第五話 事件と出会いと
――その日は突然に訪れた。
私はある命に背き、組織にとっての害をなしてしまった。
もちろん、ある程度の罰を覚悟して行ったこと。頬に残った傷は、私という【人間】が、そう在ることを示すための証明だった。例え罰を受けようとも、自身の持つ【人間】としての矜持を捨てぬための抵抗だ。
だけども、そのような自我を持つようになったのは何故だろう。
否――それは、考えるまでもなく分かっていた。弟がいたからだ。弟の、小さくも懸命に生きるその姿が、私という【人間】の生き方を措定していた。罪なき者に、罪を負わせてはならない。背負い込むのは、罪をなした者で十分だ。
『お姉ちゃん! ボクね、いつかお姉ちゃんみたいな人になりたい!』
そんな私を見て、弟ははにかんでそう言っていた。
あぁ、なんと儚げな表情であっただろう。しかも口にしたそれは、あまりにも残酷で、目を背けたくなるような響きであった。だけども私は、そう言う彼の細い、まるで少女のような手にそっと触れて微笑む。
ありがとう――と。
そう。私にはこの子さえいればいい。
けれども、幼い私は気付いていなかった。その願いが矛盾を孕んでいたことを。
――そう。その日は突然に訪れた。
まだ幼い私には、抗うことなど出来なかった――
◆◇◆
――その日は突然に訪れた。
まだ未熟な俺は、それを避けることが出来なかった。
その日、いつも通りに当番制の仕事を終えた俺は、子供たちと外で遊んでいた。和気藹々とした日常。そこにあったのは平々凡々とした、緩やかな時間だ。
だからこそ、俺は気が抜けていたのかもしれない。こうやっていれば、またアニが帰ってきて一日が終わる。本来の目的はあれど、まだ焦らずとも良いと考えていた。
まずは、この日常を大切にしよう。
そう考えていた。そう、考えていたはずだったのだが――
「スライ兄ちゃん……!」
「ん? どうしたんだ?」
――その報せは、不意にやってきた。
駆けてきたのは一人の少年。彼は血相を変え、息を切らせ、俺のもとへ。
周囲の他の子供たちも何事かと、興じていた遊びの手を止めた。俺も四つん這いになっていた身体を起こして、少年の青ざめた顔を見つめた。
一体、何事だろうか。
また誰かが、屋根の上から降りられなくなっているのだろうか。
俺はその程度のことであろうと、弛緩した思考で勝手にそう考えていた。だからこそ、その後に少年の口から告げられた言葉に戦慄することとなる。
「マーサ兄ちゃんと、シータ姉ちゃんが…………街の外に!!」
「なっ――!?」
そう。それは突然にやってきた。
緩やかに流れていた日常に訪れた大事件。そして、この事件が過去との邂逅になろうとは、この時の俺は考えてもみなかった――
◆◇◆
「――で、マーサがシータを連れて街外れの森に行ったんだな?」
「う、うん……マーサ兄ちゃん、探検だ! って、言ってたから」
街を取り囲むように築かれた高い壁。
そこにある開かれた門を前に、俺は少年に向かってそう確認を取った。すると彼は申し訳なさそうにうつむいて、ぼそりとそう言葉を漏らす。おそらくは、二人を止められなかった自分自身に、罪悪感を抱いているのであろう。
俺はそれを慰めるため、そして払拭させるためにポンと頭を軽く撫でた。
「大丈夫だ。スライ兄ちゃんが、二人を連れて帰ってくるから。だからお前は、すぐにアニ姉ちゃんにこのことを報せてくれるな?」
「う、うんっ! 分かった!!」
「よし、それなら頼むぞ! 男と男の約束だ!」
そう言って背中を優しく押すと、少年はキリッとした表情になり、また全速力で駆けだした。俺は姿が見えなくなるまで見送り、そしてふっと息をつく。
気を引き締めなければならない。この事態は彼の責任ではなく、俺の不注意が招いたことだったから。無傷で二人を連れ帰らないと、アニに合わせる顔がなかった。
「……っと。考えてばかりでもダメだな。でも、それにしたって――」
――と、独り言を呟きながら俺は門の方へと視線を投げる。
この街は、一種の城塞のようになっていた。
それもこれも、街の外には魔物が多いからだろう。外敵の侵入を絶対に阻止せんという意志が、そこからは見て取れた。だが俺には、どうにも魔物以外に敵として意識しているモノがあるのではないか、と。そのように思われて仕方がなかった。
「まぁ、考えても仕方ない、か。それよりもマーサとシータだ」
俺は軽く頭を左右に振り、自分に言い聞かせる。
そのような余計なことを考えるよりも、今は優先すべき事項があった。そちらのことを、まずは考えなければいけない。の、であるが――
