拠点となっているホテルにレスクヴァさんを連れ帰った事で一つ準備が整った。阿桜さんの隣にもう一つ部屋を借り、そこを軟禁場所とする。

 マントの修繕が叶わなければアイリスの戦力が増す事はない。だからと言って彼女の力は人間である僕たちにとって侮れるものではないが、少しでも不確定要素は減らしておくべきだ。


吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアはどう動くと思う?」


 大人しくしているとは思えない。けれど、今回の事態は今までとは違う。ニコラと『アイオド』の時は僕を取り戻そうと尽力していたが、これは僕の意思、僕の選択によって引き起こされた状況だ。

 アイリスの僕の意思を尊重するという言葉に嘘はない。僕の驕りでなければ彼女自身、悩んでいるのではないだろうか。その言葉を嘘にするかどうかを。


「レスクヴァさんを連れて来た時点でこの場所は割れてると考えていい。元々はレスクヴァさんの魔力を感じ取ってこの街に来たんだ。いつになるかは分からないけれど、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアは必ず此処に来る」

「それまでに準備を終わらせるか、終わらせるまで時間を稼ぐのが俺やお前の仕事ってわけか?」


 頷く。帚桐が阿桜さんに教えた復讐を果たす為の対攻神話プレデター・ロア、それには準備が必要となる。対攻神話プレデター・ロアの事も知らない一般人だった阿桜さんは今もそれを必死に進めている。

 吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアがこの街に居ると知った以上、彼女は止まらない。機を待つ、なんて考えは最初からない。その為にこの六年を過ごして来たのだから。


「それで、その間あたしは此処で大人しくしてればいいのかしら?」

「それでも構いません。でも時間を持て余すでしょうから」


 レスクヴァさんと共に運んできた彼女の仕事道具と思しき物を机に置く。僕にはそれの使い方は見当もつかないけど、帚桐が見繕った物だ。


「ついでです、依頼していた聖剣の鞘の製作をお願いします」

「今のあたしにそんな事を頼むの?」

「従わなくてもいいですけど、妙な真似はしない方がいい。それはあなたの方が分かっているんじゃないですか」


 現にこの部屋へと足を踏み入れる直前、隣の阿桜さんの部屋を通り過ぎた時、顔を青ざめさせていた。


対攻神話プレデター・ロア……嫌な感覚はそのせいってわけ」


 僕でさえ感じる寒気と怖気、人間であるとはいえ北欧神話の住人であるレスクヴァさんはさらに強い忌避感を覚えているはずだ。

 既に此処は対攻神話プレデター・ロアの胎内も同じ。教団に雇われている帚桐とその帚桐から扱い方を教わった阿桜さんはともかく、聖剣を持っていなければ僕も長くは正気は保てないだろう。

 ホテルの人間たちが心配になったが、帚桐曰く対攻神話プレデター・ロアをそうと認識しているからこそ、深淵を覗き込んだ者だからこその不調らしい。


「心配せんでも大人しくしてくれてりゃ、狂わないように守ってやるさ」

「それはありがたい話ね……はぁ。はいはい、言う通りにするし、仕事はするわよ。……うん、大丈夫」


 大きく溜息を吐き、僕の持つ竹刀袋に包まれた聖剣をじっと見つめた後でレスクヴァさんは素直に鞘の製作に取り掛かってくれた。型もなしに僅かに聖剣を見ただけで迷いのない動きなのは彼女が職人として優秀な証か。

 今の僕に鞘は必要ないが、あって困るものでもない。いつまでも布に包まれていては聖剣も不憫ではある。

 以前、会長では持つ事も一度しか出来なかったという聖剣は今でも僕の手に吸い付く様に馴染んでいる。どんな理由で振るう者を選んでいるかは知らないが、見る目がない。もしも聖剣が僕を選ばなかったのなら、諦める事も出来たかもしれないのに……なんて、考えても無駄か。


「此処は俺が見とくから、お前は姐さんの所に行ったらどうだ?」

「行った所で僕に何か出来るのか」

「俺抜きで積もる話もあるだろう、って気を利かせてるんだよ。それに呼び出そうとしてる神性は心を侵す危険は少ないとはいえ、今の姐さんじゃ対攻神話プレデター・ロアの狂気に呑まれないとも限らない。姐さんも覚悟の上だが、それじゃ寝覚めが悪いんでな」


