「いつまでそこに突っ立っているつもりだ?」


 濁り湯の中でアイリスがタオルを巻いて背を向けたままの僕に呆れている。

 アイリスの言葉に偽りはなく、混浴である。勿論男女別の湯もあるのだがそれにしたってこんな宿があるなんて住んでいた時でも知らなかった。というか今知った。

 体を清める手伝いは必至の嘆願で辞退したが、此処からはもう逃げられない。


「……おじゃまします」


 ええい落ち着こう。つい先日の事とはいえ僕も一応は成人した、子供とはいえない年齢だ。女性との裸の付き合い程度で…………そんな経験、子供時代以外ではない。

 せめてと努めて平静を装い、温泉に踏み入る。両手の指はまだ完治していないのでそこに気を付ける体で視線をアイリスから外す。散々『炎の精』相手に聖剣を振り回しておいて今更だが。


「やはり体を清めるには広い方が良いな」

「せまくて悪かったね」


 僕たちが住む家は元は祖母のものだ。この街で中学を卒業した後、向こうの高校への進学を理由に亡くなった母方の祖母の家を借りた。元々両親を早くに亡くした僕の生活を支援してくれていたのも祖母だ、亡くなった後も甘える形になり頭が上がらない。


「理由はどうあれせっかく此処まで来たのだ、普段とは違う方が良いというだけだ」


 僕も別に気を悪くしているわけじゃないんだけど……アイリスに今の僕の心情を察しろ、というのは無理な話か。それにこの状況はともかく、この環境は悪くない。こういった詫び寂びのある雰囲気を楽しめる程度には僕も大人になった。


「天上に居た頃は川で水浴びをする程度だったからな」

「豪華な宮殿の煌びやかなイメージだったけど」


 無言よりはマシだと必死に会話を続ける。出来れば天上時代の水浴び事情からも離れたい。


「宮殿、グラズヘイムへの立ち入りは吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアである私にも許可されていたが私は基本的に寄り付かなかった。食事を時々奪いには行ったが」


 ちゃぷちゃぷと水音を立て、物珍しそうに濁り湯を眺めながらアイリスが語る。……横目に映っただけで覗いたわけじゃない。

 僕は天上での暮らしについて尋ねた事は今までなかった。シグルズやアイリス自身の反応からあまり気軽に触れるべきではないと思っていたからだが、アイリスは特に嫌悪もなく、ただ懐かしむような語り口だった。


「以前にも言ったが天上で私は勇者エインヘリアル共の敵役としての役割を与えられ、生み出された。敵と味方が一つ屋根の下というのも妙な話だろう」

「そんな気を回していたんだ」

「それが私に与えられた唯一のものだったからな。それに他の戦乙女ヴァルキュリアのように給仕の真似事など御免被る。だが永遠に繰り返される殺し合いの果て、ヴァルハラに運ばれてくる魂に私の認める勇者エインヘリアルは居らぬと悟った。そして終わりと万が一の奇跡を求め、その結果が今だ」


 気を逸らし続けてる僕の事などお構いなしにアイリスは隣に移動し、僕の顔を覗き込む。僕は月を見上げていた。……どうして本人が気にした素振りも見せていないのに僕だけがこんなに気を回しているんだろうか。


「そして出会えたお前にも今回は裏切られた……などとは思ってはいない」


 思わず顔を向けそうになるが直前で制止する事に成功した。


「天上の機構、私と同じ装置システムとしての勇者エインヘリアルと区別してはいるが勇者も勇士もその役割は変わらん。吸血戦姫を討つ者だ」


 けれどその言葉には耐え切れず、僕は顔をアイリスへと向ける。その白い肌は湯に浸かり、肩から下は見えない。その事に安心しながらも反論する。


「僕はそんな役割を請けたつもりはない」

「分かっている。お前にならば討たれるのも悪くない、お前ならば受け入れられるというだけの、ただの私のプライドと納得の問題だ。言っておくが私がそう納得していなかったならお前は今頃湯浴みが出来ん体になっていたからな」

