雨戸を叩く雨音に詠歌の意識が浮上する。外に何か干したままになってはいなかったろうか、そんな事が頭を過ぎり、すぐに消えた。


「っ……!」


 意識を失う前、自分が何をしたのか、何が起こっているのかを思い出し、体を起こす。体は重く、痛みが走ったがそれは無視する。

 暗い部屋に視線を彷徨わせ、此処が自分の家の一室である事を認識した。


「アイリス……?」


 不安げに、母親を探す幼子のような、そんな弱気な声で彼女を呼んだ。


「目が覚めたか」


 返事はすぐに返って来た。声の聞こえて来た方を見れば、部屋の隅でアイリスは膝を立て、気だるげに座っている。

 今までにはない、彼女の雰囲気。それが思い出した詠歌の記憶が嘘ではない事を確信させた。


「アイリス、君は……」

「何も言うな。……私が話すさ」


 立てた膝に腕と額を乗せ、詠歌から視線を逸らしてアイリスが言う。暗い部屋ではアイリスの表情は詠歌からは窺えないが、それでも彼女は詠歌と視線を合わせる事を拒絶しているのだと分かった。


「バレてしまっては仕方がない、という奴だ。シグルズの言う通りの存在だよ、私は」


 自らを嘲るような口調だった。子供が叱られ、開き直るような語調だった。


主神オーディンが創り、勇者エインヘリアルたちに与えた演習装置システム。勇士たちが切磋する為のヴァルハラの備品。戦乙女ヴァルキュリアという雛型に吸血鬼ヴァンパイアという有り得ざる異物を混ぜ込んだ人形ヒトガタ、倒されるべき悪性として生まれた」


 シグルズが語った吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアの真実。それをアイリスが肯定する。


「私の役割は勇者エインヘリアルたちと殺し合う事。いずれ勇者エインヘリアルたちの敵となる巨人のように、大狼のように、悪神のように。幾人もの勇士を殺し、最後には討ち取られる。それを繰り返し続ける事」


 マントを握り締める衣擦れの音が聞こえた。


「ヴァルハラにおいて、死者は日没と共に甦る。殺した者も殺された者も等しく、時が巻き戻るように。だが記憶は残る。ああ、覚えている。私の足元に這い蹲り、勇者エインヘリヤルと思えぬ醜態を晒す者の姿も、最期まで誇り高く私に挑み続けた者の姿も。……私に憎悪を向け、幾度も刃を突き立てる者の姿を、何の感情も映さず、機械のように私を者の姿も。……呆れる程に繰り返し、何万殺したか分からぬ。何万殺されたか分からぬ。だが覚えているのだ。奴らが私を壊す時に晒す姿など、たかが知れている」


震え始めるアイリスの体、詠歌はそれを見て見ぬフリをする。


「アースガルズの宝物殿に主神オーディンが恐れ、封じた聖剣があると知った時、気付けばそれを奪っていた。反逆の為ではない。その先に待っている結末をこそ求めて、私は聖剣を手にした」


 詠歌が眠っていた布団の横に無造作に転がる聖剣。グラムと打ち合い、それでも尚輝きを失う事のない聖剣。しかしそれは主神はおろか、シグルズにさえ届かなかった。


「……ブリュンヒルテの一撃。アレを受けていればたとえヴァルハラに日没が訪れても甦る事は出来なかっただろう。私はそれを望んでいたはずだった」


 けれどアイリスは此処に居る。力の大部分を削がれ、それでも確かにアイリスは詠歌の前に姿を現した。その手を、詠歌は執った。


「何度も死んでおいて、今更消滅を恐れたのか。今でも分からぬ。だが私は無様に生き残り、地上へと堕ちた。とはいえ既に死に体、野垂れ死ぬのを待ちながら考えていたんだ。人の子が寝物語に夢見るように。……そうして思いついたのは、勇士の選定。ヴァルハラに居るような勇者エインヘリアルではない、私が見定める、私の勇士。それを奴らに見せつけてやるのだと」


