第12節 【1714~1917年 ハノーヴァー朝①】
さーせん、また時間が空いてしまいました。ではお次はハノーヴァー朝について説明していきます。
年数を見てもわかる通り、ハノーヴァー朝はすごく長い期間続いた。しかもこの次の王朝はハノーヴァー朝を改名しただけの実質ハノーヴァー朝だから、かなり長いこと続いたのがわかるね。
そんだけ長いから当然戦争だって起こる。この頃のヨーロッパは、数カ国をまたいだ戦争が多い。なので、イギリスというよりは横割りの説明になりますのでご了承を。
まず一つは「オーストリア継承戦争」。
Wikiだと何種類も戦争名が出てくるが、「オーストリア継承戦争」というのは総称のようなもので、複数もの戦争を経ている。わかりにくいのでざっくりと説明すると、オーストリア=ハプスブルク家の家督継承問題。ここで、オーストリア国内の事情を少し説明。
当時オーストリアの神聖ローマ皇帝だったカール6世が、「男子がいない場合に限り女性の家督と認める」とした。つまり、カール6世の長女であったマリア=テレジアに家督相続を認める、というものだった。オーストリア=ハプスブルク家と言ったら、ヨーロッパ諸国をまたにかけた一大帝国のようなもの。アジア圏を牛耳っている三井・住友財閥と言うとわかりやすいかと思う。必然的に他のヨーロッパ諸国も関わらざるを得ない。カール6世がこれを定めたときは、大して反論は起きなかった。
しかし彼が死んだ途端、ヨーロッパ各国からマリア=テレジアの家督継承に疑問の声が上がった。まず行動したのはプロイセン王国。彼女の家督継承を認める代わりにシュレジエン地方の割譲を求めた。シュレジエン地方は機械業や鉱産業が盛んだから、プロイセンにとってはメシウマな土地。当然マリア=テレジアはそれを拒否。
さてここでフランス王国の介入。当時のヨーロッパは、フランスのブルボン家とオーストリア=ハプスブルク家の二大勢力が牛耳っていた。オーストリア=ハプスブルク家の弱体化を狙うフランスは、当然マリア=テレジアと対立関係にある。なので、プロイセン側にはフランス、そして現在のスペインが味方についた(スペインもブルボン家のため)。一方、そのフランス・スペインと対立しているイギリスは、オーストリア側についた。
「プロイセン・フランス・スペイン VS オーストリア・イギリス」という図になるね。この戦争、結果的には「アーヘン条約」で、シュレジエン地方をプロイセンに割譲することになった。その代わりにマリア=テレジアは、オーストリア=ハプスブルク家の家督を継ぐ。
イギリス、エリザベスの時代が終わってからめっきり衰退します。この後の戦争も、ほぼどこかの国の支援につくような形で戦争が続きます。
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