買い物を終え、料理を全て作り終える頃には既に時刻は夕方に差し掛かっていた。

 少し早い夕餉となった久守家の食卓に並んだ料理を前に、三人は席に着く。


「さあお待たせいたしました、エリュンヒルテ様! 私と詠歌君が腕によりをかけて作った、記念すべき地上最初の夕飯です!」


 食卓に並ぶのはやはり、と言うべきか和食だった。まずは日本食を、という彩華の意見に従い、真鯛の塩焼き、豆腐と大根の味噌汁、金平ごぼうに肉じゃが、甘く味付けした厚焼き玉子と料理がテーブル一杯に並んでいた。

 一人暮らしを始めて長い詠歌にとっても、このテーブルが埋まる程の料理が並ぶのはほとんど初めての経験だった。


「おぉ……」


 詠歌以上に経験に乏しかったのだろう、アイリスは小さく、しかし確かな感嘆の声を上げていた。それを聞いて彩華は微笑むが、指摘する事はしない。


「それでは冷めない内に!」


 彩華が手を合わせるが、アイリスも詠歌も反応出来ない。彩華の目配せにああ、と久しくしていなかった行為を思い出し、詠歌も手を合わせた。それに釣られ、アイリスも手を合わせる。


「いただきます!」

「いただきます」

「……? いただき、ます」


 怪訝な顔でアイリスも二人に習い、そう口にした。


「さ、エリュンヒルテ様」

「……ああ」


 彩華に手渡されたフォークを手に、促されるまま中央に置かれた鯛の身にフォークを刺し、ほぐれた身をゆっくりと口に運ぶ。

 反応は一目瞭然だった。無言、だがその瞳が大きく開かれたのが分かる。


「……これが、地上の食事か」

「はいっ」

「……こんなに豪勢なのは、僕も久しぶりだけどね」

「君もこれを機に食生活を見直しなさい。一人暮らしで大変なのは私にも分かるけど、日に三度しかないんだから」

「……はい」


 ぽつりと呟いた感想を聞き咎められ、詠歌は頷く事しか出来ない。自覚はしていた。


「成程、大口を叩いただけはある。認めよう、アンドフリームニルなど比較にならんとな」

「……! ありがとうございます!」


 感極まった様子で喜ぶ彩華に、詠歌の表情も綻んだ。多少手伝ったとはいえ、ほとんどの料理を用意したのは彩華だ。その努力が認められた事は素直に嬉しかった。


「さ、詠歌君、私たちもいただこう?」

「はい。ありがとうございます、会長」


 料理の事だけではない。彩華がいなければ、アイリスのこんな表情を見る事はなかっただろう。持て成そうとすら思わなかったはずだ。

 詠歌はアイリスに対して、巻き込まれた事を恨んではいないし、命を救ってもらった事に感謝もしている。だが、歩み寄ろうとは思っていなかった。人ならぬ超常的存在である吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアに対して理解を深めようとは思いもしていなかった。だがこうして僅かでも歩み寄る事が出来るのなら、きっとその方が良いのだろう。これは、詠歌一人では出来ない事だった。


