二章
①
二月。立春を迎えたとはいえ、太陽が昇っていてもまだまだ肌寒い。窓の外、山の方角から小鳥の囀りが聞こえてくる。それを掻き消すように目覚めを促す時計の電子アラームの音が部屋に響いた。
「……」
それを鬱陶しそうにすぐ止め、布団の中で眠気と戦い、今日も勝利した詠歌は体を起こした。春眠暁を覚えず、まさにその通り。内心で至言であると感心しながら、布団を畳み、着替えるとルーチンに従って寝室の二階から一階へと下りていく。
キッチン、というよりは昔ながらの台所に向かい、昨夜の内にセットした炊飯器が稼働しているのを確認してからポッドのスイッチを入れる。コポコポと音を立てるそれを何の気なしに眺めながら、朝の献立を脳内で反駁する。
(料理とか、別にそんなに覚えるつもりなかったんだけどな)
基本的に炊く、炒める、茹でる、そのまま、程度の料理とも言えない食事をしてきたが、最近は必要に駆られて、というよりかはあんまりに杜撰な食事を『非科学現象証明委員会』会長である彩華に知られると間違いなくお説教がなされる事が確定しているので、それを避ける為にレパートリーを増やしている最中である。
冷蔵庫を確認し、予定通りの献立が可能だと判断してその下準備を始める。といっても大した物ではない、鮭の切り身に塩をまぶしておく程度だ。味噌汁はインスタント、野菜は昨晩カットしたものにドレッシングを掛けるだけだが流石にその辺りは男の料理という事で許してもらいたい。同居人からも不満は上がっていないのだし、夜はもう少し手を掛ける。自分への言い訳なのか、彩華への言い訳なのかは分からないが、そう弁明する。
湧いたお湯をこれまたインスタントのコーヒーに注ぎ、カップを片手に縁側へと出る。酷く寒さを感じたが、目を覚ますには丁度良かった。縁側から広がる景色は山と田園風景だけで見ていて面白いものでもないが、それも毎日の事だった。
「ん……もういいかな」
頭部に巻かれていた包帯を解き、傷の具合を確かめるともう痛みも傷跡もない。本来ならもっと早くに解くつもりだったが、それも彩華が許してくれそうになかったので今日まで延びていた。しかし頭部に包帯を巻いていれば多少なりとも他人の視線を感じて居心地の悪さを感じていたので、それから解放されると思うと気が楽になる。
「ふぅ……」
朝靄の残る中、コーヒーを啜っていると家の中から物音が聞こえた。古い家だ、誰かが扉を開ければすぐに分かる。そしてこの家には詠歌以外には同居人が一人居るだけ。正体は知れていた。
気配が縁側に近づいているのを感じ、そちらに顔を向けるが、すぐに背けた。
「着替えてから出てきてっていつも言ってるよね」
「ん……そう言うな」
目を擦り、まだ半分夢見心地の同居人が詠歌の背後に立つ。マントを肩から羽織ってはいるが、その内側は開き、覗くのはネグリジェ一枚。決して凹凸に富んだ肉体を彼女は持っていないが、だからといってそれが許されるわけではない。
詠歌の苦言を聞き流し、手からカップを奪うとそれに口をつけるが、すぐに表情を歪めた。
「マズイ」
「勝手に人のを飲んでおいて文句言わない。口つけたなら最後まで飲んでよ」
「むぅ」
互いに不満気な表情を浮かべる二人の住人――詠歌とアイリスが共に暮らし始めて、一週間が過ぎようとしていた。
◇◆◇◆
朝食の用意を終え、二人が食卓に向かい合わせに並ぶ。見慣れ始めた毎朝の光景だ。
「いただきます」
「いただきます」
以前、彩華と食事を共にしてから二人はどちらからともなく手を合わせ、そう口にするようになった。詠歌は妙な気恥ずかしさを感じていたが、アイリスはそれが当然と思っているのか、何の躊躇いもない。
