたジョン。

 彼の言っている事は基本的に正しいのだけれど、そんなのばかり聞かされても気が滅入るというものだ。


 まあ、そんなこんなで、話している間にも作業は順調に進んでいく。

 ジョンの言葉通り、空間剥離現象は早めに処置を施せばすぐ終わる。

 時間経過と共にそれが拡大していくため、初期段階は剥離している面積が小さいのでそれほど大掛かりな修復をする必要がないのだ。

 最後の仕上げとして塗りにムラが出てないかを脚立から降りて確認する。

 ほんとにもう、なんだろうかこの日常の一コマ。


「仕上がりはこんな感じでっせお客さん」

「良い感じモフ。重夫くんもだいぶ慣れてきたモフね」

「まあ、これで計4回目だからねー」


 ジョンと初めて会った日を含めて、累計で4回はこんな事を繰り返している。

 この現象が起こるのは決まって夜遅くであり、しかもその範囲が俺が住んでいる町限定なのである。

 その事はジョンにも何度か訊ねているのだが、彼のその口から明確な答えが得られたことはないという有様。

 曰く――こちらとあちらの世界を干渉させているこの現象自体が、まるで次元断絶界を一本のでかいパイプで丸々ブチ抜くようなもので、つまりそのパイプを通ってくる限り出現する範囲や時間帯が似通ったものになるらしい。


 この話を聞いた時は「そういうもんか」と納得しかけた。

 ――が、よくよく考えればちょっと変だ。

 そもそもなんでそう都合よく俺の近くにだけ、異界を繋ぐパイプのようなものができたのか。

 そのパイプのような物の存在を確認できているなら、まずそれ自体をどうにかできないものだろうか。

 あるいはその話は仮定の段階で、ジョン達もまだその実態を掴めないでいるのか。


 どちらにしてもこちらからの詮索は意味を成さないので、無駄な事に固執するのはやめている。

 そう、これが思考停止ってやつだ。


「そういや、一応は眼前の敵という位置づけのあのショタっ子、あれ以来とんと姿を見んねー。邪魔が入らず作業できるのは有り難いけど」

「その事だけど、僕たちが始めて会ったあの日、同じような手口での襲撃がこちらの世界でもあったという話は前したよね?」

「えーっと、聞いたような気がしなくもない」

「大事な話だからちゃんと憶えていて欲しいモフ。あの日僕らの世界で中央管理局という機関が襲撃されたモフ。そこはいわば僕が所属してる陣営の大本営とも言える場所。自慢じゃないけど局の戦力は過多なぐらい充実してるから、襲撃と言っても局内部の被害は大したことなかった。ただその際に、様々な遠隔魔法で僕をサポートしてくれている第2独立情報室もその標的に選ばれていたんだ。こちらも幸い、優秀な専任守衛官の働きで損害と呼べるものを被らずに済んだ。けど恐ろしいのは……相手がこちらの局内部の情報をこうまで明確に把握していたという事モフ」

「襲撃目標はジョン達、つまり今こうやってこっちの世界に干渉してきているのを知っての事なわけか」

「僕らがやっている事はごくごく限られた人間にしか知られていない、言うなれば超が付く極秘任務なんだモフ。それを易々と見破られただけでなく、本丸である情報部の襲撃を許してしまったというのは情けない話。というより、相手側がそれ程に手強い諜報力を有していると取れるモフよ」

「なんかスパイ映画みたい。実際、スパイにでも入り込まれてるんと違う?」

「勿論、そういった可能性は否定できない。けど何よりも一番危惧しなければならないのは、重夫くん――君の事なんだモフ」

「え? マジ? 俺スパイなん?」

「違うモフ……なんでそこで重夫くんにスパイ疑惑が浮上するモフか……。そもそも自覚のないスパイって何モフ。――って、もう、そうじゃなくて! 敵側にとって重夫くんこそが最重要の抹殺目標であるという事!」

「えー、やだなそういうの」

「重夫くんの心情なんて相手は考慮してくれないモフよ。ともかく、そんな相手があれ以来何の行動も起こしてこなかったのは不自然モフ。おそらくこれより先、何らかの形で再襲撃があるはず。重夫くんはその事を十分に認識して警戒を強めていて欲しいんだ」

「いやぁ、でも俺一人じゃどうにもならんよ?」

「うん、その事に関しても、今上層部に掛け合って対策を用意している所。もうしばらくしたら、ちゃんとした形で君を護衛できるようになるかもだモフ」

「しばらくって……じゃあそれまでは?」

「それまでは僕がいるモフ」

「うわ、聞かなきゃよかった」

「し、失礼なモフ! 僕じゃ不満だって言うモフか?」

「だってさー、仮にも俺は護衛対象なワケでしょ? この前その俺に、おもっくそ肉弾戦させてたんは誰よ?」

「で、でも、結果的には重夫くんを助けられたから」

「うん、まあ、結果的にはね」


 ジョン達がこちらの世界への物理的な干渉を行えない以上、必然的に俺が前線に立たされるという話は理解できるが、しかしこちらは命を張っているのだ。

 そこは簡単には妥協できない部分でもある。


 とは言え、こちらも一応ジョンに協力すると言ってのけた手前だ。

 たとえ危険であっても何とかなる範囲であるなら、この田井原重夫、この身を賭して世界の安寧を守ろうではないか。

 うん、あくまで何とかなるって前提条件の上でね。


「まあ、これから先、出来れば何事もなくありたいねー」

「その気持ちはわかるモフ。でも警戒だけは怠らないでおいて」


 とりあえず、本日の業務は終了という事で家路につくことにする。











 行き交う車もほとんど姿を見せなくなった時間帯。

 俺達はアパートへと戻ってきた。


 しかしすぐに二階の部屋には戻らず、駐輪場にバイクを置くと古アパートの裏手へと回る。

 そこにはわりと広めのスペースを有する庭のようなものがあるのだが、今現在その裏庭は大小様々な家財という名目の粗大ゴミによって占拠されている状態だ。 

 一応、雨露を防ぐブルーシートをかけられているそれらだが、果たしてゴミ以外の何に見えるというのだろうか。

 詳しくは知らないが、この見た目通りのボロアパートは利用者にとってその低家賃こそが存在意義なのである。

 しかしまあ、中にはその格安の家賃さえ払えず滞納する輩がいるワケだ。

 そういう人達がたまに、最終手段として賃金のかわりにこのような二束三文にもならない箪笥やら机やらの粗大ゴミを献上することがある。

 売った所で大した価値にもならないそれらが、溜まりに溜まって今このような状態になっているという話だ。


 しかし、周りからみればこのゴミ捨て場のような雑多な見た目が、俺達にとっては都合の良いものであった。

 その陳列した粗大ゴミの迷宮へと足を踏み入れる。

 ゴミの中、狭すぎて人一人通るのさえやっとの隙間を抜けると、ちょっとした空間がある。

 その地面にだけ何故か1メートル四方の木板が敷かれていて、それには蝶番の取っ手まで付いている。

 これを引き上げてみれば、あら不思議! 

