上空までを覆う結界、それすらも焦がす程に吹き上がる巨大な火柱。攻撃でも幻影でもなく、それこそが『クトゥグア』と呼ばれる邪神そのものなのだと一目見て吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアは理解した。

 羽ばたく度に舞う黒羽が抜け落ちた先から触れるまでもなく燃えていく。かつて一度だけ目にした『スルト』を思い出す程の熱量に、しかし恐怖はなかった。


「くはははっ! 何を言うかと思えばやはり人間は理解出来んな! 死者の扱いは神の領分、それに頭悩ませるなど身の程知らずにも程があろうに!」


 己の勇士の苦しみに共感は出来ない。死人を悼む気持ちなど全く理解出来ない。

 価値観、死生観、倫理観、その全てが違い過ぎる。

 吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア、アイリスにとって理解出来るのは一つだけ。それが久守詠歌の選択であり、決断の果てに出した答えなのだという事。

 それが人にとって正しい答えがそうでないのかは分からない。だがそこに善悪はない。ただ許せない、認められないという個人の身勝手な意思の叫び。

 それを聞いただけで胸の内に巣食っていた感情が消え失せていくのを感じる。

 詠歌の出した答えはアイリスを再び魅了するには十分すぎた。


(分かっているのかいないのか、それこそが私の求めているものだというのに)


 天上の勇者エインヘリアルたちにはない、死に惑い、恐れながらも向き合う。それ故の生きた者の輝き。

 無理矢理に繋ぎ合わせただけのハリボテのはずの翼に力が通う。魔力が遠慮もなく噴き出していく。

 この地上で初めて向けられた純粋な憎悪の持ち主の意識は既にない。それは『クトゥグア』に喰われ、その力と変わった。憎悪の炎とはいえ言葉は持たない。それが少し残念だった。


「貴様が人として向かって来たならば届いたかもしれんがな」


 ただの手段であれば良かった。しかし己の復讐すら代弁者に預けたのなら、最早興味はない。

 どれだけ強力な力を持とうと『クトゥグア』はアイリスが見定めるには値しない。

 巨大な炎の柱は形を変え、二又に分かれるとそれぞれがアイリスの周囲に巻きつくようにねじれながら向かって来る。だが想像していたよりもその熱量は低い。

 無論、ただの人間であれば灰も残らない。しかし人間ならざる吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアの肉体を焦がすには届かない。それが詠歌の仕込みなのだろうと察しがついた。


(成程、確かにお前の言葉に嘘はなかった。お前は私を信じてはいない)


 恐らくはこの街に出向く前に零した、本腰を入れた教団を相手取るには心許ないという言葉のせいだ。目の前の生きた炎が『ウルタールの猫』や『アイオド』よりも強力である事は伝わって来る。

 現に蛇のようにうねる二本の炎の渦は飛び回るアイリスを決して逃がしはしない。


「――!」


 やがて消える事のない炎は空中を埋め尽くし、ついにはアイリスを呑みこむ。

 帚桐悠が阿桜巴に『クトゥグア』の召喚させようとしたのはその力の強大さだけではない。

 圧倒的な熱量の中であっても生きた炎は窒息すら許さない。呼吸すれば内側が焼け、外側は肌の脂を燃料に延々と対象を燃やし続ける。復讐を目的とした阿桜巴にはそんな生き地獄を死の瞬間まで与える『クトゥグア』こそが相応しかったからだ。

 炎の中、虚ろな表情で意識を失っているはずの阿桜巴の口許には笑みが浮かんでいたた。存分に苦しめ、それだけが自分と死んでいった者の救いなのだと。

 ――そんな救いを吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアは与える事はない。

 炎の渦の中、アイリスの左手が動く。その艶やかな黒髪と濡れ羽色の黒翼を炎は侵せない。

 空中に刻まれ、浮かび上がった文字ルーンが意味するのは炎、野牛、軍神。それらの三字が重なり、一つの文字となり、輝きを放った。


「流石は偉大なる主神がその身を生贄に手にした力だ、と言っておこう」


 炎は割れ、その中心にアイリスは健在だった。

 忌まわしげに宙に浮かんだルーンを手をかざす事で消し去り、夜影の禍槍ヴェルエノートを振るい、周囲に残った炎すらも消し去る。

 対攻神話プレデター・ロアはオーディンが習得したルーン魔術にはまだ届かない。そしてアイリス自身の魔術もまた、遠く及ばない。


(私の言葉も、力すらも信じられぬのは当然だ。私にはこの程度の力しかない)


 再び燃え盛る炎を見下ろし、夜影の禍槍ヴェルエノートを強く握る。この槍がなければ『クトゥグア』はおろか、他の全ての対攻神話プレデター・ロアに対してアイリスは無力に等しいだろう。それは否定出来ない事実だ。だからこそ、アイリスは夜影の禍槍ヴェルエノートを手放さない。だからこそオーディンの恩恵たるルーンを使う事を拒まない。詠歌の仕込みを余計な真似だとは口にしない。


