⑥
複数の山々と田畑が広がり、民家が点在するだけの北区。其処を文字通り飛び出し、詠歌たちはビル群の間を抜けていく。
一体どれだけのスピードが出ているのか、体感では分からない。ただ眼下の景色が早送りするように流れていく。
「っ……!」
歯を食いしばり、風に目を細めながら必死に詠歌はマントにしがみ付く。
どういった仕組みなのか、その擦り切れたマントはまるで翼を広げるようにその大きさを変化させた。だが千切れる気配はなく、それを身に着けるアイリスの首元が締まる様子もない。もっとも、それを確認するだけの余裕は詠歌にはないが。
飛行している、というわけではない。アイリスが異常な脚力で木々を、ビルを、あらゆる物を足場として跳んでいるのだ。
着地の度に相当な衝撃が発生しているはずだが、マントを掴む詠歌にそれは伝わらず、足場とした木々やビルが破壊される音も様子もない。それもやはりマントの力なのだろう。
「堕ちる時に見た時は生き辛そうな場所だと思ったが、こうして駆けてみれば面白い物だ。少なくともヴァルハラよりは面白味がある」
「く……っ……!」
愉しげに言うアイリスに文句の一つでも零したい所だが、口を開けば舌を噛んでしまいそうで、かといって彩華に危険が迫っている以上、スピードを落とせと言えるはずもなく詠歌はただひたすらに耐えるしかない。
強風に霞む視界の中、一つのマンションが見えた。何度か彩華を送り、その下まで来た事がある。
「あれか」
彩華に付けた蝙蝠越しに知ったのだろう。迷いのない足取りで、一際強く足場を蹴った。クルクルと回っていた二十四時間営業のファミリーレストランの看板がその勢いで逆回転した。しかし不思議と破壊される様子はない、がそんな事を気にする余裕もない。
「っ……! 間に合ったのか!?」
一足でマンションの上空まで跳び上がり、重力に任せた自由落下へと動きが変わった事で漸く詠歌は口を開く事が出来た。
落下している恐怖がないわけではない。だが先程までの経験した事のない三次元的高速移動に比べれば、それは微々たるものだ。
「
ガン! と思い出したように音を鳴らしながらベランダの縁に着地し、その衝撃で詠歌はベランダの内側に転げ落ちる。
適当なタオルで包み、無理矢理にベルトに差した聖剣の
「ぐっ……っ……」
何とも情けない姿だ、と自嘲しながらもどうにか腕と膝をつきながら体を起こし、顔を上げる。
「……ええ、と……」
「……おはよう、ございます。会長」
そして目をぱちくりと丸くしている、ベランダの掃き出し窓を開けた彩華と目が合った。
時刻は早朝、寝間着であろうTシャツを着た彩華は一瞬固まると、凄まじい速さでカーテンを閉めた。
「こういうのを押し掛け女房と言うのだったか?」
とん、と軽やかに縁から詠歌の横に降りたアイリスの的外れの呟きが、嫌に響いた。
「……押し掛けられる方じゃないし、女房でもないし、そもそもそういう意味じゃないし」
諦めたようにそうツッコミを入れ、がくりとうな垂れる詠歌だった。
とはいえ、そんな場合ではないとすぐに気持ちを切り替える。彩華の無事は確認出来たとはいえ、アイリスが言う通りならば『ウルタールの猫』は今も此処に迫って来ている。
確かめるように聖剣の柄を握る。たとえこの剣が『ウルタールの猫』に通じる聖剣だとしても、昨日詠歌は手も足も出なかった。当然だろう、詠歌は神話に語られるような聖剣に選ばれた勇者ではない、ただの一般人だった。
この聖剣が宝の持ち腐れだという事も分かっている、だが彩華を巻き込んだのは詠歌で、もうアイリスにこれ以上の借りを作るつもりもなかった。
「そう気を張るな」
「……無茶を言うなよ。僕は今まで、剣なんて握った事もなければ、殺されそうになった経験もないんだ」
「だが今のお前は二度殺されかけ、その度に歯向かった事実がある」
アイリスは詠歌の顎に手を添え、自身を見上げさせた。
「ならばそろそろ良い頃合いだろう。三度目だ、次はお前が奴を見下ろす番だ」
「……簡単に言ってくれるね」
二度、殺されかけた。だから殺し返す、そんな度胸も覚悟も詠歌にはない。
だが、それでも。
「僕には殺せない。けど……傷つける事は躊躇わない」
「甘いが、それで良い。歯向かい、足掻き続けろ。それでこそ私の勇士だ」
甘いと断じられると思っていた詠歌の精一杯の覚悟を、アイリスは否定しなかった。
彼女を喜ばせる為に言ったわけではない。むしろ、彼女の期待に応えない為に口にした覚悟だった。
