④
ずずずっ、と音を立ててお茶を啜り、ふぅと一息。
和風の居間だからか、絵になる光景だった。
「うん、事情は分かった。分かったとも」
そうしてから彩華は口を開いた。ちなみにお茶は彼女が勝手に淹れたものである。詠歌の家に来たのは初めてだが、既に寛いでいた。
「じゃあ改めて自己紹介をしよう。私は彩華。天音彩華。詠歌君と同じ大学の三年生で、サークル、『非科学現象証明委員会』の会長を務めている。お名前を教えていただけますか、
「……その前に、お前らは何をしている?」
「それは僕こそ訊きたい……」
「こらっ、動かない! 絶対安静だよ、詠歌君」
胡乱な目で彩華とその膝に頭を預ける詠歌を見つめると、詠歌は居心地悪げに身動ぎするが、彩華がそれを許さなかった。
いわゆる膝枕の体勢。困惑した顔で頭の包帯を撫でる詠歌を傷口が開くと叱り、彩華は腕を組んだ。
「この子はすまし顔で無理をする所があるから、それの予防。……それと私が興奮して踊りださないようにする為でもある。流石の私でも会員が怪我をして、一人喜んではいられないさ」
「……まあ、いい。それと私を
納得しきれない様子で、しかしアイリスは会話に応じた。
詠歌からするとそれは少し意外であった。勇士(認めてはいないが)と呼ぶ詠歌、そして敵として立ちはだかった狂信者、アイネ。そのどちらとも会話はしていたが、彩華とアイリスには何の因縁もない。
人ならざる超常的存在がただの人間と
「ヴァンパイア……つまりあなたは吸血鬼と戦乙女の混血なんですか?」
「さてな。人にとっての親のような存在は私にはない」
「そう……ですよね。戦乙女に子供が居たという話は聞いた事がないです。それに吸血鬼の伝承が多く残っているのは東欧の方だったはずですし……」
思案顔の彩華を膝の上から見上げる詠歌は、素直に感心していた。『非科学現象証明委員会』に入ってから、多少は知識としてオカルトや神話に関して学んでいたが、戦乙女の子供の有無や吸血鬼伝承の残る地まではすらすらとは出て来ない。
「いえ、いいえ。あなたが何者なのかはいいんです。詠歌君を助けてくれた、それだけで十分な事でした」
「……意外ですね。会長の事だから、もっと根掘り葉掘り聞き出すと思っていたんですが」
アイリス相手と違い、詠歌は素直に思った事を口にした。戦乙女を探し出すと言っていた彩華が自制しているとはいえ、こんな簡単に引くとは思えなかったからだ。
「私たち『非科学現象証明委員会』の目的は非科学を解明する事じゃない。解き明かすのは他の人の仕事だ。私たちは非科学の実在を証明出来ればいいんだ。君が生きている、それだけで彼女が居た証になる」
「……初めて聞きました」
「まだまだ理解が足りないね」
得意げに笑い、彩華は再び居住まいを正した。
「お名前を教えていただけますか? 詠歌君の恩人である、
「殊勝な態度に免じ、名乗りはしよう。我が名はエリュンヒルテ。以後、そう呼ぶがいい」
「ありがとうございます、エリュンヒルテ様。さて、詠歌君から大体の事情は聞きましたが、改めてこれからどうするか決めましょう。生憎、詠歌君がこんな様子ですから、私にも協力させて下さい」
詠歌の怪我や昨晩の出会いを聞いて尚、彩華はアイリスの事情に首を突っ込もうとしていた。
「待って下さい、会長……僕は反対です。僕もまだ詳しい事情までは聞き切れていません、でもこれはアイリスと僕の問題です。会長まで巻き込みたくない……興味深い話だとは思います、けど会長に関わって欲しくは……」
その懇願に彩華は困ったように笑う。詠歌の言う通り、興味本位でないとは言い切れないのだろう。
しかし、彼女は折れなかった。
「詠歌君の心配は分かるよ。こんな危ない目にあったんだ、それに他人を巻き込みたくないのも分かる。私だってきっとそうするだろう。でもね、駄目なんだ。知ってしまった以上、知らないフリは出来ない」