 僅かにアイリスが顔を上げ、詠歌を見た。その瞳にどんな感情が映っているのか、暗がりからは窺えない。


「アイリス」

「……」


 アイリスは返事はしない。ただ隠れるように再び顔を伏せた。


「……隣に行ってもいいかな」

「……」


 返事を待たず、詠歌は自らにかかっていた毛布を片手に、アイリスの傍、部屋の隅に並んだ。そして何を言うでもなく、互いの肩に毛布を掛けた。


「……」


 どうしてそんな事をしたのかは分からない。必要に駆られたわけではない。ただ、そうしたいと思った。


「……お前は自らが勇士ではない、そう言った」


 沈黙の後、再びアイリスが口を開く。伏せられた顔が上がる事はない。


「私もその通りだと、そう思っていた。私とお前の出会いは運命などではない、ただの偶然。無様にも生き永らえようと私がしがみ付いただけ。けれどお前は……最初に私の手を執る事も剣を取る事もしなかった」


 詠歌もアイリスの表情を窺う事はしなかった。ただ何を見るでもなく俯き、彼女の言葉を聞いていた。


「……手を伸ばしていたのは私だった。お前の手から流れる血を見た時、それを掴まずには居られなかった。何度も繰り返した命ではない、今を生きる生命の赤。初めて見たあの鮮烈な色に私は目を奪われた。……お前しか居ないと、そう思ったんだ」


 アイリスの内心など、詠歌は想像もしていなかった。ただの人間である自分には理解が及ばない、そう考え、終わらせていた。

 彼女が詠歌の手を掴んだ時、何を思っているのかなど、分かろうともしなかった。


「天上からの遣いが来ればお終いだと覚悟していた。だが最期に意趣返しが出来た。無論、奴らはそうとは捉えまい。だがそれでいい。貴様らは勇士と認めないであろうお前こそ、私の認める真の勇士だと、私が納得出来ればそれでよかった」


 あまりに傲慢で、あまりに無欲な彼女の願い。それを詠歌は知らずに叶えていた。

 互いを知らなかったからこそ、アイリスは詠歌に救われた。北欧神話の勇者エインヘリヤルでもなく対攻神話プレデター・ロアの信奉者でもない、ただの人間の詠歌にだからこそ。


「……あの男と私は同類だと言ったその意味が分かるか。あの男からは対攻神話プレデター・ロアの残滓しか感じられなかった。多少なりとも対攻神話プレデター・ロアと関わった者から感じる残り香、あの男自体からは対攻神話プレデター・ロアを感じなかった」

「……そうか」


 アイリスの言葉に合点がいった。詠歌がサエキに感じた不信感。あれはアイネやアイリスのような超常的な力を持つ者に感じない、同じただの人であるが故に感じたものだったのだと。

 己を偽る事が悪だとは思わない。しかしサエキにはアイネやアイリスと違い、確たる芯がなかった。自信の持てないただの主観、だがそれを確かめる事はもう出来ない。

 サエキはシグルズに呆気なく殺された。意味深な言葉だけを残して。それがアイリスから逃れる為の口先だけだったのかすら、もう分からない。


「口先で己の弱さを隠し、他者を騙す。お前の見栄とは違う、私と奴が張ったのは虚勢だ。奴は力持つ狂信者の威を借り、自らを偉大であるとした。私はお前の無知を利用し、自らを強大に見せようとした」


 サエキという男が何故、対攻神話プレデター・ロアの力を持たずしてあれ程アイネに狂信を捧げられていたのか、詠歌には分からない。

 けれどやはり、詠歌はこう返すしか思いつかない。


「それでも僕は、君とあの男が同じには見えないよ」

「お前から見れば私は強大で凶悪な吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアだろう。だが天上では違う。……シグルズの前では違うのだ」


 肩にかかった毛布が僅かに震える。それを止める言葉は詠歌には見つからない。シグルズはおろかアイリスにすら及ばない詠歌に、シグルズがアイリスに与える恐怖を取り除く術はない。


「……明日の夜、それで全てが終わる。お前は望んだ日常へと戻るがいい。あの狂信者もシグルズの前に突き出せば、お前が嫌悪する非日常から解放されるだろう」

「そうだね。……ならせめて、明日までは此処に居るといい。何が出来るわけでもないけど、外で夜を明かすよりはいいだろう?」

「……ああ。最後にまた、借りを作ってしまったな」

「別に。これぐらい、何でもないよ」


 そして、二人はどちらからともなく微睡みに落ちていった。お互いの決断と覚悟を抱きながら。




 ◇◆◇◆




 翌朝、詠歌は胸元で唸るスマートフォンのバイブレーションで目が覚めた。

 電話の着信を告げているそれを手に取り、表示されている名前を確認する。


(ああ、そういえば結局連絡しないままだった……)