 少量の砂埃を巻き上げて開いたその木枠の中に、地下へと続くコンクリートの階段があるではないか。


 これもこのアパートに設備されたものかと問われるかもしれないが、実はまったく無関係のもの。

 と言うか、この地下への通路を知っているのは俺達だけである。このアパートの管理人さんでさえも知らないはずだし、むしろ知ってちゃ困る。

 言うまでもなく、この地下通路及びその下に広がる地下空間はジョンが一晩でやってくれました的なアレである。

 人様の土地にこんなものを勝手に作っちゃうのっていけない事だよねと俺がジョンに問うと、彼は世界を崩壊させないために必要な事であれば超法規的措置も取らざるを得ないとかそんな悪い大人な言い訳をしていました。


 明かりのない狭い階段を手すりに沿って降りてけば、薄く光の漏れた鉄製の大きなドアが現れる。

 その扉を開ければ、暗い通路とは打って変わったやけに明るい大広間の風景が飛び込んできた。

 壁肌はコンクリのまんまだが、床は露出した土肌となっており、左右を流れる水場に、人工の太陽光を作り上げる特殊な装置によって多くの瑞々しい緑が群生している。

 地下だというのにまるで閉塞感を与えないその箱庭のような癒し空間は、まさに匠の技を感じさせる一品。

 つっても、例のごとく魔法でどぎゃーんとやったワケなんだけどね。


 その人工庭園の中心にでんと座ってこちらを見つめている一匹。


「おーしおーし、元気にしてたかー? ムクー」


 開口一番そう言って、手をパタパタさせながらそれに歩み寄る。

 至近距離に至れば、後ろ足を折り曲げて姿勢良くお座りのその状態であっても、自分よりも一回り大きいというのがはっきりわかる。

 しかし俺が近付くと、その頭を低く垂らして自分の手が届くように姿勢を屈めてくれる賢さと配慮の持ち主なのである。


「いよーしよしよしょしょしょーぉ! ほんと賢いなぁーお前は」


 頭といわず頬といわず耳といわず、わしゃわしゃと音を立てて撫で回す。

 この奇妙なみてくれのどデカイわんたんはご存知の通り、俺が始めてジョンと会った日に一進一退ギリギリの死闘を繰り広げた〝好敵手〟のあの生物兵器である。


 ちなみに、『ムク』という名前は俺が付けたもの。

 当時はそんな余裕はなかったが、今なら判別できるようにその毛並みが尨毛むくげだからだ。

 体長は4メートルに達し、見た目はどの種類の犬かというより限りなく狼に近いといった所だ。

 当初は洗脳か何かされていてやばいくらい気性の激しい化け物なわけだったが、今こうしているムクは実に物静かで理性的な風貌をしている。


 実際、言語こそ介さないものの、凡そならばこちらの言葉を理解しているらしい。

 一言「お手」と発すれば、その長く大きな前足をちょこんと俺の手の平に重ねてくれるのだ。

 ただまあどうしてか、その際に背中から生えたあの丸太のような太い腕を俺の頭にボフッと乗せるのが屈辱的である。


 とは言え、昨日の敵は今日の友という王道的展開を経て、互いの実力を認め合った俺達は今まさにこうして戦友として並び立ったのだ。

 胸が熱なるね。


 全身全霊のムツゴロウさんごっこをしてる俺の脇を抜けて、ジョンがフヨフヨとムクのその頭頂部分へと近付いては右前足をぴたっと張りつける。

 すると、そのジョンの片前足だけを覆うように緑色の魔方陣が浮かび上がった。


「……うん。体内環境レベルもストレスの値も問題ない。まだ脳波コントロールでの抑制措置や循環器系の再適性化も必要ないモフ」

「ふむふむ、何のこっちゃわからんがともかく健康と?」

「今はまだという条件つきでね。この子達は一応、人工生命体という事で生理機能の殆どを簡略化されていて、こういう風に魔法技術を用いてそのコンディションを調整できるようにはなってる。でも、それでもやっぱり、彼らも生きているんだ。生物としての根本を魔法エネルギーで代用しているとしても、それのみで問題なく生きていけるというものではない。そこにはしっかりとした生物的ケアが必要モフ」

「つまりずっとこんな地下室に閉じ込めておいちゃ、いくらなんでも参ってしまうってわけか」

「それだけじゃないけど……確かに重夫くんの指摘も憂慮する点モフ。やっぱり動物の本能として、広い世界を自由に駆け巡りたいはず」

「とは言うものの、か。ムクみたいなのを誰にも見つからず外に連れ出すってだけで無理な話な上、このサイズが自由に走り回れる場所なんて人里離れた山奥ぐらいだしねぇ」

「その通りモフ。ほんとうは、こんな存在が世界に知れ渡った時のリスクを考えれば……あの場で跡形もなく消滅させてしまうのが望ましかったんだ……」

「まあ、それは今更言うことじゃないわな。どうあったとしても、そうしない道を選んだんと違うのん? ――もちろん俺達二人でさ」


 すべからく最良の選択をすべし。――なんて事はないだろう。

 自分達がそう覚悟して決めたことならば、どんな選択肢であっても構わない。

 たとえ世界にとっての最良と自分達にとっての最良に大きな食い違いが発生していようとも、それを示し続ける事に何の罪があるというのか。

 やばっ、重夫っちてばチョー有識者。


 つまりまあ、何が言いたいかというと、ムクは大人しくて賢くて可愛くて実に良いヤツなのだ。

 そんな彼を殺すなんてとんでもないって事だ。


「それに、どうしようもできないってワケでもないっしょ? 何だかんだで、そっちの魔法の力があれば手立てを付けれるんじゃないの」

「……重夫くんは相変わらず、こちらの技術を神様が使うような万能な代物と勘違いしてるモフね。具体的にどういう手立てがあるって言うモフ?」

「だってさほら、たった一晩でこんな地下室を造っちゃうんだし、頑張ればムクが一切窮屈に感じないぐらいの広さの地下空間をどうにかできない?」

「無茶モフよ。この秘密の地下室をつくるだけでも、かなりの無理を通しての事だったんだから。何よりそんな規模の空間が地下にいきなり現れたら、地上の人間が絶対に気付いてしまうはず」

「まあ、そうなるかー。じゃあやっぱり光学ステルス迷彩でも付けて、絶対に姿を見られない状態で定期的に近隣の山にでも連れてくかだな」

「一番実現は可能そうな案ではあるけど、完璧な視覚的カモフラージュは並大抵ではないモフ。しかもその対象が常に動き続けているなら余計。はあ……また技術部の連中を拝み倒して、同僚の休日出勤の肩代わりをしなくちゃいけなくなるのか……」


