第5話 大切な記憶

 目の前が紅く染まる。辺りに飛び散ったそれは、私の手も真っ赤に染め上げたそれは……


 ぬるりとした感触。背筋を冷やす恐怖。熱くなる頭と比例してどんどん冷えていく身体。

 この紅は、血だ。鮮血だ。では、誰の? 私の? いいえ、違う。この紅の持ち主は、私を赤く染め上げたのは、目の前に立つ彼女。

 彼女から溢れ出した紅が私を赤く染め上げる。この紅を作り出したのは…………私?





「いやッ!!」


 次の瞬間目の前に広がったのは見慣れた部屋だった。

 あの後意識を失った私を運んでくれたのだろう。隣に千奈が幸せそうに眠る祖父母宅の客間。その奥には京子が眠っており、障子の向こうの外もきっとまだ真っ暗だ。

 夢、だったのか。

 いや、夢じゃない。あれは夢じゃなくて、私の記憶。忘れたかった記憶。忘れてはいけなかった記憶。

 私は過去に誰かを、殺している。今もまだ手に残る生温かい感覚が私を嘲笑うかのように現実を突きつける。

 血を被った私に襲いかかる恐怖。被害者は誰。私に殺されたのは誰。

 私はあの事件の犯人。女子中学生行方不明事件の犯人。私は殺人者だったのだ。


 行かなくちゃ。あそこに行かなくちゃ。三昏山に。


 パジャマのままスリッパを引っかけて家を飛び出した。

 暗いと思っていた外は薄明るかった。もうすぐ日の出のその明るさはただただ恐怖を募らせる。

 私は走った。道無き道、獣道を駆け登る。揺れる衣服の裾が木に引っかかって破れる。

 それでもただ走り続ける。

 もつれる足、途切れる息、早く早くと痛いほどポンプする心臓。

 あの場所に、早く。


「ハァッ……ハァッ……ハァッ……」


 ようやく辿り着いたその場所に。

 私が誰かを殺したこの場所に。

 傍らに立つ小さな祠。古く腐ったその祠のところどころに雨で流されて残ったわずかな紅がついている。


「……どうしよう…………私……」


 声が震える。わずかな紅が私の罪を裏付ける。この手は真っ赤に染まって穢れていた。



「………………私…………私……!」

「大丈夫だよ、美桜ちゃん」


 誰もいなかったはずの背後からかかった声にハッと振り返る。


「大丈夫。ぼくが守ってあげるから。あのときみたいに邪魔をするやつは全部消してさ、ぼくと美桜ちゃんだけで暮らそうよ」


 いつの間にかそこにいたのは小太りの男だった。

 じわじわと近づいてくる男に、背骨に氷水が流れたかのように恐怖が走った。こわい。


「いやっ……ないで……」


 恐怖で喉が凍りつく。声が出ない。


「どうして逃げるの? ぼくはこんなに美桜ちゃんのことを愛しているのに。どうして?

そうか。きっとキミは混乱しているんだね。大丈夫。すぐにぼくとキミだけの世界にしてあげるから。少しだけ待ってて。そうだ。ちょっと眠っててよ。ぼくとキミの愛の巣へお姫様抱っこで連れて帰ってあげるから。家に着いたら王子様の目覚めのキスで目を覚まさせてあげるから。少しだけ。ね?」


