⑩
今日はもう休め、帚桐はそう言ったが眠る気になれず僕はラウンジのソファに腰かけ、何をするでもなく夜の街を窓から見ていた。
窓の外にはもう閉業して久しい商店街の名残だけが夜の闇の中にぼんやりと浮かんでいる。復興目覚ましいとはいえ、個人商店はあの災厄の日からずっと閉まったままだ。元々栄えていた印象はなかったけれど、こうして眺めていると随分と物寂しい。
普段なら気にも留めないはずの光景にまでこうして感じ入ってしまうのは少し浸りすぎているのだろうけど。
宛がわれた部屋では今もレスクヴァさんが鞘の製作を進めている。色々な誘惑の多い家でするよりも作業が進むとは本人の弁だが、この状況でそう言えるのはやはり図太いという他ない。
「まったく騒がしくて寝れたもんじゃねーや」
欠伸を零しながら帚桐がエレベーターを下り、対面のソファへと無造作に腰を下ろす。レスクヴァさんを一人残すのは不用心だとも思ったが、彼女にもう抵抗の意思がない事は帚桐も察しているのだろう。阿桜さんの写本にももう意図しない危険はないとも言っていた。
だからこれは僕にとっても好都合だ。阿桜さんという個人の事情とその憎悪の深さは知る事が出来た。後は僕が知るべきは一つ。
「君に訊きたい事がある」
「だろうな」
ユーリは幼く、教団の中でも末端的な立場でしかなく、巫女と呼ばれたアイネはもういない。教団、ひいては
それにアイネは信仰心からの秘匿もあったが、会長を危険に晒さない為に教団について隠していた節がある。帚桐が言うような深淵を覗く事の危険性を知っていたからだろう。僕もその時はまだ深く知ろうとはしなかった。巻き込まれる事は覚悟しても降りかかる火の粉を払えさえすればいいとしか思っていなかった。知る事で戻れなくなる事もあるという忌避感もあったが、もう関係ない。戻れない所まで来ているのだ、立場も、感情も。
「
酷く曖昧な問いかけだが、アイネたちよりは俗世に溶け込んでいる帚桐ならば答える事が出来るはずだ、という期待があった。
「一人の人間から始まった創作神話。神と世界に仕掛けた大詐術。そんな程度しか僕は知らない」
「その認識で間違っちゃいねえさ」
「僕みたいな信仰心のない人間からすればクトゥルー神話も他の神話にも違いはない。同じ作り話にしか思えない。けど現に
そういう存在と僕は戦ったし、協力もした。神話も都市伝説も全てが真実でないにしろ、知らなかっただけで本当に存在しているのだと身を以て知った。
「だけどクトゥルー神話は違う。最初から創作だと喧伝されていた物語が真実だったとしても、
それに創作神話というだけなら他にも存在している。ペガーナ、シルマリルリオン。僕も詳しくはないが、そこにどれだけの違いがある?
