アイネの受難 後編

 リシュライナを残し、斜面を滑り下りる。茂る枝葉が晒された皮膚を擦るが問題はない。

 足を痛めないようにだけ注意して、どうにか村の中へと着地する。

 同じ地面に立って見ても、やはり廃村ではない。舗装こそされていないが村の中の道は人の足で踏み固められ、所々ぬかるんでいた山道とは明らかに違う感触だ。

 下りて来た斜面を振り返り見上げるが既にリシュライナの姿は夜闇に紛れて窺えない。向こうからは見えていると信じて手を上げて無事を知らせておく。


「さて……」


 出来る事なら私も人と関わる事は避けたい。明らかに人里から隔絶された村だ。私のようなよそ者では警戒心を煽るだけ、余計な不安と疑心を与えるのは望ましくない。

 だが周囲を見渡しても村の名が記された看板どころか村とその外を仕切る囲いもない。山に入れば二度とは辿り着けないような気がする。

 不自然な存在感を放つこの場所はまるで山中に突然現れた異界のようにさえ思えた。

 点在する民家に目を凝らしても戸が閉められた家の中の様子までは分からない。分かり切ってはいたが僅かに漏れ出る光もないのは電気が通っていない事を表していた。

 仕方ないと諦め、上から見て最も大きかった家へと向かう。自然を足音を殺してしまうのは癖のようなものか。後ろめたさからではなく、『ウルタールの猫』を宿していた頃の無意識がまだ抜けきれないのだろう。


「御免下さい」


 古びた玄関の戸を叩く。静謐な夜の村に音が不気味に木霊する。……不気味なのは村人からすれば私の方か。

 そう思うと私は『彼女』から何も学べていない、と情けなくなる。『彼女』は人の警戒心を解く事に長けていたが、私には真似出来そうもない。

 思えば信者たちの一部は熱心な勧誘活動を行っていたが、私には無理だったろうな。『クタニド』様を信じる事が救いだと思っていても、その手を広げる事は出来ない。私がして来たのは手を差し伸べる事ではなく、必死に伸ばされた手を握ってやる事と……この手を下す事だけだったから。

 感傷を打ち切る。戸の向こうから動く気配を感じたかと思うと磨りガラス越しに灯りが見えた。


「急な訪問を許してほしい。私はアイネ。山道で迷い、偶然この村に辿り着いたんです」


 少しでも警戒を解いてもらえるようの精一杯。灯りが揺らめき、少しの沈黙の後に返答があった。


「……おお、そうかいそうかい。それは大変だったろう。今開けるから待っておくれ」


 しわがれた老婆の声が見ず知らずの私を案じた。その事に安堵する。警戒心と疑心を抱いていたのは私の方か。

 先の吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア勇者エインヘリアル、ニコラの一件と着せられた背信者の汚名に惑っていたのかもしれない。

 戸が開けられ、白髪の老婆が燭台を持って姿を現す。温和そうな笑みを浮かべ、私の腕を優しく叩いた。


「外はまだ寒いだろう、さあ中にお入り。こんな陋宅ろうたくだけど中はあったかくしてあるよ」

「いえ、ただ私は……」


 此処が何処なのかを知りたいだけだと断ろうとして、触れた老婆の手が震えている事に気付く。寒さが堪えるのは私よりも彼女の方だ。

 一礼して促されるまま敷居を跨ぐ。靴を脱ぎ、簾を潜ると言葉通り中は温もりに満ちていた。囲炉裏、というのだったか。部屋の中心に設けられた穴の中に灰が敷き詰められ、炭が赤く熱を発していた。


「申し訳ない。長居するつもりはありません。ただこの村の名前だけでも教えてもらえれば」

「もう日が暮れてるんだ、遠慮なんてせんでええよ」

「いえ、ですが……」

「それとも連れでも待たせてるのかい?」


 言葉に詰まる。此処で頷けばリシュライナも連れて来いと言ってくれるだろうが、それはまずい。しかし首を横に振れば固辞する理由がなくなる。純粋な厚意を裏切る事は教えに沿うまでもなくしたくはない。


「さあさ、座りなさい」

「……失礼します」


 結局、言われるがままに腰を落ち着けてしまう。一体どうしたものか。


「体があったまるものを淹れるからね」


 湯呑を持ち、囲炉裏の上に吊り下げられた鍋から何かを掬い入れた。白い液体、甘酒か重湯のように見える。

 差し出されたそれを受け取り、口をつける。想像していたどの味とも違う。甘酒よりも明らかに甘い。というより甘すぎる。表情を変えないように顔を引きつらせ、礼を言った。


「ありがとう、ございます」

「口に合わないかもしれんが、勘弁しておくれな」

「いえ……それで、この村の名前は」


 とにかくまずは本題を片付けよう。地図を広げて老婆に問う。どれだけ想定していたルートを外れてしまったのか知りたい。もしも此処よりも大きな村や町が近くにあったのなら長居すべきではない。


「…………メツ」


 あまりに小さな声で聞き取れなかった。そう、思った。


「……ソウ……メツ」


 身を近づけ、俯く老婆を下から覗き込む。

 ……老婆の口は閉じられ、何も紡いでなどいなかった。


「テン……ソウ、メツ」

「テン、ソウ……メツ」

「テン、ソウ、メツ」

「テンソウメツ」「テンソウメツ」

「テンソウメツ」「テンソウメツ」

「テン」「ソウ」「メツ」


 聞き取れない声は老婆からではなく、この家の周囲から輪唱のように連続して無数のナニカから発せられていた。

 緩めた警戒心が、危機感が一気に引きあがる。

 跳ね上がるように身構えた勢いで置かれた湯呑が倒れ、半分以上残っていた液体が囲炉裏の灰の上に零れ落ちる。

 こんな状況で迂闊と分かっていながら、口許を押さえた。吐き気が込み上げる。

 灰の上では蛆虫と芋虫のようなナニカが熱に喘ぐようにぞわぞわと蠢いていた。


「これは……貴様はッ!?」


 吐き気を押さえ込み、老婆を庇護対象から警戒対象へと認識を変える。誘い込まれたのか……!