 たしかにあの光も通さない部屋の中では対攻神話プレデター・ロアに関係なく精神を蝕まれかねない。僕はまだ阿桜さんと話したい事がたくさんある。


「レスクヴァさんは六年前の件とは無関係だ。君が教団に雇われていても手は出すな」

「言ったろ? ビジネスライクな関係だって」


 その言葉を信じ、僕は隣の部屋へと向かう。

 邪魔にならなければいいが、少しでも気を紛れればいいのだけど。


「阿桜さん、失礼します」


 ノックの後で入室する。相変わらず空気が重い、胸が締め付けられるようだ。


「……ああ、詠歌君。用事は済んだの?」


 化粧で誤魔化してはいたが、目元にはクマが出来ていた。本来であればアイリスを探す中で少しずつ対攻神話プレデター・ロアの扱い方を教えるつもりだったが僕と出会った後、アイリスがこの街に居ると知ってすぐに帚桐から邪神の召喚方法を聞き出し、それを実行する為に寝る間を惜しんで準備していたそうだ。

 レスクヴァさんを拘束する事を提案した時も僕が言うならそうした方が良いだろう、と言うだけで関与しようとはしなかった。


「ええ。今は隣の部屋で帚桐と一緒に居ます。吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアの力がより強大になる前で良かった」

「別に、どれだけ強くても同じ事だよ。絶対に殺す事に変わらないんだから。それにこうしていると分かるの。この力があれば大丈夫、って」


 聖剣と共に魔槍が手元から離れた以上、対攻神話プレデター・ロアはアイリスに届く牙となり得る。けれどそれは心の隙だ。そういった隙にこそ邪神は付け入るのだとユーリの件から僕は学んでいる。


「無理はしないで下さい。あなたを失いたくはない」

「心配してくれるの? 嬉しいな」


 嬉しそうな笑顔に少しドキリとする。同じ過去を持つ僕に心を許しているからだろうけど、こんな綺麗に笑う人だったのか。

 阿桜さんは僕の事を無条件と言って良いほどに信頼してくれているし、僕も彼女の言葉に嘘はないと信じている。深い信頼関係、というよりは依存関係に近いという事は悟っている。傷を舐め合うような歪な関係だ。


「少し話しませんか。急ぐ気持ちは分かりますけど、復讐を果たした後の事も考えましょう」

「……そういえばあんまり考えた事なかったな。吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアを殺して、あの人の魂を取り戻してもあの人が生き返るわけじゃない。それは分かってるから、後の事なんて全然ね」


 死者の蘇生、それを成す術は対攻神話プレデター・ロアにはない。疑う余地もない、当然の事だ。

 死んだ人間は絶対に生き返らない。失った時は戻らない。

 けれど、と希望を抱くのは愚かだろうか。もしかしたら、と縋るのは弱さなのだろうか。


戦乙女ヴァルキュリアに選ばれた魂はヴァルハラで勇者エインヘリアルになる、という事は知っていますか」

「それはないわ」

「っ……」


 短く、だが明確に阿桜さんは僕の言葉を否定した。

 何故、と彼女を見ればその表情は泣き出しそうで、しかし穏やかだった。


「自慢じゃないけど、一番良く知ってるの。格好良くて、強くて優しくて、世界で一番大好きな人の事。私には釣り合わない、勿体ないぐらいの人だけど、あの人は私を選んでくれた」


 左手の薬指に嵌められた指輪に祈るように口づけて阿桜さんが語る。その姿だけで僕の問い掛けが最低な愚問だったのだと思い知る。


「私みたいな我儘で、私生活がズボラで、ダイエットも長続きしないし料理もちっとも上手くならないし、最初の記念日も忘れちゃうような取柄もない駄目な女が六年も掛けて此処まで来たんだよ? ……あの人なら、もっと早く迎えに来てくれたわ」

