三章
①
三月、街に雛祭の童謡が流れ出す時期。
大学の期末試験も終わり、『非科学現象証明委員会』にも春休みが訪れる。
だが当然のように休みの間もサークル活動は続く。今日も部室には人影があった。
会員、久守詠歌は時間潰しに部室にあった本を眺めながら、鼻歌混じりにタブレットでテキストを作成する会長こと天音彩華を待っていた。
詠歌が半月程前に負った怪我は両手の指を残せば完治し、包帯で固定されている指も今月中には治りきる。左手に関してはほとんど治りかけだ。怪我が治るまでは大規模な活動は自粛すると彩華から告げられていたが、今の様子を見るに治った後の予定を立てているのだろう。
「あっ、そういえば」
彩華の鼻歌が途切れる。画面から顔を上げた彩華と黒いフレームの眼鏡越しに目が合う。
作業が終わったのかと思えば、そうではなさそうだ。
「詠歌君は春休みに何か予定はあるのかい? アルバイトとか」
「いえ、バイトする予定はありません。……でも流石に毎日サークル活動というのは勘弁してもらいたいんですが。多少は予定もありますし」
アルバイトの予定を訊くという事は日にちを跨いだ活動の予定があるという事だろうな、と察して詠歌が先手を打つ。
基本的に暇で怠惰な時間を過ごす事が多い詠歌だが、いくらなんでも長い春休みの間中ずっと『非科学現象証明委員会』として活動するつもりはない。彩華に振り回されるのは嫌ではないが、休息は必要だ。
「それは勿論、プライベートな時間は必要だからね」
彩華自身にも予定はある。その言葉は詠歌と自分、そして部室に居るもう一人に向けられたものだった。
「ユーリちゃんも無理に私たちの所で時間を過ごす必要はないんだよ? エリュンヒルテ様みたいに自由にしてても」
長机越しに向かい合って座る詠歌と彩華、二人の間の席にちょこんと座り、読書を続けていたユーリが顔を上げる。
「いえ、わたしが好きでやってる事です」
ユーリの言葉が本心なのかはともかく、無理をしているようには見えない。興味深そうに部室の置かれた彩華の私物、クトゥルー神話に関する本を読みこんでいた。
「こうして俗世に出回っている
今も見た目はランドセルを背負っていてもおかしくない。実際の年齢は本人にも分からないそうだが、ユーリは物心がつくかつかないかの歳で『審問会』に拾われたそうだ。
「それに
三度目がないとも限らない。それは詠歌も彩華も理解している。この短期間で二度も
事件の発端はどちらも詠歌たちを直接狙ったものではないとはいえ、もう無関係では居られない。
少しだけ安心出来るのは
決して手と手を取り合う仲というわけではないが、それでも積極的に問題を起こす気は両者共にない……どちらも互いに対して棘はあるが。
「自分がした事を棚上げするつもりはないですが、わたしの時もアイネさんが一人の時を狙っていたなら事態はもっと悪化していました」
前回の事件も解決までは決して楽な道のりではなかったが、ユーリの言う通りだ。彼女の気まぐれ、詠歌とアイリスにも興味を持っていたからこそ全員が揃っている所に現れたがもしも最初からニコラが審問官としてやって来たのならアイリスの居ない場所でアイネと彩華を狙ったはずだ。
「彩華さんの身はわたしが命をかけて守ります。ですが詠歌さん、あなたからもエリュンヒルテに危機感を持つように言うべきです」
「まあまあ。エリュンヒルテ様も詠歌君がピンチの時にはすぐに駆け付けてくれるよ」
詠歌を、というよりはアイリスを責める口調でユーリが言う。彩華がフォローするが、詠歌は困ったように首に手を置いた。
「確かにエリュンヒルテが詠歌さんの事を想っているのは確かなようですが……だとしても甘いです」
「僕は会長と違って自分から事件に突っ込んでいくような事はしないよ」