 ゆらりと顔を上げた老婆の口が動き、言葉を発する。


『テン、ソウ、メツ』


 同時に家が振動する。戸も壁も関係なく、バンバンと家全体がナニカに叩かれていた。囲まれている……くそ。

 汗が背中を伝う。この村は一体なんなんだ……?

 目に見えない脅威の中、次に起こったのは目に見える驚愕だった。

 老婆がゆらりと首が折れたように頭を揺らして立ち上がると部屋を照らしていた燭台が倒れ、灯りが消える。

 灯光が消え、僅かに光を放つのは囲炉裏の炭だけのはずなのに老婆の姿を怪しく浮かび上がらせた。

 首が、消えていた。

 その認識がすぐに誤りだと知る。リシュライナのように顔までが消えたわけではない、両肩が盛り上がり、本来は胸があるはずの位置にのっぺりとした巨大な顔が目を見開いている。


「なっ……」


 言葉を失う。脅威と驚愕が合わさり、得体の知れない恐怖となって私を襲っていた。


「テン……ソウ……メツ……」


 家が倒壊するのではないかという揺れの中、陽炎のような、人を惑わせる不確かな動き。ソレが一本へと変わった足で床を蹴り、両手を震わせて近付いて来る。


「リシュライナ!」


 叫ぶ。策もなく、ただ連れ添いの名を届くと信じて呼ぶ。

 情けない、込められていたのは懇願に近い思いだけだ。助けてくれ、と縋るような無様な嘆願だった。

 振動がさらに強まり、目の前にまで迫ったソレが再度跳躍すると同時、轟音が天上を突き破った。

 灰が部屋中に舞い上がり、びちゃびちゃと鍋が中身をぶちまけながら何処かへと飛んでいく。

 衝撃にうずくまり、灰に目を濡らし咳き込む私の体を浮遊感が襲う。


「っ、離せ! この……! リシュライナ……っ!」


 果たして視界を滲ませたのは灰のせいだけだろうか。


……!」


 届かぬと知っていながら、私の口から出たのは『彼女』の名だった。

 何の力も持たない、ただの女性の名。これ以上何を求める、これ以上何を望むというのだ。


『落ち着け、我だ』


 身勝手な現実逃避に埋没しようとしていた私を引き戻したのは聞きなれた声と武骨な鎧の感触だった。

 目を開けば真下には砂煙を上げるあの平屋が、顔を上げれば月明かりを反射する漆塗りのような光沢を持つ鎧。

 リシュライナに抱えられているのだと、ようやく気付く。


「あ、ああ……来て、くれたのだな」


 私の声を聞き、その人を越えた跳躍で駆け付けてくれたのだと知る。


『汝が村に下りてすぐに妙なモノがうろつき始めたのだが……謝罪する。判断が遅れた』

「それは……アレの事か」


 砂埃が晴れ、半壊した家の周囲に犇めき合う何十という数の頭部のない異形たち。その人よりも大きな目が一様に此方を見上げていた。

 思わず目を逸らしても脳裏に刻みついて離れない。


『アレは何だ?』

「……私が知りたいよ」


 想像していたよりも情けない声が零れ出た。どうやら私はこの悪夢じみた光景と状況に参ってしまっているらしい。

 私を抱える武骨な腕に縋るように力を込めた。


『汝は無傷とはいかないが跳ぶぞ。何処に出るかは分からんがこのまま落下するよりはマシだろう』


 言うが早いか、リシュライナは空中で再度跳躍する。疾走する夜空は奇妙な、気味の悪い生暖かさに包まれていた。

 見る見るうちに異形の群れが遠退いていく。


『アレが何かは分からぬ。人ならざる異形であっても我と同属とは言えない。我と同種とは言えない。だが、同質の存在と呼べるのだろう』


 リシュライナたち、『デュラハン』と同じ対攻神話プレデター・ロアがこの世界を侵す過程で淘汰されゆく、世界に根付いた――都市伝説フォーク・ロア

 アレは教団がそう呼称する存在の一種。徒人の身となってようやく理解した。


「……アレは人が関わるべきモノではない」


 本来、関わってはいけないものだ。

 着地の衝撃に木々が騒めき、舞い上がった土塊が私を叩く。その痛みがむしろ心地良かった。私はまだ生きている、生き延びられたのだと実感させてくれた。


『大丈夫か』


 膝を着き、私の背を自身に預けさせながらリシュライナが身を案じる。


「ああ……ただ少し、疲れた」


 このまま眠ってしまいたい。何処とも分からない、冷気に満ちた山中だけれど、あの村よりはマシだ。

 ただの人間となって今更に、自分たちがしてきた所業の偉大さと愚かさを思い知らされた。


『我が迂闊だった。もっと警戒すべきだった』

「それは私も同じだ。自分がただの小娘である自覚が足りなかった」


 私を抱くリシュライナもアレと同じ。被害者であり、加害者であり、今は頼もしい旅の道連れ。

 寒空の下、武骨な鎧に身を預け、瞳を閉じた。


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謳う吸血戦姫 詩野 @uta50

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