 彩華の名前が表示されている事を認め、今更ながらに丸一日放置していた事を思い出す。

 未だに眠り続けていたアイリスを起こさぬように体を軋んだ起こし、退室しながら電話に出た。


「もしもし、すいません、会長」

『大変なんだ詠歌君!』


 謝罪の言葉など聞く耳もなく、彩華はそう叫んだ。切羽詰まった彩華の声に一気に詠歌の意識が覚醒する。


「落ち着いてください、一体何が?」

『分からない、けど多分、勇者エインヘリアルだ! 金髪の勇者エインヘリアルがアイネちゃんを狙ってる!』

「……! 今は何処に!?」


 金髪の勇者エインヘリアルと聞いて思い当たるのはシグルズしかいない。


『私の部屋に居た! でももう違う! 見た事のない景色がどんどん広がってる! 憶測だけどエリュンヒルテ様が使ったような魔術の結界だ!』

「二人とも無事なんですねっ!?」

『ああ! だけどアイネちゃんは戦えない、今も隠れながら逃げてるけど、外への出口がないんだ! ケータイの電波もいつまで届――』


 まさにその懸念が的中した。焦る彩華の声は途中で無機質なビープ音で途切れ、電波が届かない場所へと移った事を告げていた。


「っ、くそ……!」


 思わず舌打ちし、スマートフォンを握り締める。


(少し考えれば分かる事だった……! 対攻神話プレデター・ロアへの接触を避けていても、そもそもシグルズはサエキと教会を破壊してる! アイリスに手を出さないと約束はしても、アイネの事は何にも言ってない! サエキを残滓と知っているなら、その大本に手を出すぐらいはしても不思議じゃなかった!)


 シグルズの使命はアイリスを連れ戻す事。けれどあの勇者エインヘリアルの本来の使命は悪を討つ事に他ならない。

 であれば、アイネと彩華に危険が及ぶ可能性は十分にあった。それが吸血戦姫アイリスが関わっていた対攻神話プレデター・ロアなら尚更だ。


「くそ……冷静ぶっていても、結局僕は……!」


 冷静なフリが上手いだけ。そんな自分に腹が立つが、そんな事をしている場合じゃない事も分かっている。

 だが同時に冷静ぶった自分自身が言っていた。そんな自分に何が出来るのか、と。もう、アイリスを頼る事も出来ない。


「いくぞ、詠歌」


 苛立つ詠歌の背に、開け放たれた扉の向こうから声がかかった。


「アイリス……」

「シグルズは剣を向ける相手を過ちはしない。と言っても見過ごせるお前ではあるまい。万が一、そう思えば見過ごせないだろう、あの友を」

「……」

「なら宿の借りを返す良い機会だ。私が連れて行ってやろう。それに……”彩華”にも食事の借りがある。その先でお前たちの非日常の終わりを見届けるが良い」


 アイリスの瞳に恐怖は見えない。けれどその奥底では今もきっと、そう思っても取るべき行動を変える事は出来ない。


(本当に……自分が嫌になる)

「お前が残るならそれも良い。私が一人で行くだけの事だ」

「お願い出来るかい、アイリス」


 詠歌の内心を知らぬアイリスは、その言葉に待っていたと言わんばかりに笑みを浮かべた。

 そしてアイリスが伸ばした手を執る。やはりその手は、僅かに震えていた。


「これで最期だ。今度はお前に魅せてやろう、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアたる私の勇姿……いや、悪辣たる姿を」

「……ああ」




 ◇◆◇◆




 マンションを飛び出した彩華とアイネに飛び込んで来る景色は、明らかに異常だった。

 見慣れたはずの街並みは何処にもなく、ただ幾何学的としか言いようのない、オーロラのカーテンを何重にも重ねたような歪んた風景が広がっている。


「はぁっ、はぁっ……!」

「ま、待て! 私を置いていけ! 奴の狙いは私か吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアのはずだ! たとえ吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアを狙っていても、私が残ればあなたが狙われる事はない!」

