②
パァン! と無音の空間に甲高い音が響く。
詠歌が自由を思い出した両手を勢い良く打ち鳴らした音だった。
冷静に見えて、その実混乱していたのだろう。この突然の窮地であって、そんな行動を取ったのはそうとしか思えない。
その音が響くと同時に詠歌は転がるように女の横を擦り抜けた。
そして屍たちを飛び越え、倒れ伏すこの場に在るもう一つの命へと駆け寄り、それを庇うように背中に隠した。
「驚いた。猫騙しって本当に効果があるんだ」
冷や汗が背中を伝うのを感じながら、それでも漸くこの場で発した言葉がそれだった。
背後から見れば女のマントをやはり人ではあり得ないネコ科に酷似した尾が持ち上げているのが見える。
遅れて女が振り返ると変わらずその瞳孔は猫のように細長かったが、その理由は今は別の物に変わっているだろう。
即ち獲物を狙う狩人の瞳から、驚愕に目を見開く動物の瞳に。
「お前……」
そこで初めて女は口を開いた。その声音が僅かに震えているのは驚愕か、それとも怒りにだろうか。
それは一見では判断できないし、そんな余裕は今もってない。
一度目の死線は潜り抜けたが、今も尚窮地にある事に変わりはない。
むしろ僅かに冷静になり、今のような奇策は思い浮かびそうもない。
せいぜい出来そうな手は眼下に転がる屍たちの持つ剣を取り、立ち向かう事だろうか。
現実的ではないが、現実味のない今の状況ではそうするしかない。
女から視線を逸らさず、剣へと伸びる詠歌の手。それを後ろから伸びた手が掴んだ。
「――待て。蛮勇であると理解しながらその一手を選ぶ必要はない」
「君……」
それは倒れ伏し、震えていた小さな命。
月明かりどころか太陽の輝きすらも吸い込んでしまいそうな艶やかな黒髪。乱れ、顔に掛かったその髪の隙間から紅い瞳が覗いている。
掴む手は小さく、華奢で振り解けばそれだけで折れてしまいそうな程に細い。
少女の手、そうとしか言い表せないその手を、しかし詠歌は振り解けない。手折ってしまいそうな恐怖からではなく、振り解こうとする意思が生まれて来ない。
「勇気と蛮勇を間違えない者であれば、ふん、見定めるのも悪くはない。そもこんな状況では高望みもせぬさ」
深く、心の隙間に入り込んで来るような甘い声だった。
思わず身を委ねてしまいそうになる、甘い囁きだった。
「おい、名は何と言う?」
「詠歌……
名前を名乗っている場合ではない。そう理解しながらも、詠歌はその問いに答えた。
今、この瞬間を壊すのは憚られた。理由は分からない。だが、そうするべきだと思った。
「そうか。では奴を見ろ。そして私を見ろ」
言われるがまま、蒼髪の女を見る。少女の動きに警戒しているのか、初めて構えを取っていた。姿勢を低くした、狩りの姿勢。
それから目を離す事など、先程までなら決して出来るはずもなかった。しかし自然と視線は背後の少女へと戻る。
黒い髪、紅い瞳、そしてその身を包む黒いマントは蒼髪の女と同様に擦り切れている。
「感じているだろう、私の悪性を。感じるだろう、奴からの魔性を。問い掛けよう、勇ある者」
その言葉と共に少女は掴んだ腕を放した。
「私の悪を断じるならその剣を取れ。奴の魔を断つなら――私の手を執れ」
それは甘い誘惑。選択肢を与えられてはいるが、選択の余地はない。誘われるがまま、詠歌の手は伸びていく。
「惑わされるな!」
それを止めたのは、蒼髪の女の叫び。
「……今までの行いを謝罪しよう。目的の為、私はあなたを殺そうとした。だがもしもその誘惑を断ち切り、剣を取るならば、私はあなたを尊敬しよう。悪魔の甘言に惑わされない、意志強き信徒として。あなたは同士足りえるお方だ」
女は姿勢を正し、膝を着いた。其処からは先程までの狩人の気配は感じられない。その言葉に嘘はないのだろう、それは心底からの真摯な言葉だ。
「私はアイネ、アイネ・ウルタール。それが神から賜った名。そしてその者は――
