⑫
サエキという男は
彼もまた無数に存在する教団の一員であり、信奉者だった。
司祭が見せた人ならざる力、人を越えた力に魅せられ、それを求めて祈りを捧げていた。だか彼は見返りのない祈りを捧げる事に耐えられなかった。
彼が求めたのは宗教という拠り所ではない。物語として語られる神話の探求者たちの多くが求めたように、力を、叡智をこそ
人生の多くを邪神崇拝に捧げ、けれどその見返りは与えられない。そんな彼が偶然、アイネという司祭に、新たな教祖にすら成り得る器と出会った時。アイネこそが自らに与えられた力なのだと思い上がるのは当然だった。自分こそが怪物を従える程の力を持つ『星の戦士』なのだと。
彼女を己の眷属として扱い、司祭の位まで上り詰め、ついには神託を受けた。
そう信じ、アイネを差し向けたサエキの末路は呆気のない死。
善悪も分からぬ少女を手駒として洗脳し、己の道具として扱った男には相応しい末路だと、誰かは言うだろう。
信仰する神がなんであれ、
(――それが、なんだというんだ。私を人間にしてくれたのは司祭様だ。私に人の温もりを教えてくれたのは司祭様だ。私に家族という夢を見せてくれたのは司祭様だ。私の全ては、司祭様に与えられたモノだ)
誰が何をわめこうと、アイネにとって善とはサエキであり、正義とはサエキの事だ。
北欧の
いいや、もはや他者の善悪などどうでもいい。自らが唯一と信じる者は既にいない。
「……ならば私は、殉じるだけだ」
ぽつりと呟かれたアイネの言葉に、彩華が心配そうに顔を覗いた。
「アイネちゃん……」
「最後の忠告だ。あなたたちは此処から離れろ」
「……出来ると思う?」
シグルズの生み出した結界。アイリスが開けた裂目も既に閉じている。此処から逃げ出す事は詠歌たちには不可能だ。
それが出来るのは、今も戦い続けるアイリスとシグルズ、そのどちらかしかいない。今の自分たちに出来るのは、その戦いを見届けるだけだ、と詠歌は自身に言い聞かせていた。
「いいから逃げろ。死にたくはないだろう……忠告はした」
無表情にそう言い捨てた瞬間、拘束されたアイネの肉体から、黒の瘴気が滲み出るように溢れ出す。
(ああ、『クタニド』よ。平和を謳う旧神、どうしてあなたはあれ程に信仰を捧げたあの方にではなく、私に獣を授けたのか。私にはもう、あなたすら憎らしくて仕方がない)
アイリスが狂信者と評したその信仰が今、解放される。
「アイネちゃん!」
その瘴気はアイネの肉体を覆う。手足の拘束がぎちぎちと音を立てて軋む。瘴気を纏い、膨張していくアイネの肉体に食い込み、赤い血潮がコンクリートの地面を濡らす。
彩華の悲痛な呼び掛けも、最早彼女には届かない。
「会長、離れて!」
彩華を庇い、前に出た詠歌の目の前でその拘束が弾けた。
『GAAAAAAAAA!!』
それは世界全てに轟かんばかりの咆哮だった。それは世界全てを覆いつくさんばかりの憎しみだった。それは、世界全てを喰らい尽くしそうな程の、憎悪の獣だった。
一度目は影。二度目は雷雲。そして三度、憎悪という感情で構成されたカラダを持って、獣が詠歌の前に姿を現す。
それは
◇◆◇◆
彼女たちは空を駆る。天上に生きる彼らにとって、空も地も意味はない。己が駆けるその場所こそが戦場なのだ。
「思えば貴様と刃を交わすのはいつ以来だろうな! 貴様はいつからか
「己の役割を完全に捨てたか、
「私は地上に染まり、地上でしか生きられぬ! いいや、この地上にすら私の生きる場所はない!」
「それを理解して尚、帰るべき天上への帰還を何故拒む!」
飛来する剣、槍、鎖、鎌、その全てを一刀で破壊し、シグルズはアイリスと斬り結ぶ。竜の血を浴び、不死を得ても彼の戦い方は変わらない。向かって来るモノを斬り捨て、己の愛剣で両断する。
「仕方あるまい! 私は最早、装置としては完全に壊れている! ならば私は装置としてではなく、唯一無二の
「貴様が帰還を拒むのなら、破壊しろ――それが天上から新たに下った使命だ」
「やってみせるがいい! 私を、殺してみせろ!」
眼前へと迫ったグラムを受け止め、アイリスが叫ぶ。
ただの魔術武装は歯が立たない、グラムを受け止めたのは両手に握った双剣、そのさらに二つ重ね。