「うん、やっぱり卵焼きは甘いのに限るねっ」


 そんな事は当人は知らず、仮に知ったとしてもまた笑うのだろう。自分がやりたい事をやっただけだと。

 だからこそ、思う。そう思い、そう出来る彩華は既に、彼女が憧れた特別な誰かなのだと。


「……うん、美味しい」


 感想を口にして、詠歌も箸を進めていった。誰かと食卓を囲むという懐かしさを感じながら。




 ◇◆◇◆




「それじゃあ私は一度帰るよ。泊まり込みたいのは山々だが、その用意もないからね」


 夕食が終わると、彩華はそう言って立ち上がった。元々、詠歌を誘ってこの辺りを調べるつもりだった彩華は軽装で、一夜を明かす用意はない。


「まだ陽も高いし、心配しなくても大丈夫」

「いえ、せめて送り届けます。僕に何が出来るとも思えないですが、一人よりは――」


 いつ『ウルタールの猫』の襲撃があるかも分からず、彩華がまた狙われないとも限らない以上、一人帰らせる事は出来ないと詠歌も立ち上がるが、それをアイリスが制止した。


「待て」

「エリュンヒルテ様?」


 代わりにアイリスは自らのマントを広げると其処から一匹の蝙蝠が羽ばたき、彩華の頭上を旋回する。


「食事の礼だ。それがお前を送り届ける」


 吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア、その吸血鬼ヴァンパイアとしての力の一端なのだろうか。

 彩華は視線を合わせずにそう言うアイリスに頭を下げ、感謝を示した。


「ありがとうございます、エリュンヒルテ様!」

「ふん。詠歌、今のお前では何も出来まい。まずはその傷を癒すが良い」

「……信用していいんだね?」

「当然だ」


 僅かに躊躇うが、先程の食事を思い出し、詠歌も頷いた。


「それじゃあ……気を付けて下さい、会長」

「ああ。明日の事は帰ったらまた連絡するよ」

「分かりました」

「うん。それじゃあお休み、詠歌君。エリュンヒルテ様」


 最後にアイリスに一礼し、彩華は帰って行った。その後ろ姿を玄関先から見送り、詠歌も家へ戻る。

 戻るとすぐにアイリスが口を開いた。


「あれはお前の恋人か?」

「違うよ。世話になってる先輩だ」

「そうか。であれば良き友なのだろうな」

「……そうだね。良い人だ」


 詠歌の返答に頷くと、アイリスは羽織っていたマントを脱いだ。何事か、と視線を向ければ当然のような顔をしてアイリスが言う。


「湯浴みがしたい。付き合え、詠歌」

「え。いや、断る」


 何を言い出すのかと思えば、と詠歌が即答するとアイリスは不満そうに顔を顰めた。


「今朝は手伝ってくれたではないか」

「今朝だけだ。もう手伝わない」

「何故」

「僕は君の召使じゃない。使い方は教えるから、自分でやってくれ」

「褒美のつもりだぞ?」

「受け取らないし、褒美にもならない」

「固い奴め」

「常識的なだけ」


 そんなやりとりの後、不満そうなアイリスを浴室に案内し、一人で入浴させた。その過程で彩華が分けて購入していた下着を見る事になったのは不可抗力である。




 ◇◆◇◆




 翌日、元々互いに講義が入っていなかった詠歌と彩華は再び詠歌の家に集まる事に決めた。

 今の異様な状況のせいか、朝早くに目覚めた詠歌は着替えるとすぐに外に出た。一つ屋根の下にアイリスが居る事に、妙な居心地の悪さというか気恥ずかしさというか、を感じたからだ。

 特に考えもなく、山へと通じる家の裏手に回り込むと、思わず一歩後ずさった。


「目が覚めたか」

「……おはよう。今日は随分と早いんじゃないか」


 屋根の上にいつから居たのか、アイリスが座り込んでいた。


「何、地上の夜明けがどんなものか気になってな」

「そう。感想は?」

「昨晩の食事程、真新しさは感じないな。太陽そのものが神と語られるこの国でも、変わり映えはない」


 ふわり、と重力を感じさせない動きで詠歌の前に降り立つと、あの時と同じように紅黒い柄を持つ長剣を虚空の内から現出させる。


「何を――」

「昨晩の食事と休息で四割程だが力も戻った。これに頼らずとも狂信者如き、相手にならぬ。お前にくれてやる」


 剣を地面に突き立てると、視線で詠歌に取れと促す。


「それを使えば、お前でもあの猫を斬り裂けるだろう。もっとも、本来の担い手ではない私やお前では猫を斬り裂くのが精一杯だがな。直接でなければ宿主たる狂信者にまではその刃は届かん」

