吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアは窓際の広縁から眼下の川を見つめていた。

 開かれた窓から冬の風が冷気を運んでくるがその程度で震える肉体ではない。


「……」


 己の勇士との離別から一日。ふらふらとおぼつかない足取りでこの部屋に戻り、それからずっと何をするでもなくぼんやりと時が過ぎていく。

 裏切られた、とは思わない。むしろこれが吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア勇士エインヘリアルのあるべき姿だ。

 久守詠歌という人間は結局の所、善なる存在。生まれついての悪である吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアとは相容れない。そんな事は分かっていた、覚悟していた。

 善なる者、正義を掲げる者に滅ぼされる、自分はそういう存在であると自覚している。しかし天上の戦乙女ヴァルキュリアたちが選定した勇者エインヘリアルたちが気に入らなかった。

 自分を倒すのは自分が認めた者でなければ納得がいかない。だから詠歌を選んだ。善悪ではなく自らの意思で選択する者、勇者エインヘリアルという機構じみた集団ではない、自らの意思で剣を取る個人こそが吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアが求めた、憧れた勇士だった。

 ――そこまでは理解できる。自らの事を把握している。

 けれど、その先が、今の現状が、アイリスには理解できなかった。


「これはなんだ。今、私の体を止めるものは。この内から溢れ出る感覚はなんと呼べばいい」


 離別の瞬間、別れの言葉を告げられた時から止まらない胸の痛み。怒りではない、喜びでもない。アイリスの知らない感情。吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアには備わっていないはずの感覚。

 考えても答えは出ない。分かってはいても思考の渦から抜け出せないまま時間だけが過ぎていく中、持ち主に置き去りにされたスマートフォンが振動で着信を伝えた。


「……」


 億劫そうな表情でテーブルに置かれていたスマートフォンを見れば、ディスプレイには『会長』と表示されている。

 無視する事も出来たが、無性に彼女の能天気な声が聞きたくなり、アイリスは通話に応じる事にした。


『もしもし、詠歌くん?」

「……私だ」


 聞きなれたと言っていい彩華の声を聞いて、僅かにだが胸の痛みが和らいた気がした。


『エリュンヒルテ様? 詠歌くんはどうしたんですか?』


 当然、本来の持ち主について問いかける彩華に対して、アイリスは事実全てを告げる事はせず、短く返答する。


「野暮用でな、今は別行動だ」

『んなっ!』


 大げさなリアクションを取る彩華からは怒りと呆れが滲み出ている。


「どうした?」

『有り得ないですよ! 二人きりの旅行で、旅行先で別行動! 詠歌君の常識を疑いますね! 紳士的なエスコートを期待していたわけじゃないですけど、あんまりです!』

「そういうものか」


 そこから暫く彩華の理想とするデートプランの講釈が長々と始まった。少しだけ電話と受けたのは失敗だったか、とアイリスはいつかの服選びを思い出して後悔した。


『最後は夜景を見ながら君の瞳に……ところで、その、もしかして喧嘩とかじゃありませんよね……?』


 講釈が終盤に差し掛かった頃、突然不安そうな声で彩華が尋ねた。アイリスが最初に感じたのは純粋な疑問だ。


「どうしてそう思う?」

『エリュンヒルテ様の声がなんだか悲しそうです』

「悲しい……? まさか、私は涙など流した事はないぞ」


 戦い、滅ぼされ続ける為の存在として生み出された吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアにはそんな機能は備わってはいないはずだ。

 喜怒哀楽の内、哀だけは吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアにとって不要な感情でしかないのだから。もしも備わっていればとうの昔に心は折れていただろう。


『涙を流すだけが悲しさの表現じゃありませんよ』

「そういうものか。……ふむ、そうか」

『エリュンヒルテ様?』


 しかし、主神が望んだ吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアとしての彼女は既に壊れている。この地上の食物を喰らい、地上に染まった彼女は装置システムとしては破綻している。ならばそういう事もあるのかもしれない。


「お前の言う通りかもしれぬな、彩華」

『……やっぱり、何か……?』

「心配するな。お前が気に病むような事は起きていない」


 理由は定かではないが、久守詠歌が自分の意思で選んだ事。洗脳の類ではない事は彼の瞳と言葉で分かっていた。

 ならば悲しみを抱いたとしても、嘆く事ではない。アイリスは彼の選択を尊重する。


『それなら、いいんですけど……二人で帰ってきてくれますよね?』


 アイリスが嘘を言っているとは思わないが彩華は言いようのない不安に襲われる。今日まで築いてきた関係が崩れ去ってしまうような、そんな不安が過ぎる。

 相変わらず察しが良い、とアイリスは感心する。自分には理解できなかった感情を言い当てた彩華がこの場に居たなら、こうはなっていなかったのかもしれない。

 アイリスには理解できない詠歌の行動の意味も察する事が出来たのかもしれない。


(だがそれはお前に教えてもらうものではないのだ)