「会長……!」
どうにか彩華を説得しようと起き上がろうとする詠歌を、優しく止め、首を振る。
「違う。興味はある。でもそうじゃない。会員が、君がこんな危ない目にあっているのを知ったら、私も手伝いたいんだ。それはきっと、君だってそうするだろう?」
「……それは、そうですけど。でも……」
「それに今、私を追い出しても私は私で関わろうとするよ? この家を四六時中監視して、何かあれば絶対に付いて行く。その方が君にとっても迷惑じゃないかい?」
「……」
そう言われてしまえば、返す言葉もない。
もしもまた、今回のように知らずに巻き込まれてしまえばもうどうにも出来ない。今回のようにアイリスが助けてくれるかも分からないのだから。
「話は済んだか」
言葉に詰まった詠歌を見て、アイリスが再び口を開いた。つまらなそうにテーブルに頬杖を着き、視線で先を促す。
「ええ。お待たせしました、エリュンヒルテ様。私にも協力させていただけますか?」
「好きにするがいい。貴様に出来る事があればな」
期待はしていない、言外にそう言うアイリスだが、彩華は微笑みを絶やさなかった。
自信ありげに持ち込んでいたトートバッグから愛用しているタブレットを取りだすと、それをテーブルに置いた。
「どんな神話であっても其処で輝く人は皆、勇気と知恵を持っている。詠歌君が勇気を魅せたなら、私は知恵を披露しよう」
タブレットを操作し、白紙のページを表示させると淀みない動作で手に持ったタッチペンを動かし始める。
「まず、情報の整理から。北欧神話に属するエリュンヒルテ様、エリュンヒルテ様が地上に堕ちる原因となった名高きブリュンヒルテ、その遣いの
ブリュンヒルテと
「北欧神話に関して、私もそれなりの知識はあるけれど、エリュンヒルテ様にそれは釈迦に説法という物だ。では私の披露すべき知恵は彼女たち、
アイリスは無言で頷き、それを見て彩華は『ウルタールの猫』についての情報を書き出していく。
「クトゥルー神話で描かれたように猫――この場合はアイネという剣士を倒し――」
「違う。殺し、だ」
「……彼女を殺した事で『ウルタールの猫』は現れた」
アイリスの訂正に『殺す』という単語を躊躇いながらも口に、話を続ける。
「けど、僕の記憶ではウルタールというのは地名の名前です」
「その通り。けれど『ウルタールの猫』が現れたのはその村を訪れ、飼い猫を殺されたキャラバンの少年の祈りによってだ。ウルタールの名前と祈りを捧げる少女。舞台は整っているし、それにそもそも創作神話という触れ込みで世界中で新たな物語、神話が紡がれ続けているんだ、その辺りの自由度は高いとも考えられる」
平時なら誇大妄想だと断じたいが、それを否定する材料は詠歌にはなく、アイリスも否定する事はなかった。
「『ウルタールの猫』は猫を殺した者が死に……いいや、猫に殺される結末になっている。この場合はエリュンヒルテ様だが……詠歌君が襲われた以上、邪魔な者、目についた者は標的になるんだろう」
「僕だけじゃありません。会長もです」
「あはは、そうだったね。クトゥルー神話には理不尽な物が多い。作者の提唱した宇宙的恐怖を持つ神話だからね」
そこまで言って、彩華は一度言葉を切った。
「……講釈は終わりか? そも、奴程度の
「君にとってはそうでも、僕たちにとっては太刀打ちしようのない相手だ。……それに、君だって殺されかけただろう」
尊大な態度を取っていても、『ウルタールの猫』を一刀で斬り捨てたとしても、昨晩の震えるアイリスの姿を、詠歌は覚えている。
今となっては見間違いだったのかもしれないとも思うが、それでも追いつめられていたのは間違いない。
「勘違いするな。あれは
「……勘違いしないでくれ。あのまま殺されるくらいなら、少しでも足掻こうと思っただけだ。これからも狙われるなら、君だけを当てにするつもりはないよ」
