⑯
……たとえ鎧を纏っていても落下の衝撃は筆舌に尽くし難かった。それでも怪我をしていないのは鎧の、レラのおかげだろう。
視線を下に下ろし、抱いたままのアイリスの様子を確かめると衝撃でブレストプレートにぶつけたのか、額を押さえていた。
「ぐぅ、この私に傷をつけるとは……」
無事なのは間違いなさそうだ。アイリスを下ろし、大きく息を吐いて膝を着く。いつの間にか魔槍は聖剣の柄に戻り、互いの輝きを封じ合っていた。
『アイオド』は消滅し、少し離れた場所でニコラと名乗った少年が倒れている。力加減が難しかったが、殺してはいないはずだ。
まだ全容を知らない以上、解決とはいかないが少し休みたくもなる。思い出したように折られた二本の指と顔が痛んできた。
「しかしお前の方が満身創痍といった具合だな」
「……身から出た錆とはいえ、色々あったから」
アイリスの手が伸び、今度はバイザーではなく兜そのものを取り上げられる。結界の中のようだけど、ひんやりとしている空気が心地良い。
このまま倒れこみたい所だけど、そうもいかない。当事者として結末を見届けたい。
『汝にもう一つ訊かねばならない事がある』
「なに?」
『汝の言う通り、我は彼女たちに伝言を伝えた』
「うん、ありがとう」
レラがアイリスと協力してくれたのは僕との約束を守る為だろうけど、きっと会長のおかげだろう。
バートレットの名前の意味を知れば会長はユーリを見過ごさない。もしもそれを知らずにユーリがアイリスと再会すれば会長が止めたとしても二人が協力する事はなかっただろう。
敵の懐に飛び込めるのは悪い事だけじゃない、あの時は出まかせのつもりだったけど嘘にしなくて済んだ。
『あの少女の名に込められた意味、それを教えるだけならばはっきりと伝えられたはずだ。何故そうしなかった?』
分かっていなかったのか。正直な所、レラの信頼を得る為のアピールの意味も込めていたのだけれど。
「それが貴様のような人外と人間の差だろう」
『……
不機嫌そうに言うアイリスにレラが声を低くして尋ねる。手を出す喧嘩になるなら僕が脱いでからにしてほしい。
「あの子がどんな環境で育ったのだとしても子供相手にそんな事、いきなり教えられるはずない」
それは教えなければならない事だけど、隠さなきゃならない事でもある。
少なくとも僕にはあの状況では伝えられなかった。……いいや、どんな状況でも僕には伝えられなかっただろう。真実を告げ、突き放すだけで立ち上がらせる言葉なんて思い浮かばない。どんな言葉を掛けてあげればいいのかなんて分からない。
だから会長に頼るしかなかった。それは甘えだけど、そうしなければ傷つくのは僕ではなくあの子だった。
「ふん、お前も懲りない事だ」
アイリスは呆れ顔だが、それでも僕のした事を否定しない。そうだと知っていたから僕はレラに『アイリスたちに伝えてくれ』と頼んだ。
『……そうか』
レラは黙り込む。何を思っているのか、既に肉体を取り戻した僕には彼女の心は伝わって来ない。
「詠歌君!」
何処からか僕を呼ぶ声が聞こえた。視線を彷徨わせれば駆け寄ってくる会長の姿が見える。その後ろにはアイネとユーリの姿もあった。
ユーリは俯きながら、それでも自分の足でこちらに向かって来る姿だけで会長に任せた事が間違いではなかったと悟る。
「良かった……! 無事でいてくれて、本当に……!」
「ご迷惑をお掛けしました、会長」
「迷惑じゃない! 私は心配して……!」
僕たちの下までやってきた会長が地面に座り込む。……そうだ、迷惑だけじゃない、僕は心配をかけていたのだと今更になって気付く。そんな当たり前の事から目を背けていた。
「久守詠歌」
アイネが僕を呼ぶ。彼女の表情はショッピングモールで会った時と違っていた。憑き物が落ちたような表情で、初めて出会った時のような迷いのない瞳をしていた。アイネに何があったのか、ユーリの下で何をされていたのか、そこから出た後に何があったのかは知らないけれど、それでも彼女の中で何かが変わったのだろう。
