第九話 変化と決意
――クリムのこと頼んでもいいか。
真剣な表情でそう言った彼の目が、俺のまぶたの裏に焼き付いて離れない。
あの表情は、覚悟を決めた男のそれだった。そして、つまるところそれは、いずれ自身がいなくなるであろうことを予見している。そういう意味合いが込められていたのだと、俺には感じられた。
そうだとすれば、俺は――どうすればいいのだろう。
これまで一緒に生活してきた彼を見殺しにして、クリムと共に生活をするのか。いいや、はたまた彼女を連れて旅に出るのか――否。それこそ違うだろう? そんな結末、誰も望んじゃいないだろう。
だったら、俺は――
「――スライくん、どうしたの? すごく怖い顔してるよ?」
「え、あぁ……ごめん。ちょっと考え事してて」
「考え事……?」
ふと、クリムの声で現実に引き戻される。
場所は、彼女の部屋。窓の外に見える景色は、すっかり闇に塗り替えられている。
見れば少女はどこか不安気に俺の顔を覗き込み、その大きく愛らしい瞳を潤ませていた。どうやら、相当の心配をかけてしまっていたらしい。俺はそう言いながら、ポンポンと、彼女の頭を撫でる。
「あー、うん。あのプラキアの実が、どんな料理になるのかなって」
「あ、そうなんだ! それだったらね――」
――そして、俺はそう言ってはぐらかした。
その言葉を信じたのか、クリムは熱心に料理の話をし始める。どうやら料理というモノは、彼女にとっては与えられた役割ではなく、趣味といったモノに近いらしかった。そうなると自然、こう言った話題には熱が入るというものだろう。
……そうだな。今は考えないようにしよう。
目の前で少女が真剣に説明をしてくれているのだ。あの問題は、頭の片隅にでも置いておこう。きっとそうすれば、いつも通り、平和な生活が送れるはず。そのはずだった。
そう。
俺は、そう思っていた――
「――だから、プラキアの実は鍋に入れると、それだけで身体がホカホカになるんだよ! これは今、ガリアでも流行ってる調理法なの!」
「へーっ! それは美味そうだな。収穫したら作ってくれよ」
「うん! 腕によりをかけて作るからね。期待してて!」
「凄い自信だなぁ」
「えへへっ」
何気ない会話。
そんな、クリムの何気ない笑顔。
そしてそこにやってくるのは、豪快な笑い声を上げるロマニさん。
俺たちは出会ってから今日まで、そうやって生活を共にしてきた。どれも欠けることのないピースで、同時に欠けてはいけないピース。この日常という名の絵は、もう変わることはない。
そう。
俺たちは、もう――
「――それにしても」
だけど、その変化は唐突に訪れた。
クリムの、それこそ何気ない一言によって。
いいや。その変化はそれによって引き起こされたのではない。もうすでに、起きると予見はされていた。ただそれから目を背けていたのは、俺の方。
それは、そう――
「――……今日は、お父さん。遅いね」
紛れもない、必然だった。
「――――――っ!?」
クリムがそう呟いた瞬間に、大きな音をたてて玄関の扉が開かれる。
そして、駆け込んでくる多くの足音。それは明らかにロマニさんや、村の人のそれではない。
多くとも、注意深くしていなければ聞こえないような、訓練を施されたもの。俺はまだ自分の中に残っていた最弱の【スライム】としての恐怖心によって、その危機を察知した。
「えっ! 今の音なに――」
「――静かにっ、クリム。俺の後ろに隠れて!」
「え、えぇ……っ!?」
クリムを押し込むようにして、背後へ。壁との間に隠す。
不安気に声を上げる彼女だったが、次第にその息は静かになっていった。
俺はそれを確認すると、周囲へと注意を払う。玄関からここ――二階にあるクリムの部屋――までは一定の距離があった。だから息を殺してさえいれば、助かるかもしれない。
――だが、しかし。
「ちっ……くそっ!」
小さく舌を打ち、悪態を吐く。
やはり、そうは上手くいかないらしい。
そいつらは、迷うことなくこちらへと、階段を駆け上がってきた。
そして部屋の扉を開く――現われたのは、全身に黒の装束をまとった男達。顔には骸骨のような面を被り、その表情はうかがい知ることもできなかった。
その手には各々に形の異なる刃物を持ち、低い姿勢で、それらを俺とクリムへと向けている。俺は背後に隠した少女に気を配りながら、一歩、後ずさった。
すると、当然に。
彼らはこちらへとまた一歩と、距離を詰めてくる。
――どうすればいいっ!