「私には貴様らのような名立たる武具はない、そんなものは与えられなかった! 宝物殿から奪った聖剣とて、私の望んだ力はない! 私は己の魔力と血を以て、貴様に歯向かおう!」
罅割れていく四本の双剣でシグルズを押し返す。その瞬間に双剣全てが砕け散った。
押し返され、吹き飛ぶシグルズは体を反転させ、マンションの壁面へと着地する。それを追うように、アイリスの手から新たに生み出された槍が投擲される。
「ならばオレは歯向かう貴様を斬り捨てよう」
「ちっ!」
槍がシグルズを貫くよりも早く、マンションの壁を踏み台代わりにアイリスへと肉薄する。交差した槍が頬に一筋の傷をつけるが、不死の肉体により一瞬にして治癒された。
「ぐっ!?」
アイリスを襲ったのはグラムの刃ではなく、柄頭。宝玉によって彩られたそれがシグルズの腕力によって振るわれればこの地上で最も凶悪な鈍器と化す。
顎を打ち上げられる事は避けたが、僅かに掠っただけで吹き飛ばれそうになる。次いで振り下ろされる刃を再び生み出した二重の双剣を用い、眼前で受け止める。
「ぐぅぅぅぅうううう!」
その威力に地上へと落下しそうになりながら、足元に生み出した魔法陣を足場とする事で踏み止まる。
「貴様は戦いを理解していない」
「ぎっ!」
冷たく言い放つシグルズの鎧に覆われた膝がアイリスの腹を打った。何の対応も打てず、アイリスの口から短い悲鳴と血液が噴き出す。
「たとえ神話に謳われる武具を持っても、それを扱う者が強者でなければ何の意味もない」
耐え切れず、今度こそアイリスは地上へと落下していく。
(ああ、貴様にとって私は弱者だろう。倒される悪として生み出された私では決して貴様には届かない)
そんな事は分かっている。
「驕るな
「ぬっ……!」
アイリスを見下ろすシグルズの体が、アイリスを追従するように地上に向かって引っ張られる。足を覆う鎧にいつの間にか鎖が巻き付き、アイリスへと通じている。
シグルズへと啖呵を切ったその時から、アイリスはマントの内に鎖を巻いていた。それを盾に膝蹴りを防ぎ、無防備にも己に触れたシグルズの鎧へと巻き付けた。
「ブリュンヒルテ同様、詰めが甘い! いつまでも私を見下ろすな!」
「……!」
鎖を引き寄せ、地上へと落下する直前、二人の位置は逆転した。落下の衝撃が轟音と土煙を上げるが、それはシグルズの振るったグラムとアイリスの翻したマントですぐに霧散する。
「私は貴様らとは違う……何度殺されようと、何度だって殺し返して来た!」
「
鎖の上からでもアイリスにダメージを与えたシグルズと違い、アイリスの反撃ではその肉体を傷つける事は叶わない。だが、ついにシグルズの鎧にアイリスは傷を刻み込んだ。
「如何に足掻こうと、この戦いの結果は見えている。お前に勝ち目はない」
「そうだろうとも。だがその結果に至るまで、お前は何度土を着ける? その煌めく鎧の輝きは最後まで健在か?」
シグルズの言葉をアイリスは否定しない。どう足掻いてもアイリスにシグルズは殺せない。不死の肉体、不死である
しかし、その過程は、解へと至るその途中式は変えられる。きっとそれは理解を拒むような難解な過程を経て、定められた結果へと至るだろう。
(必然の死に後悔はない。後悔する事があるのなら、それはその過程にしかない)
アイリスが後悔するのは今もこの戦いを見ているだろう彼に、無様な戦いを見せた時だけだ。
同時に自分は絶対に納得も出来ないだろう、と理解していた。
(お前が私に魅せた程の勇姿を、私は見せられないだろう。それが私という壊れた装置の限界だ)
だからアイリスは振り返らない。今、彼を顔を見て、どんな表情を浮かべるのか自分にも分からないからだ。
(ああ、こんなにも勇士は私の機能を狂わせるのか。ブリュンヒルテのように、私もお前に狂ってしまったのか)
ただ胸の内がずきずきと痛む。彼という勇士を見定めたその時から、この確定した結末を思う度、胸が締め付けられるように痛んでいた。その痛みが、感情が、何と呼ばれているのか、彼女には分からない。悪意のみを持って生まれた彼女には絶対に理解出来ない。
「さあ、私を殺してみせろ、
それ以上の思考を放棄し、叫ぶ。
再び二人は空中へとその体を動かした。何度もグラムと魔術武装がぶつかり合い、魔力が破片となって落ちていく。
何度もアイリスの肉体が傷つき、その度にシグルズの鎧から輝きが失われていく。