結果として深まった彼女の笑みから顔を背けるように添えられた手を振り払い、立ち上がる。
「――とはいえ勇士の初舞台に此処は狭すぎる」
ギャアアア! と、耳を塞ぎたくなるような鳴き声がした。
いつの間に近づいていたのか、『ウルタールの猫』の爪が振り払われたアイリスの手に受け止められていた。
屋外だからなのか、昨日とは違い影ではない。まるで雨雲や雷雲を凝り固めたような灰色の毛並みを持つ、巨大な猫の姿だ。
「舞台に上がってもらおうか。貴様もめかし込んで来たようだしな」
力を込めたようには見えなかった。だが、『ウルタールの猫』はアイリスが腕を振るっただけで持ち上げられ、そして空中へと投げ出され、しかし落下する事はない。
一瞬の間に空中に描かれた魔法陣のようなものに阻まれ、そのままその上を滑っていく。
「得意ではないが、この程度の魔術は私にも備わっている。急拵えではあるが、不満はあるまい?」
「……それはどうも」
らしくもない、そう自覚しながらも再び相対した『ウルタールの猫』への恐怖に打ち勝つ為に、詠歌もまた舞台に上がる役者のように、この舞台に相応しくないタオルを解き、聖剣を抜いた。
「会長の事、頼むよ。出来れば見られたくない」
「無論だ。この舞台の観客は私だけで良い。誰にもこの席を譲りはせぬさ」
「見物料は高いよ」
この戦いはアイリスの為の物ではないけれど、それで僅かでも借りを返せるなら、今だけは。
アイリスの言う勇士では詠歌はないが、自分なりの勇気を魅せるとしよう。
改めて握った聖剣は、素人のはずの詠歌にも握り方を教えてくれた。不思議とこれで良いのだと、握り方、構え方が分かった。
『やはり……やはり、
魔法陣の上に飛び降りると、形容しがたい『ウルタールの猫』の唸り声に混じり、ノイズがかったアイネという剣士の声が聞こえる。憎悪の混じった声だ。信頼する者に裏切られたような、そんな声。
『どうして理解してくれない。あなたは善良なる者のはずだ。確かにあの夜、あなたの目には
「善悪論も感性論も今は意味がないよ。僕はただ、借りを返したいのと君が会長を狙うから、此処に居る」
『その行いが人に
「アイリスを追って来た
それに借りを返したいのはアイリスだけではない。二度も殺されかけ、死んでいないからといってそれで終わりに出来る程、詠歌は優しくない。
今、此処に立っているのは、『ウルタールの猫』にも返さなければならない借りがあるからなのだから。
「僕は
『――!』
詠歌の言葉に『ウルタールの猫』は咆哮を上げた。ビリビリと音の振動が肌に伝わって来る。
姿勢を低くした、狩りの姿勢。それに応じるように詠歌もまた剣を構え、腰を落とした。
速さでは敵わない。力でも敵わない。敵うのは握り締めた一振りの聖剣のみ。
「くっ……!」
だから詠歌は飛び掛かる『ウルタールの猫』から瞳を逸らさない。ただ視界と聖剣を持つ腕だけに意識を集中させた。迎え打つしか、詠歌に出来る戦法はない。
そしてそれは正しかった。眼前へと迫った爪を、聖剣で弾く事が出来たのだから。
『! その剣は……!』
想像よりも衝撃は少なかった。無論、受け止めた腕は痺れを訴えている。だが、一撃で剣を取り落とす程のものではない。
『異教の聖剣か……!?』
二度、この剣で腹部を貫かれ、猫の影を斬り捨てられ、それでも気付いていなかったのは、やはり彼女が人間だからなのだろう。
実体を持つ異形の猫と化した今だからこそ、詠歌の持つ聖剣の存在に気付いた。
「ふっ……!」
驚き、追撃を行わなかったからと言って、聖剣に関して詠歌が説明するはずもない。
長期戦を行う体力ですら、詠歌は敵わないのだろうから、隙を晒したのならそれを突いて当然だった。
『どうして
だがそれは空振りに終わる。驚愕し、それでも『ウルタールの猫』に剣は掠りもしなかった。
「まだ……!」
一撃で仕留められるとは思ってはいない、間髪入れず、隙を晒さない為にもさらに剣を振るう。二撃目も肉を断つ事はなかったが、屈んだ『ウルタールの猫』の灰色の毛を僅かに刈り取った。
『ぐぅ……!』
宙に舞った毛が黒い炎となり、火花のように舞い散る。ただ毛を斬るだけだと思ったその一撃に、アイネは苦悶の声を上げた。
聖剣の力か、あの程度であってもダメージは通ると分かり、詠歌はさらに剣を振るう。
(そう簡単にいくとは思ってない……でも、振らなきゃ当たらない!)