 最後の部分は溜め息混じりにボソボソと呟いていたようだが、辛うじてこちらの耳で捉えることができた。

 えーっと、提案しといていてなんだけど……マジごめん。


「わかったクポ。その案件もなんとか捻じ込んでみせるモフ。大丈夫! 元々は僕が重夫くんに無理を頼んでやらせたことモフ! 僕にできる限りの事はやってみせるモフよ!」


 やたらと語気を荒くしたジョンがぽんと胸を叩く動作をする。

 なんていうか、無茶苦茶な量の課題や仕事が舞い込んできたときに、無理矢理にテンション上げて取り掛かろうとしてる感じだね。

 うん、なんかほんとに申し訳なくなってきた。


 ムクにじゃれ付きながらジョンの境遇に同情を禁じえないでいたそんな時――いきなり自分のズボンのポケットから聞き覚えのある電子音が鳴った。

 なんだろう、長らく聞いたことのない懐かしい音だった。

 こいつぁ驚いたぜ。俺の携帯電話スマートフォンが着信を受けてやがる。

 珍しいこともあったもんだ。


「奇跡じゃ……奇跡じゃあ! 何年かぶりに、我らが携帯電話様がご着信なされたぞっ……! 奇跡が起こったんじゃぁ……!」

「何遊んでるモフ? 電話に出なくていいの?」


 携帯を掲げ上げて神のご威光に平伏さんばかりの俺に、ノリの悪いジョンが真っ当な突っ込みをくれた。

 仕方なく画面を確認すれば、なんとも見慣れた名前が表示されていた。

 その通知先に間違いがなければ、この携帯の向こうにいる相手は高校大学とを同輩として共に歩んできた最も縁の深い旧友――甲斐川雅則氏である。

 然もあらん。


「私だ、ラブリー重夫っちだ」

『ラブリーか? 俺だ、チャーミー雅のんだ』

 

 電話の向こうから、ノリの良い応対が返ってくる。

 少し甲高い感じの声色と常に早口っぽいこの喋り、相手は間違いなく俺のよく知った人間だった。


「おお、どうしたチャーチル雅のん?」

『いや、誰だよ⁉ ていうかもう、こういうコントいいから! それよりお前送ったメール読んだか?』

「メール? ――来てねぇよんなもん! 一年以上ケータイ鳴っとらんし!」

『バッカ、パソコンの方に送ったやつだよ。まだ読んでねぇの?』

「うん、見とらんなー。つか今日はまだパソコン起動もしてないわ」

『はあ? 何やってんだよお前、ニートのくせに。ニートなら起きたと同時にパソコン点けるのが常識だろ? お前はダメなヤツだ、ニートにすらなれないダメなヤツだ』

「うっせ、うっせバーカ! 末端請合いの低所得労働者が! サビ残で睡眠時間を削られて精神を病んでしまえ‼」

『やめろよ、やめろよな……。リアルに起こりそうな呪いかけんじゃねーよ……』

「あっ、ごめん雅のん……今のはちょっと言い過ぎたわ。――でもサビ残月50時間は運命だから!」

『――ふざけんなっ! ふざけんなっ‼ この糞ニートが! 社会の屑! 生まれついての生ゴミ野郎! お前の人生産業廃棄物‼』

「――うるせぇ! この底辺歯車様が! 禿げろ! ゲロみたいな上司に気ぃ使いまくって禿げろ! でもどんだけ媚びへつらってもサビ残は月50時間な!」

『くそが! くそが‼ ちくしょうお前! ちくしょうっ‼』

「やーいやーい、バーカバーカ!」

『バカって言うほうがバーカ! バーカバーカバーカ!』


 しばらくは電話に向かって「バカ」という言葉の言い方、イントネーションだけでどれだけ相手を不快にさせれるかを競い合っていた。

 こういう事ができるのも、強敵と書いて『ライバル』と読む雅のん相手だからこそだった。


『――だからもう、こっち仕事終わりで疲れてんだから妙なコントやらせんなってば。ともかくメール確認しろよ? こっちからまたメッセしとくから、詳しくはそっちでな。んじゃ、切るわ』


 そう言って雅のんからの通話は切れた。

 一体どのような用件のメールなんだろうか。まあ、あまり大した用事でないのは判りきっているのだが。

 そんな事を思っていると、随分とまあ呆れきったジョンの視線がこちらに向けられていることに気が付いた。


「ああ、今の電話の相手ね、高校からの付き合いの雅のんっていうんよ」

「えっと、何と言うか……類は友を呼ぶというのはこういう事かと実感している所モフ」

「そんなに褒めるなよう、照れるじゃあないか。そんじゃあまあ、部屋に戻るとすっかね。おーしムク、また明日なー」


 最後の名残とばかりに、両頬をぐわしと揉んでやる。

 にしても、ほんとうに大人しいやつだな。

 そりゃテンション余ったこんな巨獣にじゃれ付かれたら命なさそうだが、それにしたってお利口なやつだった。


 俺の部屋よりも広さのある地下室を後にし、狭い階段を昇って地上にでる。

 そういえば説明がまだだったが、この地下へと通ずる木製の簡素な扉はこんな見栄えで実は生体認識に対応してるらしく、俺以外の人間がこの蝶番の輪っかに触れても何の反応も示さないらしい。

 なので一応は、この場所を誰かに発見されたとしても、地下への通路を見つけられる事はないという話だ。

 ほんともう、無駄に高性能な魔法技術なのだった。











 二階の一番端、自分の部屋にまで戻ってくる。

 ムクの所までとは大した距離もないワケなのだが、あまり頻繁に裏庭に出入りしてると誰かに目撃されたとき不審に思われるので、これでもその間を移動する時はかなり慎重になってはいる。


 部屋に入ると瞬時にパソコンを起動して、雅のんからのメールを確認した。

 内容は実に簡略なものだった。

 そのメールにはたった一文「これお前のアパートの近くじゃね?」という一言と、どっかのアドレスが張り付けられていた。

 それはまとめ記事サイトだった。


 しかし、そのトップの記事には思わず目が釘付けになっった。

 そこには「深夜の公園を覆った謎の見えない壁」と大きく書かれている。

 その記事を読んで、思わず脱力した声を出してしまう。


「あーあ……こりゃマズイや」


 その記事の内容はこうだ――

 終電を逃がすまで飲み明かしていた大学生グループが徒歩で帰宅途中、敷地の広い地元の公園を横切ろうとした際に、まるで見えない壁があるかのようにそこへ足を踏み入れる事ができなかった。

 結局は公園の外周をぐるっと迂回してようやく反対側へと到達できたという、そんな奇妙奇天烈な話が掲載されている。

 元はSNSに投稿されたその体験談を、掲示板連中が面白おかしく取り沙汰してるようだ。


 どちらにせよ、大変よろしくない。


「いったい、どうしたんだモフ?」


 俺の情けない声にフヨフヨとジョンが寄ってくる。

 ジョンにその画面の記事を読ませてやると、ジョンもまた同じように失態を犯した時のような声を上げていた。

 言うまでもなくその奇妙な事件が起こった現場は、今このアパートからさほどの距離もない所にあるのだ。


「まさかこんなに早く僕らの兆候が露見してしまうとは、あまりに予想外モフ……。記事の反応を見る限り、まだ多くの人間はこの話の信憑性を疑ってるようだけど、でも同じ現象が二度三度と続けば嫌でも説得力を持つようになってしまうモフね」


 ジョンの言う通り、今のところはその話を「まーた嘘松か」と揶揄やゆしてる人間が多勢である。


「確かに、本来ならこんな与太話と鼻にもかけないけど、この現象が連続して起こって大事にでもなれば、確証を得られずとも興味を持った人間がこの近所に出没してきそうだわな。そうなりゃ、これからの活動にも大きな支障がでるな」


 個人があまりに手軽に、そして光の速さで情報を拡散させれるこの現代社会の功罪だな。

 インターネッツの世界は恐ろしいですねぇ!


