⑰
それから、僕の家へと戻るとレラは僕を解放した。約束は果たした、と。
ほとんど重さは感じなかったが、それでも解放感がある。剣道の防具ならまだしも鉄の鎧なんて着込む機会はなかったのだから当然だろう。
そして思い出したように体の節々が痛みだし、せっかく取れた包帯がその数を多くして戻ってくる。
「勲章だと思え。お前は魔を祓う聖剣を使いこなしたのだから」
アイリスは解放された僕を引きずるように、僕に謝罪の言葉を繰り返すユーリから引き離して自分の部屋へと僕を連れ込んだ。居間に取り残される形になった会長たちには悪いが、逆らう気力はなかった。それにユーリの必死の謝罪を受け続けるのも居心地が悪かった。
そしてされるがままに僕はアイリスから治療を受けている。乱雑に包帯が巻かれ、どんどんと太くなっていく指を見つめながら僕は少しだけ不機嫌そうに口を開く。
「……君、ああなるって知ってただろ」
それにアイネとユーリも自分の内に『アイオド』の種が植えられた事を知っていたはずだ。直前に見せた意味深な表情といいタイミングといい、思い返せば知っていたとしか思えない。
「知っていたところで奴らの内に巣食った『アイオド』を祓えたのはお前だけだった事に変わりはない。完全に滅ぼす為に都合は良かったがな」
確かにあの場に二人が居らず、『アイオド』の復活がなかったとしても残された種がどんな影響を与えたかは分からない。
聖剣が伝えるまま、僕が言霊を込めた言葉と共に振り下ろした聖剣は二人の内に植えられた『アイオド』の種だけを斬った。けれどあんな決断、二度と御免だ。
「それを私に教えたのはあの小娘だ。信奉者であったあの小娘しか『アイオド』の特性を知らなかったからな。息を切らせて追いかけ、それを伝えてきた。小娘たちが孕んだ矮小な種になぞ興味はなかったが、小娘たちがお前に身を委ねると言ったのだ」
「……どうして僕なんかに」
僕を襲った事や拷問じみた審問を償う為だと言うなら、いい迷惑だ。レラも一緒に居たならその場で止めるべきだった。
「小娘たちが何を見たのかは知らん。だがお前は何かを魅せたのだろう」
「僕は当たり前の事をしただけだ」
アイリスの時と変わらない。特別な事なんて何もない。ただ当たり前のように子供を助けた。それだけだ。
それに何かを見出したのだとしたら特別なのはユーリたちの方だ。そんな当たり前に出会えなかった彼女たちの不幸だ。
いくら考えても僕にはユーリたちの気持ちは分からないだろう。僕は恵まれている。幸運で、幸福な人生を歩んできたのだから。
「っていい加減にもういいよ」
そんな事を考えている内に折れた指どころかその両隣にまで包帯が巻き付き始め、アイリスを止める。これでは箸どころかスプーンも持てなくなる。というか折れているんだから流石に病院に行く。指の方は応急処置程度で構わない。
顔の方は擦り傷が主だから、そっちの方をお願いしたいところだ。
「そうか……ちなみにだが。改めて」
「え?」
僕の顔を両手で正面に固定し、消毒でもしてくれるのかと思えばそうではないらしい。
「私のこの格好、お前はどう思う?」
そう言われてもアイリスの格好に特に変わった様子はない。家の中でマントを脱いでいるのは珍しくないし、身に着けたシャツは昨日着ていたものに良く似た相変わらずのどくろマークで、歩けばじゃらつくシルバーのアクセサリーも変わっていない。
冗談めかしとはいえ女性が髪を切ったり、ファッションで気付いた事があればそこを褒めるのが良い男だよ、などと言われながら会長の頬を膨らませるのが僕である。つまりアイリスが何を求めているのかまったく分からない。
これは僕が知るはずもない事ではあるのだが、実を言えばニコラに悪趣味と言われた事を気にしていた。
ついでにショッピングモールでの僕の言葉も実は気に留めていた。その上での質問だった。
「……同じ台詞を二度も言いたくない」
勿論、それを知らないので僕はそう誤魔化すしかない。混じりっ気のない本心でもあるが。
「もっとあるだろう! あのシグルズとて求められればそれなりの言葉を重ねるぞ!」
残念ながらアイリスは納得してくれない。
シグルズと比べられても正直、敵う所がひとつも見当たらないので勘弁してもらいたいというのが本音だ。
……今回もアイリスに助けられた。こんなので借りを返せるとも思えないから、あえて言いたくはない……けれど、まあ。これも一つの選択だ。選ぶしかないのなら、迷い、躊躇い、それでも選択するしかないのだろう。