「えー本当かい?」
疑った視線を彩華とユーリから注がれ、暫しの沈黙の後に言葉を訂正する。
「……時と場合によりますけど」
関わるつもりがないというのは詠歌の本心だ。あんな事件に巻き込まれ続けていたら命がいくつあっても足りない。これまでは不可抗力だった、と詠歌自身は思っている。
「詠歌君は困っている人を見過ごせないタイプだからね」
「……そんなんじゃないです。キャラじゃないですよ」
また同じ視線を向けられるが、今度は訂正しなかった。
「本当ならこの『非科学現象証明委員会』の活動も止めたい所ですが……」
詠歌も頷きたいが、肝心の彩華の答えはいつも同じ。
「そればっかりは承服できない!」
胸を張って断固として拒否の姿勢を見せるのだ。
どうしてそこまで情熱を燃やせるのかは分からないが、会長の意思であれば詠歌も逆らえない。
「今までもこのサークル活動で本物に出くわした事はないから」
いくら情熱があってもそういう星の下に生まれたのだろうか、サークルとしての実績はゼロである。
定期的にそれらしい活動報告を上げ、メンバーも二人を除けば幽霊部員だが必要な時には顔を出してもらい、どうにか大学公認サークルとして存続している。
「……わたしには止める権利はありません」
「困らせちゃってごめんね、ユーリちゃん」
「いえ。こうしてそばに置いてもらえるのなら、わたしも安心出来ます」
詠歌たちの通うこの大学は部外者立ち入り禁止だ。基本的に門は解放されているので侵入は容易いが、ユーリは手続きを踏んだ上で此処に居る。手続きといっても『非科学現象証明委員会』の顧問である
「ですがやはり詠歌さんの方は……何かがあってからでは遅いです。普段は聖剣も持ち歩いていないのでしょう?」
「真昼間から持ち歩くわけにはいかないよ……ああ、でも」
身を案じるユーリに、彩華には教えたくはなかったが仕方ない、と詠歌が口を開いた。
「それに関しては何か考えがあるみたいだった」
「考えとは?」
「詳しくは聞いてない。ただ明日から少し遠出する事になってる。場所も分からないけど」
それは今朝、朝食の時に唐突に告げられていた。
◇◆◇◆
「明日から少し付き合え。数日で済むはずだ」
「……いきなり何?」
脈絡もなく突然告げられた同居人、アイリスの言葉に詠歌はくわえていたトーストを置き、コーヒーを一口飲んでから返す。
彼女の気まぐれは今に始まった事ではない。今までもふらりと何処かへ出ていっている様子はあった。しかし詠歌を伴って、というのは初めてだ。
詠歌の問いにすぐには返さず、のんびりと自分のトーストを平らげた後でアイリスが答える。
「ようやくマントを仕立てられそうな者を見つけてな」
「マントって……君の?」
アイリスが座る隣の椅子に掛けられたマントへと視線を向ける。それは天上で貫かれた翼なのだとアイリスは言っていた。擦り切れた裾は彼女自身の傷を表しているのだと。
当然、普通の人間がどうこう出来る物ではないはずだ。
「仕立て直した所で私の傷が癒えるわけではないが、いつまでもみすぼらしいままというのも気に食わん。それに多少は防具としての機能を回復させんとな。『ウルタールの猫』と『アイオド』。二柱を屠った今、
憎々しげな口調でそう言った後、マントから視線を外す。
「軽んじられ、有象無象を差し向けられるのも面倒だがそれを繰り返せばすぐに私の魔力は尽きる。そういう意味では手を出しかねているであろう今は都合はいい、が――」
「本腰を入れた
「…………ああ」
たっぷりと間を空けてアイリスが頷く。
彼女、
詠歌も無理矢理に彼女の内面を暴こうとは思っていない。アイリスが話そうと思った時、それに静かに耳を傾けようとだけ決めていた。
「その為に里帰りするって事?」
