彩華の知る洋食屋を目指して歩き始めておよそ十分。大通りから一本外れ、居酒屋が並ぶ昔ながらの飲食店街。ショッピングモールの影響か、シャッターが降りて久しいだろう店舗も多くあるがぽつりぽつりと店の明かりが周囲を照らしている。此処を抜ければもうまもなくといった所だった。

 明かりの届かぬ店と店の間。日常に潜む暗闇。そこに差し掛かった時、空気が変わる。


「止まれ」

「……アイリス?」


 変えたのはアイリスだった。短い、制止を告げる言葉。有無を言わせぬ威圧感はないが、確かに彼女の雰囲気が変わっていた。


「エリュンヒルテ様?」

「此処までだ。嗅ぎまわる分には捨て置くが、網に掛かってやる理由もない」


 アイリスの言葉の意味は理解出来なかった。しかし詠歌は警戒心を強め、彩華を庇うように前に出て周囲を窺う。

 ずり、ずり、と何かを引きずる音が正面から聞こえる。店の明かりの向こうの暗がり、其処から何かが近付いてきている。


「女の子……?」


 暗闇に目を凝らし、その正体が何であるかを理解した彩華が自信なさげに呟く。詠歌にも見えていた。その少女は嫌がる犬を引きずるように、鎖に繋がれた棺を引きずっていた。そのミスマッチな姿を見れば疑問符を付けたくなる気持ちも分かる。


「待って下さい」


 少女は明かりの下に紫色の髪と純白のワンピースに包まれた姿を晒し、足を止めると短くそう言った。

 発せられたのは外見同様、幼さの残る少女の声だ。か細く、闇に消え入りそうな小さな呟き。


「あなたが吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアですか?」


 この異様な少女を見た時点で解くつもりもなかったが、少女の口から出た名に詠歌の警戒心が強まる。

 詠歌の横に並んだアイリスに目配せし、預けていた聖剣を受け取るべく手を差し出す。


「だとしてどうする?」


 少女の問いに隠すつもりもなく問い返すアイリスだったが、マントに手を忍ばせる気配はない。まだ手札を見せる時ではないと判断したのか。


「わたしはあなたを追っていたわけじゃない。だから警戒は無意味ですよ」

「その割には警戒心を煽るような真似をしているな。……動くなよ、詠歌。その闇より先は奴の結界だ」


 ジリッと地面を擦りながら身構えようとしていた詠歌をアイリスが止める。つま先が光に触れそうになり、すぐに引いた。


「此処に来るまでの間にも所々に張っていたな。こうまであからさまではなかったが」

「あれはお誘いだったのです。でもいつまで経っても来ないから迎えに来たのですが。あなたに気付かれて騒ぎを起こしたくなかったので……でもあなたは気付かなかったの? それとも無視していたんですか?」


 少女の視線がアイリスから外れ、その背後、無言を貫いていたアイネへと向けられる。


「あなたは『猫』。気付かないはずないのに」


 その口ぶりから少女が北欧神話に属する者ではなく、アイネと同じ対攻神話プレデター・ロアに関係する人物だと詠歌は判断した。それが分かった所で何が出来る訳でもないが。


「……私にはもう『クタニド』の加護はない」

「そうなの? そう、だから……」


 小首を傾げる少女は考える素振りの後、納得したようにアイネの体を観察する。かつてあった人ならざる耳と尾がない事に気付いたのだろう。


「アイネちゃん、この子は……?」

「……分からない。少なくとも私に用があるのは間違いないようだ」


 未だに詠歌たちは対攻神話プレデター・ロアの教団の内情には詳しくない。無数の派閥が存在し、敵対し合っている者同士も居る事は知っていたが、この少女がそうなのだろうか。


