⑭
「本――当にいい迷惑なんだけどッ!」
それから、レスクヴァさんを軟禁していたホテルに戻ると彼女は逃げる事もなく仁王立ちでホテルの前で待ち構え、開口一番にそう叫んだ。
……まったく、その通りである。アイリスにした以上に必死に謝罪するしか僕には出来なかった。彼女は本当に丸きり今回の事件には無関係なはずの人間なのだから。
最初のアイリスの態度から彼女に無理を言って協力させる可能性が高かったので、余計なお世話でいい迷惑かもしれないが、一応保護のつもりでもあったのだがアイリスはレスクヴァさんを頼るつもりはなかったらしい。
つまりは完全に被害者で、僕が加害者。完璧にただの誘拐である。
しかも
「そりゃ缶詰になってたおかげで仕事は捗りましたけど? こういう扱いはトール様やロキ様相手に慣れてますけど? それとこれとは話が別なんですけど!」
「痛いです痛いです」
バシバシと完成したばかりの聖剣の鞘で腰を強かに殴打される。甘んじて受ける。鞘の先端、
「どうせ何かの事情があるだろうって事は分かってたけど。あんた、馬鹿兄貴に似てるし」
「シャルヴィさんに?」
呼び方が君からあんたに変わっているあたり、当然だがご立腹には違いない。
「そ。まあそこら辺は身内の恥だし、地上には伝わってないから何処がとは言わないけど」
少し気になったが今の僕にそれを訊き出す事など出来るはずもない。そのまま大人しく叩かれ続けるばかりだ。
腰が悲鳴を上げ始めた頃、多少は鬱憤が晴れたのか、レスクヴァさんが鞘を僕へと投げ渡す。
「ま、こんなものでいいわ。払うものも払ってもらったし、貸し一つで手打ちにしてあげる」
「え?」
そんなはずはない。僕はまだ鞘の代金を払うどころか具体的な金額も聞いてはいない。
「あの帚桐って子から代金は貰ってるわよ。姐さんにばっか手を貸すのもあれだしなあ、とか何とかぼやいてたけど」
「……律儀な奴」
自分で言っておいて、十分に自分を縛るものになっているじゃないか。
彼が信念を掲げるきっかけは分からない。けれど、帚桐にも譲れないものがあった。阿桜さんや僕に手を貸したのは、弱者に味方するのは彼自身に譲れない理由があるからなのだろう。
僕が阿桜さんの復讐を許せなかったように、彼も。
少しだけ帚桐の言葉の意味が分かった気がする。
信念とは自らを傷つける荊ではなく、荊の道を照らし、踏破する為の標なのだ。
「ありがとうございます。確かに」
隠匿の魔術、内側にルーンが刻まれているという鞘に聖剣を納める。人通りが少ないとはいえ、抜身の剣を晒しても注目が集まる事はない。正常に機能している証拠だ。
飾り気のない黒い鞘に初めからそうであったように納まった聖剣を装着されたベルトを回して肩に掛けて背負う。背中に感じる重みはほとんどない。僕自身も意識しなければ聖剣の存在を忘れてしまいそうだ。
「少しはらしくなったではないか」
「いいや、まだまだだよ」
揶揄いかそれとも本心か、アイリスの言葉に首を振る。
今もまだそれを誇る事も相応しいとも思えない。
「それでも僕は、君の勇士だから」
でも誰かに譲る事も、出来そうにない。多分、勇士である事が一番、君のそばにいられる方法だから。なんて、本人にはとても言えそうにないけれど。
「さ、これで君の方は終わり。次は
「どんな扱いを受けていたかは知らんが、逞しいことだ」
「はんっ、伊達に神様たちに揉まれてないっての」
レスクヴァさんはこのままアイリスのマントの修繕を行うつもりらしい。僕らにとってはありがたい事だが、生憎と僕にはそれに付き合う気力は残っていない。正直な所、今すぐ倒れ伏したい気分だ。
『炎の精』や『クトゥグア』の熱に体を侵され、治り掛けていたはずの怪我もまた痛みだしている。大事には至らないだろうがやせ我慢を続ける事も出来そうにない。
「一夜で仕上げたお前の事だ、そう時間は掛かるまい?」
「そりゃ、あたしには余計な手はつけられないですから」
「なら一日預ける。明日までに終わればいい」
「ん……かしこまりました」
アイリスは脱いだマントをレスクヴァさんに押し付け、代わりに内側から取り出したマフラーを僕に渡す。
持って来ていたのか、と思いながら気が抜けていたせいか、当たり前のようにまた彼女の首元にそれを巻いてしまった。
「それじゃ後はお二人でごゆっくり」
呆れた視線が突き刺さる。ひらひらと手を振るレスクヴァさんの前から、僕は逃げるようにアイリスの手を引いて早歩きで宿へと向かう。