 自らの勇士を知るのは伝聞ではなく、自分の目でなければならない。それは身勝手だが、詠歌を勇士に選んだアイリスの義務と権利である。

 誰にも譲るつもりはなかった。


「ああ」

『……分かりました。私、ユーリちゃんと一緒に待ってますから』


 彩華はそれ以上追及する事はしなかった。本当なら今すぐにでも駆け付けたい気持ちで一杯だった。けれどアイリスが心配するなと言った以上、それを信じると決めた。何より彩華は詠歌を信じている。

 詠歌の過去を彩華は知らない。しかし今の詠歌を知っている。たとえそれがほんの一面でしかなくとも、彼を信じるには十分すぎるだけの時間を過ごし、それだけの冒険をして来た。


『それと! お土産を選ぶ時は詠歌君一人にしないでくださいね!』

「ああ。期待しているといい」


 くすりと笑い、アイリスは通話を切る。沈黙が戻った部屋の中で少しだけ呆れてしまう。


「我ながら染まりやすいものだ。永い時を一人で過ごしていたというのに、こうも簡単に変わってしまうとは。ブリュンヒルテを笑えんな」


 だが悪くない、そう思える。停滞していた頃よりも随分と生きているという気がする。

 そして同時に生きる事が苦しいと嘆く人間の気持ちも少しだけ理解できた。確かにこの痛みは、苦しい。

 胸を押さえ、痛みを意識すると昨夜の離別が想起される。思い出すだけで痛みは増し、言葉にならない感覚が体を支配する。


(この痛みに溺れていれば、私もいつか涙を流すのだろうか)


 そうすれば己の勇士の心情を少しでも理解出来るのだろうか。窓に映る自分の瞳と昨夜の詠歌の瞳が酷く似ていて、そんな事を考えてしまった。


「栓のない。奴に私の事が理解出来ないように、私にも奴の本心など理解出来ん。言葉もなければ尚更だ」

「そりゃあいかんね」


 一人呟いた言葉に突如入る合いの手。すぐさまマントを掴み、警戒を強めてアイリスが振り返る。


「ああ、驚かせてしまったかい」


 いつから居たのか着物姿の老婆が一人、居間に入り込んでいた。

 特別な力は何も感じない、しかし見覚えのある顔に記憶を辿れば初めにアイリスたちを迎え入れた旅館の女将だと思い出す。


「夕食の時間でしたのでね、お持ちしましたよ」

「あ、ああ……ご苦労」


 マイペースな言葉に毒気を抜かれるが、同時に入り込まれるまで気付かなかった自分の腑抜けさを呪う。

 警戒しても仕方のない相手だと肩に入った力を抜く。食事をする気分でもなかったが、突っぱねる気にもなれずに並べられていく料理に視線を落とす。昨晩は戻って来た頃には既に下げられた後だったが、今夜の料理は山菜と魚のようだ。


「喧嘩でもしたんかい?」

「聞いていたのか」

「別嬪さんだってのにお相手は酷いお人やねえ」


 アイリスの言葉を聞いているのかいないのか、独り言のように話す老婆にアイリスもペースを乱される。しかし不思議と怒る気にはなれなかった。


「なに、私も酷いものだ。改めるつもりもないが、嫌気が差すのも無理はない」


 レスクヴァの時の詠歌の不機嫌な表情を思い出し、苦笑する。まさかあれが引き金ではないだろうが、アイリスの態度に他にも思う所はあったのだろう。


「いんやいんや。嫌になったんなら逃げるでなく口に出してやんねばいけねえ。そんでその気にさせるのがいい男だ」

「……どういう意味だ?」


 アイリスが地上の言葉を解すのは言葉に乗せた思いを読み取るからだが、老婆の言葉はそれも難しかった。これが年の功か、とアイリスは間違った認識をするがそれを訂正するツッコむ者は此処にはいない。