「戯け、天上になど行くものか。海も越えない地続きの場所だ」
「日本国内で?」
「同郷、とは言わんがそれに近い。私と同じ天上、『ユグドラシル』に連なるミズガルドの住人だ」
「……君以外にも地上に堕ちてきた存在が居るのか?」
「追放されたのか逃亡したのかは知らん。私はミズガルドに興味などほとんどなかったからな」
ならどうやって見つけたのか、尋ねようとしてアイリスには使い魔として蝙蝠を生み出す力がある事を思い出す。それを飛ばして探していたのだろう。
「危険じゃないのか。君は追放されたようなものなんだし」
「天上の住人と言ってもミズガルドに住まうのは地上と同じ人間だ。少しばかり此処よりも神に近い場所に居るだけの、剣と魔術の世界に生きるただの人間に過ぎん。後れは取らんし、そもそも私の事など知らんだろうさ」
「協力してもらえる保障は? 無理矢理だって言うなら止めるけど」
「地上に溶け込み、便利屋じみた事をしている。客として行けば文句はあるまい」
詠歌の反応を予想していたのか、淀みなく答えられ言葉に詰まる。否定から入ったものの、問題がないなら止めるつもりはない。それに外に出る時は常に纏うマントだ、それがボロボロだというのは詠歌も気にかかってはいたのだ。何より
「それに用件は私のマントだけではない。お前の聖剣の事もだ」
「聖剣の?」
アイリスは詠歌をジト目で睨んだ後、呆れたように溜息を吐いた。
「お前は死にたくないと言いながら死に近づき過ぎる」
「そんなつもりはないんだけど」
「それを止めるつもりも咎めるつもりもないが、お前にくれてやった聖剣を預かったままでは落ち着かない事に気づいた」
マントから聖剣を取り出してそれを詠歌へと向ける。詠歌は不満そうに刀身を逸らして口を開く。
不満の原因は反論を無視された事と朝食の場でこんな物を持ち出した事だ。
「だからって受け取っても持ち歩けない」
「分かっている。あれだ、じゅーとーほーとかいうのだろう」
何処で聞いたのか理由は分かっていても単語だけではピンと来ないのか、舌足らずの発音だった。
逸らされた刀身で肩を叩き、不便なものだとぼやく。
「本来なら宝物殿にこの聖剣自体の鞘もあったはずだが、生憎とそれは持ち出していない。ならばこれも新たに仕立てるしかあるまい」
「鞘に納めたからって持ち歩けないって」
布で包めば外見は竹刀に見えなくもないが、万が一職務質問でもされたら終わりである。銃刀法違反、さらに家宅捜索にでも発展すればアイリスも見つかり、戸籍もない不法入国者として余罪もぽろぽろ、
「それも含めてだ。使い魔越しでもその人間が魔力を帯びているのは分かった。魔力を帯びるのはミズガルドの人間では珍しくもないが普段から魔術を扱う者かそれに近しい者しか発しはしない。であれば人目から隠す鞘を作る事も出来よう」
「……あまり気乗りはしないけど、必要な事なんだろうね」
「そういう事だ。なに、金の事なら心配するな」
前回の事件でニコラのように聖剣を持つ
アイネとレラがついている以上、ニコラから情報が漏れる事はない。しかし
「……」
邪神の神託について気にかかる部分がアイリスにはあったが、あえてそれを口にはしない。止める方法がない以上、神託を授けるのが邪神であれそれ以外であれ、同じ事だ。
「相手はただの人間だ。彩華が興味を持つような者でもない、連れていく必要はあるまい」
「十分興味を持つと思うけど……それには賛成」
もしもバレれば抜け駆けだと騒がれそうなので、黙っていようと決めて詠歌が頷く。
「それで具体的な場所は?」
以前、地図を見て地上の地理を把握していた事は知っている、スマートフォンを取り出して地図を表示してアイリスへと手渡すと地上の道具にも慣れたのか、手慣れた手付きで操作して画面にピンが打たれた。
「此処だ」
