⑮
夕暮れに染まる部屋、部室棟の二階にある『非科学現象証明委員会』に一人、詠歌は佇んでいた。
窓から見えるグラウンドにはより建設的な活動に励む学生たちの姿が見える。暫くそれを眺めていたが、やがてカーテンを閉めて椅子に座った。
二日連続のオーロラ、あの夜から二週間。手の平の傷は癒え、それ以外の傷も大げさな包帯は必要なくなった。
(全部が元通りってわけじゃないけれど)
テーブルに置かれたタブレットを使い、あのオーロラについて検索を掛けると一部では未だに騒がれているが、既に過去の出来事に変わっている。月が変わる頃には完全に忘れ去られているのだろう。
(……そういうものだ。結局、僕も忘れていく。今は鮮明に思い出せる勇者も猫も、時が過ぎれば薄れていく。未だに残った物だけがそれが事実と訴えるだけで)
全てが終わり、残った物。彼女が残した聖剣と柄に埋められた魔槍の穂先。それは申し訳程度に布で刀身を包まれ、詠歌の家に転がっている。処分など出来るはずもなく、しかし握る事も出来ずに。
そしてもう一人、残された者も居る。
詠歌に剣を向け、大切な者を奪われ、憎悪によって『ウルタールの猫』と化した彼女。アイネ・ウルタールは今、彩華の下に身を寄せている。詠歌が最後に彼女とあったのは全てが終わったあの日だ。
意識を取り戻し、現実を理解した彼女は自らの殻に閉じ籠り、一言も発さなかった。そんなアイネを彩華が放っておけるはずもなく、共に暮らし始めている。賛成は出来なかったが、『ウルタールの猫』の力を失ったであろう彼女なら、と詠歌も納得した。
彩華によれば彼女は徐々に回復しているらしい。それは彼女自身の強さであり、共に過ごす彩華のおかげなのだろう。日常生活を送れる程には回復したらしく、今日は久しぶりに活動を行うと彩華から連絡があった。
(その割には遅いけど、今度は何を始めるつもりなんだろう)
北欧神話と
しかしそれから三十分程待っても彩華は現れない。まさか、と嫌な予感を感じ始めた時、スマートフォンが着信を告げた。
「もしもし」
『もしもし、詠歌君!』
電話口から聞こえてくる彩華の声は変わらない明るさを感じさせる。どころかアイネの様子に何か進展でもあったのか、いつも以上に感じる。彩華の笑顔が目に浮かぶようだった。彩華の声音に安堵し、何かあったのかと問い掛ける。
『ごめん! 用事が出来てしまって今日は行けそうにないんだ!』
「そうですか」
そういうつもりで訊いたわけではなかったが、わざわざ問い返す事でもない。訂正せず、彼女の言葉に耳を傾けた。
『でもアイネちゃんも元気になって来たし、これからは今までみたいに活動していくから!』
「分かりました。……何か予習は必要ですか?」
会話を交わしながら、視線を本棚へと向ける。其処には彩華が集めた様々な書籍や彼女が記したレポートが収められている。今までは時間潰し程度にしか読んでいないが、久しぶりの活動となれば、少しは精力的になってもいいかもしれないという気まぐれだった。
『あはは、私が知識をひけらかす機会を奪わないでくれたまえ。今まで通りで構わないよ、君が来てくれるならそれで十分だ』
「なら今まで通りで」
『もう少し食い下がってくれてもいいんじゃないかな!?』
所詮は気まぐれ、あっさりと引くとそれはそれで不満そうな声が返って来る。変わらない彼女に日常を感じ、詠歌の表情が綻んだ。
『まったくもう。まあとにかく、今日はもう帰りなさい。寄り道しないで真っ直ぐ帰るんだよ? 君もまだ本調子じゃないんだから』
「僕は大丈夫ですよ。傷ももう大した事ありません」
『前にも言ったと思うけど、君はもう少し自分を労わる事を覚えた方がいいよ、詠歌君』
「別に、無理をしてるつもりはないので」
それから二、三、言葉を交わし、彩華との通話が終わる。
(心配、されてるんだろうな)
出来る事ならそれはアイネだけに向けてほしい、と願いながらもそれを口にするのも失礼だと伝える事はしない。