「他の虫が寄り付かんように生やした女の棘を抜くんは男の仕事じゃんね。あんたさんみたいな別嬪と会えたんはその棘のおかげなんじゃから」

「む、むう……?」


 分かるような分からないような、唸り声を上げながら理解しようとするがどうにもはっきりとしない。


「あー、外国の人にはちいと分かりにくいかね」

「ああ、そのようだ」

「あんたは自信を持ったらええ。そんで言ってやんなさい。言いたい事があんならはっきり言えと。言いたい事を言い合わねば、言わんくても分かるようにはならん」

「……成程」


 それは以前、アイリスが実践した事だ。本音を引き出す為に追い込み、隠された本心を曝け出させた。醜いものを隠そうとするのは善なる人間の面倒な部分だと。


「どっちが悪いにしろ、若い内は言葉にせねば始まらんよ」

「そうだな。ああ、その通りだ」


 初めての感情で忘れていた。アイリスは詠歌の選択を尊重すると言った。だがそれはその選択までの過程と共に見定めるという前提がある。

 何を聞き、何を見て、何を知ったのか。共に聞き、共に見て、共に知らなければその決断、選択に納得など出来るはずもない。


「礼を言おう、老人」


 最大とも言える敬意だが相も変わらずのアイリスの傲岸な態度に老婆は刻まれた皺をさらに深めて笑った。


「ええんよ、若人。ババアの戯言だからね」

「くくっ、だが踊ってやるのも悪くないと思える忠言だった」


 アイリスにとっては地上で語られる戯曲などよりも愉快な言葉だ。胸の痛みを一時でも忘れさせてくれた。


「そもそも停滞を嫌って堕ちて来たのだ。此処で止まるなど、愚かにも程がある」


 迷いに立ち止まるのは人の性、しかし人でなしの吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアにはそもそも道などもうありはしない。道なき道の最中で立ち止まったところでどうなるというのか。進むか戻るか、それしかないのだと思い出せ。


「そう、我は吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア。進むは悪道、為すは悪行のみ。止まる事に何の意味があろうか」


 待っていても無駄だと悟ったからこそ、彼女は此処に居る。ならば選択肢はただ一つ。


「見定めてやろう、我が勇士。お前の決断を」


 詠歌は向こうから会いに来ると言っていた。しかし此処では決着には相応しいとは言えない。


「ああ、待ちんさい待ちんさい」


 ならば相応しい場所で待とう――と、マントを翻そうとしたアイリスを老婆が止めた。


「……なんだ、まだ忠言か?」

「冷める前に食べて、今日は休みんさい。布団も用意しとくから。まずはあんた一人でええ。そんな疲れた顔をしてちゃ駄目だあ。そんで明日は二人で泊まりんさいね」


 昨晩の料理が手つかずだった事にご立腹らしい老婆の瞳が鋭く光っていた。前言を撤回し、こればかりは改めねばなるまい。


「……いただきます」


 両手を合わせ、行儀よくアイリスは頭を下げた。




 ◇◆◇◆




 目覚め、再び魔導書の複写を再開した阿桜さんを眺めていた時、ふと寒気に襲われた。

 何といえばいいのか、対攻神話プレデター・ロアとは無関係の別の何かに起因するものだと僕の勘が告げている。


「……魔槍を取り上げたくらいじゃ、縛れないか」


 勘というより確信と言ってもいいかもしれない。予想通りではあるが、予定外な何かが起こっている気もする。

 大人しくしていれば好都合だが、やはりそうもいかない。だけどレスクヴァさんは此方に、魔槍は此処に。力の源であるマントを持っていてもアイリスの力は万全には程遠い。だが勝算もなく挑む真似をするか、と訊かれれば答えに詰まる。


「どちらにしても、あまり時間はない」


 後手に回るのは避けたい。こちらが主導権を握らなければ予期せぬ事態を招いてしまう可能性がある。

 既に決断は終えている。後は準備が整えば行動に移すだけ。


「……久永」


 今更何を言っても届きはしないけど、見ていてほしい。僕が決断の果てを。


「おーう、調子はどうだい」

「……ノックぐらいしたら?」


 緊張感の欠片もなく帚桐がいつのまにか僕の背後に立ち、机を覗き込む。

 気配を感じさせないのは彼の実力からなのかもしれないが、単純に心臓に悪いのでやめてほしい。


「悪い悪い。それでどうよ、姐さん」

「……ええ、もう十分だと思うわ」


 阿桜さんは筆を置き、最後に書き上げた一枚を帚桐に突き付ける。目覚めた後もさらに数十枚は複写し続けていた。一体どれだけ繰り返せば邪神の影響とやらが薄まるのかは想像も出来ないが、それでも十分すぎる程の執念が籠った一枚だ。

 阿桜さんが眠っている間にも様子を伺いに来た帚桐は無数にちらばった写本を回収しながら、その執念こそが重要なのだと言っていた。

 邪神の力を完全に制御する事は容易ではない、魔術を知らない者には不可能に等しい。けれど『アイオド』が人の恐怖を喰らうように執念や憎悪、怒り、そういった術者の感情を喰らわせる事で指向性を与える事は出来る。

 そうして召喚された神性は召喚者の代弁者であり、召喚者の感情が形になったものなのだと。


「……ああ、これなら大丈夫そうだな」


 帚桐は写本ではなく、書き続けたせいで震えの止まらない阿桜さんの腕を見て頷いた。

 僕に同じ事が出来たか分からない。けれど僕は僕に出来る事をするだけだ。

 聖剣の柄を握り、改めて自分に言い聞かせる。もう後戻りは出来ない。

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