「くくっ、それでこそ勇士というものだ」
「だから僕はそんなんじゃない」
詠歌は嫌そうに否定するが、アイリスは気にした風もない。苦笑し、彩華は話を進める。
「では問題の『ウルタールの猫』への対抗策だけど、ごめんよ、詠歌君。残念だけど現状では打つ手なしだ」
「……
「ああ、
クトゥルー神話の概要程度なら詠歌も知っている。だがそれでも会長ならば、という期待は裏切られた。
アイリスを当てにしないと言った矢先の現実に、アイリスが意地の悪い笑みを浮かべた。居心地悪げに顔を背けようとするが、彩華の膝の上ではそれも叶わない。視線を逸らすのが精一杯の抵抗だった。
「だから私たちに手伝えるのは、エリュンヒルテ様の力を取り戻す助力だけだ」
「……ほう?」
「
その言葉に今朝の会話を思い出す。多少は回復したと言っていたが、具体的にどれくらいの力が戻っているのかは聞いていない。
「地上では回復が遅い。本来の状態で堕りたのであれば、この地上に私を傷つけられる者などいないだろう。だが、ブリュンヒルテの奴に受けた槍の一撃、あれで力の大半を失った。現状、戻ったのは本来の二割程度といったところか」
二割。そう聞いて僅かに戦慄する。アイネを圧倒し、『ウルタールの猫』を一撃で退けたアイリスが地上へと堕ちた原因、ブリュンヒルテの力とはどれ程凄まじい物なのだろうか。
だがアイリスの言葉を聞く限り、相性もあるのだろう。そんなアイリスを追いつめた
「なら、やっぱり僕の血を……」
「言ったはずだ。私は食事で血は啜らない。昨晩、お前の血を戴いたのはお前の決断あってこそ。差し出された首筋にどれだけの価値があろうか」
「そんな事を言ってる場合じゃないだろ。もしもまた
制止を振り切り、今度こそ詠歌は体を起こしてアイリスに向き直った。『ウルタールの猫』にアイリスを殺せずとも、天上から来る者たちはあっさりとアイリスの命を奪うだろう。命を危険に晒してまで守るべき矜持だとは思えなかった。
「その為のお前だ、詠歌」
「僕に一体何が出来るって言うんだ? 昨晩も、今も、僕は何も出来ていない」
「お前は勇気を示せば良い。お前の勇姿を奴らに魅せれば良い。それだけで十分だとも。私はお前という勇士を連れ、天上へと凱旋しよう」
「勝手な事を言うな……君にはさっき助けられた借りがまだ残ってる。その借りを返して、それでお終いだ……って会長」
語勢を強くした詠歌の肩を掴み、彩華は再び膝に寝かせた。抵抗しようと思えば出来たのだろう、しかし身勝手なアイリスに冷静さを失いかけていた事を自覚し、大人しくそれに従った。従った後で、また膝に戻る事はないと気付いたのだが。
「まあまあ、落ち着いて詠歌君」
「……すいません」
ポンポン、と幼子をあやす様にお腹を叩く彩華に、恥ずかしさが込み上げるが、基本的に彩華には強く出られない詠歌。大人しくする他なかった。
「だがまあ、お前の言う事も尤もではある。元は貸し借りで始まった関係、その清算を持ってお前を解放しよう。精々これ以上、私に借りを作らぬ事だな?」
「まあまあ、エリュンヒルテ様も。その辺りの話は追々するとして、何はともあれ、力を取り戻して損はないはずです。血を飲む以外に方法はないんですか?」
「……直に肉体が地上に馴染む。そうすればお前たちが食すような物も受け入れられるようになるだろう。効率は悪いがな」
「では決まりですね!」
パン! と手を打ち、彩華は嬉しそうに笑った。
「なら私たちに今出来るのは、エリュンヒルテ様に喜んでいただけるような、美味しいご飯を作る事! それで英気を養いましょう!」
「……呆れるな。何を言い出すかと思えば……」
「そう仰らずに! 無事、天上に戻った暁には葡萄酒しか飲まない喰わず嫌いの主神が羨むような自慢話になります!」
目を輝かせて提案する彩華に、僅かにだがアイリスがたじろいだ気がした。
「む……成程、それは魅力的ではある、な」