「却下!」


 その訴えを一言で断り、彩華は手足を拘束されたアイネを背に乗せ、必死に駆ける。

 詠歌たちから連絡がないまま過ぎた一日。彼女たちが目覚めたのは直接見た事のない彩華ですら理解出来る、巨大な聖纏気を感じたからだ。

 尾を立てたアイネが警戒する何かを確認しないまま、彩華は彼女を抱えて部屋の外へと飛び出した。


「うちのベランダは玄関じゃないのに!」


 その直前、風もなく揺れたカーテンの隙間から見えた金髪の騎士。それが勇者エインヘリアルであると直感し、詠歌へと連絡を取ったがそれも既に不可能となった。右を見ても左を見ても、此処が明らかな異常地帯、現実から切り離された場所である事を表している。


「私たちの使う魔術とは違うが、これも結界の一種! 人の足では何処まで行っても逃げられない!」

「逃げ切れなくても逃げ回れる!」


 猫のように軽いとはいえ、彩華は普通の成人女性並みの腕力と体力しかない、自分の口にしている事が無茶だと分かっていても、アイネを置き去りにする選択肢など最初からありはしない。


「――いいや、逃げ回る事も不可能だ」


 そしてそもそも、通常の人間を越えた勇者エインヘリアルから逃げるという選択肢すら、最初から提示されてはいなかった。

 音もなく、シグルズが彩華たちの前に降り立った。


「きゃ……!」


 驚き、立ち止まろうとした彩華は勢いを殺しきれずに倒れる。それでも背負ったアイネを傷つけまいと腰に回した手を放す事だけはしなかった。


「人ならざる肉体、北の山に残った対攻神話プレデター・ロアの残滓、その大本は貴様だな」

「……! 貴様、司祭様に何か……!?」


 シグルズの指しているのが自らの属する教団の拠点である事を即座に理解したアイネが、顔を上げて叫ぶ。その瞳に怒りと焦燥が宿った。


「既に天上からの許可は下った。この街に在る対攻神話プレデター・ロア、それを消滅させる。吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアと接触した不確定要素は排除しなくてはならない」

「質問に答えろ! 司祭様に何をした!?」

「残るは貴様だけだ」


 シグルドは鞘から抜き放ったグラムをアイネに向ける。その言葉だけで理解した。理解してしまった。

 けれど、脳がその理解を拒む。


「嘘を吐くな! 司祭様は私などよりも『クタニド』様に信仰を捧げたお方! 神に選ばれた『星の戦士』! 私如きに敗れた勇者エインヘリアルなど、相手になるはずがない!」

「……哀れだな。己が利用されている事に気付けないとは。対攻神話プレデター・ロア、その洗脳か……いずれその悪、全てを斬る」

「黙れ! 洗脳だと!? 神に捧げる信仰、それをそんな言葉で片付けるな!」


 彩華の背で暴れるアイネは体勢を崩し、無様にコンクリートの床に体を落とす。受け身も取れずに擦り傷が体に刻まれるが、それを気にする事もせず、ただシグルズを睨みつける。