俺は必死に思考を巡らせた。
どうすれば、俺とクリムが『逃げられる』のかを、必死に考える。
残念ながら『戦う』という選択肢は、この時の俺にはなかった。何故なら【能力】を使ってしまえば、たちどころに俺が【人間】でないと分かってしまうから。そうなってしまっては、ここにいることが出来なくなってしまう――そんな、自己保身が頭の中を支配していた。
ただ、それでも、一つだけ案が浮かんだ。
それは俺たちの背後にあるモノだった。それは――
「――……クリム、少し我慢してくれよっ!」
俺はタイミングを見計らい、クリムを抱え、そのモノ――窓に向かって飛び込んだ。木製のそれは、俺の渾身の体当たりを受けてメキメキッ――と、音をたてて破壊される。
その衝撃を超えた先――あったのは一瞬の浮遊感――そして、その直後の落下!
俺はどうにか空中で体勢を立て直し、着地点を見定める。踏み固められた雪が広がったそこは、少しでも誤れば転倒は避けられないだろう。そうなれば、俺はともかくとして、クリムの身に何があるか分からない。
だから、俺は来たる衝撃に備え――
【変形】――【成功】!
――足を瞬間的に【スライム】状態に戻した。
胸に抱きかかえたクリムには、見えないよう隠しながら。
俺は【スライム】状になった足で衝撃を吸収し、雪上に吸着した。
【変形】――【成功】!
そして、即座に【人間】の足に戻す。
良かった。どうにか成功したらしい。これならきっと、クリムにはかすり傷の一つさえないだろう。そう考え、俺は少女の顔を覗き込もうと試みる――が、しかし。それは叶わなかった。
「クリム……?」
――彼女は、震えていた。
俺の服をギュッと握りしめている。
それは決して、部屋着のまま外へ出たための寒気によるものではない。そう、言うまでもなく――少女は泣いていたのだ。
そして――
「――――ぁ」
ようやく出てきた声は、そんな掠れたモノ。
次いで、おずおずと、彼女は俺の顔を見上げてきた。
果たして、その表情は――
「…………っ」
――青ざめた、モノだった。
俺は思わず息を呑む。
これは、今ほどの出来事だけでなるような程度のモノでは、ない。
それは、そう。ロマニさんの話してくれたことを思いだした、あの時のように。
「ふむ。ターゲットの子供は、娘一人という話だったが……」
その時だった。
ただ一人、俺たちに声をかけてくる者があったのは。
「――――誰だっ!」
俺は、その声に対して叫ぶ。
すると夜の闇から現れたのは――一人の、【人間】の女だった。
月明かりに輝く銀の長髪を後ろで一つに結んでいる。鋭い眼は赤く、こちらを射竦める光りを放っていた。端正な顔立ちに、頬には十字の傷跡。スラリとした体躯には、無駄な肉はなく引き締まっていた。
服装は他の者と異なり、軽装。腹部をさらけ出した上着に、太ももを大きく出したパンツ。せめてもの防寒具と言えるのは、首元に巻かれたスカーフのみ。
腰にかけられた何本ものダガーナイフは、無言の圧力を放っていた。
その女は、目を細めて鼻で笑う。
そして、意にも介さないといった様子でこう言った。
「お前などに、名乗る必要はない――それに、元より我らは影の者。名など無用」
それは、同時に問答無用であることを示している。そう感じられた。
戦いは避けられない。俺はそう感じて、クリムを下ろそうと――
「……お母、さん」
「……クリム?」
――したところで、彼女の悲痛な囁きを耳にした。
俺はつい敵から目を逸らして少女を見てしまう。すると彼女はうわ言のように、「お母さん」と。そう繰り返しながら、グッと俺の服を掴んで離さなかった。その力は、あの夜のように強く、すがるようなモノで――
「――随分と、余裕だな」