「困ったモフ……。正直、極力素早く空間剥離を修復して気付かれる前に結界を解いていくしか方法がないモフよ……」

「まあ、そんでこの話がこれ以上広がらない事を願うしかないか。しかし、どうも面倒な事になってきた」


 この記事にしても、ネックになったのはその奇妙な経験者が一人ではないという所だ。

 たった一人の人間がそんな奇天烈な体験談を吹聴した所で、多くの場合は妄言としてしか認識されない。

 孤立というのはそれだけで負けだ。

 ネット上でも現実社会でも、その単位や性質は多様なれど人は何かしらに属している。そして往々にして、主観を持てない人種は目に見える小さな共同体こそを優先し、そこに生きる。その集合体に依存し、その集合体の意見こそ自身の主観であると錯覚する。宗教とかいうものがその最たる例だろう。

 真実がどうかはともかく、つまりは話の発端であるこのグループを「ウソつき」と攻撃すれば、余計に狭まったその共同体の結束は固くなり、たちまちに彼らはその自己防衛の為に行動の手を広げるだろう。


 と言うかまあ、この記事は真実なんだけどねー。


「この件も上への報告としてまとめておくモフ。これ以上騒ぎが大きくなる前に何か打てる手があるといいクポが……」


 そう言って激しく肩を落としているジョン。

 休日出勤の肩代わりが、さらに増えたご様子。――南無南無。


 しょうがないので、めっちゃ関係者である俺も偽装工作を図るべく臨んだ。

 これらの騒ぎを鎮火させるのはもはや不可能だが、炎上し易いネット民の性質を突けば本来の意義を見失わせるなどは容易い。

 目撃したのが「パリピ」の連中であったは好都合だ。

 つまりは、話の流れを根強いコンプレックス対立であるところの『陰キャvs陽キャ』の抗争へと持っていくのである。

 話の真偽よりも対立心を煽る書き込みを連投し、見えない壁がどうだのは置き去りにさせる流れを呼び込むべく手管を広げる。

 雅のんからきたメッセージには「集団ヒステリーってほんまにあるんやね」とだけ返して――後は様子を見ながら、ネット上の暇人たちが飛び火させてしっちゃかめっちゃかに掻き乱してくれるのを待つだけだった。


 そんなこんなで夜も更ける。














 久しぶりに午前中に目が覚めたので、気分良く朝風呂などをたしなんでみる。

 風呂場の鏡で幾日かぶりに自分の顔を確認すると、むくんだ輪郭にマッチするのばし放題の無精髭。さらには生気のない死んだ魚の目がワンポイトとなり、今日も元気な犯罪者面を演出してくれている。

 よし、いつも通り。


 しかしながら、風呂から上がり着古しのジャージを替えて部屋に戻ると、もういつも通りとはいかなくなってしまった。


「重夫くん、朗報モフ。思ってた通りには行かなかったけど……でも、今日から君の身の安全をさらに保障すべく、僕らの世界から新しい仲間がやってきたモフよ」


 いつも通りの調子でいつも通り空中にフヨフヨと吹いているジョンの事は――まあよい。

 だが問題は彼の隣にいるもう一つの姿だった。


「増えとるし……」


 まさにそんな自分の無意識の呟きが指し示した通り、ジョンと同じ生態系に属すると思わしき、直立二足立ち空中浮遊型愛玩用自律機動兵器もといタレミミネコモドキがさらにもう一体、敢然と俺の前に立ち塞がったのだ。


「君が重夫くんだね? 話は色々と聞き及んでいるよ。早速自己紹介をさせてもらおう。私の名はセグナール・ブランフラン。中央管理局執務長室直属の護衛官だ」


 淡いクリーム色の体毛であるジョンと違って、こちらはこげ茶色に近い地味めな色合いだが、相変わらずのお胸にずっきゅーんとくる可愛らしさである。

 ほんと、言葉を発する度にモフモフと動く口元とか、芸が細かいんだよ。


「何? 護衛官? 今度からはこの子が戦ってくれんの?」

「その……分かると思うけど、セグナールさんも実体は持ってないモフ。だから君の代わりを果たしてくれるわけではないんだ」

「その通り。いや、すまぬ。――『元』護衛官というべきだったか。今はこうして、君の戦技訓練教官という役職を与えられてここに来た。よろしくお願いする」

「戦技訓練教官? えー、ちょっと待ってそれ。なんかもう訓練って部分だけで悪い予感しかしないんだけど」

「察しの良さは相変わらずモフ、重夫くん。その予想通り、君にはこれからこちらの世界で常用されている基礎的な魔術の扱い方と、それを応用した初歩的な戦闘技術の習得を目指してもらうモフ」

「ほらぁ、やっぱりきたよこういう展開。もぁ、やぁだぁ、そぉゆーのぉ! 暴力反対! 九条尊守!」

「重夫くん、君はこれから先、敵に襲われたとしても黙ってその命を差し出すって言うモフか?」

「うん、それはやだ。死にたくないでござる」

「そうだと思うモフ。ならこうする事が一番、君自身を守る事に繋がるんだ」

「何より男子たる者、己が身一つも守れんでは話にならんだろう。まあ、私が教える事はさほど難しいものではない。数日ほど修練に励めば、容易に身に付く事だろう」


 ジョンよりも幾分かは低音な声質だが、それでもやっぱり女性や子供のような高音域の響きが多分に含まれている。

 その可愛らしい見た目にベストマッチしてるそのお声にもかかわらず、なんだか古めかしい口調で大言そうに喋るので、とてもシュールに映る。


 そんなセグナールに笑いを堪えつついたが、ふと気になったことがあった。


「はい! 教官どのに質問であります!」

「うむ、聞こう」

「――なんでジョンは語尾に『モフ』とか付けてんのに、セグナんは何も付けとらんのですか⁉」

「ちょっと重夫くん! そういう所には触れないでって――」

「ああ、その事か。いや、私もよくはわからぬのだが……どうも情報室の人間が言うには、私は今のままで充分に『キャラが立っている』からだとか」

「……なるほど」


 遮るように前に出てきたジョンにはまるで気にも留めず、セグナールは本当に淡々と自分が言われたであろう事を復唱していたと思う。

 そんな彼の無神経さは器のでかさということに掏り変えておいて、バツの悪そうにしてるジョンへと向き直る。


「ねえジョン、自分らやっぱ遊んでるでしょ? 世界の危機とかぬかしておいて、自分ら俺で遊んでるでしょ?」

「違うモフ! ほんとに違うんだモフよ! た、たしかに、魔技研の連中や僕の一部の同僚や上司は恐ろしいまでに悪巧みに長けているけれど……でも、世界の危機というのは本当の事だし、それに僕はいつだって大真面目に重夫くんと接してきたモフ」