「………………………………君は、かわいいよ」
そうして選んだ選択を後悔する事も、時にはある。……うん、これはなんか違うな。絶対に違う。
「ほっ……ほう、ほうほうっ、ほうほうほう!」
キジバトのような声を発しながらしきりに頷くアイリスの紅潮した頬を見て、今回は照れないでくれた方が救われたのにな、と強く思う。
此処には聖剣も鏡もないが、そこに映る僕の顔はアイリスと同じ色に染まっていただろう。
なんだか治療してくれる様子もなく、両手も離れた。背を向けて表情を隠す。これも魂が離れていたせいなのだろうか。きっとそうだ。こんな事を言うのは僕にとって当たり前じゃない。
「っ、ちょ……!」
額を押さえる僕の首筋に一度だけ味わった感覚が走る。牙が突き立つ感覚とそこから血が吸い出されていく感覚だ。
噛まれた首筋は痛みというよりは熱を訴えるが振り解こうにもこの体勢、この両手ではどうする事も出来ない。
結局は以前と同じように、アイリスの気が済むまで吸われ続けるしかない。
「……っん」
十秒にも満たない時間だが、体感ではその何十倍にも感じた。最後に牙を突き立てていた箇所を舌でなぞり、ようやくアイリスは離れた。
「前にも言っただろ、吸うなら吸うで言ってくれっ」
未だに熱を持つ首筋を押さえながらアイリスを責めるが、何処吹く風で気にした様子はない。ただ満足気に瞳を閉じ、吸い出した血液が流れ落ちていく感触を確かめるように喉に手を当てていた。前回といい思い出したように吸血鬼要素を持ち出して来ないでほしい。
「うむ、満足だ。……? ああ、そう何度も私自ら虚勢を脱ぐとは思うなよ? あれはあの時限りの特例だ」
「そういう事じゃない……はぁ」
もう怒る気力もない。これを日常にするつもりはないけど、今はもういい。
けれどこの場に留まり続ける気にはなれず、自分で傷を消毒した後、居間へと戻る事にした。
◇◆◇◆
拘束して連れてきた、気絶したままのニコラの処遇を考えなければならないとはいえ、今回の事件は終わりを迎えた。しかしまだ次なる事件の発端となりかねない事が残っている。
それを確かめる為、居間へと戻った僕は初めて出会った時のように首なし騎士となって鎮座しているレラと向き合った。
「レラ、君に訊いておかなきゃならない事がある」
『……我の目的の事だな』
「ああ」
僕たちに危害を加える事はない、彼女はそう言った。でも彼女は『スリーピー・ホロウ』。人の首を狩る悪霊として伝えられている。
たとえ僕たちを見逃したとしても他の誰かを襲うというのなら……見過ごせない。
「
『……』
「答えてくれ……『スリーピー・ホロウ』」
縋るような気持ちだった。人を殺す事なんて出来ず、しかし神を殺した僕はレラが敵に回った時、言葉を交わし、力を貸してくれた彼女を斬らなければならないのだろうか。僕は彼女を殺す事が出来てしまうのだろうか。
その答えなんて知りたくなかった。
『……汝は勘違いをしている』
「え……?」
何の事か分からず聞き返す僕に答えたのは会長だった。
「実は今、改めてリシュライナさん、レラさんに自己紹介をしてたんだ」
『我はリシュライナ。敢えて名乗るのならば――リシュライナ・デュラハン』
「『デュラハン』……?」
アイルランドに伝承を残す妖精。『スリーピー・ホロウ』と同じ首なし騎士。僕と会長が思い浮かべたレラの正体の一つ。
けれど僕も、そして恐らく会長もすぐにその正体を否定したはずだ。
何故なら『デュラハン』は首なし騎士の姿を取っていても、頭部が存在しないわけではない。イラストで描かれる『デュラハン』の多くは自らの首を小脇に抱えている。首と体が分かれ、首が本来あるべき場所にないが為に首なし騎士と呼ばれているのだ。
しかしレラの周囲の何処にも彼女の頭部はない。
『我は自らの役割を果たす途中で『アイオド』と出会い、敗れた。そして首を『アイオド』の潜む異次元へと連れ去られた。残ったこの鎧は教団によって回収され、何処かの暗闇に保管されていた』
僕は文字通り懐に飛び込んでおきながら、レラに関しては完全に的外れな推理をしていたらしい。ならレラの目的は奪われた首を取り戻す事……。
「……でも『アイオド』は」
『然り。汝らの手によって滅び去った』
「それを知っていれば召喚者であるニコラを先に捕えて取り戻す事も出来たはずだ。なのにどうして……」