「……本当に、無理をしてるつもりはないんだけど」
全ては終わった。もう取返しのつかない出来事を引きずっていても仕方がないと理解している。
(そう言っても説得力がないか)
理解と納得は違う。自分が今感じる感情は、きっとまだ納得できていないからなのだろう。
(この感情を、感覚をなんて言えばいいのかも分からない)
あの日、
如何なる理由かは詠歌には想像もつかない。彼女の言う通り、詠歌はまだ彼女を知らなすぎた。いくら虚勢を暴いたところで、その裏にある本心全てを覗いたわけではない。
(……君はあの結末にも納得がいかなかったんだろうか)
シグルズに見逃された事が許せず、その後を追って天上へと帰還したのか。それとももしかすると詠歌とは別の、新しい勇士を探しているのか。
彼女の約束した再会も、信じる事は出来なかった。
◇◆◇◆
大学を出て、詠歌は言われた通り真っ直ぐに家へと向かう。ただ何となく普段使っているバスを使わず、自らの足で歩いて。
週末という事もあるのだろう、夕方の街はいつも以上に賑わいを感じさせる。
もしもあのまま『ウルタールの猫』が本能のままに暴れ続けていたら、こんな光景もなくなっていたのだろう。そう思っても自分のした事を誇る気にはなれない。今となっては後悔はない、けれどそもそもそんな実感も湧かないのだ。
(誰かを守りたい、誰かの為に戦いたい。それが出来るなら、そう思っていたけど)
こうして現実を見れば、それが出来たかどうかも分からない。
(でもこうやって平和に時が過ぎていくなら、きっとそれが一番の幸福なんだろう)
意識できない程の平和な日常。失って初めて気付くというのなら、そんな瞬間は永遠に来ない方がいい。
人の流れに乗りながら、視界に入る日常を渡っていく。
やがて人通りの多い中央区を抜け、北区へと入る。そんな時、バサッという羽の音が聞こえた。
「……」
ついその音の出所を目で探せば、電信柱に止まった二羽のカラスが何処かに飛び立っていくのが見えた。
風にのり、抜け落ちた黒い羽根が地面へと落ちる。
(……うん、こんなんじゃ心配されても仕方がないな)
頭をがしがしと掻き、思わず溜め息が出た。あんな事があっても口先だけなのは変わっていないと自覚する。
カラスを追った視線の先には
しかし人が踏み入れる事はほとんどなく、詠歌にとっては今までと何も変わらなかった。
唯一の死者の存在も誰に知られる事なく、行方不明として扱われるのだろう。いや、もしかしたら元々そういう扱いになっていたのかもしれない。
サエキ。
(同類は僕の方だ。君があの男に自分を重ねたように、僕も自分を重ねた。あれは同族嫌悪だったんだろう)
あの場、一度限りの会話。それぞれがそれぞれの仮面を被った、嘘吐きしか居ない集会。そう考えれば納得もいった。保身の為、己の欲望の為に嘘を重ねる、それは詠歌も同じだった。
(……もしも今、あの男に会ったらどう感じるのかは分からない。やっぱり、嫌悪するのかもしれない)
しかし、それでもサエキはアイネにとっては唯一最大の希望であり、拠り所だった。その死を知り、完全に人を捨ててしまう憎悪に囚われる程に。己の内に宿る邪神が死んでも、その憎悪は簡単には消えないだろう。
(……僕はアイネにとってのサエキのようにはなれなかったんだろうか。なんて比べる意味はないけれど)
無意味な考えだとその思考を追い出し、詠歌は歩き続ける。そんな思考に囚われてしまえば彩華にまた心配をかけてしまう。戻りたいと願った平穏な日常が目の前にはある。後は自らが其処に足を踏み出さなければならない。立ち止まっていてはいつまでも本当の意味で戻る事は出来ない、と。
◇◆◇◆
自宅が見えて来る頃にはすっかりと陽も落ちていた。空には三日月が浮かび、街灯の少ない田舎道を照らしている。