「自分の身を犠牲にしてまで私を助けてくれた事、感謝する」
そう言ってアイネは僕に深く頭を下げた。
意識の戻っていない彼女をレラに預け、放り出す形になってしまったのだからこうして正面から感謝されるのも少し居心地が悪い。
「以前、あなたを愚かと言った事を訂正しよう。
「……ああ」
その言葉は胸の内にすんなりと入り込んだ。どんな事情や理由があっても命を助ける事は尊い行いのはずだ。
たとえアイリスが自他共に認める悪であったとしても、僕がした事は間違いではなかったと信じている。
「そしてあなたの戦いに賛辞を。異教の物であっても聖剣を持つ者に相応しい姿だった」
「見てたんだ」
アイリスやアイネの思い描く勇士像というのは分からないが、正直僕とはかけ離れている気がしてならない。最後は頭突きだったし。
「……あなたにならば任せられる」
その呟きは僕には聞き取れなかった。だが意味深な表情を浮かべている事が気になって聞き返そうとした時、かすれた笑い声が聞こえた。
「っは……はははっ……!」
完全に意識を失っていたと思っていたニコラが幽鬼のようにふらりと立ち上がり、血走った瞳で僕たちを見ている。
僕が思うより速く、レラが僕の体を動かして立ち上がりユーリや会長たちを庇うように前に出た。同時に背後で会長がユーリを守るように抱き締めたのが分かる。
そういえば彼が言っていた。直接自分が出向き、ユーリから恐怖を吸い上げたと。バートレットの意味か、それとも別の何かで恐怖を煽ったのかは分からないが、あまりこの子を刺激したくない。
「……だ、大丈夫、です……」
しかしユーリは震える口調でそう口にした。
「ユーリちゃん……」
案じる会長から離れ、ユーリが僕の隣に立つ。その手はきつく服を握りしめていた。
恐怖を殺しきれず、それでも引こうとはしない。
「……ニコラ」
「よおバートレット……ちょっと見ない間に生意気な顔をするようになったじゃない?」
「……あなたはわたしに教団の中で生きる術を教えてくれました」
「はっ、感謝の言葉でも述べてくれるって?」
『アイオド』が居ない今、恐怖を煽る意味はないにも関わらずニコラはユーリを威圧し、見下した笑みを浮かべている。
黙らせるべきかと迷う僕を止めたのはレラだった。踏み込もうとした足が動かない。ユーリに任せるつもりなのだろう。
「でもわたしは気付けなかった。それがいけない事だって、分からなかった。……いいえ、本当は分かってたはずだった。わたしはもっと早く、それに向き合うべきだった……っ」
「本当に遅えなあ! テメェも僕と何も変わらねえよ! 少しばかり表の奴に優しくされて、救われたつもりになったってテメェがした事は変わらねえ!」
「分かってます……でも、もうわたしはこの人たちを傷つけたくない……あなたにも傷つけさせない。だからニコラ、もうやめて……一緒に罪を償う方法を探しましょう……?」
その言葉にニコラは目を見開き、そしてそれ以上に口を大きく開けて笑い声をあげた。
ユーリの言葉はニコラには届かず、下品な笑い声を隠そうともせずに響かせる。
「はははははっ! はあ!? おいおいおいっ、懐柔されんのが早すぎるだろ! そんなんだからテメェは僕にいい様に使われる人形で、用無しになったら使い捨てられんだよ! それじゃあ先が見えてるよなあ! どうせテメェはまたそいつらの人形になって、飽きたら放り出されるってオチが待ってんだよ!」
ギリギリと音を立てて僕の拳が握られる。それは僕の意思なのか、それともレラによるものなのか、判別はつかない。だがこれ以上……こいつの言葉を聞くのはうんざりだった。
自由を取り戻した足を踏み出そうとした時、嫌になるほど身近で感じていた気配が背後から発せられる。
「優しい僕がそうなる前に終わらせてあげるよ! 『アイオド』ォ!」
その名に応える神はもういないはずだった。けれどその気配は膨れ上がっていく。
「アイネ……!?」
「っ……」
「ユーリちゃん!?」
「う、ぁ……!」
