幕間 ある日の出来事



 ――これはブラウン家での、とある一幕。


 俺はその日の夜、脱衣所でこんなことを考えていた。

 それは、「いま着ているこの服は、脱ぐ必要はないのではないか?」ということである。何故かというと、これもまた【スライム】だからである。つまるところ、身体の一部であり、洗濯する必要性がないのではないか、ということであった。

 また、毎日洗濯を欠かさないクリムの労力を考えたら、そちらの方がいいのではないだろうか? ――と、俺なりの気遣いを思い至った次第であった。


「ふむ……」


 俺は一つそう口にして、服に対して【合体】を試みることにする。

 目を閉じて、すーっと息を吐く。


 【合体】――【成功】!


 やはり、予想通りであった。

 その衣類は【スライム】状に変形し、俺の中に吸い込まれていく。

 【合体】した際にある独特の充足感もあったし、つまり予測は正しかった、ということであった。そんな訳で、俺は腰にタオルを巻いて、風呂場に突入。今日一日の疲れを癒すことにした。



 ――だが、この判断があのような事態を引き起こすなど。

   この時の俺は思いもしていなかったのであった――

 


◆◇◆


 以前にもちらりと紹介したが、ブラウン家の風呂場はそれなりに広い。

 おおよそ大人の【人間】が何名か同時に入ることが出来る広さであった。何のためにこんなに広いのかは知らないが、少なくとも悪い気はしない。俺は湯につかりながら、思い切り手足を伸ばしていた。

 頭も洗ったし、身体も洗った。なので、後は好きなだけ湯につかって、気分次第で出る。それだけだ。かと言って、俺の後にはクリムとロマニさんがいるので、それは考えないといけない。


「さて。そろそろ出るか……」


 そんな訳で、俺は火照った身体を解しつつ立ち上がった。

 その時であった――


「スライくーん……あれ? 服がない。ここにもいないのかぁ……」


 ――外からクリムの、そんな声が聞こえたのは。


「――――っ!?」


 俺は思わず湯の中に戻ってしまった。

 そして、顔だけを出してクリムの動向をうかがう。すると――


「んー? それじゃあ、先に入っちゃおっかなっ」

「!?!?」


 ――うきうきとした、そんな少女の声が聞こえた。

 俺は驚愕し、思わず跳び上がりそうになる。しかし、それをどうにか堪えて、何か対策はないかを必死に考えた。どうすればいい? 服がないのに、どうして風呂場にいるのか。その説明を考えるべきか、いやそれよりも――あーっ!? 混乱し過ぎて考えがまとまらない!!


「んっしょ……」

「ぶっ――!」


 そうこうしているうちに、するりと、クリムが服を脱ぐ衣擦れが聞こえてくる。

 風呂場と脱衣所を遮っている磨りガラスには、彼女のシルエットがぼんやりと浮かんでいた。小柄な、しかしそれに反して凹凸のあるボディライン。それに対して、俺はこれといって欲情することはない。だが、今後のことを考えた場合、この状況は不味すぎる。とにかく、不味すぎるのだ。


 場合によっては、ロマニさんからこの家を追い出されるかもしれない。

 ともなれば、俺はどこで生活をすればいい? お隣のマロンおばさんのところか? ――いや、あそこはないな。何か最近おばさん、俺のことを見る目がイヤらしいし。正直、行きたくない。


 だとすれば、この家にしがみ付くしかない。

 しかし、どうすれば――


「――さぁてっ! おっふろ、おっふろ!」


 【変身】――【成功】!!!


 それは、とっさの判断だった。

 ガラリと、何の躊躇もなく入室してきたクリム。それを確認した瞬間――コンマ一秒。俺はおそらく、今までで最速のタイムで【能力】を使用できた。


 だが、問題が発生する。

 俺がその【変身】によって、何になったか、というと――




 ――ザッブーンっ……!




 浴槽のお湯が、大量に溢れ出した。


「きゃっ!?」


 クリムが突然の大きな音に、身を強張らせる。

 そして、パチクリと、俺のいる方へ・・・・・・とやってきて、その円らな瞳をパチクリとさせていた。浴槽を覗き込みつつ、彼女は不思議そうな表情を浮かべる。


「……なん、だったんだろ」


 不安げな少女の姿が、きっと俺に映っている・・・・・・・だろう。

 クリムはタオルを胸に当てながら、おずおずと、小首を傾げていた。そして唇をとがらせ、むむむっ、と難しい顔をする。そうかと思えば、今度はすっきりとした表情を浮かべた。で、結局。彼女の至った答えとは――


「――ま、いっか!」


 衝撃に反して、あっさりとしたものだった。

 そしてクリムはガラスに向かって座り、身体を洗い始める。湯気でよくは見えないが、どうやらこちらへの警戒心は解いたようだった。俺はホッと胸――は、今はないけど撫で下ろす。


 さて。ここまできたら、俺が何に【変身】したかお分かりだろう。

 そう、『お湯』である。先ほど湯が大量に溢れ出したのは、そのためであった。しかし完全には【変身】し切れなかったらしく、どうにも【スライム】感が拭えない。やはり、【変身】はその物の構造を理解していることでより完璧なモノになる、ということであろう。