 ジョンの必死なトラストミーに、ただいぶかしげな視線を投げかけるだけだった。

 そんな状態を傍で聞いていたセグナールがやおらに口を挟んでくる。


「私が言うのは少し筋違いかもしれないが、実際リンド殿はよくやっておられるよ。情報室の人間の中でも、彼ほどこちらの世界のことを考えて、あれこれと手を回してる者もいまい。重夫くん、そこはどうか信じてやって欲しい」

「セ、セグナールさん……! ありがとう、ありがとうモフ……。誰かにそう言ってもれるだけで、苦労が報われるようモフ」


 感涙してるかのように前足を両目のところでぐしぐしやっているジョンに、すーっと近付いたセグナールが労わるようにポンとその肩に手を掛けた。

 なんともまあ可愛らしい光景だった。


 ジョンの性格云々に至ってはこちらも少なからず把握しているので、この場は良しとするか。


「まあいいや。とりあえずこれからよろしく。――セグナん」

「こちらこそだ。では早速、これから直ぐにでも基礎訓練を行おうと思うのだが、どうかな?」

「えぇええ……今からやんの?」

「次の襲撃がいつになるかは分からない。ならば早期に安全のための対策を取るのが望ましかろう。一刻も早く、自力で敵を退けれる程度にはなってもらわないとな」

「うぇーい、ちくしょー」

「じゃあセグナールさん、しばらく重夫くんの事をお願いします。僕は一旦戻って、あちら側で経過報告の続きをしなくちゃだモフ」


 なんというか、どんどんと面倒臭い方向にばかり進んでいっているような気がしてならない。

 このままでは俺の自由気ままなスローライフがどこかへと追いやられてしまう。


 ――どうする重夫っち⁉

 まあ、結局は流されるままに、ホイホイチャーハンでセグナールに従うだけだった。

 人生ってそんなもんだよね。












 さてさて、やって来ましたのは別段遠くでもない場所。ていうかまだ自分ん家のアパートの敷地の中。

 そう、ジョンが勝手に作っちゃったムクの家こと秘密の地下室である。


「ヒャアッ‼ もう我慢できねぇ!」


 地下の大広間に入ると同時に、大人しく待っているムクを全力でナデナデよしよしする。

 うん、やっぱり一日一回これをやらんと気が狂ってしまうね。もちろん俺の。


「ほう、これが報告にあった……。ふむ、生体の次元転送か。成程、技術力の点にいては一歩も二歩も先を行かれているというわけか」


 セグナールが曰く有り気な言葉を漏らしていた。

 生きたままの生物を送ってくるということが、そんなに大層なことなんだろうか。

 未だにジョン達の世界の魔法の概念というか、それの可能限界の見極めができないでいた。


「まあ、今その様な事を思案していても何にもならんだろう。重夫くん、さっそく基礎的な戦闘訓練を開始するとしようか」

「いちお断っておくけど、重夫っちってば口喧嘩はそれなりに強いけどマジ喧嘩は驚くほど弱いよ? だってほら、基本的に温室育ちで痛いのキライやし」

「ああ――心配せずとも、君がこれから闘うことになるであろう輩相手では、一撃を生身で食らえば『痛い』どころは済まんよ。これから教えることは、その一撃をいかに回避して相手を倒すかの講釈だ」

「はい! それならばいっそ、闘うまえから全力で白旗を振ればよいと思います! 大丈夫! 俺生き残るためなら、相手の靴の裏舐めるのだって全然苦にならないから!」

「……君は途方もなく情けない事を平然と口にするな。まあ、凡そ報告にあった通りの性格なのか。しかし君が初めて闘ったそこの彼のように、果たして、言葉の通じない相手に降伏が意味を成すかな?」

「そこはほら、何と言うか言葉以外の方法で……こう、つまりは! 魂からの降伏宣言をすれば! 己の魂の底から捻り出すように無条件降伏の意志を出せば! その熱い思いはきっと相手にも伝わるって!」

「その熱い思いを別な方向に活用できたら、もっとまともな結果が得られるとは思わぬか……?」

「燃えたぎる魂の底からの全面降伏――これを習得する事ができれば、これから先どんな相手が来ても安心やね」


 どうやら俺の必殺技がまた一つ増えそうだった。

 ああ全く、死角がなくなって完璧な人間に近付きつつある自分が怖いぜ。


「すまんが、君の話に逐一付き合っているわけにはいかんのでな。勝手に話を進めさせてもらおう。ではまず、これの扱いに慣れる所からだな」


 咳払い一つで俺の完璧超人への道を閉ざしてくれたセグナールが、何かの紋様を描くように前足を中空でなぞった。

 すると俺の目の前の、何度も見ているお馴染みの魔方陣が地面に浮かぶ。ただ今回は、その円陣の光がやけに弱いものだったのが気に掛かった。

 円の中心では何かがわずかかずつ形成されていくような体を見せている。

 それが数秒ほど続いただろうか、魔方陣はフェードアウトするように消え失せ、その後に残ったのは鈍色の杖のような形状の金属棒だ。


「おお! もしやこれはマジカルステッキというヤツなのか! これ一つであんな魔法やこんな魔法をチンカラほいっとできる仕様なのか!」

「いや、残念ながらこれはただの鋼鉄製の杖だ。なんの仕掛けも魔術的な効用も有していない、純粋な金属の塊だ」

「え? そうなの? 何も無いのこのマジカルステッキ? ――いや、ていうか重っ! なにコレぇ⁉」


 早速飛びつくように持ち上げた杖の、その予想外の重さに思わず上擦った声が出る。

 長さはおよそ1メートル強はあるだろう。

 先端部分だけに拳大の多角形のおもりが突いているようで、杖とは言え、余す事無くフルメタルにすればこのくらいの重さにはなるみたいだ。

 てかこれ、ステッキやのうてメイスですやん。

 中世の騎士が鎧越しに相手の骨ボッキボキにするための凶器ですやん。

 ほんならもう、いっそバケツメットとチェインメイルも持ってきなはれや。


「ではまず――それを自在に振り回しても一切体勢を崩さなくなるまで、筋力と持久力の鍛錬を行おうか」

「ちょっと待って。それどゆ事? 何? こんなただの鈍器でムクみたいな相手を倒させるつもりなん? おかしいそれ、そんなんできたらもう人間卒業できるし」

「君の言う通りだな重夫くん。そんなもの扱ったとて、同等の人間程度は倒せても、大型の肉食獣どころか馬や牛すら倒すのは難しいだろう。ましてやそれが、凶悪な改良を受けたこちら側の生物兵器ならば尚の事だろうな。だが、焦ることはない。それはあくまで鍛錬の部類だ。君の体をこれから構築していくための、言うなれば建設前の基礎工事といったところか。まず地盤を固め、骨組みをしっかりとしなければ大きな建造物は建たぬ。そこを頭に入れて、鍛錬に励むといい」

「マジで? 魔法使いなのに筋トレやらされんの? ステ振り間違ってないそれ?」


 何てこったい! 