構えは分かっても、型までは聖剣は教えてくれない。酷く無駄の多い動きなのだろうと思っても、そうするしかなかった。
『この……! 異教の聖剣如きで!』
「っ!」
五度、六度と振るい、振り下ろした剣を猫はその爪で足場となっている魔法陣に押さえつけた。間髪入れず、残る片方の爪が詠歌の頭上から振り下ろされる。
避ける為には剣を手放すしかなく、剣を手放せば次の手はない。剣は完全に腹を押さえられ、刃を返す事も出来ない。
『次の生でこそ、善なる者として生まれ落ちるがいい』
顔を覆う影の下、詠歌は嘲るように笑った。
「次なんてないよ」
『!?』
『ウルタールの猫』の爪に感じたのは、人の肉を斬り裂く感覚ではない。爪と爪の間、そこに食い込む金属が引き起こす痛みだ。
あの時、削ぎ落され、短くなった金属バットの鋭く尖った先端が食い込んだ痛みだった。
金属バットは詠歌の手を離れ、『ウルタールの猫』がもがく様に爪で虚空を掻くとカランカランと遠くに転がっていく。
『ぐうぅぅ!?』
「っ、らぁ!」
剣を押さえる拘束が緩むと同時に刃を返し、爪ごと『ウルタールの猫』の右の前足を斬り裂いた。
ボゥッ、と斬り裂いた傷は血の代わりに黒い炎を上げる。毛を刈り取った時の比ではない勢いに思わず詠歌は後退しようとするが、此処で退けば勝機はないと熱に肌が焼かれる感覚を感じながらも、さらに一歩踏み込んだ。
「っ――あああああああああッ!」
痛みと恐怖を誤魔化す叫びと共に、のけ反った『ウルタールの猫』、その露わになった喉笛に向け、聖剣を突き刺した。
そのまま喉を横に斬り開こうと力を込めるが、痛みにのたうつ『ウルタールの猫』にしがみ付くのが精一杯で、それ以上力を込める事が出来ない。
「なら……!」
『ウルタールの猫』の口許からは内側から焼かれているのだろう、黒い炎が噴き出している。その熱を感じながらも手近にあった髭を掴むと、剣を手放した。
「これでッ!」
暴れる勢いに逆らわず、自ら魔法陣を蹴り上げ、手放した聖剣の鍔へと向けて思い切り膝蹴りのように、その刀身を今度こそ『ウルタールの猫』の喉笛、その深くまで押し込んだ。
『がぁぁぁぁぁあああああ!』
ノイズのかかったアイネの叫びと、『ウルタールの猫』の痛みにもがく形容し難い咆哮が重なる。
耳を塞ぎたくなるその音に、力が緩み、猫から振り落とされた。
「っ……」
焼けた肌が擦れ、顔を顰める。今の衝撃で額の傷も開いたのだろう、酷く痛んだ。
額を押さえながら体を起こすが、立ち上がりはしない。
もう聖剣は手放した。もしもこれで『ウルタールの猫』を倒せなければ、もう手はない。
出来る限りの事はやった、そう思うと急激に疲労が襲って来る。ふと見れば手は汗ばみ、それが焼けた肌に染みた。
「……けど、まあ」
気は晴れたかな。その詠歌の呟きと共に聖剣による炎は『ウルタールの猫』の全身へと広がっていく。
朝靄の中、いつの間にか昇っていた朝日と炎に包まれながら、
やがて『ウルタールの猫』の消滅と共に炎が消えていく。その焼け跡に残ったのは変わらぬ輝きを放つ聖剣と倒れ伏すアイネ・ウルタールだった。
「ご苦労だったな。無様ではあったが、見事であった」
「アイリス……」
口を挟まず、手も貸さず、詠歌の戦いを見守り続けていたアイリスが詠歌の傍に近寄り、尊大ながらも労いの言葉を掛けた。
「……手、貸してくれる」
「なんだ、腰でも抜けたか?」
「違うよ」
それを否定し、詠歌は立ち上がると気を失っているアイネの方に向かった。そしてアイネの腕を肩に担ぎ、アイリスを促す。
「この子、運ばなきゃ」
「……ふん、わざわざお前がする事でもないだろうに」
不満そうな口振りで、それでもアイリスは聖剣を詠歌の代わりに回収した後、反対の腕を肩に担いだ。
「――ぷはぁ! やっと開いた! 詠歌君、エリュンヒルテ様! 一体どうしたんです!?」
アイリスが何かをしたのだろう、今になって彩華がベランダに飛び出し、詠歌たちの様子を見てまたも目を丸くして驚いた。
後輩が早朝に押し掛け、着替えている間にまた傷だらけになっていれば無理もない。
せめて心配させないように、もう一度詠歌はあの言葉を投げかけた。