「いふぁい、いふぁい」


 顎の下から頬を掴まれ、結構な力で潰される。目の前に移動されると流石にマズイので必死にアイリスの手から逃れる。

 アイリスも僕に怒っているのは間違いない。だが僕に剣を向けられる未来は最初から想像し、覚悟もしていた。だから裏切りとは思っていない。

 アイリスにとっては僕という勇士も最初から味方としては見ていなかったのだろう。ただその名を名乗る事を認めてくれていただけなのだ。……決して僕が言えた事ではないけれど、アイリスも僕を味方としては信じてはいなかったという事だ。


「だが二度目はない」


 冷酷に言い切った後で、いや、と迷う素振りでその言葉を訂正した。アイリス自身、何と言っていいのか分からないようだった。


「どうか二度目はあってくれるな。私に剣を向け、袂を別つ、それがお前の選択ならば受け入れよう。けれど……こうして戻って来るのなら、初めからするな」

「……ごめん」


 そんな事をそんな声で言われてしまったら、僕にはただ謝る事しか出来ない。


「……いや、忘れろ。お前にとって必要な事だったのだろう。お前を縛るつもりはないのだ」

「だけど約束する。僕はもう君を裏切らない」


 説得力なんてない。それでも言葉にして伝えたかった。

 そしてアイリスは渇いた笑みを浮かべて僕に問う。


「六年前の災厄、確かにあれは私とは無関係だ。だがそれは私が役割に準じていたからに過ぎん。もしもその役割を与えられていたのなら、私は喜んでこの地を業火に包んでいた。私にはもはや役割などない、いつ気まぐれに災厄を振りまくとも限らんぞ? それでもお前は私につくのか?」


 以前の僕には答えられなかった。勇士である事を受け入れた後でも口籠り、黙るしかなかった。

 けれど今なら答えられる。もうそんな言葉程度では迷わない。

 それに信じられないと言っておきながら、アイリスの口から否定の言葉が出て安心した。


「その時は僕が止める。聖剣でも対攻神話プレデター・ロアでも、何だって使って君を止める。それが君の気持ちを裏切る事になるのなら――君の気持ちの方を変えてみせる」


 大言壮語の大口叩き、身の程知らずの高言、自覚はある。分かっていて、それでも言葉にしているんだ。これは虚勢じゃない、アイリスに対して張った僕の見栄であり、それを崩す事はないという誓いだ。


「――そうか。なら、いい」


 そう言ってはにかむアイリスは本当にただの少女のようで、見とれてしまう。……ああ、そっか。初めて会ったあの夜、僕の心を染めた空白。あれも同じだった。あの時も僕は見とれて、見惚れていたんだ。


「……あんまりそうじっと見るな。不快ではないが、愉快でもない。それに眺めて楽しめるような肢体でもあるまい。お前の言うように人間の少女じみた肉体だ」

「体を見てたわけじゃないから!」


 駄目だ。自分の気持ちを自覚する前ならどうにかなったが、今の僕がこの場に留まるのは危険すぎる。プラトニックとは言わないがこの状況はあまりに肉欲的すぎる。というかそもそも順序がおかしい! それに自分の気持ちに向き合うにしても今はまだ今回の件で自分を戒めるのが先だ!


「も、もう十分温まったし、そろそろ僕は上がるよ!」


 勢いよく立ち上がる、なんてベタな真似は死んでもするものかと濁り湯の中を膝立ちで進む。擦れた膝がひりひりと痛むが知った事か。


「そうだな。食事もまだだ、戻るとしよう」


 が、アイリスの方が立ち上がりすたすたと僕を追い越して湯から出た。勿論、マナーを守ってタオルなど巻いて入ってはいなかった。


「君がそうしちゃ意味ないだろぉ!?」


 ファンタジーと隣り合わせであっても此処は現実。不自然な程に濃い湯煙は昇らないし、謎の光も差しはしない。……ああ、なんというかもう悟った。これは僕が後で会長に怒鳴られるオチが待っているやつだ。後、多分ユーリにはジト目で見られるのも覚悟しておこう。




 ◇◆◇◆




 ある意味で忘れられない旅の思い出をまた一つ刻み、部屋に戻るとタイミング良く用意された食事を今夜は二人で口にする。

 こっちに来てからは帚桐が用意したコンビニのご飯しか食べていなかったし、アイリスとまともな食事をするのは随分と久しぶりに感じる。一段と冷える今夜には嬉しい、鍋料理だった。