 いつから俺は最強の武道家を目指す事になったんだろうか。しかもこんな地味な鈍器が得物だという。


「さあ、遠慮せずに始めるのだ。幸いこの場所は地上からそれなりに距離がある。ここでどれだけ暴れようと周りに気付かれる事はないだろう」


 セグナールのその有無を言わさぬ強い奨めに押し切られ、しぶしぶ俺は何かよく分からないフォームでの素振りを始める。


 その傍では、ムクが何事かと不思議そうにその俺の様子を眺めているのだった。









 そんなこんなでだいたい30分近く、やたらと思い鋼鉄の棒をブンブン振り回す作業に没頭していた。

 いやほんと、これって何かの体罰的なあれじゃないの? 

 そんな視線をセグナんに投げかけてみても、何の反応も返ってはこない。

 つまり、まだまだ続けろって事らしい。

 ――鬼畜め。


 そこからさらに30分ぐらいが経過しただろうか。

 こっちはもう、汗だくでの不快さが気にならなくなる程にへばっていた。


「ああー、無理だこれ。もうやだ、もうやんない!」


 さすがにこれ以上は限界だった。

 重いだけの杖を地面に放り落とし、地べたに座りこんで息を整える。通気性の悪い地下室な事もあり、体からは湯気さえも吹き出ていた。

 絶対これ明日は筋肉痛地獄だよ、ちくしょう。


「たったの一時間でこの様か。しかしまあ、今日はまだ初日でしかないからな。今後継続的にこの鍛錬を行い、杖を振り回しながら動ける時間帯を延ばしていくしかないか」

「聞こえなーい、聞こえなーい。何も聞こえなーい」

「全く、君という奴は……」


 これから毎日こんな事を続けるだなんていう、そんなふざけた日課を強制させられて堪るかというのだ。

 そうでなくても、ここ最近はまるで定期的に労働させられるようになっている。

 その上、これから毎日汗を流させるという健康的習慣が身についてしまったら、まるで真人間みたいになってしまうじゃないか。


「わかった。それでは次は、より明確な目的を持った訓練へ移ろう」

「ぬん? 明確な目的とな?」

「実際に敵を討つための手段、それを今から伝授しよう」

「厨二心をくすぐる、すごく胸おどる言葉やね。――詳しく聞こか?」


 へばっていた体に邪気眼がみなぎる。全く以って右手がうずく展開である。


「先程、私がその杖を生成した時の事を覚えているか? 君が今まで目にしてきたであろうこちら側の力、すなわち魔法と呼べるものだが――実は私が使用したそれと、君が今まで見てきたそれとでは明確な違いがあるのだ」

「違いねぇ。なんだろか……大きさとか模様とか光の色とか、そこらへん全部状況によって違ってたからな。そう言われても、特に思い当たる節はないけど」

「そうか。確かに、慣れないものの差異を見分けるのは難儀な事だろう。あまり答えを焦らしても特に何の益ともならぬ。簡潔に言うならば、あの場で使用した魔術は私自らが使用者となって行ったものという事だ」

「えーと、うん。言ってる意味は理解るが、それのどこか違うん?」

「ふふっ、否――君はまだ理解っていないぞ。今まで君が見てきたもの、つまりリンド殿の魔法は、正確に表現するならば彼のものではないのだ」

「あー……そういや、ジョンは遠隔魔法とか支援とかそんなことを言ってたな」

「うむ、そうだ。魔法を使用することが出来る者を我々は術者と呼称しているが、実はリンド殿は魔法技術に精通はしていても、彼自身が術者であるというわけではない。君が目撃してきた魔法は、リンド殿が所属している第2独立情報室の人間が彼を支援するべく、複数の術者が立ち替り体制の元に専用の装置を用いて境界域を越えて行っている強力な遠隔操作のそれだったいう話さ」

「おお? ってことはジョンは、単独で魔法使えないの?」

「厳密に言うならば、扱えない事もない。ただ彼は元研究者、いわば魔法技術の発展を志していた学者殿なのだ。魔術を扱うことのできる人間は、特別な資質を有しているという話は聞き及んでいると思う。たとえどれだけ魔術に対する見識が深かったとしても、それだけでは優秀な術者とは成らぬ。もっとも、彼の場合は全く使えないという事もないらしい。それでも不得手であるのは紛れも無い事実だと本人が口にしていたよ」

「なるほどね。どうりで何かと講釈ぶるというか、説教臭いわけだなジョンは」


 興味本位な俺が、魔法使ってとせがんでも頑なに応じてくれなかったのはその所為だったか。

 セグナールほどに自分で自由に扱えるものではないのなら、そりゃ確かに融通は効かんわな。


「魔術とは肉体的な制約に縛られない全く新しいエネルギーだ。その資質、発動に値する条件というものは、肉体よりも精神――即ち魂にこそ、より関連深いとして捉えられている。精神体である私がこちらの世界で魔術を扱えたのはそういう背景があるからだ。そして、その特別な資質というものは君にも在るのだ。いや、この世界で君ほどに適性の高かった人間は居ないというべきだな」

「ああ、守護霊ね守護霊。聞いた聞いた」

「守護霊? 何の事かさっぱりだが……ともかく、これより君に優秀な術者となる為の基本を教え込む事になる。心してのぞんでくれ」

「えー、それならさー、こんな無駄な運動させないで、さっさと魔法の使い方教えてくれたら良かったんじゃない?」


 正にそうだろう。

 魔法が使えるようになったら、こんな肉弾戦の練習などしなくていい筈だ。

 てーか、もしやほんとにただの嫌がらせだった?