「おはようございます、会長」
「ええと……お、おはよう?」
困ったように首を傾げながら、彩華はそう返す。まだ一日は始まったばかりだ。
隣のアイネとアイリスの顔を横目で見て、長い一日になる事を予感した。
◇◆◇◆
事情を飲み込めないまま彩華は詠歌たちを部屋に上げた。
ワンルームマンションの部屋の隅、カーテンの向こう側のベッドにアイネを寝かせ、詠歌の手当てをした後、何はともあれ、と簡単な朝食を用意してテーブルに並べる。
「彼女がエリュンヒルテ様たちが言っていた、アイネちゃんですね? 気絶しているだけみたいですが……一体何が?」
「んむっ。何の事はない、奴が貴様を狙っていたから、それを追いかけ、聖剣を以て猫を斬り捨てた。んくっ、それだけだ」
出されたトーストを頬張りながら答えるアイリスに詠歌は黙ってコーヒーを差し出し、飲み込むように促す。
素直にそれに従い、コーヒーでトーストを流し込むが、苦味が口に合わなかったのか、顔を顰めた。
「それでまた詠歌君が怪我をした、というわけですか……まったく、無茶をするんだから」
「勇士自らが選んだ事だ。責めるよりも労ってやれ……む」
またも無言で差し出されたシュガーポッドから角砂糖を三つ淹れて飲み直すと、今度は気に入ったのか、空になったカップを詠歌の前に戻した。
「すいません。これで一安心、というわけではないでしょうが、目に見える脅威はなくなりました」
「責めるつもりはないんだ……けど、うん、やっぱり心配はするね。君がそうだったように」
申し訳なさそうに詠歌はそのカップを彩華の方に差し出すと、彩華は新たにコーヒーを注ぎ、それは詠歌を通してアイリスへと届けられる。
「それにしても聖剣! 実にそそられる響きですね!」
やはりというべきか、彩華はアイリスの口にした聖剣という言葉に反応し、瞳を輝かせた。
「
再び注がれたコーヒーに角砂糖をボトボトと投入しながら(今度は四つにチャレンジしていた)アイリスは興味がなさそうにマントから回収した聖剣を取りだした。
「北欧の
しきりに頷きながら聖剣を観察し、やがて満足したのか咳払いの後に改めて彩華が尋ねた。
「それで、彼女をどうするおつもりなのですか?」
「私は別に奴の死体を突き付けても良かったのだがな。勇士がそれを良しとせぬなら、勝者の意を汲むとしよう」
「彼女の所属しているであろう組織、教会の場所が分かったんです」
詠歌の家の裏、北区の山にその教会がある事を告げる。
「まさか、こんな近くに非科学、非日常が潜んでいるなんてね」
これまでの活動の悉くが空振りに終わった事を思い出しているのだろう、苦笑しながら彩華が言う。
それでも詠歌程の衝撃を受けていないように見えるのは、何度空振りに終わっても非科学の存在を信じて疑わなかった故だろうか。
「まずは彼女が目覚めるのを待って、話を聞こうと思います。そう簡単に口を割るとも思えませんが、アイリスも詳しくはない
何度も聖剣頼りのあんな戦いは御免だ、と心中で呟きつつ、詠歌もコーヒーを飲み干し、漸く一息つけた気がした。
「うん、それは賛成だ。……でも不謹慎かもしれないが、私も詠歌君の勇姿を見てみたかったよ。私の為なら、尚更」
「勘弁してください」
期待の目を向ける彩華に、首を振って嫌そうな声を上げた。
そんな事を言っている場合ではないと分かってはいるが、これは詠歌にとって日常に戻る為の戦いだ。自分の日常離れした姿など、他人に見せたくはない。
「残念だ。けれどありがとう、そしてお疲れ様。まだまだこれから何だろうけど、今は休んでいてくれ」
「……そう、ですね。お言葉に甘えます」
背中のソファに背を預け、息を吐く。初めて上がった女性の部屋で、こうも寛ぐのはどうかと思ったが、それでも体が休息を求めていた。
「また膝を貸してあげようか?」
「それも勘弁してください……」
「ほう。それなら褒美に私がしてやってもいいぞ?」
「君まで悪乗りしないでよ……」
悪戯気な笑みに挟まれ、それから逃げるように詠歌は目を閉じた。
後少し、
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