「――けど、なんで今に限って厳重に守ってんだよ。くそっ」
門の正面には、二人の門番が立っていた。
虫一匹通さないと言わんばかりの雰囲気で、すんなりと俺の訴えを聞いてくれそうにはない。おそらく、あの二人は門番の目を上手く盗んで外へと出たのだろう。
俺は内心でそんな無能門番に苛立ちながら、外へと出る手段を考えた。
そうなると、やっぱり頼りになるのが――
「……はぁ、仕方ない。フーコに頼むか」
――彼女の【転移】であろう。
そうと決まれば即行動だ。俺はフーコに連絡を取ろうとした。
その時だった。
「お兄ちゃん、街の外に出たいの?」
「……えっ?」
気配もなく、背後からそう声をかけられたのは。
「だ、誰だ!?」
「あははっ、怖いなぁ。人が親切で声をかけてあげたのに」
俺は叫びながら、声のした方へと振り返る。
するとそこに立っていたのは、少女とも少年とも判別のつかない人物だった。
銀と紫の入り混じった、肩ほどまでで切り揃えられた髪。優しげな蒼の光を宿す瞳に、日に焼けていない綺麗な肌。背丈は俺の少し下くらいで、身にまとっている衣服はその辺にいる人々と大差ないモノであった。
中性的で愛らしい顔立ちは、思わず見惚れてしまうほどのそれだ。
しかしその輝きはどこか、儚げと表現すればいいのだろうか、今にも消えてしまいそうな存在感であった。柔らかく浮かべられている微笑みも、どこか泣き出しそうなそれに見えてしまう。
「お兄ちゃん、外に出たいんだよね? そうでしょ?」
「え? あ、あぁ――そう、だけど」
そんな風に俺が呆けていると、その人物は無邪気な子供のように言った。
距離をぐっと詰めてきて、上目づかいにこちらを見てくる。俺はふわりと香る、少女のようなそれに思わず息を呑んでしまった。目の前の人物には、何やら不思議な魅力がある。俺はそのように感じ取った。
さて。中途半端にされた俺は、その人物の問いかけに素直に答えてしまった。
だけども、それは思った通りの解答だったのか、その人物はにこりと笑う。野に咲く花のようなその笑顔にまた、俺はドキリとさせられた。
「じゃあ、ボクが連れてってあげるよ! 抜け道を知ってるんだっ!」
完全にペースを握られてしまう。
俺の手を取って、その人物は駆け出した。こちらはただついていくだけ。小走りで進むその道行に、俺はどこか現実感の欠如を覚えていた。
そして、そんな最中だ。
「ねぇ、お兄ちゃん。名前教えてよ――ボクはね、ユキっていうんだ!」
その人物――ユキが、俺にそう訊ねてきたのは。
ユキはこちらを振り返らずにそう言った。だがしかし、どういうわけか笑っている。ユキは柔らかく、今までとは違う笑みを浮かべている。そのように思われた。
そう、思われたからだろうか。俺は自然と――
「俺は――スライだ」
――そう、名乗っていた。
すると、ユキは「スライくん、か」と、響きを噛みしめるように呟く。そして、ふっと手を離した。何事かと思ったが、周囲を見渡せばそこはもう森の中。
いつの間にか、俺たちは街の外へと出ていたのであった。
「あれ、でも本当にいつの間に? なぁ、ユキ――って、あれ?」
俺はその不思議について尋ねようと、ユキのいた方を見る。だが、そこにその姿はなかった。まるで――空気の中に溶けて消えてしまったかのように。
そこには最初から、誰もいなかったかのように――
「――お姉ちゃんを、よろしくね。スライくん」
「えっ――!?」
しかし、声だけが耳元で。
俺は驚き振り返った。だが、そこには誰もいない。
ユキは、あたかも幻のようにその姿を消してしまった。ただ一つ――
「――お姉ちゃんって、誰のことだ?」
こちらのことを、全て見透かしたかのような言葉だけを残して。俺は首を傾げるが、それが誰のことかまるで分からない。現時点では、答えはないようにも思われた。それでも、ユキの言葉は脳裏に引っ掛かって離れようとしない。
「…………いや、今はやめておこう」
だが、しばらく考えてから。
いいや、と――俺は首を大きく左右に振った。
そうだ。俺には今、やらなければならないことがある。マーサとシータの二人を連れ帰るのだ。そう、約束したのだから。
ただ、最後に一度だけ。
俺はユキの消えた方向を見つめた。
その出会いは、泡沫の夢のように。
しかし、この手に残った温もりは消えず。
何とも、名状しがたい心地良さを感じさせるモノであった――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます