③
自宅の廊下で壁に背を預け、詠歌はこの日何度目かの溜め息を吐いた。
投げ出した手の平が廊下の冷たさを感じ、痛みを訴える。手の平を返し、傷口を見つめると今夜起こった事が現実なのだと理解できる。初めて握った剣の感触も、未だに覚えている。
そして何より、背を預けた壁の向こう、扉の奥、其処で眠る少女の存在が今も起きている現実なのだと告げていた。
「……」
傷のついていない左の手の平で目を覆いながら思考に耽る。先程から繰り返しているが、何から考えれば良いのか、そして考えた所で答えが出るのか、その自問に終わった。
「ああ、でも、そうだ……大学、どうしよう」
ふと思い出すのは自分の日常。記憶が確かなら明日は昼過ぎから講義が入っている。入学してまもなく二年目、大学生活にも、それよりも長い一人暮らしにも慣れた。だがしかし、家で他人を気にするのは随分と久しぶりだった。
彼女の体調不良は治るのか、いや治っても治らなくても、大学に行っている場合なのか、日常が非日常に冒されている事にまた溜め息を吐いた。
(でもこんな状況で大学を気にする辺り、僕もあれだな……)
ズレているのか、それともそういうものだろうか。比べる相手も、聞ける相手もいるはずがない。
考えてばかりいても仕方がない、そう結論付けて詠歌は腰を上げた。一度、アイリスの眠る部屋に繋がる扉を見てから汗と血で汚れた体を清める為に浴室へと向かった。
◇◆◇◆
翌朝、温めた濡れタオルとレンジで温めるだけの簡単な食事を盆に乗せ、詠歌は扉を叩いた。
「……」
返事はない。僅かに躊躇ったが、その扉を開けた。
カーテンの隙間から差す朝日が彼女の眠る布団を照らしている。昨日、寝かせた時と部屋の様子に変化はない。眠り続けていたのだろう。
「……」
音を立てず、その布団の傍に腰を下ろす。近くで見ると、昨日よりも顔色は良くなったように見える。荒く、辛そうな呼吸は聞こえてこない。
顔色を窺っていて、どうしても唇が目に付く。昨夜、彼女は詠歌の血に濡れた手の平に口付けた。それに吸血戦姫という異名。血の一滴でも与えれば目を覚ますのだろうか。
「……はぁ」
そこまで考えて、思わずまた溜め息が出る。寝ている少女に生き血を飲ませるとか、倒錯的にも程があると心中でツッコミを入れる。
大学の講義は休む事に決めた。彩華にもその内連絡を入れる。スケジュールは白紙、彼女が目覚めるのを待たない理由もない。そう結論付け、手持無沙汰にカーテンの隙間から漏れる朝日に目を凝らした。
「手の一つでも出るかと思ったが、勇士殿は随分と奥手なのだな」
どれ程そうしていただろうか。ぼんやりと光を眺め続けていた詠歌にそんな声が掛かる。
「別に。常識的なだけだと思うよ」
体を起こし、膝を立て、それに腕と頬を預けながら詠歌を見る彼女にそう返し、タオルを突き出す。
「これ。昨日はマントを外して、それだけだったから。少し冷めてるけど、冷たくはない」
「ん、ああ……何か違和感があると思えば、そうか、これが地上の穢れと言う奴か。良いぞ、赦そう」
「は?」
鷹揚にそう言って背を向けると、身を包んでいた衣服がパサリと音を立てて布団に落ちた。現代服で例えるならキャミソールが一番近いのだろうか。生憎と女性服に明るくない詠歌に詳しい事は分からないが、肩紐を少しズラしただけで脱げ落ちたそれを見て、溜め息のような唸り声のような息を漏らし、呆れるように顔を覆った。
「どうした、不満か? スォグンなどは褒美として髪を梳かしてやっていたが。似たようなものだろう、それとも私の体に不満があるのか」
「……君が気にしないなら別にいいけど」
初心な中学生という訳でもない。呆れながらも覆っていた手を外し、詠歌はタオルを手に、その背中へと手を這わせる。
背中と首、肩。次に手を取り、その両腕を清めていく。清める、とは言うがその肌は白く、傷の一つもない。念の為に補足すると決してジロジロと視て探した訳ではない。
「残りは自分でしてくれ」
「む、そうか。他人に触れられるというのは初めてだが、悪くない心地だったのだがな」
本当に残念そうに言うその声音からは揶揄うようなものは感じられない。常識と認識の違いなのだろう、と詠歌は部屋から出る事はせず、視線を逸らすだけに留めた。
「まだ違和感は残るが、マシにはなった」
「それは良かった。食べる物は用意したけど、食べられるかい。それとも、やっぱり血?」
「いや食事は良い。まだ肉体が地上に馴染んでいないのだろう。戦乙女共が嫌うだけあって、案外デリケートのようでな」
右手を握り、調子を確かめるように動かしながらそう言う。
「それに血もな。私は食事の為に血は啜らない。この身は
「そう。なら、話は出来るかい」
「ああ、それは良い。約束通り、返答で借りを返そう」
詠歌は一度息を吸いこみ、そして口を開いた。
「まず、君は何者? 正直、冷静ぶってはいるけど、昨日から混乱しっぱなしなんだ。その
「私自身、講釈を垂れられた事はない。生まれながらにそうである、というだけだ。清浄なる戦乙女の混じり物、のようなものだろうよ。要すれば私は人間ではない」
「……そう」
今更それを疑う気にはなれない。昨夜の光景を見ても、それは明らかだった。だからだろう、その事実を前にしても詠歌はすんなりとそれを受け入れた。
「なら君の目的は。何処から来て、何をするつもりなんだ」
「天上のヴァルハラ、その外れ。元々は宮殿の宝物庫に忍び込んで、一波乱起こしてやるつもりだったのだがな。
「……ブリュンヒルテっていうのは北欧神話の戦乙女の名前だ」
「ああ、そうだとも。真実全てが伝わっているわけではないが、おおよそ地上に残る神話の通りの世界が、天にはあるのさ」
それは彩華の言葉が真実を射ていたという事。これまで散々空振りに終わっていた『非科学現象証明委員会』の活動が、まさかこんな形で的中するとは想像もしていなかった。
「今、私が目指すのは天上への帰還だ」
「退屈していたんじゃなかったのかい」
「ああ、していたとも。だが今、私の目の前には見定めると決めた勇士が居る。であれば、それを連れ戻るのも悪くはない」
「僕は勇士なんかじゃない」
昨晩と同じように、詠歌はその呼び名を否定した。
「それを決めるのはお前ではない。私と民衆、そして何より人の刻む歴史だ」
勝手な物言いだが、怒る気にもなれなかった。人と吸血戦姫、そもそもの価値観が違い過ぎる。
「なに、だからといって私がお前に何かを命ずる事はない。昨夜のように、お前はお前の決断をすれば良い。私はそれを見定めるだけだ」
「あんな決断しなきゃならない状況なんて、もう御免だ」
「だろうな。多くの人に、世界が迫る決断は重すぎる。だがそれでもその時は来るものだ。受け入れろとは言わん。諦めろとも言わん。お前はただ、お前らしくあればいい」
「勝手だね」
「勝手だとも。神話を読み解けば分かるだろう?」
悪びれるでもなく、当然であるかのように言うアイリスに、詠歌は無表情のまま、次の問いを口にした。
「……昨日の奴らは何者なんだ?
エインヘリアルというのは北欧神話における、戦乙女の役割に関係する。生前、武勇を馳せた勇士は死後、戦乙女によって
「奴らは
「……あの子は人間なのか?」
「人間だとも。化け物にでも見えたか?」
「……僕の知ってる人間には、あんな耳も尻尾もないし、あんな傷で生きてはいられない」
だが不思議とアイリスの言葉を疑う気にはなれなかった。アイリスが人間でないの同じように、アイネが人間であると、他ならぬ詠歌自身が感じていた。理由は分からない、ただ漠然とした確信だけがある。
「そういえばお前は奴を庇っていたな。もう一度訊くが、自らを殺そうとした者を何故庇った?」
「殺されていないから。殺されそうなら抵抗もする、逃げもするよ。でも僕は生きている。だからだ」
「ふん、まあいい。アレを一度や二度殺した所で何の意味もない。アレはそういう存在だ」
「……?」
「一体どうやったか知らないが、アレはその身に宿しているのさ。我らに対抗する術を、神話を」
口の端をつり上げ、アイリスは笑う。愚者を笑うように、努力を笑うように。
「アレが今の人が生み出した神への対抗手段、神を殺す力。
二人を、部屋を、影が覆った。
「何が……?」
驚き、窓を見るとカーテン越しに浮かび上がるシルエット。
「来たか。思いの外、早かったな」
「”猫”……?」
そのシルエットは猫の物だ。だが、その大きさは異常だった。部屋を覆い隠す程の巨大な猫、そして影であるはずの猫の瞳が、大きく見開かれた。
「こっちに来い、詠歌」
「なっ……!」
その瞳と視線が交差する直前、アイリスは詠歌を自らの方に抱き寄せると、自分ごと猫の視線を遮るように布団の脇に畳まれていたマントを広げた。
首を抱き抱えられ、後頭部をアイリスの胸に預けるような体勢に抗議の声を上げようとするが、見上げた彼女の表情を見て、抵抗をやめる。
「っ、あれは一体何なんだ?」
「私も詳しい訳ではない。これでも箱入りでな。とりあえずはこれでやり過ごす」
「大丈夫なのか?」
密着しているせいで耳元で囁かれる言葉に身じろぎしながら詠歌が尋ねると、アイリスは肩を竦めた。
「さあな。だがこのマントも特別製だ。魔力を込めれば闇に溶け、姿を覆い隠す。多少は回復した今ならその効果は十全の物だ」
「猫は夜目が利く生き物だけどな……!」
「フレイアの飼い猫ならともかく、人の飼い猫如きに破られはせぬさ。
マント越しでは影の猫の様子は窺えない。だが威嚇するような唸り声だけは嫌でも耳に届いた。
「どれ、ただ待つだけでは退屈だろう。お前の意見を聞いてやる、詠歌」
「こんな状況で僕に何を……」
マントの切れ目から外を覗くアイリスがそんな事を言い始める。
文句を零そうとするが、キュッと首に回された腕に力が入り、許してくれそうになかった。さらには口許を耳に近づけ、擽るように囁いてくる。
「あれは見た通り猫だ」
「っ、ああ、そうだね」
囁きに思わず体がビクリと跳ねるが、アイリスはそれを気にする事なく言葉を続ける。
「昨晩の狂信者、名を何と名乗ったか覚えているか」
「……アイネ・ウルタール」
記憶を辿り、彼女のフルネームを口にした時、詠歌の中で繋がる物があった。
「ウルタールって、けどあれは完全な創作だろうっ? 作者もはっきりしてる、作り話だッ」
「言っただろう、人の作り出した神話だと。その成り立ちを詳しく説く程、今は暇ではない。それに人の神話だ、ともすればお前の方が詳しい」
「……」
ウルタールと”猫”、その二つの単語から思い浮かぶのは、一つの創作。
以前、彩華の提案で詠歌はその物語を
『ウルタールの猫』。即ち、作家ラヴクラフトの生み出した創作神話、クトゥルー神話の一篇である。
ウルタールとはとあるキャラバンが立ち寄ったスカイ河を越えた地にある小さな村の名だ。
キャラバンの少年の可愛がっていた仔猫が逃げ出し、不幸にも村の老夫婦の手に掛かって殺されてしまう。
老夫婦は以前より忍び込んできた猫を殺めていた。その噂を聞き、自らの愛でていた猫を殺したのがその老夫婦だと確信した少年は祈りを捧げた。それが一体何者に対する祈りだったのかは分からない。
しかしその祈りを何者かは聞き届け、雲を
猫が消え、キャラバンも村を去り一晩、朝になり村人が外に出れば猫たちが以前と変わらぬ様子で悠々と陽を浴びていた。その中には老夫婦に殺められたとばかり思われていた猫たちの姿もあった。
ただ不可思議な事にその全てが腹を膨らませ、餌を差し出しても満足そうに喉を鳴らすばかり。
そして、老夫婦の家には白骨だけが晒されていた。肉片の一つも遺さずに。
多少の解釈違い、翻訳違いはあるだろうが、それが詠歌が
つまりは猫を殺した者に災い、或いは呪いが降り掛かる物語。祈りを捧げた少年とその捧げられた神の正体は物語では語られない。ただ登場する異形の怪物は便宜上、『ウルタールの猫』と呼ばれた。
「成程な。そういう話なのか」
「君、訳知り顔で話していたじゃないか……」
「言っただろう、詳しくは知らんと。世界を見渡す
「とにかく、クトゥルー神話のほとんどが未知の存在に脅かされる人間を描いた物語だ。概要を知って、活路は見えるのか?」
「これも言ったはずだ。未だに
そこでアイリスは勿体つけるように言葉を切った。その顔を見上げると、彼女はニヤリと笑う。
「今は本調子ではない。大人しく、惨めたらしく息を潜めて隠れるとしよう」
大きく溜め息を吐き、体を器用に捩り、詠歌もマントの切れ目から外を覗く。