繋いだ手から伝わる温もりを意識すると顔が熱くなるのを感じる。
「……」
レスクヴァさんの視界から消えた後、立ち止まってアイリスを振り返る。少し強引に連れ出したのに此処まで文句の一つもなかった。
表情からは怒りは感じられない。ただ立ち止まった僕を不思議そうに見上げるだけで、繋がった手の平に疑問すら抱いてはない。
「どうした」
「あ、いや……」
耐え切れず、僕の方から手を離す。繋いだ時と同じで抵抗はなかった。
公園で見せた獣じみた鋭い瞳ではない、ただの少女のような丸い瞳に見上げられると心臓が早鐘を打つ。気恥ずかしくてとても目を合わせ続けてはいられない。
「なんだ、目を逸らすな」
「ちょ、っと待って、お願い」
強引に向き直させられるがそれを情けない声で拒絶する。
どうして今更? と自身に問いかければ分かっているだろうと囁かれた。
……だって、相手はアイリスなんだぞ?
確かに今の僕が感じているものは六年前に気付いたものと似ている。だけど、まさか、僕が?
結末はどうあれ、シグルズとブリュンヒルテの物語は知っている。人間と人間でない者の関係に思う事はなにもない。そういう事もあるのだろう。そういう人もいるのだろう。そんな感想しか出て来ない。
けれど、僕がその当事者になるなんて想像もつかないじゃないか。
「……そんなガキじゃないつもりだったんだけどなあ」
誰に囃し立てられたわけでもないのに、自分に言い訳を重ねている。認められないわけじゃない。認めたくないわけじゃない。ただ受け入れ難い。
今回の件で色々、過去と折り合いをつけられたつもりだ。それにしてもさっきの今だ。いくら何でも性急すぎるというか、真摯さに欠けるというか。
「……? 戻るのだろう? それとも傷が痛むのか?」
「大丈夫……帰ろうか」
僕が……アイリスに恋をしている、なんて今すぐ受け入れられるものじゃない。そもそも今すぐにそれを認めてしまうとこれからの生活に支障を来す。
とにかく、この件は持ち帰って議論します。はい、思考を打ち切ります。逃げとも言うがそれは戦略的撤退と言い換えておく。
愉快というよりは間抜けな内心を悟られないよう、素知らぬ顔で僕はまた歩き出す。……本当、どうしたものか。
◇◆◇◆
ふと気づけば僕は布団の上にうつ伏せで倒れていた。いや訂正。口許が涎で濡れている。単に寝ていただけだった。
旅館に戻り、女将のおばあさんに部屋を空けていた事を謝った辺りまでは覚えているけれど、その後の記憶は曖昧だ。
聖剣は鞘に納められた状態で壁に立てかけられているし、火傷のひりひりとした痛みを体中から感じるから全部夢だった、なんてオチはない。疲れ果てて眠ってしまっただけだ。
「アイリス……?」
寝起きの掠れた声で呼んでも返事はない。体を起こして隣のもう一組の布団を見ても使われた様子はなく、部屋にはいない事が分かる。
置き去りにしていたスマートフォンを手に取り、時間を確かめると既に夕方、夜に近かった。たっぷり六時間は寝ていたようだ。
「……風呂」
体は痛むが激痛というわけじゃない。火傷も温泉に入れない程酷くはない。それよりも汗ばんだ体を流したいし、頭をすっきりさせたい。窓に反射する僕の顔は随分と気の抜けた間抜け顔だった。
ビジネスホテルでもシャワーを浴びはしたが、着替えは此処に置いたままだった。バッグから着替えを取り出し、欠伸を押さえながらふらふらとおぼつかない足取りで部屋を出る。
アイリスの姿が見えないのは気になるが、彼女の事だ。気儘にやっているのだろう。そう思っていた矢先。
「な……」
思わず言葉を失った。
「ん? 目が覚めたか」
「何をしてるのさ君は!?」
温泉へと繋がる廊下に設置された長椅子に湯上りであろうアイリスの姿。それだけなら特に言う事はない。湯上り姿など毎日見ている。感じるものがないわけではないが、問題はそこではない。
「そう声を荒げるな。衆目を気にするお前らしくもない」
「言ってる場合か! ってか君が気にしろ!」
慌てて駆け寄り、帯もつけずにほとんどはだけた状態で浴衣を羽織るアイリスに持ってきたバスタオルを投げつける。辛うじて見えたらマズイ箇所は隠れているがあまりに肌色が見えすぎる。中に何も着ていない事は明らかだ。
脇に置かれた帯を取り、大きく開いた衿と裾を掴んで端折るとすぐさま帯を回し、多少の皺はこの際無視してきつく占める。帯と同じように置かれていた羽織を顔に被さったバスタオルと入れ替えて被せる。何かもごもごと騒いでいるが騒ぎたいのは僕の方だ!
「ぷはっ。ええい、何をするのだ」
「こっちは何してんだだよ」
「おおう、珍しく言葉まで荒げているな」
アイリスは僕の雰囲気が今まで見ないものだという事には気づいているが、何故こんな態度なのかまでは理解していないようだった。
やっぱり常識知らずじゃないか……!
「いいから立って、部屋に戻るよ」
「む、何故だ? 湯浴みはせんのか?」
「君を連れて行った後で入る」
数は少ないとはいえ、他の宿泊客がいつ通りがかるかも分からない。そんな状況で一人にしておけるはずがない。
急かす僕にいや、とアイリスが首を振る。
「私もまだだ」
「だったら尚更なんで!?」
此処が旅館の廊下である事も忘れて叫んでしまった僕は責められるだろうか。いいや、今回は色々と間違いとか危険とかを冒している僕だけど、これに関しては僕は一切悪くないと弁解させてもらおう。
「着替えて出て来たのだがな、歩いている内にこうなった」
「着れないなら無理に着ないで……」
寝むりこけている僕に気を遣ったのかもしれないが、頼むからそんな気遣いは捨ててくれ……。というかなんで今日に限って着替えたのか。まさか昨日もこの様子で出歩いていたわけではない、と信じたい。
「そう言うな。鞘は完成し、後はマントの仕上がりを待つばかり。お前も戻り、ようやく胸の内が空いたのだ。そうなれば色々と目移りするものもある」
「……それを言われたら、僕が原因だから強くは言えない……」
つまりアイリスは今、ようやくこの旅行を楽しんでいるのだ。……それとももしかしたら、最初から楽しみにしていたのだろうか。僕が乱雑に着させた浴衣を興味深げに見つめる姿に罪悪感とそんな期待感が生まれてしまう。
けれど、せめてこれだけは言っておこう。言っておかなければならない。……どうせ僕は未だ、確固たる芯も信念も持ち合わせていない。
「だけどアイリス、これは君の
「お、おう?」
僕の口から今まで出なかった言葉が飛び出た事に驚いたのか、何故かアイリスが居住まいを正した。……生きている君相手なら、所詮は小さな拘りでしかない。
「外と家は違うから。だらしない格好はやめてくれ……本当に、いやマジで。他人から見たら君は
などと内心で格好つけてはみたが、本心からの切実なお願いである。この旅館に限らず、此処も向こうも田舎とはいえ僕にも世間体があるし……こういった姿を他人に見られるというのは僕の精神衛生上よろしくない。
「私の為か……おおっ、今の感覚は悪くない」
「は?」
「気にするな。また一つお前に教えられたと思っただけだ。これを何と呼ぶのかはまた彩華に訊くとしよう」
「……?」
胸を押さえてうんうんとしきりに頷くアイリスが少し心配になってくる。それにまた、って会長に何か吹き込まれでもしたのか。……本人に聞かれたら機嫌を取るのが大変なので黙っておくけれど。
「うむ、お前の忠言は受け止めた。心配するな、私はどこぞの勇士と違って勝手はしないとも」
「……流石は
いきなり皮肉が飛び出たがアイリスの機嫌は悪くはない。むしろ上機嫌だ。十分にアイリスも好き勝手しているとは思うが、今はこっちも黙っておく。言われて仕方ない事をしたし、それにこういう時、男は余計な事は言わない方が身の為だと知っている。というか以前、学習した。
「ではもう一つ、私の為にしてもらおうか」
「何なりと」
何をしても罪滅ぼしにはならないけれど、それでアイリスの気が晴れるのなら僕は――、
「湯浴みをするぞ、混浴というのがあるとあの老人から聞いた。今なら余人の目はないとも」
僕、は……。
「まさか今度も断るとは言うまい?」
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