「だがいつか、信じられるだけの力を示してやろう」


 いずれ神を上回る力を手にし、自らの力を証明する。

 その時まで利用できるものは全て利用する。自分の物ではない神話に謳われた槍も、神の力も。

 いつかそれが自分の力だと口に出来る時まで、いつか吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアの名が謳われるその時まで。


「幕引きだ、復讐者。貴様の復讐は成し遂げられずに此処で終わる。貴様は私を討つに値しない」


 アイリスと『クトゥグア』までの道を結ぶように展開される三重の魔方陣。

 ふざけるな、と『クトゥグア』の炎はさらに無数に分かれ、天へと昇る。まるで流星のように空から炎が落ちてくる。全てを燃やし尽くす憎悪の流星。それに触れればアイリス以外は無事では済まない。ジュワイユーズを残し、詠歌も燃え尽きる。


「弱き人に寄生する神よ、同じ異物である私と貴様を隔てるものが分かるか。神に人の代弁者は務まらん。神の口にする事など人には詭弁と同じだ――貴様らの炎で夜影は照らせない」


 けれどそんな未来は訪れない。そんな未来は御免だと、アイリスに求める者がいる。神を討てと求める声が聞こえる。

 それに応じる吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアが此処に居る。


「神の威光を我が極光にて塗り潰せ、冒涜で以て私の呼び声に、人の求めに応えてみせよ! ――夜影の禍槍ヴェルエノートッ!」


 音を置き去りにする一投。その衝撃は降り注ぐ炎を消し飛ばし、荒れ狂う炎の渦を穿ち、それでも止まらない。

 魔方陣を一枚、二枚、通り過ぎる度にその紅黒の輝きを強め、最後の魔方陣を貫くと同時、炎から命が消えた。




 ◇◆◇◆




 思わず目を覆ってしまう程の光。夜影の禍槍ヴェルエノートの一撃が『クトゥグア』を穿ったのだろう。

 光が収まる頃には結界の中に満ちていた熱も『炎の精』も消え去り、肌寒い空気が戻って来た。


「あれが『ロンギヌスの槍』、欠片であの威力かよ」


 帚桐は倒れた阿桜さんの傍に突き立つ夜影の禍槍ヴェルエノートを一瞥し、僕の持つジュワイユーズを眺める。

 紅黒の光を放つジュワイユーズは未だに僕を使い手と認めてくれているらしい。


「聖剣と聖愴、いや魔槍か。厄介なもんが厄介な奴らに渡っちまったもんだ」


 敵意は感じない。召喚された『クトゥグア』が滅ぼされた今、すぐにでも戦いになると危惧したがそのつもりはないようだ。


「助かった、ありがとう」

「お前、これで丸く収まったって思ってんのか。女の望みを奪い、関係のない奴らまで危険に晒して、運良く『クトゥグア』は倒せたからハッピーエンドだって?」


 首を振って否定する。そんなわけはない。何も終わってはいない。


「阿桜さんの復讐がこれで止まるとも思えない。あの人の炎が全て消えたとは思ってないさ。たとえ六年前の僕のように真実を知る事がなくとも今のこの街に生きる人たちにも僕は最低な事をした。だから帚桐」


 僕の決断に巻き込んだ人の為に、僕の我儘に振り回された人の為に。


「君が僕の敵になれ。知る事も出来ない人たちの代わりに、僕を許すな」


 決して忘れる事がないように、有耶無耶のまま消える事がないように、僕の罪を叫び続けてくれ。

 彼ならそうしてくれると思ったから、僕は最後の一歩を踏み出せた。


「僕は吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア勇士エインヘリアル。君の敵だ」


 誰かの為に戦える君になら、それが出来るはずだ。


「……はっ。お断りだ」

「……どうしてだ?」


 だが帚桐は呆れた顔で拒絶した。


「これ以上、お前に利用されてたまるかよ。第一、俺が弱い奴の味方をすんのはそいつらに戦う気がある時だけだ。久守詠歌、お前は一生、自分が犯した罪と向き合い続けろ」

「……そう」


 なら仕方ない。ああ……また死ねない理由が増えてしまった。


「姐さんの復讐は此処で終わりだ。あの人は十分すぎるぐらいに苦しんだ」


 帚桐を追うと、意識を失ったままの阿桜さんに手をかざし、何かの呪文を唱え始める。

 それが唱え終わった時、阿桜さんから安らかな寝息が聞こえて来た。


「最初から復讐が終わったらこうするつもりだった。姐さんは対攻神話プレデター・ロアの事を忘れて、復讐の事も忘れて、時間が解決した事になる」


 記憶を操作したのか。……これで阿桜さんが苦しむ事も、死を選ぶ事もなくなる。

 真実を隠す事が正しい事かは分からないけれど、これで良かったのだろう。

 眠り続ける阿桜さんを帚桐が担ぎ上げた。


「けどこれで終わったと思うなよ。姐さんの復讐はお前が継げ。それぐらいの甲斐性はあるだろ」

「ああ。僕もこのままで終わらせるつもりはないよ」


 本当の真実を突き止める。誰の為でもなく、僕の為に。落とし前はつけさせてもらう。


「そんで覚悟しとけ。お前は教団にとって人類を裏切った敵に変わる。正義に私欲、ただの仕事。理由は色々あるだろうが、お前はもう戻れない」


 もう覗いただけではなくなった。僕は深淵に足を踏み入れたのだと、帚桐は忠告する。


吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアに味方するってのはそういう事だ」


 地面に降り立つアイリスを一瞥し、帚桐は結界を解いた。

 アイリスと言葉を交わすつもりはないのだろう。たとえ六年前の災厄と無関係だったとしても、『クトゥグア』を滅ぼしたアイリスは弱者を虐げる側の存在、帚桐の信念とは決して交わる事のない存在なのだから。