「
その単語から思い浮かぶのは彩華と探し求めていた、いるはずのない
北欧神話に名を連ねる主神の使い。
だがヴァンパイアとは何を意味しているのか。
「その者は自らが崇める主神に背き、地へと堕とされた反逆の徒、紛れもない悪。私はそれを討たねばなりません。……あなたに刃を向けた事、それを正義とは言いません。しかしどんな犠牲を出しても戦姫を討つ。それが善なる行為に繋がる、そう信じています」
「ふん、良く回る舌だ。だが間違ってはいない。確かに私は悪だとも。少なくとも私が始まったその時から、悪として存在して来た。もっとも、狂信者からすれば己の信ずる神以外も、それを信仰する者も、等しく悪なのだろうがな」
詠歌には彼女たちの交わす言葉のほとんどが理解できない。
「あなたは
ただ分かるのは、二人の内どちらにも正義などと呼ばれるモノはないという事。
そしてアイネと名乗った蒼髪の女の言う通り、吸血戦姫に魅了されている事。
ならば取るべきモノは決まっていた。
詠歌の手が剣へと伸びる。
それを止める手はない。
ただ吸血戦姫の瞳が諦観に、アイネの瞳が尊敬の色に染まっていくだけ。
しかしそれに詠歌が気付くことはない。既にその瞳は月光を反射するその刃しか見ていない。
――そして、詠歌の手は。
「ッ――」
白銀の剣、その”刃”を掴んだ。
鋭い痛みが手の平を走る。その痛みが思考を晴らす。混乱からも、魅了からも脱し、ただ痛みだけが走る。
「っ!」
その痛みを越え、詠歌は立ち上がった。
この場の誰にも流される事無く、彼はその手に執るモノへと傷のない手を伸ばす。
「――いいや、こちらでいい。お前の勇を示す、お前を表すこの手で」
そして吸血戦姫は傷ついた詠歌の手を執り、労わるようにその手の平に口づけた。
口付けられた手の平が熱を帯びる。それが痛みによるものか、羞恥によるものなのか、今の詠歌には判断がつかない。
「ッ――愚かな! 人であるなら感じるはずだ、その悪性を! 善なる人なら分かるはずだっ、なのにどうして!」
「いいや、否! 善悪に惑わされず、人らしい決断をしたこいつこそ、何者よりも正しい! こんな
その叫びと共に紅黒い光が周囲に満ちる。風ではない目には見えない力の本流に木々が揺れる。
思わず目を覆う。それが収まった時、詠歌の目の前でマントが翻った。
「畏怖でもなく、畏敬でもなく、ただ私の名を呼ぶ事を赦そう。私の勇士、我が名は
顔を覆っていた黒髪が流れ、その顔が明らかになる。やはりその手と同様、少女の顔つきをしていた。
しかしその顔に浮かぶ笑みはそれに似つかわしくない、凄惨なモノ。恐らく悪と呼ばれるに相応しいものだ。
「長くて呼びにくいだろう? 私もあまり好きではない、アイリスとでも呼んでくれ、詠歌」
けれど。
その詠歌に向けた微笑みはやはり、少女らしいものだった。
思わずまた、詠歌の心は空白に染まる。その空白が――彼女に見惚れていたのだと気付くのはもっと後の事になる。
「さて、では望み通り悪を為して血を啜ろう。貴様の望んだ通りに」
その言葉と同時に虚空から剣が現れる。地に転がる剣とも、アイネが握る剣とも違う物。
白銀の刀身、持ち手である柄だけが先程の光と同様の紅と黒に染まっている。
「戦乙女の甘言に乗り、唯一性を失い雑兵に堕ちた
「くっ――!」
黒いマントを翻し迫るアイリスと名乗った少女の一撃を、アイネは辛うじてその剣で受け止めた。
火花を散らし、擦れ合う刃を押し返したのはアイネよりも小柄なアイリスの手だった。
詠歌の位置からではアイリスの表情は窺えない。だが対するアイネの表情は焦りと驚きに歪んでいる。
剣術の心得など詠歌にはない。しかし地面に横たわる無数の屍、それを晒したのが本人の言う通り、アイネならば決して生半な腕前ではないはずだ。
「どうした、狂信者! 私の首を捧げるのではなかったか!」
愉しげに
「
「ああ、そうだ! 呼べ、我が名を! 恐怖と共に謳え、我が名を! この身は血を啜り、悪を為す戦姫なれば!」
怒りを込めて再び呼ばれる、
それが一体何なのか、二度のオーロラと本当に何か関係があるのか。未だ理解する事は叶わない。
自分自身が何をしたのか、何をしてしまったかのすら詠歌には理解出来ない。
「っ……」
だが今、自らを殺そうとした者が追い込まれている。
(……それは、駄目だ)
止まる事なく溢れ出す血に染まる手の平を見て、それを握り締める。そしてもう一方の手に、もう一つの選択肢を握った。
「アイリスッ!」
名を呼ぶ。彼女が名乗り、願い出た名を。
初めて握った剣は、彼女の手とは違う冷たく、固い感触と想像以上の重みを詠歌に伝える。
「――どうした、勇士よ」
受けるのが精一杯だった様子のアイネごと、剣を振り切り、彼女を吹き飛ばした後でアイリスが振り向く。
その表情は先程見た少女の微笑みが幻だったかのように、その唇は中天に浮かぶ三日月の如く、つり上がっていた。
「……僕は勇士なんかじゃない。事情も理解出来ていない僕が、君を悪だと断じる事も出来ない。だけど、もしも君がその人を殺すなら、それを見過ごす事は出来ない。それが蛮勇だと分かっていても、この手を放す事は出来ない」
詠歌の言葉に、アイネの瞳が細まった。浮かんでいた笑みは潜み、その唇も横一線に結ばれ、表情が消える。
それを視界に捉えながら、尚も言葉を続けた。
「そして多分、事情を理解したとしても、僕は……手放せない。僕の選択が人を殺す事に耐えられないから」
「この狂信者の事情を理解していないのは私も同じだ。何せ堕ちて来たばかりだからな。だがこいつは私の首を討ち、そしてお前も殺そうとした。ならば結果が逆でも文句はないだろう? その程度の覚悟はあるようだしな」
「いいや。僕は生きているし、君もそうだ。それにこの人たちも、人間ではなさそうだ」
先程から足元の屍たちから粒子となって光が漏れ、その身体が消えていっている。飛び散っていたはずの血も、いつの間にか消えている。
そもそも、彼らからは生きていた人間の、生々しさが感じられなかった。
「だから私に刃を収めろ、と。
アイリスは剣を地面に突き立て、その柄を指で弾いて弄びながらつまらなそうに鼻を鳴らす。
詠歌からも、アイネからも意識が逸れる。それを見た詠歌は視線を送った。
吹き飛ばされ、膝を着いていたアイネと視線が交差する。彼女は悔しげに表情を浮かべながらも、音もなく立ち上がった。その表情が意味するのは、一度は彼女を選ばなかった詠歌に助けられる屈辱だろう。
「一度は勇を示し、見定めるのも悪くないと思えた貴様の頼みだ、であれば」
最初に聞こえたのはブンッ、という風を切る音だった。その一瞬の後――人体を貫く形容しがたく、しかし嫌悪を催す音が響いた。
「これで手打ちとしようか」
「っ、ぐっ……!」
弄ばれていた剣が地面を、アイリスの手を離れ、後方のアイネの腹部にその刀身が吸い込まれていた。
短い呻き声と共に、アイネの口許から血が滴り落ち、腹部からは止めどなく血液が溢れ出す。詠歌の手の平とは比べ物にならない程、一目で助からないと分かる程に。
「なっ――!」
詠歌の口から驚きの声が漏れ、剣を握る手に力が入る。アイリスを見つめる視線に力が入る。
「精々感謝する事だな、狂信者」
そんな視線を気にも留めず、アイリスは詠歌に背を向けてアイネへと近づき、容赦なくその腹部に突き立った剣を引き抜いた。
「
「お、まえ……!」
二人の震える声が重なる。
だが二の句を紡いだのは彼女の方が先だった。
「私を、殺したな……!」
「ああ、殺したとも。貴様のそれが死だと言うのなら。精々感謝する事だな、勇士に。そしてお前の救世主に」
「ふざけるな、私を、我らを救ってくださるのは我らが信ずる神のみ!