「っ……」


 同様に擦り傷を作り、それに耐えながら彩華は立ち上がるとシグルズとアイネの前に立ちはだかる。

 その様子をシグルズは目を細めて見つめていた。


「……同じだな、あの少年と。対攻神話プレデター・ロアを庇うその行いは悪だが、君の心に悪意はない」

「当たり前だ! 誰かを守りたい、その気持ちに悪意なんてない! こんな女の子に剣を向けるあなたの方が、よっぽど悪だ!」


 シグルズの発する威圧感に押し潰されそうになりながら、彩華は退かない。

 ただ守りたい、それが詠歌が気付けず、アイネが認めた彼女の強さなのだから。


「アイネちゃんの質問に答えろ! あなたは、彼女のお父さんをどうしたの!?」

「あの教会に残った残滓と共に滅ぼした」

「……!」


 シグルズがついに直接口にしたその事実に、彩華もまたシグルズを睨みつけた。威圧感と本能的な恐怖から、その瞳に涙を浮かべながら。


「そこを退いてくれ、勇敢なる乙女フロイライン

「退かない」


 聖剣も持たない彩華には万が一にもシグルズの敵となれる可能性はない。

 シグルズも彩華が退かなくとも、彼女を一切傷つけずにアイネだけを討つ事は容易いだろう。


「そうか」


 故にシグルズはそれ以上、彩華に強要はしなかった。ただグラムを正面に構える。


「退いてくれ! たとえ手足が使えなくとも私はこの牙で奴の喉笛へ喰らい付く!」

「嫌! 綺麗事だけど、私はアイネちゃんにだってそんな事して欲しくない!」

「っ、退け! お前に何が分かる! 私にとって司祭様は全てなんだ! それを奪ったこいつを許しはしない!」

「許さなくてもいい! でも此処は退けない!」


 自らの言っている事が綺麗事だと自覚しながら、それでもそれを貫こうとする、それは彩華の強さだ。けれどその強さは今、何の役にも立たない。今求められるのは目に見える強さ、シグルズから自分たちの身を守り抜く力だ。


「恨んでくれて構わない。せめて貴様の魂は父と同じヘルヘイムへと送ろう」


 悪と断じる対攻神話プレデター・ロアの信奉者に対してさえもその慈悲を向けるシグルズだが、その慈悲をそうと受け取る者は此処には居ない。ただの無慈悲な死の宣告にしか彼女たちには聞こえない。

 その身を貫き、背後のアイネへと迫る殺意に彩華はせめてもの盾になろうと跪いてアイネの頭を胸に抱くと、瞳を閉じた。


「眠れ、対攻神話プレデター・ロア

「……殺してやる。私が死のうと、この憎悪で貴様を殺してやる」


 そして、グラムは寸分違わず、アイネだけを貫く――瞬間、空が裂けた。


「――くはははははっ! まるでブリュンヒルテの純潔を奪った時のような一齣いっせきだな、シグルズ!」

「……吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア


 天空の幾何学模様を割り、シグルズへと向かってアイリスは一直線に降り立つ。

 アイリスの挑発的な言葉に眉を上げ、シグルズはその場から飛び退いた。


「会長!」


 それと同時にアイリスのマントから手を放し、詠歌が二人に駆け寄る。

 膝を着き、二人の無事を確認し、内心で胸を撫で下ろした。


「詠歌君……」

「遅くなってすいません……でも間に合ってよかった」


 顔を上げた彩華に、ぎこちなく、少しでも安心させようと詠歌は笑った。

 それを見て、彩華は気が抜けたように破顔する。


「まるで……ヒーローみたいなタイミングじゃないか、詠歌君」

「勇者に立ちはだかるんです、悪役の間違いでしょう」


 ハンカチを彩華に渡し、笑みを苦笑に変えて詠歌はアイリスの背を見つめた。


「何の真似だ、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア

「既に此処は貴様の結界の中、其処に私と勇者エインヘリアルが居るのだ。ならばやる事は決まっている。散々天上で繰り返した殺し合いしかあるまい!」

「……最早これは演習にはならないだろう」

「ふん、気付いていたか」


 意味深な二人の会話に、詠歌が目を細めた。それに気付き、シグルズが口を開く。


「貴様はまた、責務を放棄したのだな」

「どの道これで最期なら、する必要もなかっただけだ」

「アイリス……?」


 まだ、説明していない事があったのか。そう思いながらもそれを責めようとは思わない。

 出会ってからずっと、アイリスは詠歌に対して、いや出会った者全てに虚勢を張っていた。昨夜、詠歌に内心を吐露する事にどれだけの葛藤があったのか、想像もつく。

 虚勢を廃する。本心を晒す。嘘を告白する。それはきっと人であってもそうでなくても、隠していたかった事を曝け出す事に勇気が必要で、恐怖が伴うのは同じのはずだ。


「貴様は地上の穢れを取り込んだな」

「食い飽きたセーフリームニルの煤肉なぞより、余程美味かったとも。泥水のようだったアレも、オーディンの葡萄酒なぞより、余程甘美だった!」

「愚かな……地上の穢れを取り込んだ貴様にはもう、ヴァルハラの夜は訪れない」


 ヴァルハラの夜、日没。それが意味するのは演習で死んだ者の復活。

 それが訪れないという事は、つまり。


「アイリス、まさか君は……」

「貴様も生前、狩りをした事があるだろう? ならば知っているな、死を覚悟した獣の恐ろしさを! これは倦怠した演習などではない。最初で最期の、正真正銘の殺し合いをしてやろうッ!」


 生み出されてから初めての覚悟は、刻み込まれた恐怖から来る体の震えを完全に止めた。

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