「それで、今日は君はどうする?」
食事の手を止めず、詠歌が問いかけた。
「彩華とあの狂信者か」
「うん。講義が終わってから、ショッピングモールで待ち合わせ」
数日前から約束していた買い物の予定。詠歌とアイリスのように同居しているアイネを外に連れ出す為の、彩華の発案だった。
詠歌とアイリス、彩華とアイネ。そして北欧の
「会長は君とアイネに和解してもらいたいんだと思う」
「
北欧神話に属する
「奴の狂信を受けていたあの男が死んだのはシグルズが私を追って来たからだろう。逆恨みとも言えるが、その憎悪を否定はせん」
アイネが唯一絶対の信頼を置いていた男はアイリスを追う
「会長はアイネの事も君の事も、同じように好きなんだ。だから仲良くしてほしいんだろうね」
「くくくっ、強い女ではないか。私と狂信者の正体を知りながらそう口に出来るとはな」
「僕としても出来るならそうあってほしいよ」
彩華のような優しさと博愛精神ではない。詠歌が危惧しているのはアイネが獅子身中の虫となり、再びアイリスに敵意を向ける事だ。『ウルタールの猫』が消滅したとしても、まだ安心は出来ない。
「お前の心配は無意味だと思うがな。奴の牙はもう抜けている。だが彩華の願いであれば応えるのも吝かではない。借りも残っているからな」
「……そういえば今更なんだけど君の服のお金って」
一度、姿を消したアイリスは装いを新たにして再び詠歌の前に現れた。その時は頭が回らなかったが、今になって思う。目の前に座る北欧神話の悪性、
「頼むまでもなく彩華が用意した」
「やっぱり……! ああもう、どうして忘れてたんだろう……」
「気にするな。彩華もそう言っていたぞ」
「気にするよっ」
彩華はお金を渡しても素直に受け取ってはくれないだろうから、今日の買い物でどうにかして返さなくては、と決心する。
「返す当てもある。もう少し待っていろ」
「ニュースになるような事はしないでよ……」
「ええい、あまり無礼な事を言うな。私とて地上の常識は学んでいる」
詠歌が大学に行っている間、何処かに出かけている様子があるのは知ってはいたが、一体何をしているのか。別にアイリスの行動を縛り付けるつもりはないが心配してしまう。彼女の身ではなく世間体をだが。
「ともかく彩華の誘いだ。狂信者がどんな反応を見せるかは知らんが、乗ってやろう」
「分かった。なら講義が終わったら迎えに来るよ。会長もアイネを迎えに行って、現地集合だから」
「ああ」
そこで会話は途切れ、無言の食事へと戻る。実の所、再会した二人の間に会話はそう多くない。アイリスから話掛ける事もあるし、詠歌が声を掛ける事もある。それを無視する事もされる事もないが、会話が弾むという事もなかった。
(気まずい、というわけじゃない。けど会話もなしに一緒に居て気楽な程、互いを知ってるわけでもない)
結局、詠歌は距離感を計りあぐねているのだ。出会いは唐突でそんなものを気にする事もなく、近付くつもりもなかった。しかし今は違う。彼女との再会は言葉にしなかっただけで詠歌も望んでいた。だがいざ再会してみればどうだろう。一体どうすればいいのか、まったく分からない。
(アイリスにとって僕は自分が選んだ勇士なんだろう。でも僕にとって君は……何なんだろう。落ち着いて考えると逆に分からなくなる)
答えを急ぐ必要はない、そう自分に言い聞かせながらも答えが出ないと落ち着かない。何とも言えないむず痒さを詠歌は感じていた。
「おい、詠歌」
「ん、なに?」
思考に耽る詠歌をアイリスが睨む。
「……あまりジッとこちらを見るな。流石に落ち着かん」
「あ、え、ごめん」
またも会話が途切れる。
(……なにこれ。何をやってるんだ、僕?)