なのにクトゥルー神話だけが
「ま、その疑問は当然だわな。教団の内情までは明かしてやれねえが、その辺りについては話してやるよ」
難色を示すかとも思ったが、帚桐はあっさりと頷き、世間話でも始めるような気軽さで
「とはいえ今となっちゃ百年も前の話、俺も教団の幹部連中程詳しいわけじゃねえが……まず第一にクトゥルー神話は間違いなく人間の創作でしかない。実際の出来事を小説にしたわけでもなけりゃ、神が残した予言書ってわけでもない。ある意味で其処が重要でもあるんだが」
もう知らないままでいるのは御免だ。六年前の事も、
「教団の連中曰くだが、この世界、俺たちが生きるこの地上は神様に見放されたんだと。それは『ユグドラシル』っつー別世界の出来事である北欧神話に限った話じゃねえ。メソポタミア、ギリシア、アステカ、日本。今も語られる神話、その全部が今はもう他人事だ、って言っても現代人にはピンと来ないよな」
頷く。生憎と神の加護も恵みも今まで感じた事などない。最初から僕にとっては他人事でしかないのだから。
「つまりは太陽はただの天体でしかなく、そこには『シャマシュ』も『ウィツィロポチトリ』も『天照大御神』も一切関係ない。現代科学で解明されている事が全てだ。死んだ人間は冥界にも行かず、天国と地獄にも分かれず、三途の川も渡らず仕舞い、ってのは死んだ事ねえからどうかは分かんねえが」
「……けど神話は事実なんだろう?」
「事実だったって言うのが正しい。どれだけ遡ればいいかは分からないが、昔は太陽も雨も神の恵みだった。それぞれの人間が信じる神がそれぞれに恵みを与え、人間の魂を死んだ後に相応しい場所に運んでいた。けど今じゃ神は立ち退いちまった。それでも太陽は昇るし人は死ぬ、世界は続いて回ってる。だから現代人には関係のない話ではあるがな」
帚桐の言う通り、普通に生きている人間には関わりのない話だ。事実、僕も大した感想は抱けない。せいぜいそうなのか、という他人事のような感想だけだ。
「そうして神が立ち退いた後、人が回していたはずのこの世界にどういう風の吹き回しか知らねえがまた神様がちょっかいを掛け始めた。六年前の災厄もそうだし、過去に起きた未解決事件だ謎の爆発だ、なんてのも大半が神様の仕業らしい。別に人間を滅ぼそうと考えてるわけじゃねえみてえだが、世紀末に騒がれた予言なんかにも関わってるらしいぜ?」
生憎と世紀末の予言については僕は詳しくない、そう言うとジェネレーションギャップが! と帚桐は頭を抱えた。
……けれど少しだけ読めた。神々の考える事など想像もつかないが、
「この世界を見放した神がクトゥルー神話の創作者、ラヴクラフトと接触した」
「ああ……そういう事だ。その辺りの詳しい時系列は知らねえ。既にクトゥルー神話が世に出た後だったのか、そうでないのか。だが御大はその神様相手に言ってのけた。『今の世界を席巻するのはお前たちではない。お前たちの知らぬ神性こそがこの宇宙を裏から支配しているのだ』」
重苦しい声を何処からか絞り出しながら似ているのかそうでないのか全く判断つかない物真似とジェスチャーを駆使ししているがリアクションは取れそうにない。そこまで気安い仲になったつもりはないんだけれど。
「それが神に仕掛けた大詐術、か」
「そういう事。その神様があまりの迫力に真に受けちまったんだろうなあ。ただの作り話が真実味を持っちまったのは」
「神と人の合作……それが
この世界を見放したからこそ、自分たちが去った後に生まれた神性が居るかもしれない、そう思ったが最後、それは生まれた。
世界を作り出したという創世神話は数多くある、そんな力を持った神が僅かでも信じてしまえば現実を侵す新たな神話となる。そうして生まれたのが自分たちすらも呑みこむ可能性を秘めた
「真実を知らない人間が今も新たな物語を綴り、真実にしてしまった神は今も増殖するその恐怖に怯えている」
「……真実を知る人間はその力を利用している」
「そう悪い事ばかりでもねえさ。神に見放された事を知った人間が別の神様に縋りたくなるのも分かるだろ? 信じれば応えてくれる神だってなら尚更だ」