「――――っ!?」
しかし、その一瞬が隙を生んでしまった。
気付けば隣に、先ほどまで距離を置いて話していたはずの女が立っている。
手にはナイフを三本。指に挟む形で持っていた。そして――
――標的を逃さず、刈り取るように。
女は俺の首元へそのナイフを突き立てようと――
「――っくそ!」
もう、ここまで来たらどうしようもない。
俺は【分裂】を――
「――……待てぇっ!!」
しようとした。が、それはその声によって遮られた。
すると、それに呼応するかのようにして女のナイフも――ピタリ。やや刃が食い込んだところで、静止した。俺は歯を食いしばりつつ、視線を声のした方へと向ける。
そして、そこにいたのは――
「――……ロマニ、さんっ!?」
今、俺の腕の中で震えている少女の父親だった。
彼――ロマニさんは、全身に傷を負い、血にまみれ、片目が潰れた状態。右肩を押さえ、左足は引きずっている。見るからに満身創痍であるその姿は、とても立っていられるものではなかった。
だがしかし、彼は一歩、また一歩とこちらへと向かってくる。
「よぉ、坊主。約束通り、守ってくれたみてぇだな……ありがとよ」
言って、彼は口元に笑みを浮かべた。
そして女へと刺すような視線を向ける。そこには、明らかな怒りが見て取れた。
「標的は、俺だけじゃないのか――どうして、娘たちを巻き込んだァ!」
叫ぶ。ロマニさんは普段の温厚さを脱ぎ去って、怒りを前面に押し出した。
――痛みなど、とうに感じなくなっているのだろう。
ただ、目の前には敵がいるから。
――恐怖など、とうに覚えなくなっているのだろう。
ただ、そこに守る者があるから。
――死など、すでに眼中になくなっているのだろう。
ただ、それ以外に見えないから。
ロマニさんの絶叫は夜の村に反響する。
冷たく乾いた空気は、それをより鮮明に伝えていく。
俺はその迫力に、至極当然の如くに戦慄した。その覇気には、力の強さなど関係ない。ただそこにあるのは、意志の強さ。彼を突き動かしているのは、ただ一つの宝物を守る、その意志だった。
「ふむ――生きていたか。それなら、それでいいだろう」
しかし、この女にはそんな感情もどうでもいいらしい。そのように思えた。
彼女はただ淡々とそう語り、ナイフを仕舞う。そして、俺のことなど気にも留めないといった風に、ロマニさんの元へと向かって歩き出した。
俺はただ、それを見ていることしか出来なかった。
それは決して、クリムを抱えているから、そんな理由ではない。
俺が、俺の意思が、俺の身体を硬直させてしまっていたのだ。最弱の【スライム】であった時の心が、ここに至って顔を出している。それは、抑え付けようとしてそうできるものではなかった。
「ロマニ・ブラウン――我々には貴様だけでも十分だ。共に来てもらうぞ」
「へっ……そうかよ。よくは分からねぇが、それならそれでいい。だがな――」
ロマニさんはうつむき、不敵に笑う。
そして、最後にこう言った。
「――これ以上、俺の【家族】に手ぇ出してみろ。俺はお前らを……殺すぞっ!」
そう、気を吐いた瞬間――彼は、前のめりに倒れ込んだ。
女はそれでも気にもしない素振りで、ロマニさんの巨体を軽々と抱え上げた。
そうしてこちらを振り返り、冷めた声でこう漏らす。それは何も出来なかった俺を蔑むようなモノでもあった。あぁ、でもそれは、仕方のないことかもしれない。
「ふんっ……命拾いをしたな」
ただ、一言。
それは俺の心をズタズタに切り裂く。
何故なら、俺は自己保身のためだけに、大切なモノを見殺しにしたのだから――
家の中から、音もなく部下の男たちが姿を現す。
彼らは俺のことをまるで石ころかのように、意にも介さず通り過ぎていく。