「……」

「きっと戦乙女ヴァルキュリアでも神様でもやっつけて、私に笑って謝るの。酷い目にあったよ、って。……もう、あの人は居ないの」


 彼女は六年間、何もしなかった僕以上に無力感に打ちひしがれていた。一歩前に進む度、一歩真実に近づく度に、自分の無力さを思い知らされていた。


「うん、考えたわ。分かってはいたけど、後の事なんてどうでもいい」


 荊の道を進み、棘が心に突き刺さり、それが彼女の中で一つの芯となった。


「私は復讐さえ出来ればもう、それでいい」


 喰い込み、決してブレる事のない――荊の信念。

 ……僕と阿桜さんは似ている。けれどそれは根が同じというだけ。彼女の枝は遠く、天上へと伸びている。僕は……違う。今にも地面へと枝垂れかかりそうな弱く、か細い枝に過ぎない。


「詠歌君は?」

「え……」

「君にはあるの? 初恋の女の子の敵を討った後の事」

「……僕も考えた事はありません。討つべき敵が居ると知ったのだって六年経った今更です」


 阿桜さんは悲しそうに首を振った。


「時間なんて関係ないわ。それに本当に今更だと思っているなら、君は私とは出会わなかったはずよ」


 情けない。優しい言葉を掛けてほしかったわけじゃないのに、僕は阿桜さんの言葉に安らぎを感じている。

 僕は甘えている。久永に対してそうだったように阿桜さんの優しさにつけ込んでいる。


「でも少しでもそういう気持ちが持てるなら、君は未来の事も考えなくちゃね。君が恋した女の子だもの、きっと君が幸せになる事を望んでるはずよ」

「そうですね。あいつはそういう奴でした」


 死んだ人の気持ちなんて分からない。けど僕の知ってるあいつは世界に呪いは残さない。いつまでもうじうじしているな、と僕を叱るだろう。

 今まで考えないようにしていたもしもを思い描いて、笑ってしまう。ありありと想像できた。

 結局は僕の願望、妄想でしかないけど、それで前に進めるのならそれで構わない。


「先の事はこれから――」


 笑った顔を見られるのが少し気恥ずかしくなり、話を変えようとした時、阿桜さんが背を向けた机の上が妖しげに光り、並べられた紙が風もなく宙に舞う。


「阿桜さん!」


 叫び、彼女の手を乱暴に後ろへと引き寄せる。何が心を侵す神性じゃない、だ。十分に危険じゃないか。

 煙のように不安定な姿のそれは生贄を求めているのか、僕の頭上から被りつくように向かって来る。


「ちっ!」

「詠歌君!?」


 思わず舌打ちながら、竹刀袋に包まれたままの聖剣の刀身を蹴り上げ、柄から刃へと握りを変える。

 肉体を包まれる前に柄頭が煙へと触れたが一部が消失するだけで全ては消えない。魔槍の効果はあっても聖剣に埋め込まれたままでは効果も薄いか。


「なら……!」


 手を離し、再び柄を握り直す。軽く翻すだけで竹刀袋が斬り裂かれ刃が露わとなった。

 はらりとただの布と化した竹刀袋が床に落ちると同時、刃が横に一閃され、煙を両断する。当然、魔槍が埋め込まれたままの聖剣でも煙を祓う事は出来ない。

 だが剣を振るった風圧で紙がさらに舞い、机の真上から聖剣の距離へと入る。

 四方に分かれた煙が僕を襲うが、前に二歩の距離、それを詰める時間は稼いだ。


「今……ッ!」


 僕の体に触れる直前、聖剣の剣先が紙を貫く。それだけで煙は動きを止め、紙は黒い炎を上げて燃え始めた。

 火災報知器が反応しないだろうか、と場違いな心配をしながら燃え尽きていくのを見届ける。


「……大丈夫ですか?」


 紙も煙も消えたのを確認し、聖剣を下ろして振り返る。座り込む阿桜さんは驚いてこそいるが、怪我はなさそうだ。

 手を差し出して引き起こすが、疲れが出たのだろう、すぐにまた座り込んでしまった。


「無理のし過ぎです。やっぱり少し休んだ方がいい」

「え、ええ。驚いちゃった……」

「こういう危険性があると帚桐は?」

「あ、いえ、帚桐も気を緩めると何が起こるか分からないとは言っていたの。そうじゃなくて、君の動きにびっくりしちゃって」


 そんな危険があるのなら初めからついておくべきだった。阿桜さんの気が緩んだのは僕が原因とはいえ、朝も一人にするべきじゃなかった。


「その剣が凄い物だっていう事は聞いてはいたけど……本当に君も戦ってきたのね」

「たまたまです。それにこれを持っていると自然と動き方が分かるんですよ」


 初めて持った時からそうだった。とはいえシグルズ相手には僕の体がついていかなかったのもあったが、手も足も出なかったし、『ウルタールの猫』の時は助けられたが、この聖剣が教えてくれるのは殺す為の動作だけだ。ニコラを相手にした時にはそれをズラす事に意識を集中させなければならなかった。良い事ばかりではない。


「それより訊いてもいいですか、阿桜さんが何をしているのか」


 復讐を果たす為の準備、対攻神話プレデター・ロアを扱う為の儀式だとは聞いているが具体的に何をしているのか僕はまだ聞いていない。

 まだ僕を信用せずにあえて隠していたのかもしれないが、こういった危険があるのなら聞いておきたい。


「それこそ帚桐から聞いてなかったの? ……それならさぞ異様な光景だったでしょうね」


 もう一度引き起こし、ベッドに座らせた阿桜さんが部屋中に張られた紙を見上げて苦笑する。


「帚桐に渡された紙切れをひたすら写しているの。なんでも『セラエノ断章』って魔導書の一ページのコピーらしいんだけど、知ってる?」


 『非科学現象証明委員会』の部室で読んだ本の内容からその名前について記憶を辿る。それなりに有名な魔導書だったはずだ。

 確か『外なる神』に関する記述がある魔導書だ。『アイオド』は『旧支配者』、『クタニド』は『旧神』というカテゴリに分類されるが『外なる神』はそれらを超える、より強力な神性が属するらしい。『クタニド』を信仰していたアイネに宿っていた『ウルタールの猫』も恐らくは『旧神』なのだろうと会長やアイネも言っていたが……正直な所、その辺りのカテゴライズにあまり興味はない。場合によっては立場が逆転し、畏れられていた者が崇められる事もある。対攻神話プレデター・ロアは扱う者次第なのだから。


「私みたいな信仰心がない人間が扱うにはそのままだと神の影響が強すぎるらしいの。写して写してを繰り返す事でそれが薄まって、初めて扱えるようになるそうよ」


 写本のさらなる写本というわけだ。たとえるなら絵画と同じだろうか。写真に撮っても、コピーしても、どれだけ精巧に模写してもオリジナルが消失したり作者によって付加価値は宿るだろうが、本物に勝る価値は生まれない。僕には芸術は分からないが、美術本ではなく美術館に足を運んで本物を見ようとする人の気持ちは分からないでもない。

 本当の歴史があり、製作者の意思が込められているのは本物だけ。魔導書も同様に作者の狂信や狂気が宿るのは本物だけ。厄介なのはそれが伝染する事だ。『セラエノ断章』も本来は石板で、物語に登場するものはその写本だが、それが魔導書としての力を宿している。

 だからこそ普通の人間である阿桜さんが扱う為にはそれをさらに写し、薄める必要があるのか。


「帚桐が持っていたのもオリジナルを何度も写した後の物らしいけどね。でもこれだけやってもこういう事が起こるなら安心だわ。やっぱりこの力があれば大丈夫だって」

「呼び出そうとしている邪神の名前は?」

「『クトゥグア』。それを呼び出す為の呪文を写しているわ」


 復讐の炎に燃える彼女には相応しいのかもしれない。

 『クトゥグア』とは生ける炎。『ナイアルラトホテップ』の天敵である『旧支配者』だ。その力が強力なものである事は間違いない。


「……とにかく少し休んでください。今みたいな事がまたあるかもしれないので僕も残ります。落ち着かないでしょうけどそこは我慢してください」


 本当なら僕だけが残って隣の部屋で休んでもらいたいところだが、それなりに厚い壁越しにもガチャガチャと金属音が聴こえてくる。これでは休めそうにない。


「さっきのを見た後なら安心よ。それに君が居てくれると安心する。……お言葉に甘えて、少し横になるわ。今なら久しぶりに良い夢が見られそう」


 それからすぐにベッドの上から寝息が聞こえて来た。どれだけ炎に身を焦がしていてもそれを忘れる時間は必要だ。

 僕の存在が少しでも彼女の安らぎになるのなら、僕が此処に来た事に意味はあった。

 なんて、自己満足の言い訳でしかないけれど。

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