……否定は出来なかった。僕も六年前、都合よくも神に祈った人間だ。誰でもいいから助けてくれ、と。そんな都合の良い祈りが届かないのは仕方がない。けれど以前から祈りを捧げた人間にとって、その真実はあまりにも残酷だ。
「それに限界もある。『外なる神』なんかは今もその存在が曖昧で、世界は夢にはなっちゃいねえ。それを真実にしなかったのは神様のプライドって奴かね」
「だけど
「ああ。ただのジョークグッズが本当の魔導書に早変わりしたように、どこぞの大学がミスカトニックに変わるかもな。現実ではそこまでの大規模な改変は起きちゃいねえが既に夢の国は出来上がってる」
肩を竦め、ぞっとしない話だねと呟く帚桐に僕は自分が深淵に踏み入った事を理解する。
理解しない方が良い事もある、それはクトゥルー神話の常だ。僕は踏みしめていたはずの大地が薄氷であると知ってしまった。
「……それでも君は教団に手を貸すのか。世界が夢に変わるかもしれないのに」
「俺一人でどうにか出来るもんじゃねえさ。一人の人間が世界を変えても、世界を回すのはいつだって生きている人間全員だ。俺に出来るのは精々――」
「弱い人の味方になる事」
「そういう事。なに、今日明日で世界が終わるわけでもない。いつか邪神たちすらも見放すような世界になる、そう思ってた方が気楽だぜ?」
矮小な個人では邪神から逃れる事も薄氷を踏み砕く事もない。結局、神に見放されても世界が回るように邪神が裏で蠢いていようと世界は続いていく。知っていたはずだ、どんな悲劇や惨劇の後でも、世界はそう簡単には終わらないのだと。
「さて、次は俺が訊かせてもらおうか」
「僕に教えられる事なんてないと思うけど」
「そうでもない。『ウルタールの猫』と『アイオド』、神を二柱も退けた奴の武勇伝、聞かせてもらおうじゃない」
口調は軽かったが嘘は通じないという説得力があった。
この様子だとマントについての嘘も気づいているのだろう。それを咎めなかったのはそれよりも僕から訊き出したい情報があったからだ。
「聖剣に選ばれたとはいえただの人間が神を滅ぼした方法、普通じゃない裏技があるんだろ?」
神託を受けたというサエキやニコラも口にはしなかった情報、神話を問わず神という存在に対する絶対的な
僕が握る聖剣の柄に封じられた槍の穂先、その存在に帚桐は勘づいている。
予感はあった。帚桐の疑いにではない、神託を授けた神が意図的に魔槍について隠しているという予感だ。オーディンと同じように恐れているのだ、この槍を。だから自らを脅かす可能性を秘めた槍の存在が明るみに出るのを嫌い、信奉者にすら教えなかった。
「邪神に対して異教の物でも聖剣は確かに有効だろうさ。けどそれを扱うのがただの人間である以上、脅威とは言い難い。
確信を持って追及する帚桐を相手に隠す事は出来ない。手札を切るしかないようだ。
「言っておくけど、手放すつもりはない。これは僕にとっても保険だ」
「ん、ああ。別にそれが何であれ奪い取ろうなんてつもりはねえよ。ただ純粋な興味だ、もしかしたらそれが世界を変える手段になるかもしれねえからな」
アイリスは僕に隠そうとしている節があったが、教団は魔槍の存在を知らない。それはニコラとの闘いの中で察していた。
そんな魔槍の存在を明かすのはこれから先、教団と敵対した時に不利になる事は間違いない。その覚悟だけは必要だった。
「この聖剣の銘は『ジュワイユーズ』、大帝が持っていた聖剣だ」
それだけで十分に伝わった。帚桐の瞳が細まり、僕が持つ聖剣の柄を包まれた布越しに見つめる。
「柄には『ロンギヌスの槍』……成程ね、そりゃ神様相手にゃクリティカルだわ。
「逆に僕からも訊きたい、どうして聖剣は僕と……
アイリスは剣と槍は互いにとっての鞘だと言っていた。けれど僕を選んだはずの聖剣の真価は僕一人では決して発揮出来ず、僕と同じく聖剣を持つ事の出来るアイリスでは真価を発揮した聖剣に触れる事すら叶わない。
何といえばいいのか……不可解だ。最初から槍を埋め込まれて一振りの剣として作られたはずのジュワイユーズは決して一人では扱えない。勿論、聖剣を持てるだけで僕が本来の持ち主であるシャルルマーニュと同じに扱えるとは思えないが……だとしても持つ事が出来るというだけで妙な話だ。