苦しげに胸を押さえるアイネとユーリから、消えたはずの『アイオド』の気配が漏れ出ていた。どんどんと大きくなっていく気配に何故、と理由を探る。
考えられるのはただ一つ、アイネは『アイオド』に一度は捕まっていた。ユーリは僕たちよりもずっと長く『アイオド』が傍にいた。それが原因なのか、けど僕は何ともない。その疑問にニコラが答える。
「聖剣のせいでテメェに植えた種は消えたらしいが、僕に残った残滓と合わせりゃそれでも十分だ!」
「種……!?」
「『アイオド』は元々、人間の生命力を喰らう神性だ。けど悪趣味でさあ、種を植えて魂と脳味噌だけは生かしておくのさ。そして万が一滅びかけた時、それを非常食に人間を内側から食い破って蘇るんだよ! 不死に近いのは『ウルタールの猫』だけじゃねえ! 邪神なんてものがそう簡単に死ぬかよ!」
『汝、悪あがきを……!』
それじゃあアイネとユーリは……! そんな結末、認められるはずがない。召喚者であるニコラを止めれば!
「ははっ、無駄だよ! 一度滅びた『アイオド』に召喚者の区別なんてつくわけねえだろ! 僕を殺しても『アイオド』は止まらねえ! 僕たち全員を殺すか、見殺しにした後で『アイオド』をもう一度滅ぼすか選べよ!」
提示される絶望的な選択肢。
これがアイリスが言っていた世界が人に迫る決断だとでも言うのか。
「どうやったかはしらねえが『アイオド』はほぼ完全に滅んだ! 僕一人じゃあ蘇る事も出来なかったろうが、のこのことやって来てくれてありがとう!」
うるさい。ニコラを止めても止まらないのなら、もう耳を傾ける必要はない。その口を塞ぐ時間も惜しい。
「アイリス……!」
『
縋るような思いで僕たちはアイリスを呼ぶ。この状況を変えられるとしたら、アイリスしか思い浮かばない。
そうだ、
「不可能だ。あの槍は神を滅ぼすものだが、神の内に取り込まれた者ならばともかく、内に巣食う神だけを殺す事は出来ん」
「そんな……」
あの槍でも駄目なのか。神を殺す事に特化したはずの槍でさえ、助けられないのか。
「……やって、ください」
「ユーリちゃん!」
膝を着き、苦しみに喘ぎながらユーリが僕を見上げた。同様にアイネも僕の肩に手を置き、頷く。
……僕に感謝を口にした君が、僕にやらせるのか。
「やれ、久守詠歌……! この場でお前だけにはその権利がある。苦しむ私たちを救う為でもいい、以前の報復の為でもいい……! お前ならば私たちは……!」
「君は知ってるだろう……! 僕は死ぬのも殺すのも……目の前で誰かが死ぬのなんて御免なんだ!」
初めて出会ったその時から知っているはずだ。確固たる信念なんて持ち合わせていない僕が、それでも守ろうとしているそれを君は壊せと言うのか。
「久守詠歌さん……あなたにも酷い仕打ちをしました。それでもあなたはわたしを逃がしてくれた……あなたはわたしとは違う、あなたの振るう剣は間違いなんかじゃ、ありません……」
……ふざけるな。あんな程度で知った風な事を言わないでくれ。
「勝手な事を言うな……僕に自分の命を押し付けないでくれ! 人が背負える命ってのは一つだけだ! ……自分の命を諦めないでくれよ!」
「そら、そっちの覚悟は出来てるみたいだぜ、勇士くん? 邪悪な
「ッ……!」
耳を傾けている場合ではないと分かっているのに、その耳障りな声に苛立つ。
「貴様は少し黙っていろ」
「ぎっ!?」
だがその声はアイリスによって止められた。僕の手から聖剣を奪い、その刀身でニコラの頭部を殴り、意識を狩り取っていた。……でも状況は何も変わらない。
両手を見下ろす。聖剣を手放したはずの手が酷く重く感じる。
『……汝が選べ。彼女の言う通りだ、汝ならば裁きであっても救いであっても、納得出来る』
「レラ……! 君はユーリを救いたかったんじゃないのか!? 事情は知らない、でも君の感情に触れた時に感じた! 負の感情の嵐の中心で君はユーリの事を想っていたはずだ!」
『然り。だが我は人ではない。人の営みに、人の下す決断に立ち入るべきではない』
そうやって都合の悪い時ばかり人外面して……!