「……!」
剣が抜け、血を吐き出しながらも止まらず言葉を吐き出し続けるアイリスを見て、詠歌はそれ以上言葉を紡げない。
人体に詳しいわけでもない、だがあそこまでの傷を負って、ああまで言葉を紡げるものなのか。それとも彩華に語ったように、宗教、信仰という拠り所はああまで人を強くするものなのか。
「悪行は善行によってのみ
詠歌に向けて最後にそう言い放ち、アイネは明らかな致命傷を負っているとは思えない軽やかさで飛び上り、木々を揺らして夜の闇の中へと消えていく。詠歌はそれを唖然と見送る事しか出来なかった。
アイネは消え、倒れ伏していた屍も、そして握っていたはずの剣もいつの間にか完全に光となって消えている。夜の闇の中、残されたのは二人だけ。
「……」
アイリスは詠歌の制止を聞かず、アイネを殺した。
アイネはアイリスに己を殺したと言い放ち、しかし地に伏せる事無く消えた。
状況も意味も、今起きた出来事のほとんどに理解が及ばず、詠歌は言葉に詰まるが、それを説明できるのは此処に残ったアイリスしかいないと彼女に視線を向けた。少なくとも先程の口ぶりでは、剣を向けた詠歌に怒りを向けてはいなかった。会話を試みるのは無謀ではないだろう。
「さて、ふむ……そうだな、詠歌」
「あ、ああ……はい」
口調に困り、何とも言えない返事を返すとアイリスは苦笑した。
「そう畏まる必要はない。言っただろう、畏怖でも畏敬でもなく、ただ名を呼ぶ事を赦すと。……こちらに来い」
アイネの腹部を突き刺した剣を現れた時と同じように虚空に消し、詠歌を呼ぶ。僅かに躊躇ったが、詠歌はそれに従った。
「一つ言っておくが、貴様の選択、もしも順序が逆だったならばその首、落ちていたと思え」
その冷淡な声に、詠歌は本能的な恐怖を感じた。善悪を断じるつもりはないが、恐らく本人の言うように彼女は悪なのだろう、そう確信するには十分だった。
「勇士、とは呼んだがまだ遠い。私に指図するにも、私が見初めるにも。私が貴様の意を汲んだのは借りを返したに過ぎない。最初に私を選んだ借りだ。生憎と借りなど作った事がないのでな、そんなもの、いつまでも抱えていられるものか」
「……でも君は、あの人を」
殺意がなかったとは思えない。間違いなく、アイネは殺されていたはずだった。
「問われて答えを返すなど私はした事がない。故にそれでもう一つ借りを返すぞ」
「……? 僕はもう、君に貸しなんて……」
過程はどうあれ、結果はどうあれ、命を救ってもらったのは詠歌の方だ。
アイリスの言葉の意味を問い掛けようとするが、それは叶わない。
「……これで、もう一つ借りだ」
その言葉と共にアイリスが詠歌の方へと倒れ込んで来たからだ。その身体を辛うじて受け止める。
恐ろしく軽く、そして熱かった。驚いて抱き起こし、その顔を覗くと瞳は閉じられ、荒い呼吸を繰り返していた。
「アイリスっ?」
「はぁっ、はぁっ……」
呼びかけても返事はない。意識を失っているのか、それとも言葉を発する事も出来ない程に衰弱しているのか。その判断はつかないが、このままにしておく事は出来なかった。
「ああ……くそっ」
混乱と苛立ちで空いた手で頭を掻き、その時に走った手の平の痛みにさらに腹が立った。
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