 まぁ、そんなことはどうでもいい。

 まずは、一つ目の危機を回避したというところが重要だ。

 そうなると、次に迫っている二つ目の危機をいかに回避するかがより大切になる。それというのは言うまでもなく、身体や髪を洗い終えたクリムが、湯船に入ることだった。何というか、表現しにくいことではあるが――そう、たぶん。【人間】的に言うところの「倫理的にいけない」、というやつだ。


 いたいけな少女が俺の中に入ってくる――こうやって考えるだけで、怪しい感じがする。もちろん、そうなったらやむを得ない。俺は悪くない、というか誰も悪くないことだ。

 と、そう考えているうちにクリムが髪の毛を洗い始めた。シャンプーハットをつけて。


 よし! そうなれば、彼女の目はこちらに向かない。

 今のうちに、別の物に【変身】しよう。そうしよう――しかし、一体何に【変身】すればよいだろうか? 俺は微かな水音をたてつつも周囲を見回す。そして見つけたのは――


「(――こ、これだ!)」


 浴槽の角に置いてある風呂桶だった。

 木製のそれは、三つが階段状に並べられている。違和感はあるだろうが、一つくらい増えていても気付かれる可能性は少ない、と思う。たぶん。


 そうと決まれば、だ。

 俺はゆっくり、ゆっくりと桶の方へと向かい――


「――あーっ! すっきりしたーっ!」


 向かい、かけていた時だった。

 想定よりも早く、クリムが髪を洗い終えてこちらにやってきた!?

 ペタペタと――裸足で濡れた床を歩く音が聞こえてくる。それが次第に近づいてきて、浴槽のそばまでやってきた。俺は「もう、駄目か……」と、ある種の覚悟を決めた時――


「おーい。クリムーっ!」


 ――救世主が現れた。

 その人は、磨りガラス越しに娘へと声をかける。


「なぁに? お父さん」


 クリムは踏み入れようとしていた足をピタリと止めて、その人物――ロマニさんに答えた。

 視線が、ガラス戸の方へと移動する――今だ! 俺は【変身】を試みる。

 だがその瞬間、あることに気付いた。


「(し、しまった~……風呂のかさが変わっちまう……!)」


 身体が桶に変わっていく最中、俺は風呂の水量があからさまに減っていっているのに気付いたのである。それはもう、ごっそりと。一見して分かるくらいに。


 これは、どっちだ――【変身】すべきか、否か!


「たまには、父さんと入らないかぁ~?」

「なに言ってるの!? お父さん!」


 どちらにしても不審がられる。

 桶が増えるのと、水量が変化するのは、どっちが比較的自然だ!?

 いいや、どっちにしても不審だろう。だとすれば、他の方法を考えるしか――


「昔は、よく一緒に入ったじゃないかぁ~……」

「昔は、でしょ!? アタシ、今いくつだと思ってるの!!」


 ――よし。ロマニさん、ナイス引き伸ばし!

 俺はその内に別の策を考える。が、しかし焦れば焦るほどに見つからない。なにせ、下手を打てば俺が【人間】ではない、ということがバレてしまう。それだけは避けなければ――


「二~三年前だろ? そのくらいでどうと変わることもないだろぉ?」

「変わるよ!? 自分で言うのもなんだけど、かなり変わったよ!!」


 ――くっそ。どうすればいい!?

 これは、もしかしたら今までで一番のピンチかもしれない!

 もう、どうしようもない――と、俺が考えた時。ついに均衡が崩れる――ッ!


「入るぞ~、クリム~……――」

「――嫌ぁー! バカーっ!!」


 【変身】――【成功】!


 俺は破れかぶれで桶に変身した。

 すると、次の瞬間――


「(……あれ?)」


 ――ガラリ、と。

 ガラス戸が開く音がした、と思ったと同時――俺は宙を舞っていた。

 ギュルン、ギュルン! と、凄まじい回転をかけられながら、俺は一直線にロマニさんの額に――


「――あがっ!?」

「――ごふっ!?」


 直撃した。

 ものの見事に、直撃した。


 ゴツンという鈍い音とともに、ロマニさんは仰向けに倒れる。

 そして、おれは後方へと吹っ飛び、壁にしたたかその身を打ち付けた後に、脱衣所に転がった。あまりの衝撃に意識が遠退き、【変身】が解除される。結果として、俺とロマニさんは二人そろって大の字になって寝転がる形となった。


 幸いなのは、解除された時点で俺が服を着ていた、という点か。

 ロマニさんは、腰のタオル一枚だが。


「あれ!? お湯がない、どうして!?」


 そして、薄れゆく世界の中。

 遠く聞こえてくるのは、クリムのそんな困惑した声。

 そして最後に――


「お父さ――って、どうしてスライくんまで!?」





 ――そんな何も知らない少女の言葉を聞いて。

   俺の意識は、闇の中へと――


   そして、俺は誓ったのであった。




   ――次からは、ちゃんと。

 服を脱いで風呂に入ろうという、当たり前のことを――



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