「生きてるんなら同じだろう! 君は『アイオド』とは違う、誰かを想う心を持ってるんだろう!?」
『……』
レラは答えない。本当に僕に全てを任せるつもりなのか。こんな僕に。
…………もう、いい。もう分かったよ。
「アイリス、剣を」
「詠歌君!?」
会長の悲痛な叫びとは裏腹に、アイネとユーリは安堵したような表情を浮かべる。……勝手な事ばかり。
「決断したか」
「……抜いてくれ」
答えず、受け取った聖剣の柄をアイリスに向ける。アイリスは何も言わずに槍を抜いた。
また聖剣に本来の輝きが戻る。聖剣に似つかわしくない紅黒に輝く刀身に僕の顔が映る。……酷い顔だ。
刃を返し、ジュワイユーズを振り上げる。
「……感謝する」
「ごめんなさい……お願い、します」
「もういいよ。僕には今の君たちに
あるとすれば君たちにではなく、ただ一つだけ。
一思いに終わらせる。どうせこれを振り下ろせば全てが終わるのだけど。
今にも飛び出してきそうな会長の腕をアイリスが掴み、僕を見守っていた。ただ一言、僕に告げる。
「言霊を込めろ。お前の意思を、願いを、決断を。言葉として吐き出せ」
ああ、そうだ……以前も言いそびれてしまっていた。
自然と口が動き出す。僕の意思にジュワイユーズが反応しているのかは分からない。けれど僕の口はその言葉を紡ぎ出した。
「
その言葉に応じるようにジュワイユーズは戦いの時よりも激しく光り輝く。
会長の叫びを何処か遠くに聞きながら、僕は剣を振り下ろした。
『――GAAAAAAAAAA!』
遅れて聞こえてくる断末魔の叫び。それは人のものではなく、あまりに醜い神だったものの叫びだ。
……どうやら判決は下ったらしい。
「……お前に神の名は相応しくないってさ」
刀身に再び映った僕の表情は相変わらず酷いものだったけれど、僕は笑っているらしかった。
人が救いを求める神がこんなに醜いはずはない。だがそれでも神を名乗るのなら、信仰心なんて持ち合わせていない僕にとっては人間であるニコラなんかより溜まった苛立ちを吐き出す、八つ当たりの相手にはぴったりだ。
「自分の命くらい、自分で背負ってくれ」
顔を上げた二人に言い捨て、今度こそ僕は地面に倒れこんだ。顔を右手で覆い、大きくため息を吐く。ああ……良かった。
らしくはないし、背信者のレッテルを張られたとはいえ信心深い彼女たちの前で口にするのは憚られる。
けれどこれがアイリスの言うように物語なら、内心でだけこう締めよう。
神は死にました、めでたしめでたし。
◇◆◇◆
なんて内心で呟いても当然、現実は続いていく。
倒れこんだ僕は自分の足で立ち上がらなければ立ち上がれないし、槍の一撃が貫通した結界を修復する魔力がアイリスにない以上、此処も長くは持たない。抜身の剣を持ったまま鎧姿で留まるわけにもいかない。
「帰ろう、みんなで一緒に」
安堵の涙を流しながら微笑む会長の一言で、少なくとも今回の事件は終わったのだと実感が湧いた。
「帰るぞ。お前の望んだ日常とやらを取り戻せたかは知らんがな」
アイリスが手を掴み、座り込んだままの二人を尻目に僕を立ち上がらせる。
全てが元に戻るわけではない。それでもどうやら僕はそれなりに満足しているようだ。
「うん。行こう」
戻る事は出来なくとも、僕たちはまだ進む事が出来るのだから。
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