花冷え

 梅の花が見頃の季節。今夜は、博文の誕生日だった。美智は、里美お薦めの場所を予約していた。

『結婚。匂わせてみようかな ……でも』美智は、そんな事を考えながら、残業にならない様に早々と業務を熟していった。

「美智……いつも仕事早いけど……今日何だか凄いよ」里美が舌を巻く程だった。

「うん。今日は急いでいるの」

「もしかして、デート? 」里美の言葉に、美智は微笑みだけで返す。仕事を終わらせて、化粧を直し、里美の「楽しんでね」の言葉を受けて会社を後にする。

 駅に向かう途中、美智のスマホが反応した。

 ヒロの文字を確認する。すると、『ゴメン、今日行けなくなった。お店のキャンセルお願い』と無機質な文字が並んでいた。すぐ様コールを入れるが、反応がなく、『え? どうしたの? 仕事?』と送るが返信は無かった。

 その夜、美智は部屋の中で、博文からの連絡を待ち、狂った様にスマホ画面を眺めながら、朝を迎えていた。その所為で、翌日の美智は体調が思わしくなかった。


 翌日の昼食時。鈴香は、美智の隣でコンビニのおにぎりを頬張りながら周りに話しかけてきた。

「昨日行ったイタリアン、美味しかったですよ」

「鈴ちゃん、本当に色々なお店行くよね。お金無いって言いながら」美智の向かいのデスクで里美が言う。

「金欠ですよ。色々と助けてくださる方々が居るんです」と、鈴香は発した後に、美智は「大森さん。彼氏と行ったの?」と、お愛想程度の一言だった。

「はい。彼氏と友達と 楽しかったです」少し間を置き、思い出した様に付け足した。

「あっ! 昨日は四方さんも、おられましたよ。お誕生日だったそうです。皆で祝ってあげたら、凄く喜ばれていました」屈託のない笑顔で、悪振れる事なく言って退けた。

「そうなんだ。四方さんの誕生日、昨日だったんだ。みんなと、ホントに仲がいいんだね」里美が挨拶程度に、言葉を返した。そして、視線を美智へと移すと里美は驚いた。

「美智。どうしたの。 顔色悪いよ!」

「ごめんね里美。ちょっと、席、外す」美智は鈴香の話しを、耳に入れると朝からの不調が酷くなり、異物が出そうになっていた。化粧室で嘔吐をしていたら、涙が溢れ出し、やがて嗚咽していった。

『誕生日。私と過ごすより、あの娘と過ごしたかったんだ。酷い』美智の中に以前に芽生えた、ドス黒い感情が広がっていくのだった。

 外に出ると鈴香が心配そうに「片岡さん大丈夫ですか?」と、こちらの様子を伺っていた。美智はその顔を直視出来ずにいた。鈴香に対する嫌悪感が、身体の中で覆い尽くしていたから。美智はそんな自分が、情けなく、涙が容赦なく流れ出るのを感じた。

「美智。休憩室行く? 早退させてもらう?」里美が、美智の色の無い顔色と涙を見て、上司に掛け合っていた。それを受けて上司が、美智に声を掛けた。

「片岡さん。今日は帰って下さい。明日は出てこれる?」

「はい。すいません……」か細い言葉と共に、美智は帰途に着く用意をすると、鈴香が「お大事にして下さい。片岡さん」と、言葉を掛ける。美智は聞こえてない振りをして、帰途に付いた。その声でさえも、嫌悪感を増していく存在となったから。


 三日後の日曜日。美智は部屋で博文の誕生日の夜の事は、何も聞けずにいた。博文は、美智の想いを余所にまるで何も無かったように、謝罪もしなかった。今も、スマホ画面を眺めて楽しそうにしている。

「ヒロ。もう、止めて」美智は独り言の様に呟いた。

「どうしたの」博文は、スマホを持つ手を緩めて美智に尋ねる。「スマホ見るの止めてよ。私といるの、そんなに嫌なの! この間だって!」博文は、変貌した美智に驚きを隠せなかった。

「どうしたの美智?」美智は下を向いたまま、何も言わなかった。博文は抱き寄せ、キスをしようとしたが、頑なに拒まれる。

 博文は大きな溜息と共に「どうして美智は、いつも そんななの! 言いたい事があったら、はっきり言いなよ!」

その言葉に、美智は情けなくなり、涙を流すと。

「もう帰る」と、言い放ち、そのまま美智の部屋を後にした。


 それは誰から見ても、よくある恋人通しの痴話喧嘩だった。

 少し言い合いをしただけ、すぐに元に戻る出来事。しかし、美智はその夜博文へ、言葉を送ってしまう。『もう、別れよう。しんどいよ』と。博文からの返信は無かった。


 時は過ぎて、桜の季節になり、博文からは何の連絡も無かった。美智は、意を決して『もう一度きちんと話をしたい。逢えないかな』と送ってみた。既読を確認するも返信はなかった。


「そう言えばソフトのメンテ担当 、四方さんから変わりましたね。この前、後人の方と挨拶に来られてました」 

 美智の向かい側で、里美は最近エラーを出さなくなった、会計ソフトに数字を入力していきながら、隣のデスクの先輩と、世間話しをしていた。

「そうか、もう手相見てもらえないの寂しいね」美智は、耳を疑った。

「え? いつ来られたの? 知らなかった」

「美智の公休日だったかな?」目線を合わせて里美が教えた。それは、美智が『逢いたい』と連絡した二日後だった。美智の職場は、土曜日は業務がある。その代わりに、一日平日に公休日があるシステムだった。


『知らなかった。担当変わったんだね』帰宅後に美智は、博文へ文字を送っても既読さえない。何度も文字を送っても、電話を鳴らしても、読みもされず、冷たいコールが鳴り響くだけだった。