カーテンに映る影は胴体のみで、あの瞳のある頭部は見えない。しかしカーテンの影はまるで部屋を覗き込む体勢を取るように首で切れている。
「心配するな。息を潜めていれば見つかる事はない」
「というかあれが『ウルタールの猫』なら、標的は君だけじゃないのか?」
「さて、では試してみるか? あの獣に分別が付けばいいがな」
「……」
そう言われてはアイリスの腕を振り解き、マントを脱ぐ気にもなれない。
歯噛みしながら、様子を窺う事しか出来なかった。
その時だった。再びカーテンに全貌を映した『ウルタールの猫』の耳、その影が昨晩のアイネのようにピクリと動いたのは。
気付かれたか、緊張が走るが『ウルタールの猫』の耳は詠歌たちの方には向いてはいない。しかしピクピクッと小刻みに振動し、その瞳の瞳孔が細められていく。
そして詠歌のポケットでスマートフォンが振動した。心臓が跳ね上がる。こんな時に、と思いながら取りだして見れば、表示されているのは彩華の名前。
連絡していなかった事を今になって思い出した。
「ッ!」
其処に記されていた文面は彩華の大学の講義が午後からである事、詠歌の講義が昼だと知っていた事。そして、それまでの時間潰しに今日は北区を調査する為に
「……アイリス」
「どうした?」
「もしも今、マントから飛び出したらどうなる」
今すぐに其処から離れろ、とだけ短く理由の説明もなしにメールを送りながら、詠歌は問う。無論、あの好奇心の塊のような彩華が、これで離れてくれるなどとは思っていない。
「喰われてお終いだろうな」
「それは君もか?」
「どうだろうな」
はぐらかすアイリスに、詠歌はこれ以上待ってはいられなかった。既に『ウルタールの猫』の耳の振動は収まり、一方向に向いて動かない。見つけているのだろう、獲物を。
「クソッ!」
悪態と共にアイリスの腕を振り解き、マントを脱ぎ捨てて立ち上がる。そしてすぐさま『ウルタールの猫』に背を向けて部屋の外へと走り出す。
それ以外の音はない、だが確かに感じる。自分を狙う猫の目を。
廊下へと飛び出し、玄関とは反対方向に駆ける。築二十年程の詠歌の家はそれなりに古く、今は珍しくなった勝手口がある。その先に広がるのは誰の手入れも入っていない山道だ。そこまで引き付けられれば、多少の時間は稼げるだろう。
だが、甘かった。『ウルタールの猫』は、クトゥルー神話に語られる異形の獣の脚力はそんな時間は与えない。
扉を抜け出てほんの数歩、五メートルにも満たない距離で詠歌の体が不可視の何かに捕まれる。
「ッ!?」
廊下の壁を見れば、妖しい丸い瞳を持つ頭部が詠歌を銜えるような影を作っていた。
もがいてもその両手は空を切るだけで何も掴めはしない。
そして詠歌の体はゴルフクラブに打ち上げられるボールのように重力に逆らい、廊下を抜け、横開きの玄関の扉へと叩きつけられた。
「ぐっ! げほっ、げほっ!」
肺から酸素が抜け、叩きつけられた痛みに咳き込みながら咽る。滲む視界で天井を見上げれば、其処にはやはり丸い猫の瞳が映り、詠歌を覗き込んでいた。
「ちょ!? ちょっと大丈夫かい!? 詠歌君!」
玄関の向こうから焦りの声が聞こえて来る。彩華の声だ。やはり離れてはくれなかったようだ。
「会長、離れて……! とにかく、今は逃げて!」
「一体何を言って……何をしてるんだ、君は!?」
「いいから早く!」
バァン! と玄関の扉を叩いて立ち上がると、脇に置かれた傘立ての中に紛れていた金属バットを手に取った。何年も使わずにこんな所に放置していた自分を思わず褒めたくなる。だがこんな物で太刀打ち出来るとは思っていない。そもそも触れる事すら出来なかったのだ、何の役に立つはずもない。
「本当、昨日から一体なんなんだよぉぉぉおおお!」
叫び上げ、バットを盾にするように顔の前で構え、天井の影の下を潜り抜けるように走る。
だが、それすらも叶わない。
「ぐっ……!」
今度はバットごと、恐らくは腕だろう何かに吹き飛ばされる。持っていたバットがバターか何かのように削ぎ落され、カランカランと空しい音を立てて廊下に転がる。詠歌の手に残ったのは持ち手のグリップ部分から僅か十五センチ程だけだった。