そして闇の中、彼らの姿は見えなくなっていった――
◆◇◆
――ロマニさんが連れ去られて、数時間が経過した。
恐らく彼らは村を出て、どこかに向かったのだろう。村の中を探しても、奴らの姿を探し出すことは出来なかった。だから、今頃はロマニさんを連れて、平原のどこかを進んでいるはずだ。
俺は、何も出来なかった。
力を持っているはずなのに、何もしなかった。
その罪悪感が俺を責めてくる。これには、どんな言い訳の効かない。
クリムは今、自身の部屋で眠っているはずだ。俺は彼女の部屋の前で座り、うつむいていた。ただ何をするでもなく、ただ彼女が安心して眠れるようにと願って。
だが、そうしていると不意に部屋の中からこんな声が聞こえてきた。
「――アタシの、せいなんだよね」
「え……っ!」
いつの間に、であろうか。少女は扉の前にまでやって来ていた。
そしておそらく、俺と同じように背を向けて腰を掛けていた。
背中合わせに、壁一枚を挟んで俺たちは静かに話す。
「クリムのせいじゃ、ないよ」
「ううん。これはね、アタシのせいなの……」
クリムは淡々と、呟くように続ける。
「お母さんもね? アタシが産まれたから、死んじゃったんだよね。アタシが産まれたから、お父さんはギルドを抜けることになって、それで――」
「――聞いて、たのか?」
「うん。ホントは、盗み聞きするつもりは、なかったんだけど……ね」
俺は驚き、少し身を浮かせてしまった。
それは、クリムには絶対に聞かせてはいけない内容だったから。
だけど、彼女のその解釈には大きな間違いがあった。彼女が産まれたから、産まれたからこそ、ロマニさんが得てきたモノがあったはずだ。それを、クリムは忘れている。
だが、少女は自責の念を募らせていた。
自分のせいだ。
自分のせいだ。
自分のせいだ――と。
少女のすすり泣く声が聞こえてくる。
それを聞いた時、俺の胸の奥で何かが熱くなるのを感じた。
どうすればいいのか。何をするべきなのか。何が最善の道なのか――を。
いいや。それはもう、決まっていた。
その決心は、遅かれ早かれついていたのだ。
あとはそれを、どのタイミングで少女に打ち明けるか、それだけだった。
――クリムのこと頼んでいいか。
ロマニさんのその言葉が、俺の中に残っている。
だから、俺はクリムに言う。
「なぁ、クリム? ――俺が、ロマニさんを助けるよ」
「えっ……!?」
今度は、彼女が腰を浮かせる番だった。それに対して、俺は立ち上がる。
そしてドアを開き、呆然としてこちらを見上げる少女を見た。
それは、どうして、と問いかける視線。
「ブラウン家の家訓って、なんだっけ?」
俺はクリムに問いかけた。
そう。それは、彼女から教えられたもの。
そう。それはもう、俺にも当てはまっているモノ。
何故なら、俺らはもう――
「――【家族】は常に互いを想い、助け合うべし……?」
「あぁ、そうだよ。だから――」
少女に背を向けた。
「――俺は……【家族】を助けに行くよ」
そして、俺は一歩を踏み出す。
そんな俺に向かって、クリムは声を上げた。
「待って! スライくんは、一体――」
――何者なのか、と。
そう問いかける言葉を俺は遮って、こう言った。
それは、もう隠しようのない事実なのだから――
「――……ちょっとばかし【家族】想いな、【魔王】だよ」
俺は、首だけで振り返ってそう笑う。
――クリムは唖然とした表情になる。
それを見て、俺はまた笑った。
そして、再び前へと一歩を踏み出した――
――大切な【家族】を助け出すために――
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