 美智は依存症の様にスマホを片時も離せずにいた。心の片隅では『また、あえる』と信じていたから。寂し過ぎて気が狂いそうだった。美智は会社帰りに、博文の部屋まで行ってみる。そこには知らない名前の表札があった。勿論、大好きなジャスミンの香りも漂っては来ない。美智は自分が壊れていくのを感じた。もう、二度と逢えないのを悟り、魂は何処かへ彷徨い、身体の中に何も無かった。息をしているのが不思議な位だった。

 今日は週末だから……。どこかの場所の桜の樹の下で賑わっている事だろう。何処をどう歩いたのか分からずに、気付くと、『桜の樹の下に死体が埋まっている』そう思わずにはいられない程の、夜の桜が妖しく聳(そび)えていた。満開なのに肌寒い。

「今日で一年になる筈だったのにね」涙さえ出なかった。


 いつもは嫌悪感を抱いている、鉄工所での音でさえ聞こえては来ない。美智は鉄工所の静寂な空間で再び悟った。

『ヒロは、私から別れを告げるのを、待っていたんだ』いつの間にか美智の眼から雫が溢れだし、白い頬に伝わり地面へと落ちていった。いつの間にかその雫は、顔一面に多い尽くし、いつしか声を出さずにはいられなくなっていった。


 暫くすると、工場へと向かう人影があった。シャッター横の、従業員出入り口から、中へ入ろうとしていた工員だった。手には大きな、ビニール製の袋を提げていた。

「誰だ!」大きな声を上げた工員は、目を見張った。華奢な肩が、声を出して小刻みに震えているのを視認したから。工員は動揺を隠せない面持ちで、美智を眺め続けた。

「何を……して……いる」かろうじて出た言葉だった。美智は顔を上げると、毎朝出会う蛇の眼差しをした工員だった。


 気が付くと、美智は工場敷地内の二階、事務所の横にある、六畳一間の狭い空間にて、布団の上に横たわっていた。涙の跡を残し、表情は人形の様に何も無かった。工員が言葉を発す。

「お、お前、名前は? 毎日ここを、通っていた。よな 」

 ぎこち無い言葉と共に、美智の上に覆いかぶさる工員。唇を奪い。舌と指先は、美智の身体の上を、無造作に動く。名前は誠と言っていたのを、美智は微かに憶えていた。誠の抑揚する息使いと、部屋に染み付いているであろう、油の匂いを嗅ぐと、異物が上がりそうになるのを感じながら、身を投げ出していた。虚無の中、身体だけは反応しているのが、惨めだった。

 事が終わると、誠の身体が、力尽きた様に項垂れていた。美智はその下で窓の隙間から忍び込んでくる、少し冷たい風を頬に受けると、再度、涙が流れた。存在が感じられたら誰とでも良かった。美智の中は何も存在していなかったから。


 誠は美智を初めて見た瞬間に『天女が舞い降りた』と思った。儚く清楚で、この世の者とは思えなかった。誠は美智が駅へ向かう時間に合わせて、毎日、毎日、工場内から見つめていた。


 今晩、銭湯から帰ってくると、毎度見つめていた天女が。誠の眼差しを受け、不快そうに通りすぎていた天女が。身体を震わせて、目の前で泣いてる。誠は少し肩を触れてみた。長い時間、外にいたのであろう、冷えきっていた。美智自身が消えて失くなりそうに思え、気が付いたら抱きしめていた。

『儚げな天女をここに留まらせたい』その思いが、誠の身体を中を駆け巡り、抑える事が出来ずにいた。気がついたら無我夢中で、美智に覆いかぶさっていた。


「里美。この数字。分かったよ」美智は気を使いながら里美に話しかける。

「美智ごめんね、失敗してしまった」

「気にしないで」里美は明るく人懐こい性質だが、人に気を使いすぎる時がある。

「私の所為で残業になって」落ち込む里美に対し「私も先月、里美に残業させたよ。お互い様」美智が笑顔で返す。

「あれは営業が悪いんだよ! 美智は悪くないよ」正義感も強い里美は、心地よい感がある。美智と里美は、営業売り上げの経理をしている。一つでも計算が違えば、おおごとになるので、上司へ上げる際に二重チェックする。なのでどちらかの数字が合わない場合は、かなり残業になってしまう。

 二人はひたすら、会わない数字を解明する為に、伝票の束とにらめっこしていた。そこへ鈴香が、申し訳なさそうに頭を下げ、

「すいません。里美さん。片岡さん。お先に失礼します」と挨拶をする。帰り際、鈴香が美智の後ろを通り過ぎた刹那に、ジャスミンの香りが仄かにした。

 美智は、鼓動が激しくなり、『もしかして……私が作ったヒロの香り』瞬時にそう感じた。常時着用しているであろう、薄手の上着に付く残り香が、昨日の鈴香の行動を物語っている。そしてそれは、昨晩限りでは無い事も推測された。

 美智は心臓の鼓動が加速していく中、憎悪という感情がドクドクと音をたてて、身体の中で拡がって行くのを、抑えこむのに必死だった。

「鈴ちゃん。ラーメン今度ね。ごめんね」里美が言う。暫くし、鈴香の姿が無くなってから、「最近の子ってドライだよね」と発す。美智が「ん?」といった顔を向けると。

「あの娘ね。昨日の公休日。男友達と二人だけで、ディズニーに行ったんだって。彼氏が別にいるのにね 」そう言い終えると、里美は再び伝票に目を通していた。美智は、涙が出るのを必死に堪えながら、「私達には解らない世界だよね」と返す。切望的な確信を心に秘めながら。

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