冬
美智は駅へ向かう際に、通り過ぎる鉄工所が嫌だった。いつも、いつも、耳を劈(つんざ)くような音を出しているから。そして何より、一人の工員の蛇の様な眼差しが、嫌悪感で一杯だった。
仕事納めの今日 、美智の職場では、簡単な年末の掃除を行う。
「この間久しぶりに四方さん来られて、手相を見てもらいました」
「私がエラー出しちゃって、来てもらった時ね」美智の三年先輩と同期の里美との窓を拭きながらの雑談。
「でも、あの人の手相占い結構当たるよね?」
「ですよね。デモ手を握りたいだけかも、しれませんよね」と 二人は笑い合う。
去年職場では、新しい会計ソフトを導入した。美智と担当エンジニアの彼、 四方博文との関係は来年の春で一年になる。二人の関係は誰も知らない。美智は特に話題に入らず,締めくくりの正月飾りを行なっていた。
大晦日の夜。
「美智。おせち料理って作ったの?」
「簡単に小芋とか,ごまめとかね。ヒロ。明日食べよ」
そう言い合いながら、博文と美智は二人で、電車に乗り込んでいた。混雑する車内でさえも、博文はスマホ画面から、目を離せなかった。美智はそれが嫌で堪らない。誰かと文字を交わしているのか、笑いながらスマホを持つ指が動く。しかし美智は、「ヒロ。すごい人だね」と、取り留めない言葉しか、発せずにいた。本当の思いを言えば、離れていくかもしれない。それが怖かったから。
ゴーンと響き渡る除夜の鐘を聞きながら、二人は帰途につく。部屋に戻ると、いつもの様に美智は訪ねてしまう。
「ヒロ。私の事好き?」
博文は優しい表情で、華奢(きゃしゃ)な美智を慈しみ、抱き寄せながら囁く。
「好きだよ」
美智の胸まである黒髪は、白い裸体を際立たせていた。激しく絡まり合った後に、アロマオイルで調合された、ラベンダーの香りがする部屋の中で、博文の温かさを感じながら、美智は眠りに就くのだった。
「美智。年末年始は彼と過ごしたの?」年が明けて初出勤。久方振りの里美との食事タイムだった。二人は独り暮しの為に、いつもお弁当を持ってきていた。
「うん。まあね」
「本当に良かったね……」
「うん。有難うね」
「それはそうと、明日から、新しい子が派遣されるね。今度はどんな子だろうね」
翌日。上司から一人の女性を紹介される。
「こちら派遣の大森鈴香(おおもりすずか)さん。 色々と教えてあげてね」
「よろしくお願い致します」
「片岡さんにいろいろ聞いてね。大森さん」
上司は美智に託した。鈴香は可愛らしくお辞儀をし、軽く挨拶を済ますと、美智の隣のデスクに来た。美智の向かいのデスクで里美が躊躇いもせずに、鈴香の歳を確認する。二十三歳。
「見えないね。凄く落ち着いてるね」里美の言葉の後に鈴香が続けた。
「そうですか? 私天然だから、ダメなんです」と、真っ赤な唇で微笑んだ。男を虜にするであろう、豊満な胸と、艶っぽい眼差しを見て美智はあまり、良い印象は覚えなかった。
鈴香は人懐っこい性格で、すぐに職場に馴染み、交友関係が多いのを幸して、瞬く間に職場でのムードーメーカーになっていた。
「大森さん。仕事慣れた?」
「皆さんのお陰で何とか。里美さん。今度ランチいに行きませんか? メルアド教えて下さい」自身の机から身を乗り出し、斜め前の里美に声を掛ける。
「でも、大森さん忙しいんでしょう? 交友関係広そうだもんね」
「全然ですよ。ただ皆が、誘ってくれるんです」美智は二人の会話を聞いていて、何故か嫌な感触があった。『ちょっと苦手かな』そう思う自分の嫌な思いに慌てて蓋を閉めた。
幾日が経ち「四方さん、お久しぶりですね」里美が挨拶する。美智は顔をあげた。職場で見る博文を久しぶりだったからか、胸の鼓動が高鳴った。
「お久しぶりです 吉野さん」
博文は軽く挨拶いた後に、美智に目配せをする。今日は、博文が部屋へ来る夜だったから。すると博文が思いもしない言葉を発した。
「アレ? 鈴香ちゃん、 ここに派遣されたの?」
「四方さん。そうなんです。まだ勤務歴三週間です。又、皆でご飯行きましょうね」と挨拶を交わす二人。
「え? 大森さんとお知り合い?」思わず里美が口を挟んだ。
「はい。私の彼氏のお友達なんです。仲良くして頂いて……」
「ええ? 大森さんの彼って何歳?」
「八歳上です」
鈴香の周りを、博文を含めて小さな輪が出来ていた。その様子を覗う美智は、何故か自分が惨めに思えてきた。
『あんなに笑っているヒロ、久し振りに見た気がする』言いようのない寂しさが、込み上げて来るのを感じていた。
「四方さん。今日は? 営業ですか?」上司の声にて、博文は笑顔で上司に商品の説明をしていった。
家路を急ぐ美智は、今日も耳を劈くような音を出し、鉄を切断している工場を横切る。いつもの様に、油まみれの工員の蛇の様な眼差しに合うと美智は、異物が込み上げて来るのを感じると、博文の胸に抱かれたいと、家路を急いだ。