これは確定された結末へと至る、定められた道筋。多少湾曲しようと、至る結末は変わらない。それが当然の結果であり、彼らの紡ぐ神話に記された一篇。
『GAAAAAAAAA!!』
――その在るべき事象すらも覆すモノ。全てを喰らう獣が、彼女たちの神話を侵す。
「アイリスッ!」
「エリュンヒルテ様!」
獣の咆哮に搔き消され、二人の叫びは届かない。
シグルズと斬り結ぶアイリスの背後、突如として獣が出現した。
「っ、
シグルズすらも驚愕し、彼女を呼ぶ。だが遅い。既に獣はその口を開いている。
「な……」
その内に広がるのは黒い憎悪と深淵の穴。それを認めた時には、もう遅い。
投擲された槍も剣も、全ては深淵に飲み込まれていく。気付けばアイリスの頭上も足元も、視界全てが獣の深淵の肉体で埋まっていた。
そして『ウルタールの猫』は
何の言葉も残せないまま、何が起きたのかも理解出来ないまま、
勇者に討たれて滅びるはずの悪は、善悪という価値観すら飲み込む獣に取り込まれ、その物語を終わらせた。
「アイ、リス……?」
不自然な静寂の中、詠歌のか細い声が零れた。
それを聞き取ったのか、『ウルタールの猫』は詠歌を見下ろし、その何も映さない全てが黒の瞳を細め、口をつり上げてニヤリと笑った。
「……違う、アレはもう、アイネちゃんじゃない……あれが、
呟く彩華の体が震える。シグルズの威圧感とは違う、もっと原始的な恐怖によって。アレは捕食者で、この場に居る全てが獲物であると理解して。
今更、自分が関わった非科学がどれだけ強大で異常な物であるかを理解して。
『GRRRRRRU!』
空中である事を忘れさせるような、其処に足場があるような動作で『ウルタールの猫』はそのカラダを一歩引いた。それが飛び掛かろうとしている予兆だと知りながら、彩華の手足は動かない。
「っ、会長!」
内心で渦巻く感情を無視し、詠歌は目先に迫った脅威に対して行動する。しかし出来る事はただ自分の身を彩華の盾にする事だけ。一度は打ち破った実績のある腰の聖剣も、今の詠歌にとっては心許ないとしか感じない。
「いかせると思うか、
二人に飛び掛かるよりも早く、動いたのはシグルズだった。詠歌たちに降り掛かる恐怖など感じている様子もなく、グラムを構えて『ウルタールの猫』の前に立ちはだかった。
「貴様は此処で完全に滅ぼさせてもらう」
そんなシグルズなど目にもくれず、次の標的と定めた彩華に向かって飛び掛かる『ウルタールの猫』を、グラムは真正面から両断する。あっさりと、
「……」
二つに分かれ、地面へと落ちていく残骸には目もくれず、シグルズの視線の先は詠歌を指していた。
「アイネちゃん……?」
水音を立て、地面へと落下した『ウルタールの猫』だったモノはもう動かない。
呆気なく終わった、終わってしまったのだと理解して、彩華は立っている事も出来ずに膝を着く。呆然と残骸を見つめ、アイネの名を呼ぶが、宿主たるアイネの姿が現れる事もなかった。
「これでオレに課せられた使命の二つは果たした。残るは後一つ」
「少年よ、その聖剣を返却しろ」
刃は向ける事無く、しかしその眼光は昨日よりも鋭く詠歌を射抜いていた。
「……
「消、滅……」
「地上の穢れに染まった
「……ああ、そういえばそんな事も言ったっけ」
シグルズの言葉は正しい。何も間違っていない。そう理解しているのにも関わらず、詠歌の手はそれに従おうとはしなかった。
「……それでも尚、拒むのか」
「詠歌君……?」
聖剣を申し訳程度に覆っていたタオルを解き、それを構えた。昨日と同じように、シグルズへと向けて。
「今一度問おう。何故だ?」
「会長、離れていて下さい。彼があなたを巻き込むような事はしなくても、僕にはそんな力はないですから」
シグルズの問い掛けには答えず、彩華の前に進み出ると振り返る事なくそう言った。
「持っていくなら、僕の腕も一緒に持っていけ」
「……愚か、とは言わん。邪悪であると理解しても、その魅力に惹かれるのが人間なのだろう」
詠歌に応じるように、シグルズもまたグラムを構えた。
「少年よ、もう二度と邪悪に魅せられる事がないよう、天上の正義を以て君に掛けられた
シグルズと
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