『この鎧を動かす、我の本体と呼べるのは奪われて消えた首の部分。『アイオド』に敗れた時点で我は完全に停止し、思考すら出来なかった』
レラの言葉に新たな疑問が生まれる。僕の剥がれた魂と同じように首の部分がレラにとっての魂だと言うのなら、今こうして鎧を動かし、僕たちに言葉を語るレラは一体何者なのか。
『かつて、我らの祖は死を告げる神とされていた。我は自らの役割に誇りを持っていた。この鎧を動かしたのは最期の使命を果たさんとする本体の残留思念だったのだろう』
魂を失っても肉体に残るもの。死に等しい状況であっても体を動かす意思。
その使命を果たす為にレラは僕と約束を交わした。たとえ完全に死したとしても最期の使命を果たす為に。
『だが今は違う。我を動かすものは受け継がれた使命感などではない。海を渡ったこの地で我は見た』
しかしレラはその使命を自ら否定した。
『……ユーリ。
「っ……」
初めてレラは人間の名を呼ぶ。会長の背に隠れるように耳を傾けていた少女の名、自らが助けようとしていた少女の名を。
『時代が変わり、人間が死を恐れるようになると我らに向くのは信仰ではなく恐怖となり、いつからか死を告げ、恐怖を与える事が我らの使命となった。だが我らの祖は死神ではなく、今世と来世を繋ぐ神として崇められていた。それは死を告げる理由が恐怖を与える為ではなく……人々の営みを、人の世を、人間を愛していたからなのだと気付いたのだ』
レラは立ち上がり、ユーリのそばで膝を着いた。それは多分、首なし騎士の謝罪の為の礼なのだ。
『汝が『アイオド』に狙われ、あの人間によって使い捨てられようとしたのは、我が与えた恐怖が原因なのだろう』
「……ニコラが言った、『アイオド』が喰いたがっているというのはそういう事か。元々彼女は邪神が好む恐怖に苛まれていたのだな」
アイネの言葉を聞いて全てが繋がった。レラは最初から『アイオド』の力でユーリに従っていたのではなく、自らの意思でユーリのそばにいた。
守る為にだけではない。ユーリに従う姿を見せる事で自身への恐怖を払拭し、『アイオド』から狙われる理由をなくそうとしていた。
けれどニコラという召喚者が居た事でそれは無意味だった。『アイオド』自身の意思に関わらず、ユーリの運命は決められていたのだから。
それを知らないまま、しかし一向に離れない『アイオド』にユーリから恐怖を拭う事は出来ないと思ったのだろう。『アイオド』を倒すために聖剣を持っていた僕を捕らえ、契約した。
『我には汝の命を救う事も心を救う事も出来なかった。我はただ汝を恐怖させただけだった。……すまなかった』
そして『アイオド』が滅んだ今、これがレラの最後の目的。レラはただユーリに謝りたかったのだ。
ユーリがそれをどう受け止めるかは分からない。だがレラの謝罪は僕やアイネが口にする許しよりも彼女の心を救うはずだ。
罪を犯した人間を責めるのは被害者だけではない。けれど一方的な加害者ではなく自らも被害者となるのなら、自分で自分を許せるようになるかもしれない。僕やアイネが許した以上、最後までユーリを責めるのは自分自身なのだから。
「……その、顔……体? を上げてください。あなたが謝る必要なんて、ないです。たとえあなたに出会わなくともニコラはわたしを『アイオド』に捧げていたはずです」
『……だが』
「わたしが犯した罪は消えません。でも……あなたを恐れたおかげで『アイオド』に捧げられる時期が早まったのなら、そのおかげでわたしはこれ以上罪を犯さずに済みました。あなたや久守詠歌さん、彩華さん、皆さんのおかげでわたしは生きている。生きてこれから少しでも罪を償う事が出来るんです」
……ユーリの返答に僕は人知れず驚いていた。あの廃屋で見た彼女は癇癪を起こした子供のようだった。そんな彼女がここまで罪と向き合い、進もうとしているなんて思いもしなかった。
あの時、ユーリに言ったようにやはり僕は特別でも何でもない。大人ぶってみても未だ子供のままで、何も分かってはいなかった。
でも、だからこそこの結末に辿り着けたのなら……今はそれで良いだろう。
いつまでも顔(体)を上げないレラに再び罪悪感が蘇ったのか、最終的に何故か居間に居る僕たち全員が互いに頭を下げ合ったのだった。その終わりのない謝罪合戦は戻ってきたアイリスが何かの儀式かと首を傾げるまで続いた。
◇◆◇◆
――今回の事件に関わった者たちが詠歌の家で一夜を明かした翌朝、まだ陽も昇らない時間。