それでも尚、懸命に影へを睨みあげる。しかし、その視界をドロッとした何かが覆った。
「あれ……」
不意打ちに無防備にもそれを左手で拭うと、昨晩の比ではない程の血液がべっとりと手を汚していた。
それが額から流れ出した血液である事に気付くと、焼けるような痛みが頭部を襲う。
「詠歌君! と、とにかく今警察を呼ぶっ! いいね!?」
背後からは相変わらず、焦る彩華の声が聞こえる。
(早く逃げてくださいよ、会長……ああ、クソ)
遊ばれているのだろう、猫が獲物を甚振るように。ならばまだ、時間は稼げる。
体はふらつき、視界は揺れる。だが、まだ生きている。なら足掻けるはずだ、まだ。
「……おらァ!」
こんな風に声を荒げるのはどれくらいぶりだろう。そんな事を思いながら、短くなったバットを天井に向けて投げ捨てる。
無駄なはずのそれを、影は跳ぶようにして避けた。
「っ! こ、のっ……!」
影は天井から壁へと移動し、姿勢を低くした。昨日のアイネに似た、狩りの姿勢。
それに詠歌が身構えるよりも速く、『ウルタールの猫』は飛び掛かっていた。
「きゃあ!」
ドンッと玄関の扉に詠歌が叩きつけられ、外の彩華が悲鳴を上げた。
「だか、ら……逃げて……!」
息苦しさにもがきながら、どうにか抜け出ようとしてもやはり腕は空を切るばかり。
「じっ、状況は良く分からないけど、出来る訳ないだろう!?」
「あなたまで巻き込まれたらッ、僕がやった事の意味がなくなるんだよッ!」
「っ!」
磨りガラスの玄関に叩きつけられた手が血液で手形を残す。
彩華に叫びながら、詠歌の内面、冷静な部分が告げていた。もしも今から逃げたところで、『ウルタールの猫』からは逃げ切れない。
既に『ウルタールの猫』は彩華の存在に気付いている。詠歌の必死の抵抗も、意味のない時間稼ぎにしかなっていない。
昨晩と同じく、決断が迫られているのだと、詠歌は感じた。
(どうせ死ぬしかないなら、足搔いてやる……!)
メリメリと詠歌を叩きつけた爪が肩に食い込んでいく。その痛みに顔を歪ませながら、息を吸い込む。ヒューヒューと喉がなるばかりで、上手く呼吸する事もままならない中、それでも詠歌は叫んだ。
「アイリスッ!」
唯一、この窮地を脱せる可能性。
「――ふん、期待外れも良い所だが、高望みはしないと言ったのは私だ。今は私の名を呼んだ事で及第点としてやろう」
音もなく、あっさりと。詠歌を踏みつける『ウルタールの猫』、その影を斬り裂き彼女は現れた。
昨晩と同じく、右手に血のような柄を握り、退屈そうに刀身を肩に担いで。
斬り裂かれた『ウルタールの猫』は霧散し、空気に溶けるように消えていく。
「本調子じゃないなんて言ってた割に……元気そうだね」
拘束から解かれ、息を整えながら詠歌が言うとつまらなそうに鼻を鳴らす。
「侮るな。畜生如き、何匹集めろうと物の数ではない。それよりもさっさと血を止めろ。後ろで煩い人間の声も止めろ」
「え……ああ」
そう言われ、思い出したように彩華の焦った声が耳に入って来る。
「詠歌君! 詠歌君!?」
「……大丈夫ですよ、会長。ちょっと待ってて下さい。今、開けますから」
玄関の鍵を開けると扉を突き破るような勢いで彩華が飛び込んで来た。
「一体何をって、きゃあ!? 血! 詠歌君、血! 血!」
「大丈夫です。見た目は派手ですけど、死ぬような傷じゃないですから」
心の中で多分、と付け足しながら彩華を安心させようと微笑んだ。
それをつまらなそうにアイリスは見つめていた。
「え、ええと! 消毒! 包帯! 安静!?」
「はいはい。救急箱は確か……」
「いいから詠歌君はじっとしてる! え、えとそこの君! 手伝って!」
混乱しているせいだろう。我が物顔で居座っているアイリスの存在を疑問に思う事なく、彩華は彼女の手を引く。
鬱陶しそうにそれを見るが、溜め息を吐いてされるがままに家の奥へと連れられて行った。
残された詠歌は戸締りを確認した後、アイリス以上に大きな溜め息を吐き、壁にもたれ掛かりずるずると腰を落とした。
「はぁ……死ぬかと思った」
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