「ふむ……重夫くん、君は魔術を使用する際に対価として支払われるものを知っているか?」

「対価ってあれでしょ、MPだよ」

「魔術の代償に支払われるもの、それは命だ」

「えぇ⁉ HPが減んの? ダメダメそんなシステムじゃあ。クソゲー認定間違いなしだよ」

「正確に述べるなら、術者は自らの生命力を犠牲にして魔法を使用するのだ。自らの生命力の限界もかえりみずに魔術を乱用すればそのまま命を落とす事に繋がり、また病床にある人間のように力の弱っている者が無理をして使用しても、同じ結果を辿たどる事になる。魔術とはそういうものだ」

「まーじ? 魔法って、使う度に寿命縮めるようなもんなの?」

「場合によってはそうなる事もあるだろう。だが、生物には自然回復力というものが備わっている。病で体力が落ち込もうとも、しっかりと療養すれば衰えた肉体も元に戻るように、上限を考慮して使用していれば恐れる事ではないさ」

「納得がいく説明だけど、それと俺をエクササイズさせたのに関係あり?」

「無論だ。はっきり言おう、全ては君のその不健康な顔つきのせいだ」

「ひ、ひどい! 俺の顔が悪いだなんて、本当の事だったとしてもあんまりだ! ブサイクは死ねというか!」

「いや、違う。私が言ってるのは、その不摂生を象徴するかのようなだらけ切った顔付きだと言っているのだ。君の顔立ちが特別酷いとは言ってない。大丈夫、君の容姿は並だよ。至って凡庸だ」

「うん、えっと、今までで一番リアクションに困る発言だ……」

「人間の本質というのは、その人物の様相や行動の端々はしばしに写ってしまうものだ。正直に言わせてもらおう。今日初めて君の姿を見た時、私はリンド殿の人選を疑ったものだよ。それ程までに今の君はひどい」

「おふ、手厳しいでござるぞよ」


 なんだろうか、言うほど俺の身体からは澱んだ黒いオーラでも出ていたのか。


「今の君の生命値は濁りに濁っていて、魔法使用の際のエネルギー転換率が悪すぎる。せめて身心の状態は最良に保っておかねばな。これからも健康的な生活と精神を心掛けるよう、この私が尽力して指導するつもりだ」

「いーやーだー、やーめーてー」


 ああ、まさか……まさか……この俺の自由で優雅なニートライフがこんな形で幕を閉じようとは。

 世界の平和のために力を貸すなどと軽い気持ちで了承してしまったせいで、俺の生活が侵害されていく。

 くそう、世界を救うヒーローの宿命とはかくも残酷なものなのか。


「まあしかし、今日の所はあくまで触りといった部分。さして大きなエネルギーを必要としない魔法を教えるので、今の状態でも問題なかろう」


 そう言って、セグナールはまた中空で何かの紋様というか印で結ぶかのようにその前足を上下左右になぞらせる。

 そうすると、俺が地面に放り落としたまんまだった杖が光り、誰の手にも無いその状態でぐんと持ち上がる。

 そしてそれはへたり込んでいる俺の目先まで運ばれてきた。


「さあ、集中するんだ。初歩中の初歩といえども、腑抜けた精神で扱い切れるほどに容易いものではないぞ」


 差し出された杖を握り込む。

 何はともあれ、お待ちかねの魔法習得イベントなのだ。

 22歳のエリート童貞たる俺が、魔法使い見習いから正式な魔法使いへとランクアップする瞬間は直ぐそこまで来ている。


「実際に行うことは大した事のない行為だ。必要になってくるのは揺らぎのない一定の集中力――それだけだ。精神を研ぎ澄まし、これから私が言う二つのものを思い浮かべるのだ」


 俺を真正面から射抜くような視線で、こちらの一挙一動に注視しているセグナール。

 とりあえず、腰を上げて肩幅に足を開く。

 杖を体の中央で構えるようにして、言われた通り目を閉じて集中する。


「一つは〝刃〟だ。鋭く冴えた、鏡のように澄んだ刀身を想像する。その切っ先に触れただけであらゆる物を断絶していく、そんな恐ろしい切味を」


 ゆっくりとそしてはっきりとした口調で、セグナールは語りかけてくる。

 視覚を封じて、聴覚――前方から響いてくるその声だけを頼りにする。

 その言葉から来るイメージだけを意識して心の中に思い浮かべる。


「もう一つは〝炎〟だ。くねるように揺らめきながら盛り、侵食するかのように広がる。巨大な枯れ木が一瞬にして包まれる、そんな激しい勢いの火炎を思い描くのだ」


 〝刃〟と〝炎〟――この二つを重ねるように頭の中で連想する。

 この二つの強烈なイメージだけが脳を満たしていく。

 さながら、光を反射する鋭い刃を瞬時に覆い隠す炎といった所だろうか。

 刃は炎のオレンジを映して、もっと妖しく光り輝く。


「思い描いた二つのイメージを連結し、それをそのまま杖の先端に流し込む。脳内に焼き付くほど強くイメージしたそれを握った杖の先端で発現させる。意識は脳内のイメージと現実に手に持った杖にだけ傾けてな」


 強く握り過ぎたせいか、それとも集中しているからか、持っているはずの杖の感触がない。

 ただ、頭の中で燃え広がる一振りの刀剣をそこに在るであろう筈の杖へ、そのイメージを掌から流し込む。


 そして―――


「……」

「……」

「……これ、なーんも起こらんね」


 ほんとに何一つ起こらなかった。

 しーんとした空気がやけに寒く感じる。


 押し黙ったままのセグナんと、杖を握りこんだまま凍結してる俺、そんな二人を優しく見守るムク。

 これはもう、沈黙が辛いってレベルじゃない。


「セグナん? これどゆ事? もしかしてやっぱり、俺が世界で一番の適性とか、百年に一度の逸材とか、全部嘘っぱちでさー、自分らやっぱ俺の事を担いでない? 俺が騙し易い人間だと思ってさー、後でドッキリでしたってオチつけようとしてる?」


 もしもそんな事になったら、俺のなけなしの精神ポイントは底を付いて、異世界の人間からもからかわれた大馬鹿として首吊っちゃうね。


「ふむ、そうか……。そういう事か」

「え? なにそれ? その想定の範囲内みたいな態度なに? どういう事なのよさ?」

「重夫くん、君はかなりの現実主義者だと聞く」

「うん? まあ、あえて主義を標榜ひょうぼうするなら、そうでございますが何か?」

「おそらく、障害となっているのはその部分だろう」

「障害となってる?」

「つまり君は信じられていないのだ。魔法や我々の世界の事を含め、何より君は確実に君自身の事を信じられないでいる。敢えて言葉にしておこう、重夫くん――君は腐っている。君の内面は現実に映し出された自らの姿に感化されて、腐りきっているのだ」

「……えーと、何? 何故にいきなし暴言吐かれたし俺?」

「そうやって道化を演じ、己に向けられた一切の批判をまともに取り合おうとしないのも、君の悪い癖だな。分かった。絞り出さねばならんのだろうな、君の内面に溜まったそのうみを」

「いじめ? これっていじめ? いいんですか? 再発させますよ、学生時代のトラウマを」

「心配するな重夫くん。私がこの役目を授かったからには、見事、君を完璧な真人間へ更生させると誓おう」

「だがちょっと待ってもらいたい。確かに俺は正真正銘のダメ人間であり、それは褒められたものではないかもしれない。しかし、この高度に成長を果たした精神主体の時代である現代においては、どうだろうか――ダメ人間でいられる自由というものが保障されて然るべきではないか」