詠歌の家の玄関前で未だに意識を取り戻さないニコラをレラが背負い、その横に並んだアイネと共に詠歌と彩華、二人と向き合っていた。
「本当に行っちゃうの……?」
「ああ。ニコラをこのままにしてはおけないし、警察に引き渡すのも危険だ」
ニコラやアイネ自身のように暴走する者が出ないよう、本来あるべき教団の姿を取り戻す為にこの街を出ると昨晩、アイネは告げた。
無数に派閥が乱立し、アイネやユーリにも全容の掴めない程に巨大な組織を変える事は簡単ではない。それでもアイネは動かずにはいられなかった。
「それに各地に残した『クタニド派』の信者たちの事も確かめなければならない。私と司祭様が
『我もいつ再び機能を停止するか分からない身ではあるが、彼女の力となろう』
「ユーリの事をお願いします。何の恩も返せぬまま、またあなたに甘える事になってすまない」
此処に姿のないユーリは未だ夢の中。激動の一日だったのだ、無理もない。安らかに寝息を立てる彼女を起こす事はアイネもレラも望みはしなかった。
「気にしないで! それに言ったでしょ? アイネちゃんもいつでも戻って来ていいし、遊びに来ていいんだから! 教団がアイネちゃんの居場所だとしても、この街では私の家がアイネちゃんの居場所って事に変わりはないからね」
「……ああ。その言葉に甘えさせてもらう。私もまだあなたと共に過ごし、あなたから学びたい事がたくさんある」
「アイネちゃん……!」
アイネは感極まった様子の彩華に右手を差し出す。彩華はその手を強く握りしめた。
「いつでも大歓迎だから……いつでも帰ってきてね?」
「……ありがとう。彩華さん」
そこが限界だった。彩華の瞳から滂沱のように涙が流れる。見かねて詠歌が差し出したハンカチで涙を拭いながら、アイネの言葉に何度も頷く。
『詠歌』
「……僕は泣かないからね?」
レラに名前で呼ばれた事には少し驚いた様子を見せたが、詠歌は苦笑してそう返す。
『ユーリの事を頼む。我が言えた義理ではないがな』
「僕には特別な事は何も出来ないよ」
『それで構わない。少しだけ気にかけてやってほしい』
まるで母親のようだな、と思いながらもそれを口には出さない。『デュラハン』に家族という概念があるのかは分からないが年齢も分からない女性に対してそれは禁句だろう事は知っていた。
『我も汝が望むのなら、再び汝の鎧となろう』
「そうしなきゃならないような事が起きないように祈ってるよ」
『
「僕は日常生活を送りたいだけだ」
詠歌ははっきりとは答えず、曖昧に笑う。素直なのかそうでないのか分からない者たちだ、と零してレラも手を差し出す。
「こんな手で悪いけど」
そう言って、巻き直す事をしなかった包帯に包まれた右手で応じた。
「……そろそろ行きます。こうしていると決意も鈍ってしまいそうだ」
アイネは手を解き、一歩下がる。彩華も名残惜しそうにしながら、離れた手を下ろす。
『魂で触れ合った仲だ。多くの言葉は必要ないだろう。我に魂が宿っているのならだが』
「それがなきゃそういう台詞は吐けないだろう」
呆れたように言って、詠歌もただ鉄にはない温もりを感じさせる手から手を離した。
「……いってらっしゃい、レラ」
「……いってらっしゃい、アイネちゃん」
詠歌と彩華、声音は違えど同じ言葉を旅立つ二人に送る。それを受けた二人の返答も同じだった。
『ああ、いってくる』
「いってきます」
遠退いていく二人の背中は途中で一度反転し、大きく礼をする。感謝と別れ、二つの意味を込めたそれは見送る詠歌と彩華、
「……ふん」
そして、屋根の上から二人を見下ろすアイリスへと向けたものだった。彼女は去り行く背中を一瞥だけして屋根を下り、部屋へと戻っていく。
見えなくなるまで見送った二人もまた、顔を見合わせた後、玄関を潜った。
「朝ごはんは何にしようか?」
「そこまでしてもらわなくても、と言いたいですけど……」
「頼まれた矢先でそれは通らないよっ。ユーリちゃんには美味しいものを食べてもらいたいからね。勿論、詠歌君にもエリュンヒルテ様にも」
「お言葉に甘えます」
未だ冷たい早朝の空気の中で、しかし昇り始めた太陽がそれぞれを優しく照らしていた。
そうして彼らの現実は続いていく。日常であろうと非日常であろうと、地続きに。
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