美智の部屋は1K。二人で食卓を囲むのには、充分な広さだった。
「大森さん可愛いね」並んで夕食をしている最中の会話だった。
「そうだね、ツレも凄く大事にしている。美智は知らない人だよ」心配そうな美智を見て、博文は笑いながら言った。
「でも俺は十歳も離れてるから、異性を感じないけどね」その言葉に安心して、博文に寄り添った。本当に幸せな瞬間だった。
博文との始まりは『手相占い』だった。
「片岡さんの手相見るの、初めてですね」気さくな笑顔と共に、慣れた手付きで美智の手をとる。すると博文は急に黙りこんだ。ブラウスの袖口から見え隠れする、美智の細い手首に、何本も残っていた紅い線を見て推測をしたからだ。
リストカット。職場で知っている人物はいない。里美も知らない事だった。
美智は命を断とうとは、思ってはいなかった。気付いたら手首に、何本も紅い線を作っていた。制服は長袖のブラウスだから、良く見ないと気が付かない傷。その後直ぐに博文から美智へ、連絡を入れていた。『片岡さん。もしよければ……』話を聞くよとの内容だった。美智は過去、既婚者と付き合っていたことがある。勿論、その事実を知ったのは、深い関係になってからの事だった。
『又、裏切られたら……』と思いながらも、逢う回数が頻繁になるに連れて、全てを受け止めて、優しく接してくれる博文に惹かれていった。そして、「二度とそんな事はさせないよ」との言葉を博文は美智へと贈っていたから。尚更だった。
「彼氏がね、中々言ってくれないの。付き合ってもう一年だよ」美智の前のデスクにて、里美がお弁当のポテトを口に持っていきながらの言葉だった。
「えっ? 何?」
「プロポーズ。もうすぐ三十路だよ。私達」美智は考えたことなんて無かった。博文と関わりを持って一年になる。
「結婚。考えた事なかった」
博文と共に新しい家庭を作る。きっと子供が産まれて、博文に似たら優しく、人望がある子になるだろう。美智は未来を想像していた。
「美智の彼は? どうなの?」
「ん。難しそ」
「そっかー。ってか、どんな彼氏? 幾つなの? 何も言わないからな。美智」
「四歳上かな」
「そっか、三十二かあ。話しは出ないのね」
「出た事ない」
「今度確認してみたら?」
「そうだね」
里美の言葉で少し不安になり、美智は里美のデスクに目をやると、この時期にに似つかわしい、小さな男雛と女雛が目に入った。
「里美。可愛いね。それ」
「柄にも無いでしょ。この間思わず買ってしまったのよね。コケシのお雛様の人形」その言葉を終えるや否や、外食から帰ってきた鈴香が声を掛けた。
「里美さん。この間、里美さんと行ったパンケーキの店、雑誌に載ってましたよ」
家から持参した雑誌を見せながら、話し込んで来た。明るい里美と馬が会うのか、何回か二人で御飯に行っているのを、美智は里美から聞いていた。
「あっ。本当だ。あれ? 鈴ちゃん。ランチ行って来たの? 前にお金無いって言ってなかった?」
「木原さんが、奢るから行きましょ。って言って下さったんです。本当にお世話ばっかりになってます」
鈴香が申し訳なさそうに話した後に、里美と楽しそうに雑誌を見ている。美智はそんな二人を見て、胸の奥ので何処か言いようの無い、黒い感情が芽生えてくるのを感じた。まるで、美智が居ないように、二人で会話が弾んでいたからだった。美智は、その感情を振り切るように、お弁当のハンバーグを頬張った。
休日博文は、美智の部屋にて、いつもの様にスマホの画面を眺めながら、楽しそうに指先を動かしていた。外は冷たい雨が窓ガラスを這わしていった。
「ヒロの誕生日、ここに行かない? 里美が彼氏と行って、美味しかったらしいよ」博文は興味を美智に移し、
「里美さんって吉野さんの事? どこ?」と言い、後ろから抱きよせて雑誌に目をやる。美智は博文の身体から薫るジャスミンの香りが心地よかった。アロマオイルを組み合わせて作る、美智の手作りトワレだったから。
「ここね、イタリアンだって。ヒロ好きだよね」
「うん。お洒落な店だね」そういいながら、美智の髪の毛をかき寄せる。
「美智は本当に肌も綺麗だよね」首筋に 唇を這わすと、博文の指先は、美智の裸体を顕にさせようと、動かしていくのが、解った。
「まだ明るいよ」
「美智が欲しいよ」
博文の唇が音を立てて、美智の首筋に薄赤い印を残すと、
「ヒロ愛しているよ」と美智は耳元で囁く。博文は美智を愛おしく抱き寄せ、犬の様に鼻を舐める。博文がキスをする前に必ず行う、特定の人物しか知らない癖だ。
「美智。綺麗だよ」 二人は重なりあい溶け合うのを余所に、雨は窓を静かに這わしていた。このひと時は、美智にとってかけがえのないモノだった。
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