「いただきます」

「いただきます」


 髪を結い、しっかりと肌を隠して浴衣に袖を通したアイリスと共に両手を合わせる。それが何だかとても心地良くて、笑みが零れた。


「あのさ、明日はもうマントを受け取りに行くだけだけど、よかったら少し出かけないか」

「体は大丈夫なのか。着くなり倒れ込んだだろう」

「今までと比べたら大した事ないよ。それに、この街は大した名物も何もない、辺鄙な所だけど……君と一緒に歩きたいんだ。多分、今なら昔見えなかった事も見える気がするから」


 変わった所も変わっていない所も、もう一度自分で確かめたい。アイリスに見ていってもらいたい。

 あの日で止まっていたものを此処からまた始めたいんだ。この街を終わった場所のままにはしたくない。


「詠歌、私はお前の過去に興味はない。お前がかつて味わった痛みも悲しみも、女に向けた情愛も、私には無関係だ。私にとってお前は今のお前でしかない」

「それは僕も同じだ。だから今の僕と、今の君で見ていきたい」


 久永との思い出をなぞるつもりはない。それに少しだけ悲しいけど僕も分かってはいるんだ。僕や阿桜さん、この街に生きる人にとって六年前に失ったものはとても大きくて、忘れる事なんて出来ないものだけど、それ以外の大勢の人にとってはもう過ぎ去ったものでしかない。今も世界は変わらずに回っている。


「……勿論、君が良ければだけど」


 やっぱり埋め合わせというには虫のいい話だろうか。一応、これでも勇気を振り絞った誘いなのだけど。


「少し、表情が変わりやすくなったな」

「え?」

「その方が可愛げがある」


 そう言われて自分の顔に手を当てるが、自覚はない。別に無表情の鉄面皮、というわけではなかったと思うのだが。

 そんな僕を見てアイリスは愉快そうに笑った。


「いいぞ。お前が見たいものを、見せたいものを、私に見せてくれ」

「ああ、うん……?」


 僕の中で変わったものは確かにある。けどそう簡単に見違えて人が変わるとも思えないが……アイリスにはそう見えたのかもしれない。


「それに彩華と小娘への土産も用意しなければな」

「うん、熊切さんにも買っていかないと」


 怪我のせいで暫く稽古をつけてもらえてはいないが、春休みの間もいつでも来いと言ってくれている。まだまだ僕は弱い。その言葉に甘えさせてもらって、少しでも強くなりたい。


「彩華からお前一人に選ばせるな、と厳命を受けたぞ」

「信用ないなあ、僕」


 普段着を見るにアイリスもセンスという点では中々にアレだと思うんだけど。

 それから、取り留めのない会話を交わしながら食事は続く。

 本当ならもっと自分を省みるべきなのだろう。本当ならもっとアイリスに訊かなければならない事があるのだろう。でも今は、この時間に浸っていたい。僕が選び、アイリスが尊重してくれたこの時間を。




 ◇◆◇◆




 翌日、お昼前に旅館を後にする。結局僕は一泊しかしなかったけれど、アイリスは色々と世話になったと言っていた女将のおばあさんに礼を言うと「いがす、いがす」と少し懐かしい訛り言葉と共に背中を叩かれた。もう女の子を放り出すな、とお叱りも受けて。


「ただ布団を一組しか用意しなかった事は許さないからな、ばあさん」


 後、アイリスに混浴の存在を教えた事もだからな!

 そう語気を強めて言っても堪えた様子はない。ただ皺の刻まれた頬を上げて笑うばかりだった。


「若いんだからええでねえの、坊ちゃん」

「余計な世話だよっ」

「はいはい。……また帰ってきんさいね。あんた、こっちの人だろ?」


 何処で気付いたのか、知っていたらしい。もしかしたら釣られて僕も此方の言葉を使っていたのかもしれない。

 その言葉はありがたいけれど、素直に頷く事は出来ない。悲しい思い出ばかりじゃなく、楽しい思い出もたくさん残っている場所だけど。


「また遊びに来ます」


 僕たちが帰る場所はもう、別にあるのだから。

 そう言うとおばあさんは「それならええ」とまた笑った。

 アイリスと共に最後に宿と送りに出て来たおばあさんに一礼し、僕たちは歩き始める。新しい思い出をこの街に刻みながら、帰るべき場所に向かって。

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