「じゃあな。嘘吐き」

「さようなら。物好き」


 互いにストレートな悪口を呟き合って、僕たちの協力関係は終わりを迎えた。

 多分、もう二度と彼の手を借りる事はない。僕は弱いままだけど、彼にとって味方する対象からは外れている。次に会う時はきっと敵意はなくとも敵としてだ。

 去っていく後ろ姿にこれ以上かける言葉もなく、阿桜さんがこれからどうなるのかを知る権利も僕にはない。

 そして公園には僕とアイリスの二人だけが残された。


「さて、では何処からがお前の愚かな企みの上だったのか、聞かせてもらおうか」


 ……帚桐の後ろ姿が見えなくなるまで見送っていたかったのだけど、というか考える時間が欲しかったのだけど、それを許してくれそうにはない。

 振り向けばいつもの装いに戻ったアイリスが両腕を組み、静かに怒りを燃やしていた。


「まさかこのままで済むとは思ってはいまい? お前が私に言いたい事もあるだろうが、私にも相応にあるのだからな。今回の件がお前の迷い故であれば許そう。だがそれにしては仕込みが過ぎる」


 口にはしなかったが『クトゥグア』が僕に向いていた事に気付いている。

 阿桜さんと敵対したのが土壇場の決断ではないと分かっている。そうなれば追及は当然の事だった。


「言い訳をさせてほしいんだけど」

「言ってみろ」


 僕に非があるのは分かっているが、僕にだってアイリスに思う所はある。

 天上に居た頃の所業に詳しくはないが普段からの偽悪的な発言、レスクヴァさんの所での横柄な態度、それを知ってたから信じたくても信じられなかったのだと言いたい。

 信じられないとは言ったが信じたいとは思っている……内心でまで言い訳しても仕方ないか。

 ならせめて張っていた予防線だけは言葉にしておこう。


「そもそも君、旅館に戻ってただろ?」

「それが」


 戻らずに外で夜を明かす可能性もあったが、結果的にアイリスがあの宿に戻った事は知っていた。


「チェックインした時は二人だったんだから、何も言わずに一人分のご飯は出て来ないし、一人分の布団は用意されないんだよ」


 スマートフォンは置き去りにしてしまったが、ビジネスホテルから隙を見て確認の電話を入れていたのだ。

 女将のおばあさんには邪推されてしまったが、電話でアイリスの事をお願いした。その事に気付いていれば僕の考えが分からずとも考えがある事ぐらいは察せていたはずだ。


「そんな事、この私が知るはずがないだろう」

「常識はあるって君が言ったんだろう」


 沈黙。断じて心地よい風ではない。痛い沈黙だった。


「……あーもう! ごめん! 悪かった! 自分でももっとやりようがあるって分かってたよ、けどこういう中途半端な事しか僕には出来なかったんだ!」


 信じる事も出来ず、裏切りきる事も出来ない、中途半端な蝙蝠。虚勢も見栄も、張り通す事の出来ない弱い僕はこうして謝る事しか出来なかった。

 ――情けない謝罪を繰り返しながら、ああ、と痛感する。

 アイリスと過ごした日々、阿桜さんへの共感、久永との思い出。それがせめぎ合って、僕はこんな真似をした。

 この罪は許される事はない。僕が僕自身を許す事は絶対にしない。

 それでも今、僕の心にあるのは苛むような罪悪感ではない。あるのはただ……此処に戻って来れた事への安堵だった。

 結局の所、僕は――ただ、彼女のそばにいたかったのだろう。未練も不安も断ち切った本心のままで。

 阿桜さん。僕はあなたが言うような優しい人間じゃありませんでした。

 久永。僕が死を選ぶ時、きっと君を言い訳に使ってしまう。それが分かっていたから僕は死ねなかった。でももう違う。

 言葉にするのがずっと怖かったけど、今なら言えるよ。


「……僕は生きるよ。お前の為じゃない、僕は僕の為に、生きていたいんだ」


 今更になってしまったけれど、そんなつもりもなかったはずだけど、ようやく前を向ける気がするんだ。

 ずっと一緒に居られると信じていたお前は今、此処には居ない。ならいっそ最初から出会わなければ良かったとすら思った事もあるけれど……もう違う。


「さよなら、久永」


 お前と出会えて、本当に良かった。心からそう思うよ。

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