第十話 回想と因縁
――ロマニは、クリムを抱えて逃げていた。
まだ赤子の愛娘は、父の疾走に泣きじゃくり、とめどなく涙を流す。
そしてその日も雪が降っていた。もう何度目だろうか、このように一つの季節も経ずして拠点を変える生活は。また結局馴染むことの出来なかった街を捨てて、彼はがむしゃらに駆けていた。
背中には、切り付けられた際に出来た傷。
それも無数に。幾度となく、死んでもおかしくない場面に遭ってきた。
しかし肉を切られ、血を流し、それでもどうにか生き延びる。いっそのこと死んだ方がマシなのではいかと、そう思う夜もあった。だが、そんな彼を支えたのは他でもないクリムの存在である。
愛娘を守ること。それは、亡き妻――クリスとの約束であるように思えていた。
「はっ……はっ……!」
それを、負担に思うことはない。
何故ならそれが、彼の生きる理由だから。
だから今日も、彼は走る。見慣れぬ道を、ただがむしゃらに走っていた。
「はっ――!?」
――だが、しかし。
終わりは、唐突に訪れた。
ロマニがぶつかったのは、寂れた町並みの丁字路。
そこは、一見すれば何の障害もないように思われた。だけれども、彼には分かっていた。ただならぬ殺気を発するその者に、気付いていた。――その、幼くも確固たる意志に。
果たして、その少女は姿を現した。屋根の上から飛び降りて。
肩ほどまでの銀の髪。静かに、その顔を覆う
身にまとう装束は、闇に紛れる漆黒。したがって、あたかも銀髪の髑髏が宙空を上下しているようにも見えた。不気味でもあり、しかしどこか寂しげでもある。
「――――――っ」
少女だと分かったのは、その背丈によってである。
そして、装束の上からでも分かる華奢な四肢からは、その
ならば、気を抜くわけにはいかない。
彼はいっそうに腰を深く落とし、すぐに動ける体勢を取った。
――が、しかし。
臨戦態勢で構えるロマニとは裏腹に、その少女の取った行動は――
「――……なっ!?」
予想外のモノであった。
少女は音もなく――ゆらり、と。ロマニから向かって右を指差した。
そして、鈴の音のような愛らしい声で、しかし感情を持たぬ機械のような声色で言う。
「……こっち、早く」――と。
ロマニは思わず警戒を解いてしまった。
いいや。正確に言うならば、呆けてしまった。
思ってもみなかった手助けには、恐らくみなこのように口を開く。まさしく、開いた口が塞がらないといった様子であった。気付けば殺気も消え失せ、そこにいるのは年相応の少女である。
「――――――っ!!」
だが、いつまでもそうしてはいられない。
いつまでも、この奇妙な時間に身を投じている訳にはいかない。
ロマニは駆け出す。少女の指し示す方へと向かって。
そして、すれ違う際にこう、小さな声で聞こえたのであった――
「――……その子に、罪はないから」――と。
ロマニは思わず、少女の方を振り返りそうになる。
それでも、その気持ちをぐっと堪えて前を向いたが、しかし。たった一度だけ。その一度だけ振り返ったその時、彼の目に映ったのは――
――
そんな、少女の痛みにうめく姿だった――
◆◇◆
――ロマニは、
それは辛くとも、確かに彼が生きた時間だった――
人を殺めることをも生業としていた彼にとっては、これまでの全ての時間が宝であった。逃避の果てにアル村へたどり着いたその旅路も、娘と過ごした束の間の日々も、そして最後には娘を任せられる青年と出会えたことも。
それらは、まさしく――彼が【人間】として生きた時間だった。
「…………ここ、は?」
ロマニは痛みをこらえつつ、身を起こす。
そして、半分になってしまった視界で周囲の確認をした。どうやら、彼は荷馬車の上に寝かされているらしい。真昼の雪原。銀世界の広がる世界の、その道中で、それは停止していた。
しかし、周囲には黒装束の男たちが立っている。
逃走への警戒は、やはりなされていた。こういった点は抜け目がない。
だが同時に、ロマニには違和感があった。
それは自らに施された処置についてである。彼は意識を失う前には、満身創痍の状態であった。しかしそれがどうしたことであろうか。彼の傷は何らかの【
――何かが、おかしい。
そう思い、ロマニはある人物を探した。するとすぐに、その人物は見つかる。
否――その人物から、こちらへやってきた。
「……目が、覚めたようだな」
その人物――彼女は、そう言う。
淡々とした口調で。しかし、どこか安堵を匂わせる声色で。
ロマニは警戒をしながらも、彼女のその確認に対してこう答えた。
「……久しぶりだな、嬢ちゃん? 正確には、十三年ぶり――か?」