 男はポケットからナイフを取り出し歪な笑顔を浮かべてゆっくり近づいてくる。


「いやっ……来ないでよ……誰か……誰か助けて……」








「やっと見つけた。ぼくのお姫様。一緒に帰ろう?」


 思い出した。

 あのときもそうだった。

 男は私にナイフを向けて近づいてきたんだ。

 恐怖で震え上がる私は、足が絡まってその場に転んだ。完全に腰の抜けてしまった私はニタニタと気持ち悪い笑みを浮かべて近づいてくる男から逃げられない。

 その時、彼女が私と男の前に立ちはだかった。彼女も震えていたのに、私を守るために男と向き合った。


「美桜は私の妹よ! たとえ私が殺されようとも、この子には指一本触れさせない!」


 いつも私を守ってくれたその背中。どうして忘れてしまっていたのだろうか。





「……はや……く……に……げ……」



 私の大好きな姉。私をいつも守ってくれた大きな大きなその背中。ずっと憧れ続けたその人を私はどうして忘れてしまっていたのか。彼女の名前は――








『――美桜!』








 目の前まで迫っていた男が大きな音と共に視界から消える。

 少しして、その大きな音が男が投げ飛ばされた音だと気がついた。

 最後まで守ってくれた大きな背中。私を包み込むあたたかいぬくもり。


「…………ゆ……な……」


 結菜。私の大好きな大好きな双子の姉。いつも私の前に立って私を導いてくれた人。守ってくれた人。

 どうしてこんなに大切な、自らの半身とも言える彼女を忘れていたのか。


「ごめ……なさい……ごめんなさい」


 私が彼女をこの世界から奪ってしまった。私が彼女からすべてを奪ってしまった。私のために彼女はすべてをなくしてしまった。彼女は私のためにすべてを与えてくれたのに。私は彼女を忘れてしまっていた。許されない。許されてはいけない。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。私が結菜の……」

「違う。アイツはそんなやつじゃねぇよ」


 この声は、彼女じゃない。

 けれど、優しくて大好きな声。私を救ってくれる声。


「……そう……ま……」

「わかってる。わかってるよ。大丈夫だ」


 男らしい逞しい腕が、私を優しく抱きしめる。大きくて硬い手が、私の頭を宝物を扱うかのように撫でる。

 雨が、降り出した。あたたかい雨。なにもかもを洗い流してくれるような雨。優しい雨。


「好きなだけ泣けばいい。涙が枯れたら前を見て進めばいいんだ。結菜がよく言ってただろ」


 雨は、私の涙だった。けれど、理解したところでさらに溢れてくるばかりである。


「結菜は……私を……」

「許さないわけねぇだろ。あのシスコンが。お前を泣かせたって今にも俺に殴りかかってくるわ」

「……そっか」


 結菜は許してくれる。

 いや、許すもなにも元々恨んでなどいないだろう。

 恨んでいるならば、さっきみたいに男と私の間に立って守ってなどくれない。

 彼女は私をあの男から二度守ってくれた。


「ありがとう……お姉ちゃん」


 あなたとの記憶が私の一番の宝物。一度手放してしまったそれは再び私の中に戻ってきた。

 もう決して失ったりなんてしない。



「みぃちゃん!」


 静かな空間に響いた声。颯馬が離れてすぐに飛びついてきた慣れた抱き心地に抱き返しながらその人物がここにいることにとても驚いた。


「千奈? 先輩がたも……どうしたんですか?」


 千奈に京子に部長、副部長。陽が出たとはいえまだまだ暗い田舎のあぜ道をこの人たちが歩けるわけがない。

 ましてやここは道なんてない山の中腹だ。肩で息をしているところを見ると走ってきたようだが、とても走れるような状態じゃない。


「お前を探しに来たんだよ。どこ探してもいねぇから焦っただろ」

「どうしてこんな所にこんな時間に来てるんですか? 大丈夫でしたか? いや、それよりもどうしてここが?」


 誰にも言っているわけがない。私の居場所が分かるはずがなかった。そういえば颯馬もどうしてここに来れたのか。


「俺らは裕樹についてきただけだよ」

「なに言ってるの? その方が案内してくれただろ…………いない……?」


 案内してくれたという人がいる後ろを振り向くが、誰もいない。当然だ。村人さえこんな時間に山には入らない。

 さらに私の居場所を知る人物は誰一人いないはずだ。

 ならば何が。


「アンタたち見えるのね」


 また聞こえた第三者の声。それは今山を登ってきたのだろう真生だった。左手には懐中電灯が握られている。


「見えるって……まさか!」

「アタシに美桜の居場所を教えたのは結菜よ」


 あぁ。やはりとでもいうべきか。彼女は私をどこまで助けてくれるのか。


「…………ありがとう……結菜」

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