返されたスマートフォンに視線を落とす。自動的に表示された現在地からの距離は車で五、六時間、新幹線を使えば二時間足らずの場所。
「……そう」
「どうかしたのか?」
地名を確認した詠歌が僅かに間を置いた事に疑問を抱き、アイリスが聞き返す。スマートフォンから顔を上げた詠歌の表情は普段と変わりがないように見える。
「いや、何でもない……って言っても遅いか」
反応が不自然な自覚はあったのだろう、誤魔化す事をやめて詠歌が答えた。
少しだけその表情にいつもと違う感情を混ぜながら。
「……昔、少し関わりがあった場所だったってだけだよ」
詠歌はそれ以上、何も言わなかった。アイリスも問いただす事はしない。
何かを察したのか、それとも興味がなかったからなのか、詠歌には分からなかった。自分がどんな表情を浮かべているかさえ分からなかったのだから。
◇◆◇◆
「ユーリちゃんが訊かなかったら隠す気だったのかい!?」
今朝の会話を思い出しながら、彩華の反応に自分が普段通りの表情を浮かべられている事に詠歌が安堵する。
「すいません。でもアイリスの話では相手はあくまで普通の人間ですし、大勢で押し掛けるのもどうかと思って」
「……心配しなくてもエリュンヒルテ様とのデートの邪魔はしないよ」
「デートって」
拗ねた顔で言う彩華に思わずツッコむ。話を聞いていましたか? と呆れ顔で。
説明に不十分な箇所はなかったはずだ。少なくとも目的は包み隠さず話した。ただ目的地に関して隠しただけだ。
(アイリスは知らないようだったけど、会長に教えるとそこから話が広がりそうだから)
広げられるのが嫌なわけではないが 『非科学現象証明委員会』の活動の中でその話題が上がった事はあまりない。場所が離れていて活動圏外だからだが、今回の目的地が其処だと知ればきっと”それ”が挙がる。詠歌にとってはあまり好ましくなかった。
「とにかく、そういう事だから少しは安心してほしいかな」
隠して会話を続けるのも申し訳ないとユーリに話を振って、詠歌は話題を終わらせに入る。
ユーリが部室に来て、話す事になったのは予想外だったがこれで彼女も安心するはずだ。
「分かりました。……教団にとっては人間でも天上、北欧神話のミズガルドに住んでいたというのなら否定すべき存在ですが、わたしはもう『審問会』でも教団の一員でもありません。すぐに受け入れる事は出来ませんが、詠歌さんを信じます」
「ありがとう。お土産買って来るよ」
向けられる信頼が少しむず痒かったが微笑んでそう約束する。しかしそれに彩華が口を挟んだ。
「期待しない方がいいよ、ユーリちゃん。詠歌君にはお土産のセンスないから」
「会長にそんな風に悪口を言われるのは初めてですね」
「私が里帰りした時、お土産のリクエストを訊いたらなんて言ったっけ?」
暫し考え込み、記憶を辿る。半年ほど前に彩華が里帰りした時があったはずだ。
彩華の故郷を思い出すとそれに釣られてその時の会話も蘇る。ああ、と手を叩く。
「米粉パン」
「おかしいでしょ!」
詠歌とは比べ物にならない鋭く素早いツッコミだった。
「いや、米所だって聞いたので」
「そうだよ、米所だよ! でも他にあるでしょ!」
「米そのものは高価だし重いと思って」
「お米から離れて! そんな具体性求めてなかったよ! もっとふんわりとお菓子とかキーホルダーとか言ってくれれば良かったの!」
「会長の思い出話が何よりのお土産でしたよ」
「いい話みたいに終わらせようとしない!」
当時の思いが蘇ったのか、両手を上げて怒りを表す彩華とそれをのらりくらりと躱す詠歌。
そんな二人がじゃれ合う様子を見て、ユーリがくすりと笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます