②
太陽が夕日へと変わりかける頃、詠歌とアイリスは南区内にあるショッピングモールへとやって来た。
グレーのPコートを羽織る詠歌と例によって黒いマント姿のアイリスの組み合わせは少し浮いているようにも見えたが人の多いモール内ではそれ程目立つ事はなかった。
待ち合わせの場所であるフードコートの席に座りながら、彩華たちを待つ。
「君のそのマントって一体何なんだ?」
待ちながら、以前から気になっていた質問をアイリスに投げかける。闇に溶ける性質を持ち、内ポケットもなさそうなマントの内側から物を取り出す姿を何度も見ている。ただの既製品でない事は間違いないが、神話の世界の道具の一つなのだろうか。
「これは天上で貫かれた私の翼だ。手酷くやられたからな、もう回復する事はあるまい」
特に気にした様子もなく、アイリスが答える。擦り切れたその出で立ちは傷の深さを表しているのか。
「それじゃああの時の翼は?」
以前、アイリスは黒い両翼で以て空を舞った。その姿は詠歌の目にも焼き付いている。彼女の髪と同じ、艶やかな羽根を散らす羽ばたきを。
「魔力で強引に繋げたに過ぎん。あの魔槍――ヴェルエノートの力と回復していた私自身の魔力でな。今も徐々に回復してはいるものの、このマントを纏っていなければ一定以上は外へ漏れ出ていくのさ」
「……」
思った以上に深刻な状況にある事を今更ながらに詠歌は知る。
聖書のアダムとイヴが禁断の果実を口にして楽園から追放されたように、地上の瘴気を口にしたアイリスはヴァルハラから追放された。ヴァルハラの日没と共に治るはずの傷は癒える事無く、今もアイリスを蝕んでいる。
「お前が気にする事ではない。天上の理から外れたとはいえこの肉体は主神が創った物、いずれ地上にも適応する。そうなれば魔力が漏れる事もなくなろう」
「ならいいけど……」
今も天上の
「如何に不意打ちとはいえ、
「そうは言ってもね……」
詠歌は北欧の
「確かに魔槍や聖剣を携えたとて、シグルズ程の相手では私もお前も未だ及ばないだろう。業腹だがそれは事実だ。主神が恐れ、封じたと言ってもそれは万が一の備えでしかない」
「私は地上に堕ち、力を削がれた。だがそれは停滞した天上にはない変化だ。装置として破綻した私にはしかし、成長の余地が生まれた。であればいずれ届かせてみせよう」
「……そうだね。あんな醜態を晒すのは僕も二度は御免だ」
あんな姿をもう見せない為に、そしてもう一つ、アイリスという――。
「おい、詠歌」
「ん、何?」
「あれはなんだ」
アイリスが詠歌の袖を引いた。思考を打ち切り、彼女が指さす先にはフードコート内の店が並んだ一角。どれを指しているのかと視線を彷徨わせ、ああ、と納得する。
「食べる?」
「あれも食べ物なのか。地上の料理は覚えきれんな。うむ、興味がある」
大仰に頷くアイリスに苦笑を浮かべ、二人は席を立って店に向かうが、途中で別れた。
「え、そっち?」
「ん?」
詠歌の進行方向にはアイスクリーム屋が、アイリスの進行方向にはたこ焼き屋が食欲をそそる匂いと共に待っている。
「いや、いいんだけど」
女の子ならこっちだろう、と詠歌は思っていたがそもそも彼女は普通の少女ではない。だからといってたこ焼きの方が似合うかといえばそうではないが。
並ぶ事もなく、詠歌が六個入りのポピュラーな物を一つ購入するとガラス越しに焼かれていくそれを興味深そうにアイリスが見つめている。
「熱いから気を付けて」
受け取った舟皿を忠告と共にアイリスへと手渡す。やはり彼女は律儀に手を合わせ、爪楊枝を手に取った。
「子ども扱いするな、お前は私の扱いを心得違いしてい――っ……!」
爪楊枝に刺したたこ焼きを頬張り、不服そうに意義を唱えようとした途端、アイリスの表情が歪んだ。出来たてを一口で食べれば当然である。だから言ったのに、と詠歌は呆れ顔で首を振った。
「ふーっ、ふーっ……!」
口を手で覆いながら、どうにか熱を逃がそうと呼吸を繰り返すその様子はとても天上に悪名を響かせた
「ほら」
「んぐっ……っ、くぅ……」
「大丈夫? 火傷してない?」
「軟弱な人間と一緒にするな……我が身は
「もうちょっとイメージは大事にした方がいいと思うよ……」
その異名がどれだけ強大かは詠歌は詳しくないが、少なくともこの場で出すのは安売りのしすぎには違いないだろう。
「少し油断しただけだ」
「緊迫感を持って食べるものじゃないけどね。味はどう?」
「……美味い」
流石に旗色が悪いと悟ったのか、アイリスはそれ以上反論する事無く、素直な感想を口にした。天上ではほとんど同じ物だけを食べていたらしい彼女にとって、地上での食事は発見と驚きの連続だった。
「ならよかった」
詠歌たちは地上の食事を口にする意味を知らなかったし、それを拒絶しなかったのはアイリス本人ではあるが、彼女が地上で最初に口にしたのは詠歌と彩華の料理だ。その事に多少の罪悪感は感じている。詠歌が慣れない料理を毎日続けているのもそれが理由だ。もう戻れないのならせめて、少しでも後悔させないように食事を楽しんでもらいたかった。
(レシピ本とか、会長に選んでもらおうかな)
ショッピングモールでの目的が一つ出来た詠歌は家にある調理器具を思い浮かべた。普段使いするのは鍋とフライパンぐらいで元々家にあった器具のほとんどがシンク下の収納棚で埃を被っている。使った方がそれらも浮かばれるだろう。
「ん……」
記憶を辿っていた詠歌の視界の向こうに見慣れた彩華と事件以来久しぶりに見たアイネの姿が見えた。彩華は大きく手を振りながら此方に近づき、アイネはもう一方の手に引かれ、俯きながらそれに従っている。重そうな足取りだが、こうして外に出歩けるまでに回復した事に安堵する。
「お待たせ詠歌君! エリュンヒルテ様!」
「お疲れ様です、会長」
「ほう……くくっ、随分と愛らしい姿になったものだな」
アイリスは手を引かれるアイネの姿を見て、からかうように笑う。アイネの服装は彩華が用意したのだろう、白いダッフルコート。その下からは淡いピンク色のスカートが覗いている。ビクリとアイネの肩が震え、詠歌と彼女の目が合った。
「……お久しぶりです」
「……うん。久しぶり」
彩華の身に危険がなければ詠歌がアイネを警戒する理由はない。詠歌自身も因縁がある相手ではあるが、それは既に終わった事だ。しかしアイネにとってはそうではないのだろう。
「
「なんだ、彩華から聞いていなかったのか」
「……聞いてはいた。この目で見るまで信じたくなかっただけだ」
そしてアイリスに対しては詠歌以上に思う所がある。そう簡単に全てを水に流す事は出来そうにない。
「お前の敵意を許そう。だが、そいつが許すかな」
「……」
険悪な空気が流れ始めるともの言いたげに彩華が頬を膨らませていた。それを見てアイネはまた俯き、その空気を霧散させた。ああ、これは勝てないな、と詠歌は納得する。
「今は雌伏の時だとでも思っておけ。私に再び挑むのなら狂信に勝る剣を得るがいい」
そう言うが、その手にたこ焼きを持っていては説得力もなにもない。どうにもシュールな絵にしかならなかった。
(まあ一触即発の空気よりかは気楽だけど)
熱さに慣れたのか、ぱくりぱくりと次々にたこ焼きを放り込むアイリスを見て、彩華は表情を綻ばせ、詠歌は肩を竦める。
食べ終えるのを見計らい、彩華が号令をかける。この場に集った時点でそれに異を唱える者はいない。
「ふふふっ、今回ばかりは私が先頭に立たせてもらいます!」
黒縁の眼鏡を妖しく光らせる彩華が向かったのはアパレルショップが立ち並ぶフロアだった。オカルトに傾倒していても女性らしさは残っている。アイリスがマントの下に着ている服も元々彩華が用意したものだと知ってはいたが、彩華のそういった面を見るのは詠歌は初めてだ。
(僕は居心地が悪い事になりそうだけど……)
メンズファッションにすら疎い詠歌では何の力にもなれそうにない、覚悟はしていたが長くなりそうだと少し気が重くなる。慣れない状況に居心地の悪さを感じていたのだ。
先頭を歩く彩華は内面はともかく、外見は華の女子大生そのもの。黒縁眼鏡が理知的で身長は低いがそれでも大人の女性らしさを感じさせる。
それについて行くアイネ。彼女は女性にしては高身長で何よりその蒼い髪が目立つ。顔を上げて歩けばその姿は凛々しさと気高さを感じさせ、三人の中で最もスタイルが良い。俗に言う出る所が出て、引っ込む所は引っ込んでいる。
そして自らの隣を歩くアイリス。人形のように整った顔立ちだが、マントで全身が隠れたその姿は決して見惚れてしまう美しさはない。外見年齢で言えばこの中で最も低いだろう。だが――
(……何を分析してるんだ僕は。これじゃ不審者もいい所だ)
脳裏に思い浮かべたアイリスの微笑を頭を振って霧散させ、気を取り直す。
自身が彼女たちと比べて見劣りする事は自覚しているが、そもそもただの付き添いなのだ。後ろめたい事はない。
「まずは此処! 私はあまり利用しないけど、アイネちゃんにはきっとぴったりだと思うんだ!」
やがて辿り着いたのは詠歌が勝手に想像していたファンシーなイメージはあまり感じさせない、落ち着いた雰囲気の店だった。もっとも、中に飾られる服は詠歌から見ればファンシーどころかファンタジーの世界のようだったが。とりあえず抱いた感想は流行の最先端を行ってそう、だった。
「覚悟しておけ」
「え?」
神妙な面持ちでアイリスが口を開く。今日一番の真剣な表情だ。
「……長くなるぞ」
経験者は語る。アイリスが彩華を頼った時には着せ替え人形のようにとっかえひっかえしながら何時間も掛け、何件も周り、ようやく決まった。それは双方が納得するコーディネートになったが、服装に拘った事などないアイリスにとっては疲労も相当だったのだろう。
「私の知る限り、最も話の長い
まさに戦々恐々。
「……あのさ」
「なんだ」
店の外から彩華たちを眺めながら、詠歌が躊躇いがちに口を開いた。
「今更だし、ほとんど一瞬しか見てなかったし、君はいつもそのマント姿だから言っても説得力ないかもしれないけど」
「うむ」
「……現代の服装も、似合ってるよね」
誰に同意を求めてるんだ、と内心でツッコミつつもそれが詠歌の精一杯だった。せめてその言葉に彼女が照れでもしてくれれば救われたのだが。
「なんだ、そんな事か。当然だろう。悪とは醜くもしかし抗い難い魅力を放つ者。であればこの私が着こなせばどんなものであれ輝くものだ」
当然であるとばかりに片手を挙げて得意げにアイリスは語る。詠歌の言葉程度では彼女の気を乱す事は出来そうもない。
「だがまあお前がわざわざ口にしたのだ、その賛辞受け取っておこう」
むしろ照れるのは詠歌の方だ。らしくない、と後悔する。アイリスと出会ってからはらしくない事ばかりだ。
「行こうか」
それを隠す様に詠歌は服を見繕う彩華に近づいて行った。
「これなんてどう? 似合うと思うよっ?」
「いや、だから私は……」
「詠歌君はどう思う!?」
そうして彼女たちの日常は過ぎていく。それぞれが少しずつ、これが今の日常なのだと受け入れながら。
ただ一人、アイネ・ウルタールを除いて。
◇◆◇◆
それから二時間程。詠歌たちは待ち合わせていたフードコートへと戻っていた。それぞれが袋を持っている、満足のいく買い物が出来たらしい。
「連れ回しちゃってごめんね」
「……いや、私は施されている身だ。感謝します」
「そんな固くならなくていいのに。私が好きでやってるんだから。詠歌君とエリュンヒルテ様も、少しはしゃぎすぎちゃったかな?」
買い物を終えたからか、その自覚が芽生えたようだ。
「前と比べれば何てことはない。それに他人のを眺める分には愉快なものだ」
そう言うアイリスも再び着せ替え人形と化していたのだが、前回と比べれば早く済んだようだ。
「ええ。気にしないでください。僕じゃアイリスの服を選ぶなんて出来ませんし」
「これだけ見て回れば現代の事情も大体は把握した。もうお前の手を煩わせる事もない」
「いえいえそんな! むしろまだまだ選び足りないですから! 買いに行く時は誘って下さいっ」
「……考えておく」
アイリスの顔が引きつる。本当に大変だったんだな、と察するには十分だった。
時刻は夜七時を回った所だ。そろそろ帰ろうかという空気の中、詠歌が提案する。
「会長、夕食の準備は済んでますか?」
「ううん、外で済ませようと思っていたから」
「なら一緒にどうですか? 色々なお礼も兼ねてご馳走します」
「気を使わなくてもいいのに……でもそれで君が気兼ねしないならお言葉に甘えるよ」
やはり彩華は詠歌が服の代金を払う事を了承しなかった。ならせめてと食事に誘ったが、根負けしたのか彩華はそれを受け入れる。
「あ、そうだ。それなら一度行きたかったお店があるんだ。其処でいいかな? そんなに遠くない洋食屋さんなんだけど」
「はい。いいよね?」
「私が口にした事がない物も当然あるのだろう? なら構わんぞ」
外食で詠歌の作る食事に対するハードルが上がられても困るのだが、それに応える為にも購入した本を読み込む事を決める。どうせ趣味もないのだから良い機会だとして。
「アイネちゃんもいい?」
「……ああ。すまない」
結局、アイネの表情が綻ぶ事はなかった。彼女の性格を思えば無理もない事だった。
(アイネが会長と行動を共にするのは罪悪感からなんだろう。施しを受ける度、優しくされる度にそれは強くなる。でもそれが会長の願いだから逃げ出す事も出来ない……その実直さは美徳だろうけど)
この数時間、アイネと行動を共にして詠歌にはそう感じた。その事に彩華も気付いているはずだ。人の機微には詠歌よりも彩華の方が敏い。それでも尚、彩華がアイネを一人にしないのは恐らく。
(逃げ出した所でそれはすぐに追いついて来る。自分で自分を許せない限り、一生抱え続けるしかない。会長はそれが嫌なんだ。……会長は多分、そういう人だ)
もうアイネ自身に危険はない。なら詠歌が口を出す事もない。詠歌の中ではアイネとの因縁はとっくに解消されている。それを見守るのは彩華の方が適任だ。
「それじゃ、行こうかっ」
彩華の先導でショッピングモールを出て、夜の街へと繰り出す。車通りは多いが、歩行者はまばらでほとんどいない。住宅地から多少離れたこの場所の周辺を訪れるのは車かバスがほとんどで、詠歌も歩いて来た事はない。彩華の目指す店が何なのかは見当もつかなかった。
「たまたま見つけたんだけど、お洒落な外観で一人で入るには気後れしちゃって」
「サークル活動中は何処にでもずかずか行ってますよね」
「それとは別なのっ」
道すがら、言葉を発するのは主に彩華。それに詠歌が応え、時折アイリスが相槌を打つ。アイネは一言も発さない。彩華がいなければ無言だったのは間違いないだろう。彩華の明るさに助けられ、気まずい空気が流れる事はなかった。
(僕も少しは見習った方がいいよな)
自宅での無言の空間を思い出し、詠歌は反省した。
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