「たとえ力を失っても、あなたは教団の一員。報告を受け、わたしはあなたを迎えに来たんです」

「報告だと……?」

「あなたたち『クタニド』派の司祭が規則を破り、異教の神話と内通したと」

「……! ふざけるな! 内通だと!? 司祭様は北欧の勇者エインヘリヤルに殺されたんだぞ!?」

「あなたの言い分も理解出来る。だからそれを証明する為に、わたしと来てほしい。派閥が違えど同じ対攻神話プレデター・ロアを信奉する仲間として」


 彼女たちの会話からアイリスに関わる物ではないと判断し、詠歌は僅かに安堵の表情を浮かべた。


(もしもまたアイネがアイリスの敵になったとしても……彼女が望む事なら、それでいい。殺し合いなんてしたくはないけれど)


 自らの世界から逸脱し、外の世界で生きる事は難しい。それは以前の事件に巻き込まれた詠歌たちも、天上から地上へと堕ちたアイリスも、アイネも変わらない。戻る事を望み、それが叶うならばきっとその方がいいのだろう。

 外の世界を知った上で其処に留まるか、戻るか。それを決められるのは自分だけだ。


「……一つ訊きたい」

「なに?」

「お前は……『審問会』の人間か?」

「そう」

「……分かった」


 少女の答えにアイネは顔を上げ、頷く。詠歌から見えたその横顔は何かを決意したようにも見えた。その決意が何なのかを知るには、詠歌は彼女を知らない。


「私は彼女の共に行く。……あなたたちには迷惑を掛けた。それ以上に世話にもなった。勝手ですまない」


 あまりにも沈痛な面持ちのアイネの謝罪に、彩華が慌てた様子で声を掛ける。


「気にしないでっ! 私は気にしてないし、詠歌くんたちもそうだよ! じゃなきゃ一緒に買い物なんてしない! 私の方こそお節介を焼いちゃってたし……」

「……あなたの優しさは私には眩しすぎる程だった。……ありがとう」


 彩華、そして詠歌とアイリスに頭を下げ、アイネは光の下――少女が作り出したという結界に足を踏み入れた。何か目に見える変化があったわけではないが、とても遠くに離れたように感じる。


「ア、アイネちゃん!」

「……」


 少女と共に背を向けるアイネに向かい、彩華が名を呼ぶ。アイネは振り向かず、しかし足を止めた。


「……お節介だけど、私は楽しかったから! だからいつでも戻って来ていいからね! 嫌な事があってもなくても! いつでも遊びに来ていいから!」


 結界の向こうのアイネに反応はない。立ち止まった足はまたすぐに動き出す。二人の姿が光の向こう、闇に溶け込みそうになる直前、彩華は一際大きな声で叫ぶ。


「またね、アイネちゃん!」


 そして、アイネ・ウルタールと少女は詠歌たちの前から姿を消した。




 ◇◆◇◆




 その後、目前まで迫っていた店に立ち寄る事なく、彩華と別れた詠歌とアイリスは自宅へと戻っていた。

 食事の雰囲気ではなくなり、彩華の様子が空元気だと明らかだったからだ。幸いにまだ残っていた食材で夕食を終え、入浴を済ませ、購入したレシピ本をぼんやりと眺めていた詠歌が声を発する。


「アイリス、その……どう思う?」

「どう、とはまた曖昧な問いだな」


 つまらなそうな表情で湯上りのアイリスが何かを訴えた。いつもなら無視したそれに今夜は頷き、レシピ本を置くとカーペットの上に座るアイリスの背後に回り、その艶やかな黒髪に触れる。


「あの女の子の事」


 手に持った櫛を通すと何の抵抗もなく、滑らかに長髪の下まで通っていく。梳く意味があるのだろうか、と疑問に思いながらもそれを口にはしない。せめてもの対価のつもりだった。


「君が対攻神話プレデター・ロアについて詳しくないのは知ってるけど、そういうものに対する感覚は僕よりも鋭いだろう?」

「奴が対攻神話プレデター・ロアに属する者なのは間違いない、それだけだ。分からんな、お前は何が知りたい?」

「……アイネは無事でいられるんだろうか」


 アイリスは揶揄うものではなく、本当に分からない、そういう口調だった。躊躇いながら、詠歌はその疑問を口にした。


「別に、彼女がどうなろうが僕の知った事じゃない。恨みもなければ親しみも特に持ってない……でも会長の事が心配だ」

「そういうものか。天上であれ地上であれ、善なる者の考えは理解に苦しむな。私には一生理解出来ぬものだ」


 以前『ウルタールの猫』に呑み込まれた深淵でアイリスは語った。多くの人間が持つ善であろうとする精神、それが自身には欠けている、と。主神によって生み出された唯一無二の悪性である自分には持ち得ない機能だと。

 アイリスは善性を否定しない。だが決して理解出来ないものなのだろう。


対攻神話プレデター・ロアの内情など私は知らん。だが裏切り、異教の神話と接触した者の行く末はお前も知っているだろう」

「……君のように追いやられ、狩り立てられる」


 吸血戦姫アイリスに対する勇者シグルズのように。アイネにとってあの少女がそうなのか。


「奴らの崇める神がどれ程慈愛に溢れているかは知らんがな」

「……」


 アイネがいなくなった今、対攻神話プレデター・ロアに詳しい者はもういない。可能性が残るのは共に生活していた彩華だけだが、アイネが彩華に多くを語ったとも思えない。確証はなく、ただ不安だけが募る。


「おい、手が止まっているぞ」

「ん……ごめん」


 言われるがまま、再び髪を梳く櫛を動かす。しかし詠歌の思考はアイネと彩華に捕らわれたままだった。それを察し、アイリスは不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「まどろっこしい奴め。全知ならざるお前が何に迷う? お前が選択せずとも結末はやがて来る。追いつかれるか、追い求めるか、どちらを選ぶ?」

「それは……」

「どちらにも正しさなどない。お前の選択が全てを決めるのではない、お前の選択が、お前を決めるのだ。我が勇士よ、お前はどうありたい」

「……ごめん」


 がしがしと自分の髪を掻き、詠歌は振り向いたアイリスと目を合わせた。


「まだ対攻神話プレデター・ロアの脅威が街に在るなら、僕はそれを取り除きたい。隣り合わせの非日常に怯えたくない。もう会長にとってアイネは日常なんだ。それを侵すなら、それを止める」

「ならばそうすれば良い。誰に憚る必要もなかろうよ」

「ありがとう、アイリス」


 詠歌がそうと決めたのはアイリスが居たからだ。彼女という非日常の前例、彼女と関りを持ったからこそ、詠歌は今度も動ける。

 迷いと躊躇いの柵から抜け、その道を選ぶ事が出来る。


「ふん、些末事に気を取られて食事の質を落とされては堪らんからな」

「期待に応えられるかは分からないけど、頑張るよ」


 アイリスは呆れ顔で体を預けるように倒れさせた。胡坐あぐらをかく詠歌の腹に頭を乗せ、その顔を見上げる。


「……なにさ」

「別に、意味はない」


 じっと見つめられ、詠歌は思わず視線を天井に向けるが伸ばした両手で顔を固定され、無理矢理に下げられた。

 それでも交わる事を避けて彷徨わせると視線がその唇に向いてしまう。僅かに開いた口から見える白い歯に無意識に詠歌の手は首筋に置かれる。一度だけされた吸血行為を思い出してしまっていた。

 それに嫌悪感を覚えてはいないが、無性の恥ずかしさがある。


「なんだ、誘っているのか?」

「そんなつもりない」

「可愛い奴め」


 ぞくぞくとアイリスの背に走る感覚。それに詠歌は気付かない。

 吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアの吸血欲求は伝承や物語に語られる吸血鬼のそれとは異なっている。

 彼女が食欲を以て血を求める事はなく、血を求めるのは嗜好に基づいた欲求に過ぎない。


「拒まないのか?」

「止めはしないって言っただろ」

「差し出された首筋に価値はないと思ったが、お前であればそれも悪くはないか」


 気付かない。詠歌は視線を逸らし続けている為に、アイリスは首筋だけを見つめている為に。その頬が熱にうなされた少女のように上気している事に。

 アイリスの両手に力が込められ、詠歌の首筋が眼前へと迫る。愛でるようにアイリスの舌先がそれを撫でた。詠歌の体が強張り、しかし拒絶する事はしない。

 その光景に神秘はなく、ただ言いようのない淫靡さがあった。やがて開かれた口から牙が首筋へと突き立てられ――。

 ビクリ、と両者の肩が跳ねた。原因はテーブルの上に置かれた詠歌のスマートフォンだ。呼び出しを告げるベル音が鳴り響き、持ち主を急かしている。


「……やれやれ、興が削がれた」

「雰囲気とか気にするんだ」


 互いに視線を逸らし、アイリスは体を起こし、詠歌も解放されて立ち上がる。スマートフォンを見れば、表示されているのは彩華の名前だ。丁度いいタイミングだ、彼女にも伝えておかなければならない。だが詠歌は確信に近い予感を感じている。自分が言うまでもないのだろう、と。


「もしもし」

『こんばんは、詠歌君! こんな時間にごめんね!』

「いえ、気にしないでください。僕も会長に伝えたい用事があったので」

『そうかい? でもまずは私の話からでいいかな!』

「どうぞ」


 詠歌が促すと、彩華の息を吸い込む音が聞こえ、すぐに決心した声が聞こえて来る。


『やっぱり納得いかない! 大体あの流れで心配するなって無理があるだろう! セオリー的に! どう考えたって何かあるに決まってる!』

「アイネの事ですか」

『そうだよ! この数週間、アイネちゃんと生活してたからあの子も知ってるはずなんだ! 私があれで黙っているはずないって! それでもああして目の前であんなやり取りをしたんだ、余計なお節介を焼かれる覚悟をしてもらわないと困る!』


 電話越しでも伝わる彩華の怒りに、詠歌は思わず笑みを浮かべてしまった。成程、確かにその通りだと。

 もしも詠歌がアイネの立場だったならもっと上手くやっていただろう。自分のせいで誰かを巻き込みたくないのなら、あんな後ろ髪を引かれるような顔は見せない。ただでさえ一度、彩華を巻き込んでしまっているのだから。


「そうですね。その通りです」

『だろう!? ならもう迷う必要なんてないよね! だから詠歌君!』

「はい」

『力を貸して!』

「勿論です、会長」


 誰かを巻き込まないように自分一人を差し出す者。誰かを巻き込んででもより良い結末を求める者。果たしてどちらが強いと言えるのだろうか。

 きっとどちらも弱さを抱えているし、同時に強さも持っているのだろう。それは決して同時には持てない強さだ。

 だからこそ思う。彩華があの場に居て良かったと。アイネと詠歌にはない強さを持つ彼女が。


『……ちょっと意外。詠歌君はきっと反対すると思ってたから』

「手放しで賛成は出来ませんよ。でも反対しても会長は聞かないでしょう」

『成程、良く分かってるね!』

「それなりの付き合いですから。それでどうするつもりなんですか?」

『まずは今日別れた近辺で聞き込みしてみようと思う。あれだけ目立つ格好で出歩いてるって事は何か対策はしてあるんだろうけど、もしかしたら目撃情報があるかも』



 その後、いくつかの捜索案を出し合い、明日再びショッピングモールに集合する事に決めた。まとまった所で電話を切ろうとすると彩華がそういえば、と切り出した。


『詠歌君の用事って?』

「それならもう済みました」

『ん、んん?』


 首を捻る様子が目に見えるような反応に苦笑し、あまりツッコまれるのも嫌だと詠歌はそれ以上の追及をさせない為に言葉を重ねる。


「気にしないでください。大した事じゃないですから」


 詠歌の決断は彩華にとっては当たり前の物だ。迷うまでもなく、彩華は自ら選択した。見習うべき所がまた増えた、と詠歌は内心で呟く。


「明日も早いです。逸る気持ちは分かりますけど、会長も休んでください」

『うん。分かってる。もうある程度調べられる物は調べ終えたから大丈夫』

(……本当に見習わなきゃならない所が多い)


 ふとアイリスを見れば、それすらも知っていたかのように笑みを浮かべていた。


(会長と比べれば確かに、僕はまどろっこしい)

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