「……だとしても、僕には剣の心得なんてないぞ」

「私とてないさ。元々、この身一つで戦ってきた」

戦乙女ヴァルキュリアってのは鎧と剣を持って戦うものじゃないのか」

「何度も言わせるな。私は戦乙女ヴァルキュリアなどではない」


 アイリスはそう言って、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 詠歌にとっても、『ウルタールの猫』からの自衛と彩華を守る為の手段は必要だった。それ以上は何も言わず、突き立てられた剣に手を伸ばす。


「あの女の言う通り、ただの人間であるお前には対攻神話プレデター・ロアに抗う術はない。だが、それでは不公平だろう? すべは与えよう。後はお前が選べ。無論、これを借りなどと思う必要はない。私が授けただけだからな」

「……」


 抜いた剣はあの夜に持った勇者エインヘリアルの剣よりも軽く、触れた瞬間に何か不可思議な感覚を覚える。今まで感じた事のない、何かが体を包み込むような感覚だ。


「それは主神オーディンの管理するアースガルズの宝物殿から拝借した剣。あのジジイが恐れ、封じたという噂を聞いて奪いはしたが、なんてことはないただの聖剣。とんだ期待外れだった」

「聖剣って……」


 自らが握る剣がとんでもない物だと知り、大人しく手に取った事を後悔してしまう。


「お前が今感じているであろう感覚が聖纏気と言う奴だ」

「……君、その聖纏気っていうのとは相性が良くないんじゃなかったか?」

「ああ。そんな私が扱える、という点では貴重ではあるが、主神オーディンを脅かす程の物ではない。失って惜しい物でもないさ」


 それを奪ったが故にブリュンヒルテに追い立てられ、地上に堕ちる原因となった剣にも関わらず、アイリスは本当に惜しいとは思っていないようだった。


「『ウルタールの猫』はともかく、この剣なしでブリュンヒルテや勇者エインヘリアルに君は勝てるのか? 君は僕に勇気を示せと言ったけど、それだけでどうにかなる問題じゃないだろう」

「お前が気にする事ではない。お前がお前の思うがままに生きればそれで良い」

「……」


 納得出来るはずもなく、しかし昨晩と同じ押し問答になる事を予感した詠歌は無言で溜め息を吐くだけに留めた。

 口答えをしなかった詠歌に満足したのか、アイリスが満足気に頷く。


「それで、これからどうするつもりなんだ。今も『ウルタールの猫』は君を狙ってるんだろ。言っておくけど、襲われるのを待つだけなのは御免だ。会長にも危険が及ぶ可能性があるなら、少しでも早くそれを取り除かなくちゃならない」

「随分と乗り気じゃないか。私は嬉しいぞ、詠歌」


 詠歌の発言にさらに嬉しそうに笑うが、詠歌にとっては笑い事ではない。手の平の傷は大した事はないが、額の傷は今も痛み続けている。何度もこんな傷を受けたくはない。


「奴は障害足りえんが、私とていつまでも付き纏われるのは愉快ではない。今度はこちらから奴らの巣を叩く」

「巣?」

「お前とてあの狂信者が単独だとは思ってはいまい? 奴に名を授けた者が居る」


 アイネは自身の名を神から賜ったと言った。それが洗礼名のような物なら、それを授けた司祭のような存在が居るはずだ。

 創作であるはずのクトゥルー神話、それに登場する神を祭った宗教、邪神崇拝を行う集団が居ると考えるのが自然。


「そうだとして、それをどうやって見つけるんだ?」

「既に手は打った」


 言いながら右手を前に出すと、その手に何処からか飛来した蝙蝠が止まる。昨晩アイリスが生み出し、彩華に付けたものと同じ蝙蝠だ。


「お前は運が良い。これだけ近くに居ながら、今の今まで何の関わりも持たなかったのだから」

「え……?」


 蝙蝠が霧散するように消え、マントの内側に溶けた後、アイリスが視線を向けたのは二人の背後に広がる山の方だった。


「この山の中、中腹辺りに奴らの教会の一つがある」

「な……」


 詠歌の家の裏にある山。詠歌がこの家に住み始めてから一度も踏み入れた事がない、名も知らない山。

 ただ誰かの私有地である事を示す看板とロープだけが山の周囲に張り巡らさらている其処。ただの野山だと何の興味も示さなかった其処に、詠歌たちを襲った者たちの教会がある、とアイリスはそう言ったのだ。