予想よりも遅くなった時間に、僅かに後悔した。明日も朝から講義が入っている、午後には今度こそ『非科学現象証明委員会』の活動が待っている。
夕食の準備と風呂の支度、作り置きの食事はまだ残っている、風呂はシャワーだけでいいか、と帰宅後の予定を組み上げながら進む詠歌はやがて、あの夜、初めて彼女と出逢った雑木林に差し掛かる。
それを意識しないように努め、かつてのように何の気にも留めず、其処を過ぎた。
その通り過ぎ様、再び羽の音が詠歌の耳に届く。
「……またカラスか。最近増えでもしたのかな」
自分に言い聞かせるように呟いて、今度は視線を彷徨わせる事も歩みを止める事もしない。家まではもうまもなく、足も疲れた。戻って明日に備えなければならない。
しかし慣れ親しんだはずの田舎道に、流れていく風景の中に、意識しないと決めた其処に、違和感を覚えた。
(……)
立ち止まり、その違和感の正体を探る。同時に感じる既視感。まさか、と詠歌の心臓が高鳴る。
あの夜をなぞるように、詠歌は来た道を戻っていく。懲りないな、と呆れる自分が居る。
けれど、もしも、様々な想像と否定が入り混じり、自らの目で確かめれば済むと結論付けて、その林を覗いた。
そして、其処には――。
「――カラスと一緒くたにされるとは屈辱だな。天上でもそう味わった事のない気分だぞ」
月下。舞い落ちる黒羽の下、消えたはずの彼女が尊大な笑みを浮かべて立っていた。
「アイ、リス……? 君、なんで?」
現実であると一瞬理解が追いつかなかった。あれだけ意味ありげな立ち去り方をした彼女が、此処に居るはずがないと。
しかし彼女は其処に居る。擦り切れた黒いマントに身を包み、当然であるかのように我が物顔で。
「妙な事を。また出逢うと言ったではないか」
「いや、確かにそう言ったけど……むしろこんなに早いなら一体なんでいなくなったのさ!?」
尤もな詠歌の発言に、アイリスは肩を竦める。別れ際の発言など覚えていないとでもいうような、相変わらずの態度だ。
「衣装変えと野暮用だ。この国では郷に入っては郷に従え、と言うのだろう?」
その言葉の通り、くるりと回って見せたアイリスの揺れるマントの内側は、現代的な衣装に包まれていた。
細部までは見えかったが、所謂パンク系とでも言うのだろうか。田舎道の黒マントというのもアレだが、正直その格好もあまり似付かわしくない。似合っていないわけではないが。うん、特に一瞬でもはっきりと見えたでっかいどくろマークとか良く似合ってるよ、うん……などという感想を詠歌は抱いた。
「とはいえ少しばかり疲れた。彩華の奴が人形か何かのように着せては脱がせてを繰り返すのでな。まずは湯浴みがしたい」
アイリスの口から出た名前に道理で
「……はぁ」
様々な感情を孕んだ大きな溜め息を吐き、意気揚々といった面持ちで先を歩くアイリスを追いかけるように歩き出す。あまりにも呆気のない再会。変わらない会話。それだけで詠歌の内にあった言いようのない感覚は消えていた。今ならそれが何なのか、考えれば答えが出るような気もしたが、解消されたのなら考える必要はないとした。
だが数歩歩いて、立ち止まる。一つだけ、必要なものがあった。
アイリスは郷に入っては、と口にした。なら渋々ではあるが、詠歌も口にしなくてはならないだろう。たとえどんなに呆気のない再会だったとしても。
躊躇いながら、小さく、聞こえるかどうかの声量で詠歌はその言葉を音に乗せた。それは多分、彼女の為であり自分の為の言葉。この国では当たり前の、ありふれたものでも詠歌が口にするのは久しぶりの言葉を。
「――おかえり、アイリス」
風に流され、夜の闇に消えていくその言葉が届いたかは分からない。
しかし美しい黒髪とマントを靡かせながら振り向いた彼女は月明かりに照らされる中、あの夜に一度だけ魅せた笑顔で彼に微笑んだ。
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