「さてねえ。聖剣が持ち主を選ぶってのはよくある話ではあるが、そこん所は聖剣のみぞ知るだな」
「……別に理由はいいんだ。ただ、特別であるって事が気持ち悪いだけで」
「贅沢な悩みだな、場合によっちゃそれを巡って血が流れる代物だぜ? 勇者気分に浸ればいいじゃねえか。あ、RPG的な意味の方な」
「それこそ柄じゃないよ」
兵隊、機構としての
「それよりただの人間が持っていても意味はない、って? 全くと言って良いほど知識はないけど、魔術の心得があるなら
「それ自体は難しくねえが……よし、親切心で説明しといてやるよ」
何処から取り出したのか、スケッチブックにマジックペンで大きく邪神の二文字を書き、それぞれを丸く囲むとそこから線を伸ばしていく。
「聖剣と魔槍、まあ持つ者によっちゃ聖愴だが今は魔槍でいいだろ。どちらも邪神相手に通用する武器だが、その理由は別だ」
邪から伸びた線の先には聖剣、神から伸びた先には魔槍が描かれる。お世辞にも上手くはなかった。
「ほっとけ。まず聖剣が邪神に通じるのは身も蓋もない話だが、その存在が邪悪なモノだからだ。魔王だのドラゴンだのに活躍するイメージ通り、闇属性に光属性は効果抜群、って奴だな」
生憎とゲームは久しくやっていないが、その程度のたとえなら理解できる。
「だが魔槍は属性でいえば同じ闇属性、効果は今一つ。魔槍が効果を発揮しているのは邪悪な部分じゃなく、神であるという一点に対してになる」
「聖剣は邪神に対して属性の有利、魔槍は邪神に対して種族の有利って事?」
「イエス。そんで
ゲーム的でチープな説明ではあるが確かに分かりやすい。付け加えるなら
「現状では人間が
「神の子を処刑した兵士って事だけ」
「そっちが有名だが、どっちかってーと主流なのは磔刑になった後、その死を槍で刺して確かめたって説なんだよ。流石に復活するとはいえ人が神の子を殺したっつーのは聞き覚えが悪いからな」
ああ、そういう説もあったか。今までのゲーム的な話のせいで、神殺しのイメージが強くなってしまっていた。そういえば会長も殺したとは言っていなかった。
「その時に使った槍が所謂『ロンギヌスの槍』――神の死を確定させた槍だ」
「あまり違いがあるようには聞こえないけど」
「魔術だの神話だのの世界では割と重要なんだよ。特に基本的には殺せない
やはり魔術や神話世界の話では僕の理解はまだ追いつかない。つまりなんだと言うのか。
「基本的に
そこまで言われてようやく理解出来た。そもそもが異教の武具である聖剣では邪神の神という種族が、魔槍では邪悪という属性がそれぞれ抵抗し、撃退は出来ても完全に滅ぼす事は出来ない。
けれど『ロンギヌスの槍』――
「けど人が使うにはそこがネックでな。神への対抗手段としては明確な神殺しの逸話を持つ『ミストルテイン』、『天羽々斬』なんかの方が効果は高い。どっちも見た事ねえけど」
「人間の力じゃ最後の一押し、つまり瀕死と言える状況まで神を追い詰められない」
「強力には違いねえが、武器としては聖剣のが格上だ。ただの人間が神を殺そうって時点で分不相応だけどな。それに
何かカエルのような顔をスケッチブックに描き、それを仮面代わりに眼前で掲げて帚桐はおどけた。
それはそれとして。……想像以上に有用な情報が得られた。もう少し出し惜しみされるかとも思っていたのだけれど。本当に彼は僕たちのような弱い者の味方、なんだろうか。
「さーて随分と話し込んじまったな、いい加減休もうぜ」
欠伸をまた零し、帚桐が立ち上がる。僕もそれに倣う事にした。これ以上寂れた景色を眺めていてもどうしようもない。
決着の時は近づいている、僕も休まないと。
そうして立ち上がり、歩き出そうとした僕の顔の横を強風が通り過ぎた。何が起こったのか目で追う事も出来なかったが帚桐の腕が伸びている事から拳による突きだったのだと遅れて理解すると同時に汗が頬を伝った。
「……招待状か?」
視線を真横に移せば、帚桐の手が黒い何かを捕えている事に気付く。見覚えのある影だった。
「逆。受取人だよ」
「蝙蝠とか、天使様には程遠いな」
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