勿論答えが返って来るはずもなく、詠歌は自己嫌悪に陥る事になる。まだまだ彼らにとって適正な距離を見つけるには時間が掛かりそうだった。
◇◆◇◆
一時間目の講義を終え、次の講義までは間が開く。当時の自分が何を考えて時間割を組んだのかは覚えていないが、ここ数日はこのパターンが続いている。昼食には早すぎる時間に自然と足は部室棟に向いていた。
大学公認サークルである『非科学現象証明委員会』には部室が与えられているが、それを使うのはほとんど二人だけだ。かといって二人だけで公認されるはずもなく、実質名前だけのメンバーが多数存在している。勿論禁止されている行為である。
品行方正、とはいかないまでも間違いなくお人よしの良識人である彩華がそれを良しとしたのは意外であった。それだけサークル活動、非科学を証明する事に熱意を燃やしているのだろうが、それだけの熱意があれば大学公認でなくとも十分活動できると思うのだが。
そう思いながら、詠歌が向かったのは『非科学現象証明委員会』の部室ではなく、部室棟に隣接した道場である。
一礼し、道場内に入ると目的の人物はすぐに見つかった。道着姿で黙想をしていた彼が目を開く。
「おお、また来たのか久守」
「おはようございます、
詠歌の在籍する大学唯一の剣道サークル、その主将を務めているのが熊切と呼ばれた男だ。何に似ていると聞かれたらほとんどの人がゴリラと答えるような恵体の持ち主、高校時代には全国区の選手だったらしい。学年は詠歌の二つ上、四月で四回生になる。
彼と詠歌が知り合ったのは学食での相席がきっかけで、顔を合わせれば会話する程度の仲ではあったが、道場で会うようになったのはつい最近の事だ。
「お邪魔してすいません」
「邪魔なんかじゃねえさ。暇さえあれば道場に来るが、やっぱ一人は寂しいんだよ。活動は最終授業が終わってからだからな」
バンバンと詠歌の肩を叩いて笑う熊切。彼にとってはほんの挨拶だろうが、詠歌の肉体には重く響く打撃だった。
「今日もやるか?」
「はい、後二時間は暇なので」
「そうかそうか! 俺は後四時間は暇してるぞ!」
流石にそれは経験したくないので来年度はもっと時間割を考えようと決め、詠歌は手渡された道着に着替え、防具を身に着けていく。
「久守のおかげで今更になって教える楽しさが分かったよ。高校時代は自分で精一杯だったし、大学になれば経験者がほとんどだからな。お前みたいに一からの素人を相手にした事なんてほとんどなかったから」
「僕も今更剣道を始めるなんて思っていませんでした」
聖剣を握る事になるなんてもっと思ってもいなかった、と詠歌は内心で呟いて竹刀を構える。
「前にも聞いたが何で剣道なんだ? 汗を流すにしても他にスポーツはあるし、剣道やったからって喧嘩が強くなるわけでもないぞ?」
「ちょっと憧れただけです。甘い考えですけど」
「がっはっは! 憧れか! けど道場は臭いし防具も臭い、侍に憧れて始めるのは間違いだな! けどこうして続けてるんなら、理由なんて何でもいいさ。俺も最初は竹刀を振り回したかったからだからな!」
快活な笑い声は同様に防具を身に着けた瞬間に消えた。威圧感が詠歌に襲いかかる。無論、シグルズのような圧倒的なものではない、だが勝ち目がないと思い知るには十分すぎるものだった。
「審判はいない。お前のタイミングで来い」
「……はい!」
一礼の後、道場に満ちるのは威圧感だけではない。武道特有の厳かな空気が張り詰める。それは不快なものではない、胸を借りる気持ちで詠歌は先手を取る。
「……め――」
「――胴ッ!」
詠歌が声を発するよりも速く、竹刀が振り下ろされるよりも速く、熊切の竹刀が詠歌の防具を打った。防具越しであっても体の内に響く一撃。その威力に面の下で顔を顰めてしまう。
「次ィ!」
「はい!」
これで何かが変わると詠歌は思っていない。自分が剣道を学ぶなど冒涜であるとさえ思っている。それでも何かをせずにはいられなかった。
それはシグルズに敵わなかった無力感故か、それとも彼女に相応しいと誇れる何かを求める故かは分からない。それを忘れ、ただ無心で一時間以上、熊切に挑み続けた。
一度も一本に値する打突を打ち込む事も出来ないまま、熊切が防具を外す事で終わりを告げる。
「この辺りにしておこう」
「はぁっはぁっ……ありがとう、ございました!」
「おう! 元気で良い!」
今にも倒れ込みたかったが、礼を失するわけにはいかないと声を張り上げた後、詠歌が座り込む。
「お疲れさん、根性は立派だな。もっと早くに始めてたらいい所いけたかもしれないぞ?」
「……多分、続いてませんよ……」
息も絶え絶えにそう返し、脱ぎ捨てるように防具を外す。顔から湯気が噴き出るような錯覚を覚えた。道場を通り抜ける冬の風が心地よく感じる。
「また時間が空いたらいつでも来い。他の皆にも伝えてある」
「はい……またお願いします」
「この後の講義は辛いぞぉ?」
「ですね……シャワー、借ります」
いつも以上に言葉少なに詠歌は再び一礼し、道場から出ていった。熊切はそれを見送り、また同じように黙想へと戻る。
頼み込まれた時は意外に思ったが、やる気は十分。物静かなタイプ、悪く言えば暗そうな人間かと思ったが気合は充実している。面白い対戦相手が手に入った、と熊切は表情を緩ませた。
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