「そうでしょう、そうでしょう! アンドフリームニルに負けない料理を作ってみせます!」
「ほ、ほう……?」
頭上から聞こえる声に、詠歌は察する。ああ、我慢の限界だったんだな、と。その通り、彩華とはこういう人物だった。
ちなみに詠歌は分かっていないが、アンドフリームニルとはヴァルハラで
「そうまで言うなら良いだろう。『ウルタールの猫』もすぐには戻っては
「お任せを! 腕によりを掛けて作りますから、それまで少しでも休んでいて下さい!」
むしろ以外なのは彩華に言われ、大人しく従うアイリスの方だ。しかも微妙に頬が緩んでいる。何とも言えない気持ちになる詠歌を他所に、アイリスは期待を隠し切れない様子で部屋へと戻って行った。彼女も既に我が物顔な事にツッコミたい詠歌だった。
◇◆◇◆
時刻は既に昼を回っていた。
詠歌の家を出て、田舎道にポツンと建っているスーパーマーケットを目指し、詠歌と彩華の二人は歩いていた。
「安静にしていて欲しかったんだけどね」
「……どうしてこんな事を?」
自らを案じる言葉には応えず、代わりに疑問を口にする。
「エリュンヒルテ様に言ったのは本心だよ。君を心配しているのも本心」
道端に転がる石を蹴り飛ばす、という子供染みた遊びをしていた彩華が笑う。
「けど一番はやっぱり、私がしたかったからだよ」
「それは危険な目にあってでも、ですか」
まだ痛む傷を包帯の上から触れる。その触れた手も未だ、痛みを訴えていた。
「ああ、そうだとも」
「……会長。今からでも家に帰って下さい。やっぱり僕は、会長を巻き込みたくない」
「詠歌君。子供の頃、ヒーローに憧れた事はないかい?」
「……?」
立ち止まると、彩華は急にそう尋ねて来た。詠歌は振り向いた彩華を怪訝そうに見つめた。
「誰かのピンチに駆けつけて、助けるヒーロー。人知れず、影で孤独に戦い続けるヒーロー。君も男の子だし、少しは覚えがあるんじゃないかい?」
「……それは、まあ」
「私も同じなんだ。ヒーローに……ううん、特別な誰かになりたかった」
「だから僕を誘ってサークルを?」
「うーん、否定は出来ないかな。だって今でも憧れてるからね。けど、今回の件で私は、私が憧れた特別な誰かにはなれない。それは君の役割……いいや、違うな。多分、君がした方が良い事なんだ」
「……会長も、アイリスと同じように僕が勇士だとでも?」
「あはは、君が嫌そうな顔をするから、違うと言っておこう。そうじゃなく、いやだからなのかもしれないが、エリュンヒルテ様は君に心を開いているだろう?」
思い当たる節は一つあった。アイリスが彩華に名乗った名。
詠歌と違い、アイリスは彩華にエリュンヒルテとしか名乗らなかった。
「勿論、私はエリュンヒルテ様の事は良く知らないし、詠歌君の事だって何でも知っている、というわけではない。だからこれは勘だけど、間違っていないと思うよ?」
「……偶然です。たまたまアイリスが僕の帰り道の傍で倒れていた、それだけです」
「そうだね。私は運命とか信じないタイプだから、それには同意しよう。興味深いテーマだとは思うけど、私好みじゃない。だから結局さ、私も入りたいんだよ。この偶然の物語に」
指を詠歌の鼻に突き付け、彩華は笑う。アイリスとは違う無垢な笑み。邪気を抜かれるような、ありふれた人間の笑み。
「きっと君じゃなくても良かったんだろう。きっと私でなくとも良いんだろう。でも、その方が私は良い。だから私は君の反対を突っぱねてでも、首を突っ込むよっ」
「……分かりました。もう言いません」
諦めたようにそう言うと、彩華は再び歩き始めると、一際強く石を蹴りあげた。
「よしっ、なら行こう! せっかくの異文化交流だ、最後には良い思い出だったと振り返れるよう、頑張ろう!」
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