「うむ。精神の充足はまず身体からと言う。これより幾日かはひたすらに肉体の鍛錬を中心に行っていこう」


 やたらと気合の入っちゃったセグナんは、こっちの意見にはまるで取り合おうとせずに自己完結していらっしゃる。

 ほんとにもう、価値観の押し付けはよくないと思います。


 そんな不平を口に出せずいる繊細で控えめな俺の事などさて置くように、セグナールは横で規則正しく座っているムクの方へと近付いていった。

 いきなりどうしたのかとそれを目で追った先で、ムクの額に前足を当てたセグナんがまた何らかの印を描く。

 そうすると、ムクのその大きな体躯を緑色の魔方陣が取り囲んだのだった。


「今度はまた、何する気なんよ?」

「いやなに。重夫君がこれからずっと一人きりで鍛錬していくのもあれだと思ってな。少しばかり彼に御相手を頼もうと思うのだよ」

「お、お、お相手? セグナん、もしかしてすごく良くない事を企んどる?」

「ははは、まさか。とても有意義な修練課程を思いついただけだ。やはり独力で行う訓練には限界があろう? 彼に模擬戦闘の相手を務めて貰えば、君の肉体の鍛えると同時に実戦においての胆力もつく。実に効率が良い」


 爽やかに笑って流すセグナん。

 模擬戦闘ってスパーリングって事だろうと思うが、ちょっと待って――そんなの聞いてない。

 てかムクと戦えと仰るか? 

 一体俺が、何度ムクに殺されかけたかを知ってて言ってる?


「で、でも……模擬戦闘ってもいきなりムクみたいなんが相手じゃ、さすがにその……キツイでしょう?」

「大丈夫だ、力の加減は付けさせる。それに今の彼はもう凶暴な兵器ではない。重夫くんを喰って殺そうとする様な敵意を持ち合わせていない」

「いやいや、そっちにその気が有っても無くてもね、ムクみたいなんとバトったら、普通は死ぬよね? よくても重症だよね?」

「無論だな。しかしそれぐらいの危険を伴わねば、実戦訓練にはならんだろう。いざという時に役に立たないようでは何の意味もないからな」

「ちょっとお待ちになって。セグナんは俺を殺しにやって来たん? 俺の事助けてくれるために来たんと違うの?」

「何を今更言っているのやら……勿論、君を助けるために遣わされたに決まっているだろう。さあ、準備は整った。――模擬戦闘を開始しよう」


 セグナールが離れると、ムクの身体を包んでいた緑色の魔方陣が消える。

 ずっと座った状態だったムクは、にわかに立ち上がると俺の方へと一歩その前足を踏み出した。

 そうして、近付きながらその背中から生えた異様な腕を大きく広げるのだった。

 これってあれだよね、おもっくそ戦闘体勢とってるよね。

 やばい、おしっこちびりそう。


「い、いや! 大丈夫だ! 俺は知っている! ムクはとても優しい子なんだ! そんなムクが、まさかこの俺に暴力を振るうだなんて有り得ない!俺はムクを信じるぞへぅっ――⁉」


 残影を曳いてムクのその丸太のような腕が、俺の横っ腹に叩きつけられる。

 爪こそ立てられていないものの、そんな強烈な殴打を食らった身体は、くの字に曲がって倒れこむ。


「おえええええぅ……! やばい、やばいよ、死ぬよ俺――絶対死ぬよ! ごめんなさい、ごめんなさい、土下座するから許してぇぇ!」


 信頼とは残酷に打ち砕かれるもの。

 ちくしょう、ムクの奴め。あんなにナデナデよしよししてあげてたのに、平然と俺の事ブン殴りやがった。


 両膝を付いて涙と鼻水を垂れ流す俺を――しかしセグナんは一向に取り合わないご様子。

 そんな彼にさらにアピールするべく、地面に突っ伏して大声で喚き散らす。


「もうこれ背骨折れたし! あんな腕で殴られたから絶対背骨折れたし! レフェリー早く止めて!」

「何をしているんだ、戦闘開始の合図は先刻告げただろう。杖で防御するなり回避するなりしないか」

「無理! 絶対無理っ! こんな鈍器振りかざしたところでムクに勝てるわけないじゃん!? 死ぬよ俺! もうすぐ死ぬよ!」

「うむ、状況を良く理解しているな。では攻撃が通じないならば、せめて相手からの一撃をしのぐ術を見出さぬと、このまま一方的になぶられる結果となろう。さあ重夫くん、何とする?」

「そんなもん逃げるしかないやろがーっ⁉ セグナんのあほーっ! うんこたれーっ! 帰ったらジョンに言いつけたるからなーっ‼」


 機を見計らって全力で出口までダッシュする。その際の捨て台詞も決して忘れずに。

 いくらなんでも、外に出てしまえばムクは追ってこれないだろう。

 ムクの姿を見られて一番困るのは、セグナール達側なのだから。

 しかし階段まであと数メートルという所で、とんでもない風圧と共にムクが割り込んできた。

 ああ、そうだった。

 ムクってば物凄く機敏に動けるんだった。


 重夫は逃げ出した!

 しかし、回り込まれてしまった!


「ヌポゥフゥゥッ‼」


 背中の両腕を真横に広げた体勢のまま、ムクが突進してきた。

 慌てふためいているだけの俺はそのラリアットの直撃をもろに受けて、突き飛ばされてはゴロゴロと転がされるようにして元の位置に戻ってくる。


「ぎゃあああっ‼ 死んだ! もうこれ絶対死んだ! だって全身痛いもん! 体中どこもかしこも痛いもん! はい死んだ‼」

「ほう……? 力を加減させているとは言え、あんな攻撃を受けてよくそれだけ元気でいられるものだな。――いや驚かされた。重夫くん、君は思った以上にタフじゃないか」


 セグナんが曰く気な口調で何か言ってる。

 ふざけんな、もうなんか色々とふざけんな。

 しかしそんな事を思っている間に、一っ飛びで俺の元までやってきたムクが眼前に立ちはだかるのだった。

 人生で詰んだと思った瞬間は? ――はい今まさにです。

 セグナールが言った通り、ムクの表情には以前戦ったときのような剥き出しの敵意はない。

 ある意味での本当に澄み切った穏やかさを宿したまま、そんな風貌のまま俺の鳩尾にその図太い腕をめり込ませる。


 ああ、さすがにこれはダメだ。

 痛みとか吐き気とか、そんなのもう吹き飛んでちゃったからね。

 意識は徐々に白く染まり、なんだか落ち着く気分だ。


 その後、ムクがKO勝利を収めたのは言うまでもない。

 なんというデキレース、なんという予定調和。

 そして、残念! 重夫の人生はここで終わってしまった!



 マジカルハピネス、世界に愛と平和を。


 ――ほんとはまだ続くよ。





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