 灯台下暗しとはこの事か、あまりにも近くにあった非現実に、詠歌は驚きを隠せない。


対攻神話プレデター・ロアとは得てしてそういうものだ。日常に潜む異常、日常を侵す神話。そうして奴らは今もその力を増大させている」

「待ってくれっ。あのアイネって子は君を探して此処までやって来たんじゃないのかっ? 対攻神話プレデター・ロアの名前の通り、北欧神話の君を狙って!」

「いいや。偶然近くに居たのが奴だったに過ぎないのだろう。この島国にも無数にある奴らの教会の一つ、其処に私が堕ちただけだ」

「……! 僕は今まで、会長に付き合わされてこの街のオカルトを探し回って来たっ、けどそんな奴らの存在なんて何処にも……」


 彩華が探し求めて、それでも一度も姿を現さずにいた非科学オカルト。それがこんなにも近くに、こんなにも日常と隣り合っていたという事実。すぐに受け入れられるはずもない。


「あの山には人払いの魔術が張られている。近づこうとは思わず、迷い込んだとしても自力では教会まで辿り着けぬようにな。対攻神話プレデター・ロアであれ北欧神話私たちであれ、隠れ潜むその性質は変わらん。そう簡単に見つかるようなら、ラグナロクを待たずして戦争が始まっていたであろうよ」

「……でも君たちになら見つけられるんだろう? いや、君を見つけたように対攻神話プレデター・ロアにも、君たちを見つけられるなら、どうしてそれを放っておくんだ?」

「昨日も言った通りだ。対攻神話プレデター・ロアはまだ我らの域には達していない。主神オーディンが、いや他の神話の神々共が見逃しているのは、利用する腹積もりなのだろうさ。自分たち以外の神話を滅ぼす為に」

「……」


 あまりにもスケールの違う話に言葉が出て来ない。それは詠歌たちの日常どころか、世界の日常を壊す程の話だ。


「ふっ、そう怯えるな。そうなるのは幾千、幾万年後の話だ。お前も、そして私も関わる事などない、遠い話なのだから」


 苦笑してアイリスはそう言う。だからといって安心出来るわけではないが、それでも詠歌一人が何をしても変える事など出来はしない。そう思えば、どうにか受け入れられた。


「それよりも行くぞ」

「行くって、今からその教会にかっ?」


 聖剣を渡され、その足でいきなり敵の本拠地に乗り込むのはいくら何でも早急すぎる。一刻も早く日常を取り戻したいのは詠歌も同じだが、まだ何の準備も覚悟も出来ていない。

 慌てた様子を見せる詠歌に、呆れ顔でアイリスは首を振った。


「猫だ。昨日の娘を狙っている」

「ッ……!」

「昨日のお前の様子を見て、利用できると踏んだのだろう。獣の癖に賢しい真似をする」

「会長は無事なのか!?」

「心配するな。まだ猫も辿り着いてはいない」


 その言葉に胸を撫で下ろす。そしてやはり、と彩華が狙われた事に恐れていた予感が的中したと知る。

 だがもしも昨日、無理矢理にでも彩華を帰していたら、アイリスが彼女の事を気にする事もなく、詠歌にはどうする事も出来なかっただろう。


「これは前哨戦だと思え。今度は逃がさん。猫からあの狂信者を引きずり出し、奴を遣わした者を私の前に這い蹲らせる」


 ニヤリ、とアイリスは悪辣な笑みを浮かべた。自らを悪性と呼んだ、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアに相応しい笑みを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る