「……………………」
彼女――あの時の少女は、何も言わない。
それでも頬の傷をなぞるあたり、ロマニの言葉は届いているようだった。
彼はそれに気付き、場に相応しくない微笑みを浮かべてしまう。すると女性は、それが不快だったのか眉間に皺を寄せた。対してロマニの方は、ややひょうきんな素振りで両手を挙げる。
それでも、彼の口は止まらずに動き続けた。
「ちょいと聞きてぇことがあるんだが――あー、なんだ。この際だし、何かの縁だ。名前ぐらい教えてくれや。嬢ちゃん」
すると、女性はやれやれといった風に首を左右に振る。
そして意外にも、易々と――
「私の名は……アニ、だ」
――そう、名乗った。
「ほほう、アニ、か。中々に可愛らしい名前してんじゃねぇか」
「ふん――言ってろ」
女性――アニは、ニヤニヤと笑うロマニをその言葉で一蹴する。だが彼は、それでも諦めないらしい。興味なさげに腕を組んだアニへ、問いかけを続けた。
それは、目が覚めて彼が一番に抱いた違和感について。
「で……? アニ嬢ちゃんよ。どうしたって俺の命なんかを助けやがった。俺はあのまま放って置けば確実に死んでいた――まさか、俺が抜けた後にあのギルドが変わった、なんてことはねぇだろ?」
そう。その疑問であった。
もし彼の記憶が正しければ、
そのことが、どうにも彼には釈然としなかった。そのため、そこにあるのは、このアニという人物の意思なのではないか――ロマニは、そう考えていた。
ロマニの問いに、彼女はしばしの間を置いた後にこう答える。
だがしかし。それはロマニにとって――
「貴様を確保すれば、生死は問われていない――それだけだ」
「…………はぁ?」
――なんとも、間の抜けたモノであった。
彼は思わずそんな声を上げて、目をパチクリとさせる。
何故ならそれはそう、それを言うならば――
「――嬢ちゃん? その台詞は、使い方が逆だぜ?」
「………………」
そう。それは真逆だった。
それを言うのならば、生きている者を殺す時、である。それだというのに、このアニという人物は真顔で、本心からそう言った。
事実、何がおかしいのかと。アニは眉間に皺を寄せていた。
「くっ……くくくっ、くははははははははっ!」
その様子に、とうとうロマニは堪え切れずに大声で笑いだしてしまった。
それでもアニは意味が分からないのか、頭をひねっている。
どうやら、彼女には答えがないらしい。
「嬢ちゃん、意外に面白いじゃねぇか。それに、昔より【人間】らしくなった」
「――――――――」
ロマニは片目の涙を拭いながら、そう言った。
するとアニはそこに至ってようやく、自分の言動を笑われていると気付く。そうなると一転、今度は顔を真っ赤にして唇を噛んだ。忌々しげにロマニを睨むが、今は前ほどの殺気はない。
等身大、年相応のアニという女性がそこにいるだけだった。
その様子を見て、ロマニはある結論に至る。
それは、このアニという人物はまだ――
「――くっ! 話はここまでだ。出発する!」
「……おっと!?」
そう、彼が考えていたその時であった。
アニは、その会話を断ち切るかのように。そう宣言して、手を振りかざした。
するとまるで機械の如く、周囲の男たちが動き始める。荷馬車が唐突に前に進み始め、その振動がロマニを襲った。彼はまだ不完全な身体で、どうにかそれに耐える。
そして、アニは死角に停めてあった馬に跨り、先を行ってしまった。
結果として、ロマニは取り残される形となってしまう。
もう、取りつく島はないようだった。
「まぁ。【人生】最後に、面白いモンが見れた……かな」
それならば仕方ない、と。
彼はどこか寂しげにそう呟いて、身を横たえた。
思い浮かべるのは、誰のことか。聞くまでもなく、娘の笑顔だろう。
――それは、唯一の心残り。
気楽を装う奥にある親心――
ロマニは、静かに目を閉じた。
次に目を覚ました時に自分は、どこにいるのだろうか。
おそらくこれは、自身の足跡を辿る旅なのだと、彼はそう考えていた。
――だが、その旅は唐突に道を断たれた。
それは、目の眩むほどの赤い光で――
「――……何者だッ!」
前方からアニの声が響いた。
そして、その次に続いたのは聞き覚えのある声。
――しかし、それはどこか違う。
覚悟に満ちた、
「――別に、大した者じゃないよ」
青髪に、同じく青の瞳をした青年はそう言った。
そして続けて――
「――ただ、【家族】を取り返しにきた。それだけだ」――と。
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